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聖血のロゼル  作者: チョコレートスターフィッシュ
第5章

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73/77

冒険者の朝。

レイが目を覚ましたとき、窓の隙間から差し込む陽の光は、すっかり高くなっていた。

「……ん」

ぼんやりとした頭で天井を見上げる。

昨夜は深夜遅くまで起きていた。今の時間は、おそらく昼前といったところだろう。

レイはゆっくりと上半身を起こし、唇に指先を当てた。

「……痛っ」

ピリピリとした痛みが走る。

どうやら、昨夜の名残らしい。

アンナは、俗に言うキス魔というやつだったのだろう。口づけを交わすたびに夢中になり、こちらが離れようとしても、名残惜しそうにまた唇を重ねてきた。

その結果がこれだ。

「まったく……」

小さく苦笑する。

頭に手をやれば、髪はあちこち跳ね上がり、ひどい有様だった。昨夜の激しさを物語っているようで、思わずため息が漏れる。

隣では、アンナがまだ眠っていた。

毛布にくるまり、穏やかな寝息を立てている。

夜中、何度か目を覚ましたことがあった。

そのたびにアンナは寝ぼけた様子で身を寄せ、レイの身体をまさぐってきた。どうやら、半分眠ったままでも甘えたいらしい。

レイは気づかないふりをして、そのまま好きにさせておいた。

「……受け入れてくれてありがとう…」

誰に聞かせるでもなく呟き、ベッドから抜け出す。

喉が渇いていた。

机の上に置かれた水差しを手に取り、グラスへ水を注ぐ。一息に飲み干すと、ようやく身体に活気が戻ってきた。

「ふぅ……」

グラスを置き、肩を回す。

さて、今日はどうしたものか。

そんなことを考えながら、レイは静かに服を身につけ始めた。

布の擦れる音に気を遣い、留め具もなるべく音を立てないようにする。

ふと、ベッドへ目を向けた。

毛布がずれていた。

そこからアンナの白い肌が覗いている。

レイは一瞬、動きを止めた。

昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。

柔らかな身体。頬を染めた表情。何度も名前を呼ぶ、甘い声。

「……」

レイは苦笑し、頭を振った。

せっかく目が覚めたというのに、また欲望に火がつきそうだ。

だが、眠っている相手を起こしてまで続きを楽しむほど、節操がないつもりもなかった。

レイはベッドに近づくと、ずれた毛布をそっと引き上げ、アンナの肩まで掛け直してやった。

「ゆっくり寝てな」

小さく囁く。

もちろん、返事はない。

アンナは身じろぎひとつせず、気持ちよさそうに眠り続けていた。

レイはその寝顔をしばらく眺めたあと、音を立てないように扉へ向かった。

部屋を出る直前、もう一度だけ振り返る。

そして、静かに扉を閉めた。

廊下へ出ると、宿屋の中には昼前らしい活気が戻り始めていた。

「さて……少し遅い朝飯でも買いに行くか」

レイは独り言を呟き、階段を下りた。

市場までは、そう遠くない。

グランゼルの朝市はすでに終わりかけていたが、昼に向けて食料を売る屋台はまだ残っている。焼きたてのパンに、肉の串焼き、野菜を煮込んだスープ。冒険者の腹を満たすには十分だ。

