冒険者の朝。
レイが目を覚ましたとき、窓の隙間から差し込む陽の光は、すっかり高くなっていた。
「……ん」
ぼんやりとした頭で天井を見上げる。
昨夜は深夜遅くまで起きていた。今の時間は、おそらく昼前といったところだろう。
レイはゆっくりと上半身を起こし、唇に指先を当てた。
「……痛っ」
ピリピリとした痛みが走る。
どうやら、昨夜の名残らしい。
アンナは、俗に言うキス魔というやつだったのだろう。口づけを交わすたびに夢中になり、こちらが離れようとしても、名残惜しそうにまた唇を重ねてきた。
その結果がこれだ。
「まったく……」
小さく苦笑する。
頭に手をやれば、髪はあちこち跳ね上がり、ひどい有様だった。昨夜の激しさを物語っているようで、思わずため息が漏れる。
隣では、アンナがまだ眠っていた。
毛布にくるまり、穏やかな寝息を立てている。
夜中、何度か目を覚ましたことがあった。
そのたびにアンナは寝ぼけた様子で身を寄せ、レイの身体をまさぐってきた。どうやら、半分眠ったままでも甘えたいらしい。
レイは気づかないふりをして、そのまま好きにさせておいた。
「……受け入れてくれてありがとう…」
誰に聞かせるでもなく呟き、ベッドから抜け出す。
喉が渇いていた。
机の上に置かれた水差しを手に取り、グラスへ水を注ぐ。一息に飲み干すと、ようやく身体に活気が戻ってきた。
「ふぅ……」
グラスを置き、肩を回す。
さて、今日はどうしたものか。
そんなことを考えながら、レイは静かに服を身につけ始めた。
布の擦れる音に気を遣い、留め具もなるべく音を立てないようにする。
ふと、ベッドへ目を向けた。
毛布がずれていた。
そこからアンナの白い肌が覗いている。
レイは一瞬、動きを止めた。
昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。
柔らかな身体。頬を染めた表情。何度も名前を呼ぶ、甘い声。
「……」
レイは苦笑し、頭を振った。
せっかく目が覚めたというのに、また欲望に火がつきそうだ。
だが、眠っている相手を起こしてまで続きを楽しむほど、節操がないつもりもなかった。
レイはベッドに近づくと、ずれた毛布をそっと引き上げ、アンナの肩まで掛け直してやった。
「ゆっくり寝てな」
小さく囁く。
もちろん、返事はない。
アンナは身じろぎひとつせず、気持ちよさそうに眠り続けていた。
レイはその寝顔をしばらく眺めたあと、音を立てないように扉へ向かった。
部屋を出る直前、もう一度だけ振り返る。
そして、静かに扉を閉めた。
廊下へ出ると、宿屋の中には昼前らしい活気が戻り始めていた。
「さて……少し遅い朝飯でも買いに行くか」
レイは独り言を呟き、階段を下りた。
市場までは、そう遠くない。
グランゼルの朝市はすでに終わりかけていたが、昼に向けて食料を売る屋台はまだ残っている。焼きたてのパンに、肉の串焼き、野菜を煮込んだスープ。冒険者の腹を満たすには十分だ。
適当に見繕って買い込めば、往復しても十分ほどで済むだろう。
レイは通りの人波に紛れ、歩き出した。
昨夜の余韻を唇に残したまま、少しばかり遅い朝食を求めて。
市場の屋台をいくつか回り、スープにサラダ、パンとチーズを買い込む。
レイは品物を受け取ると、寄り道もせず宿へ戻った。
アンナが目を覚ましたとき、隣に誰もいなければ不安にさせてしまうかもしれない。
昨夜のことを考えれば、なおさらだ。
宿の階段を上がり、部屋の前まで戻る。買ってきた食事を片手に持ち直し、レイは扉をゆっくりと開けた。
室内は静かだった。
ベッドでは、アンナがまだ毛布にくるまって眠っている。
「ん……レイ……」
小さな寝言が聞こえた。
レイは扉を閉めながら、思わず薄く微笑んだ。
「……夢の中でも俺か」
聞こえないと分かっていながら、そんなことを呟く。