適当に見繕って買い込めば、往復しても十分ほどで済むだろう。

レイは通りの人波に紛れ、歩き出した。

昨夜の余韻を唇に残したまま、少しばかり遅い朝食を求めて。


 市場の屋台をいくつか回り、スープにサラダ、パンとチーズを買い込む。

 レイは品物を受け取ると、寄り道もせず宿へ戻った。

 アンナが目を覚ましたとき、隣に誰もいなければ不安にさせてしまうかもしれない。

 昨夜のことを考えれば、なおさらだ。

 宿の階段を上がり、部屋の前まで戻る。買ってきた食事を片手に持ち直し、レイは扉をゆっくりと開けた。

 室内は静かだった。

 ベッドでは、アンナがまだ毛布にくるまって眠っている。

「ん……レイ……」

 小さな寝言が聞こえた。

 レイは扉を閉めながら、思わず薄く微笑んだ。

「……夢の中でも俺か」

 聞こえないと分かっていながら、そんなことを呟く。

 起こさないように足音を忍ばせ、テーブルへ向かった。買ってきたパンを籠に入れ、チーズとサラダを皿に移す。スープの入った器も並べれば、簡素ながら朝食の準備は整った。

 もっとも、時刻はもう昼に近い。

 朝食と呼ぶには少々遅いが、腹を満たすには十分だろう。

 レイは窓の外へ目を向けた。

 それから、ふと思い出したように自分の顔に触れる。

「……顔くらい洗っておくか」

 朝起きて、目ヤニのついた顔を恋人に見せる。

 そんなことで百年の恋も冷める、という話を聞いたことがある。

 ましてや、昨夜あれだけ熱烈に迫ってきた相手だ。幻滅されるのは、さすがに勘弁願いたい。

 レイは桶を手に取ると、宿の井戸へ向かった。

 冷たい水を汲み、部屋へ戻ると、顔を洗う。

「っ……冷たっ」

 思わず声が漏れた。

 水気を拭い、髪を手櫛で整える。跳ねていた黒髪も多少は落ち着き、ようやく人前に出られる顔になった。

「よし」

 満足げに頷き、レイは桶を片付けた。

 そして、再びベッドへ向かう。

 アンナは相変わらず眠っていた。

 毛布から覗く頬は柔らかく、昨夜の大胆さが嘘のように無防備だ。

 レイはベッドの端に腰を下ろし、彼女の顔を覗き込んだ。

「……お姫様は、まだお目覚めにならないか」

 小さく笑い、そっと身を屈める。

 頬に、軽く口づけを落とした。

 外を歩いていたせいか、レイの唇も肌もひんやりとしていた。

「ん……」

 アンナの眉がぴくりと動く。

 やがて、ゆっくりと瞼が開いた。

 寝ぼけた目が、目の前にいるレイを捉える。

「……レイ……?」

「おはよう、アンナ」

 レイは優しく微笑んだ。

「まだ眠いかい?」

 アンナはぼんやりとした表情のまま、何度か瞬きをした。

「……うん。昨夜は疲れたわ」

「そりゃあ、あれだけ夜更かしすればね」

「もう……」

 アンナは恥ずかしそうに笑い、毛布を少し引き上げた。

 それから、ふと何かに気づいたように顔を上げる。

「……レイ、何処かへ行っていたの?」

「すぐ近くの市場まで、朝食を買いに行っていただけさ」

「朝食……?」

 レイはテーブルへ視線を向けた。

「買ってきたんだ。食べられそうかい?」

 アンナはテーブルに並んだ食事を見て、目を丸くした。

「私のために? わざわざ買ってきてくれたの?」

「ああ、君のために」

 レイは肩をすくめた。

「手料理には自信がなくてね」

 そう言いながら、柔らかく微笑む。

 アンナは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。

「ふふっ。言ってくれれば、私が何か作ったのに」

「気持ちよさそうに寝ていたからさ。起こすのも悪いだろう?」

「……そうだったんだ」

 アンナは嬉しそうに目を細めた。

 それから、何を思ったのか、突然レイの腕を掴んだ。

「ん?」

 不意を突かれたレイが顔を向ける。

 アンナはそのまま彼女の顔をぐいっと引き寄せた。

「……キスして」

 寝起きのせいか、いつもより甘えた声だった。

「おいおい、起きたばかりだろう?」

「いいから……」

 アンナは答えを待たず、唇を寄せた。

 ちゅ、と小さな音がする。

 レイの唇に、ぴりりとした痛みが走った。

 ――痛い。

 昨夜の名残が、まだしっかりと残っている。

 しかし、そんなことを顔に出すわけにはいかなかった。

 レイは平然とした顔で、アンナの口づけを受け止める。

 アンナは満足するどころか、離れた唇を追いかけるように、もう一度顔を近づけてきた。

「……アンナ」

「なあに?」

「君、朝からずいぶん積極的だね」

「……ダメ?」

 上目遣いで尋ねられ、レイは小さく息を吐いた。

 まったく、困ったものだ。

 昨夜、あれだけ情熱的に迫ってきたというのに、どうやら一晩眠った程度では熱が冷めなかったらしい。

「……ダメとは言っていないよ」

 レイは苦笑しながら、アンナの頬に手を添えた。

 そして、今度はこちらから、そっと口づけを返す。

 アンナの顔に、ぱっと笑みが広がった。

 その表情を見ていると、唇の痛みも不思議と悪いものではない気がしてくる。

 もっとも――。

 この調子では、買ってきた朝食が冷めるまでに食べ始められるかどうか、怪しいところだった。


 朝食を前に、アンナはようやくベッドから起き上がった。

 毛布を胸元まで引き寄せ、少し寝ぼけた顔で部屋を見回す。それから、テーブルに並べられた食事を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「本当に買ってきてくれたのね」