起こさないように足音を忍ばせ、テーブルへ向かった。買ってきたパンを籠に入れ、チーズとサラダを皿に移す。スープの入った器も並べれば、簡素ながら朝食の準備は整った。
もっとも、時刻はもう昼に近い。
朝食と呼ぶには少々遅いが、腹を満たすには十分だろう。
レイは窓の外へ目を向けた。
それから、ふと思い出したように自分の顔に触れる。
「……顔くらい洗っておくか」
朝起きて、目ヤニのついた顔を恋人に見せる。
そんなことで百年の恋も冷める、という話を聞いたことがある。
ましてや、昨夜あれだけ熱烈に迫ってきた相手だ。幻滅されるのは、さすがに勘弁願いたい。
レイは桶を手に取ると、宿の井戸へ向かった。
冷たい水を汲み、部屋へ戻ると、顔を洗う。
「っ……冷たっ」
思わず声が漏れた。
水気を拭い、髪を手櫛で整える。跳ねていた黒髪も多少は落ち着き、ようやく人前に出られる顔になった。
「よし」
満足げに頷き、レイは桶を片付けた。
そして、再びベッドへ向かう。
アンナは相変わらず眠っていた。
毛布から覗く頬は柔らかく、昨夜の大胆さが嘘のように無防備だ。
レイはベッドの端に腰を下ろし、彼女の顔を覗き込んだ。
「……お姫様は、まだお目覚めにならないか」
小さく笑い、そっと身を屈める。
頬に、軽く口づけを落とした。
外を歩いていたせいか、レイの唇も肌もひんやりとしていた。
「ん……」
アンナの眉がぴくりと動く。
やがて、ゆっくりと瞼が開いた。
寝ぼけた目が、目の前にいるレイを捉える。
「……レイ……?」
「おはよう、アンナ」
レイは優しく微笑んだ。
「まだ眠いかい?」
アンナはぼんやりとした表情のまま、何度か瞬きをした。
「……うん。昨夜は疲れたわ」
「そりゃあ、あれだけ夜更かしすればね」
「もう……」
アンナは恥ずかしそうに笑い、毛布を少し引き上げた。
それから、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
「……レイ、何処かへ行っていたの?」
「すぐ近くの市場まで、朝食を買いに行っていただけさ」
「朝食……?」
レイはテーブルへ視線を向けた。
「買ってきたんだ。食べられそうかい?」
アンナはテーブルに並んだ食事を見て、目を丸くした。
「私のために? わざわざ買ってきてくれたの?」
「ああ、君のために」
レイは肩をすくめた。
「手料理には自信がなくてね」
そう言いながら、柔らかく微笑む。
アンナは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
「ふふっ。言ってくれれば、私が何か作ったのに」
「気持ちよさそうに寝ていたからさ。起こすのも悪いだろう?」
「……そうだったんだ」
アンナは嬉しそうに目を細めた。
それから、何を思ったのか、突然レイの腕を掴んだ。
「ん?」
不意を突かれたレイが顔を向ける。
アンナはそのまま彼女の顔をぐいっと引き寄せた。
「……キスして」
寝起きのせいか、いつもより甘えた声だった。
「おいおい、起きたばかりだろう?」
「いいから……」
アンナは答えを待たず、唇を寄せた。
ちゅ、と小さな音がする。
レイの唇に、ぴりりとした痛みが走った。
――痛い。
昨夜の名残が、まだしっかりと残っている。
しかし、そんなことを顔に出すわけにはいかなかった。
レイは平然とした顔で、アンナの口づけを受け止める。
アンナは満足するどころか、離れた唇を追いかけるように、もう一度顔を近づけてきた。
「……アンナ」
「なあに?」
「君、朝からずいぶん積極的だね」
「……ダメ?」
上目遣いで尋ねられ、レイは小さく息を吐いた。
まったく、困ったものだ。
昨夜、あれだけ情熱的に迫ってきたというのに、どうやら一晩眠った程度では熱が冷めなかったらしい。
「……ダメとは言っていないよ」
レイは苦笑しながら、アンナの頬に手を添えた。
そして、今度はこちらから、そっと口づけを返す。
アンナの顔に、ぱっと笑みが広がった。