「約束しただろう?」

「そんな約束、してないわよ?」

「おや、そうだったかな」

 レイがとぼけると、アンナはくすくすと笑った。

 やがてアンナはベッドから降り、床に置いてあった服を拾い上げた。

 レイはテーブルのそばに腰掛けながら、その様子を何気なく眺めていた。

 昨夜はあれほど大胆だったというのに、朝になれば少し恥ずかしそうにしている。その変化が、なんとも微笑ましかった。

「……レイ」

「ん?」

「そんなに見ないでよ」

 服を身につけていたアンナが、ちらりとこちらを振り返った。

「恥ずかしいじゃない……」

「昨夜はあんなに積極的だったのに?」

「そ、それとこれとは別なの!」

 アンナは顔を赤くして、慌てて服を整えた。

 レイは声を立てて笑うことこそしなかったが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。

「はいはい。もう見ないよ」

「本当?」

「本当さ」

 そう答えながらも、アンナが着替え終えるまで、レイの視線は時折そちらへ向いていた。

 やがて着替えを済ませたアンナは、レイが汲んできた水で顔を洗った。

「冷たっ……!」

「目が覚めただろう?」

「もう、レイは平気そうね」

「冒険者だからな。朝の冷たい水くらい、どうってことないさ」

「私だって平気よ!」

 そう言いながら、アンナは濡れた顔を布で拭いた。

 その様子にレイは小さく笑い、二人はようやくテーブルについた。

     ◇

 パンをちぎり、チーズを挟んで口へ運ぶ。

 温め直したスープには豆や野菜がたっぷり入っていた。サラダも新鮮で、屋台で買ったものにしては上等な朝食だった。

「おいしい……」

 アンナがスープを一口飲み、ほっと息をついた。

「だろう? あそこの屋台は評判がいいんだ」

「よく知っているのね」

「この街には何度も来ているからね。冒険者は食事に困ることも多いんだ。安くて腹にたまる店は覚えておいて損はない」

「ふふっ。そういうところは、やっぱり冒険者なのね」

「どういうところだよ」

「なんとなく、頼もしいところ?」

 思いがけない言葉に、レイは少しだけ目を丸くした。

「……そいつは光栄だね」

 そう言って、パンを口へ運ぶ。

 二人は食事を楽しみながら、他愛のない話を続けた。

 昨夜訪れた酒場の料理のこと。市場で見かけた珍しい品物のこと。そして、アンナが幼い頃に兄たちと畑で遊んだ思い出。

 話題は尽きなかった。

 やがて、テーブルの上の皿が空になる。

 腹が満たされたアンナは椅子の背にもたれ、満足げに息を吐いた。

「ふぅ……お腹いっぱい」

「俺もだ」

 レイも一息つき、空になったグラスをテーブルへ置いた。

 しばらく心地よい沈黙が流れる。

 その時間を惜しむようにアンナがレイを見つめていると、ふと彼女が口を開いた。

「アンナは、今夜も仕事かい?」

「うん。夕方から酒場の仕込みを手伝わなきゃいけないの」

「そっか」

 レイは頷いた。

 するとアンナは、少しためらったあと、控えめな声で尋ねた。

「……ねえ、レイ」

「なんだい?」

「また今日の夜も、会える?」

 その問いかけには、昨夜から続く名残惜しさが滲んでいた。

 レイは少し申し訳なさそうに眉を下げた。

「悪い。これから仕事の準備があるんだ」

「仕事……?」

「ああ。廃坑の奥で、魔石が多く採れる区域が見つかったらしい。そこへ調査に向かうことになってね」

 レイは指先でテーブルを軽く叩きながら、予定を頭の中で整理した。

「順調にいけば、明日の夜には戻れると思う。遅くとも明後日の夜には、君に会いに行けるはずさ」

「……忙しいのね」

 アンナは寂しそうに呟いた。

 そして、少し間を置いてから、心配そうにレイの顔を覗き込む。