その表情を見ていると、唇の痛みも不思議と悪いものではない気がしてくる。
もっとも――。
この調子では、買ってきた朝食が冷めるまでに食べ始められるかどうか、怪しいところだった。
朝食を前に、アンナはようやくベッドから起き上がった。
毛布を胸元まで引き寄せ、少し寝ぼけた顔で部屋を見回す。それから、テーブルに並べられた食事を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「本当に買ってきてくれたのね」
「約束しただろう?」
「そんな約束、してないわよ?」
「おや、そうだったかな」
レイがとぼけると、アンナはくすくすと笑った。
やがてアンナはベッドから降り、床に置いてあった服を拾い上げた。
レイはテーブルのそばに腰掛けながら、その様子を何気なく眺めていた。
昨夜はあれほど大胆だったというのに、朝になれば少し恥ずかしそうにしている。その変化が、なんとも微笑ましかった。
「……レイ」
「ん?」
「そんなに見ないでよ」
服を身につけていたアンナが、ちらりとこちらを振り返った。
「恥ずかしいじゃない……」
「昨夜はあんなに積極的だったのに?」
「そ、それとこれとは別なの!」
アンナは顔を赤くして、慌てて服を整えた。
レイは声を立てて笑うことこそしなかったが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
「はいはい。もう見ないよ」
「本当?」
「本当さ」
そう答えながらも、アンナが着替え終えるまで、レイの視線は時折そちらへ向いていた。
やがて着替えを済ませたアンナは、レイが汲んできた水で顔を洗った。
「冷たっ……!」
「目が覚めただろう?」
「もう、レイは平気そうね」
「冒険者だからな。朝の冷たい水くらい、どうってことないさ」
「私だって平気よ!」
そう言いながら、アンナは濡れた顔を布で拭いた。
その様子にレイは小さく笑い、二人はようやくテーブルについた。
◇
パンをちぎり、チーズを挟んで口へ運ぶ。
温め直したスープには豆や野菜がたっぷり入っていた。サラダも新鮮で、屋台で買ったものにしては上等な朝食だった。
「おいしい……」
アンナがスープを一口飲み、ほっと息をついた。
「だろう? あそこの屋台は評判がいいんだ」
「よく知っているのね」
「この街には何度も来ているからね。冒険者は食事に困ることも多いんだ。安くて腹にたまる店は覚えておいて損はない」
「ふふっ。そういうところは、やっぱり冒険者なのね」
「どういうところだよ」
「なんとなく、頼もしいところ?」
思いがけない言葉に、レイは少しだけ目を丸くした。
「……そいつは光栄だね」
そう言って、パンを口へ運ぶ。
二人は食事を楽しみながら、他愛のない話を続けた。
昨夜訪れた酒場の料理のこと。市場で見かけた珍しい品物のこと。そして、アンナが幼い頃に兄たちと畑で遊んだ思い出。
話題は尽きなかった。
やがて、テーブルの上の皿が空になる。
腹が満たされたアンナは椅子の背にもたれ、満足げに息を吐いた。
「ふぅ……お腹いっぱい」
「俺もだ」
レイも一息つき、空になったグラスをテーブルへ置いた。
しばらく心地よい沈黙が流れる。
その時間を惜しむようにアンナがレイを見つめていると、ふと彼女が口を開いた。
「アンナは、今夜も仕事かい?」
「うん。夕方から酒場の仕込みを手伝わなきゃいけないの」
「そっか」
レイは頷いた。
するとアンナは、少しためらったあと、控えめな声で尋ねた。
「……ねえ、レイ」
「なんだい?」
「また今日の夜も、会える?」
その問いかけには、昨夜から続く名残惜しさが滲んでいた。
レイは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪い。これから仕事の準備があるんだ」
「仕事……?」
「ああ。廃坑の奥で、魔石が多く採れる区域が見つかったらしい。そこへ調査に向かうことになってね」