「次の仕事は……危険なの?」

「さあ、どうだろうな。実際に行ってみないと分からない」

 レイは正直に答えた。

「今回はパーティを組んで向かう。状況次第では、一度引き返して態勢を立て直すこともあるだろう」

「それでも、危ないことはあるんでしょう?」

「そりゃあね」

 レイは肩をすくめた。

「迷宮や廃坑に潜る以上、危険はつきものさ。けど、無茶をするつもりはないよ」

 その言葉に嘘はなかった。

 冒険者として生きてきたレイにとって、危険は日常の一部だ。

 だが、それは危険を軽んじているという意味ではない。

 生きて帰るために何をすべきか。どこまで進み、どこで退くべきか。

 その判断を誤れば、待っているのは死だ。

「命は一つだからね」

 淡々と告げるレイを、アンナはじっと見つめていた。

 その表情には、隠しきれない不安が浮かんでいる。

 レイは小さく息を吐いた。

「……そんな顔をするなよ」

「だって……」

「大丈夫。危険なのはいつものことさ。」

「でも、もし……」

「アンナ」

 レイは彼女の言葉を遮るように、優しく名前を呼んだ。

 そして、安心させるように微笑んだ。

「無事に仕事を終わらせて、また会いに来る。それでいいだろう?」

 アンナはしばらく黙っていた。

 やがて、俯いていた顔を少しずつ上げる。

「……本当に?」

「ああ。約束するよ」

「仕事が終わったら、また一緒に過ごしてくれる?」

「もちろん」

 レイは迷いなく頷いた。

「今回の仕事が終わったら、二人でのんびりしよう。行きたいところがあるなら、どこへでも付き合うさ」

 その言葉を聞いた途端、アンナの表情が明るくなった。

「本当? 実はね、私、行ってみたかったところがいくつかあるの!」

「へえ。どんなところだい?」

「市場の向こうにある花畑とか、街の外れにある小さな湖とか……。それから、おいしいお菓子を売っているお店もあるのよ」

 さっきまでの不安が嘘のように、アンナは次々と行きたい場所を挙げていった。

 レイは相槌を打ちながら、その話に耳を傾ける。

「なるほど。ずいぶんあるんだな」

「だ、ダメかしら……?」

「まさか」

 レイは笑った。

「デートだな」

「……デート」

 アンナはその言葉を口の中で繰り返した。

 そして、頬を赤く染めながら、嬉しそうに笑う。

「うん。デート!」

 アンナはテーブルの上に置いていた手を伸ばし、レイの手を握った。

 その手をしばらく見つめたあと、何かを思いついたように小指を差し出す。

「じゃあ、約束」

「ん?」

「絶対に帰ってきてね。そしたら、デートしてくれるって」

 レイは差し出された小指を見て、懐かしそうに目を細めた。

「……指切りか。ずいぶん久しぶりだな」

「ダメ?」

「いや。いいよ」

 レイも小指を差し出す。

 二人の小指が絡み合った。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本……」

 アンナが口ずさむように歌い、最後に小指を軽く振った。

 レイもそれに合わせて、指を揺らす。

「……これで約束だ」

「うん!」

 アンナは満面の笑みを浮かべた。

 その笑顔を見て、レイも自然と口元を緩める。

 迷宮の奥には、何が待ち受けているか分からない。

 それでも今は、この小さな約束を守るために、無事に帰ってこようと思えた。

 レイは絡めた小指をそっと離し、アンナの手を優しく握った。

「じゃあ、また会おう。アンナ」

「……うん。待ってるからね、レイ」

 その言葉を胸に刻み、レイは次の仕事へ向かう準備を始めるのだった。


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