レイは指先でテーブルを軽く叩きながら、予定を頭の中で整理した。
「順調にいけば、明日の夜には戻れると思う。遅くとも明後日の夜には、君に会いに行けるはずさ」
「……忙しいのね」
アンナは寂しそうに呟いた。
そして、少し間を置いてから、心配そうにレイの顔を覗き込む。
「次の仕事は……危険なの?」
「さあ、どうだろうな。実際に行ってみないと分からない」
レイは正直に答えた。
「今回はパーティを組んで向かう。状況次第では、一度引き返して態勢を立て直すこともあるだろう」
「それでも、危ないことはあるんでしょう?」
「そりゃあね」
レイは肩をすくめた。
「迷宮や廃坑に潜る以上、危険はつきものさ。けど、無茶をするつもりはないよ」
その言葉に嘘はなかった。
冒険者として生きてきたレイにとって、危険は日常の一部だ。
だが、それは危険を軽んじているという意味ではない。
生きて帰るために何をすべきか。どこまで進み、どこで退くべきか。
その判断を誤れば、待っているのは死だ。
「命は一つだからね」
淡々と告げるレイを、アンナはじっと見つめていた。
その表情には、隠しきれない不安が浮かんでいる。
レイは小さく息を吐いた。
「……そんな顔をするなよ」
「だって……」
「大丈夫。危険なのはいつものことさ。」
「でも、もし……」
「アンナ」
レイは彼女の言葉を遮るように、優しく名前を呼んだ。
そして、安心させるように微笑んだ。
「無事に仕事を終わらせて、また会いに来る。それでいいだろう?」
アンナはしばらく黙っていた。
やがて、俯いていた顔を少しずつ上げる。
「……本当に?」
「ああ。約束するよ」
「仕事が終わったら、また一緒に過ごしてくれる?」
「もちろん」
レイは迷いなく頷いた。
「今回の仕事が終わったら、二人でのんびりしよう。行きたいところがあるなら、どこへでも付き合うさ」
その言葉を聞いた途端、アンナの表情が明るくなった。
「本当? 実はね、私、行ってみたかったところがいくつかあるの!」
「へえ。どんなところだい?」
「市場の向こうにある花畑とか、街の外れにある小さな湖とか……。それから、おいしいお菓子を売っているお店もあるのよ」
さっきまでの不安が嘘のように、アンナは次々と行きたい場所を挙げていった。
レイは相槌を打ちながら、その話に耳を傾ける。
「なるほど。ずいぶんあるんだな」
「だ、ダメかしら……?」
「まさか」
レイは笑った。
「デートだな」
「……デート」
アンナはその言葉を口の中で繰り返した。
そして、頬を赤く染めながら、嬉しそうに笑う。
「うん。デート!」
アンナはテーブルの上に置いていた手を伸ばし、レイの手を握った。
その手をしばらく見つめたあと、何かを思いついたように小指を差し出す。
「じゃあ、約束」
「ん?」
「絶対に帰ってきてね。そしたら、デートしてくれるって」
レイは差し出された小指を見て、懐かしそうに目を細めた。
「……指切りか。ずいぶん久しぶりだな」
「ダメ?」
「いや。いいよ」
レイも小指を差し出す。
二人の小指が絡み合った。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本……」
アンナが口ずさむように歌い、最後に小指を軽く振った。
レイもそれに合わせて、指を揺らす。
「……これで約束だ」
「うん!」
アンナは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、レイも自然と口元を緩める。
迷宮の奥には、何が待ち受けているか分からない。
それでも今は、この小さな約束を守るために、無事に帰ってこようと思えた。
レイは絡めた小指をそっと離し、アンナの手を優しく握った。
「じゃあ、また会おう。アンナ」
「……うん。待ってるからね、レイ」
その言葉を胸に刻み、レイは次の仕事へ向かう準備を始めるのだった。




