黄金の瞳と赤らむ頬。
最後の一切れを口に運び、レイは満足げに息を吐いた。
「……ふぅ」
久しぶりの豪勢な食事だった。
冒険者をしていると、食事はどうしても腹を満たすためのものになりがちだ。迷宮に潜れば携帯食で済ませることも多いし、野営ともなれば味にこだわってはいられない。
それだけに、温かい料理をゆっくり味わえる時間は貴重だった。
レイは空になったエールのジョッキを置き、満足そうに腹をさする。
さて、そろそろ帰るとしよう。
そう思って席を立ち、給仕を探す。すると、ちょうど近くを通りかかったアンナと目が合った。
「アンナ、会計を頼むよ」
「はい!」
アンナは明るく返事をすると、レイのテーブルへやってきた。
レイは腰の皮袋から銅貨を数枚取り出し、代金を支払おうとする。
そのときだった。
アンナの表情が、ほんのわずかに曇った。
レイは銅貨を数える手を止め、彼女の顔を見た。
……なんだ。もう少し話したかったのかな?
先ほどから、こちらをちらちらと窺っていたことは知っている。
もちろん、それだけで彼女の気持ちを決めつけるつもりはない。だが、少なくとも自分を嫌ってはいないようだった。
「料理、どれも美味しかったよ。アンナ」
「ほ、本当ですか? よかった……!」
アンナの顔がぱっと明るくなる。
「ああ。特におすすめしてくれた料理は絶品だった。また食べに来たいね」
「ありがとうございます! 料理長にも伝えておきますね!」
嬉しそうに笑うアンナを見て、レイも自然と口元を緩めた。
そして、会計を済ませようとした手を止める。
「アンナ……少しいいかな?」
「は、はい! なんでしょう?」
アンナが慌てて背筋を伸ばす。
レイは彼女の目を見つめ、優しく微笑んだ。
普段のレイは、どちらかといえば冷たい印象を与えることが多い。鋭い目つきに、隙のない身のこなし。冒険者として生きてきたせいか、表情にも自然と緊張感が滲んでしまう。
だが、こうして不意に見せる微笑みは違った。
柔らかく、穏やかで、相手を包み込むような温かさがある。
その笑顔には、人の心を不思議と掴んでしまう魅力があった。
「君ともう少し話してみたいと思ってね。仕事が終わるのは何時頃なんだい?」
「えっ……?」
アンナは一瞬、きょとんとした。
思いがけない言葉に、頭がうまく働かない。
「えっと……あと少しで終わりますけど……」
「そうか」
レイは小さく頷いた。
「もし迷惑でなければ、仕事が終わったあと、一緒に一杯どうかな?」
「……えっ?」
アンナは目を丸くした。
今、この人は何と言ったのだろう。
一緒に一杯。
つまり、仕事が終わったあとも自分と一緒に過ごしたいということだ。
「わ、私とですか?」
「ほかに誰がいるんだい?」
レイは軽く笑った。
「さっきから、君と話すのが楽しくてね。もう少し付き合ってもらえたら嬉しいんだけど」
「そ、そんな……」
アンナの頬が、みるみる赤く染まっていく。
仕事中だからと断るべきだろうか。
いや、仕事はもうすぐ終わる。店の決まりに反するわけでもない。
それに――。
こんなに格好いい人が、自分を誘ってくれるなんて思ってもいなかった。
アンナは目の前のレイをそっと見上げた。
黒髪に、綺麗な黄金色の瞳。
すらりとした立ち姿も、落ち着いた話し方も、何気ない仕草さえも、どこか人を惹きつける。
そんな相手が、自分ともっと話したいと言ってくれている。
嬉しくないはずがなかった。
けれど、同時に不安もあった。
自分は、特別に美人というわけではない。
胸だって小さいし、華やかな女性と比べれば見劣りするところもある。
こんな素敵な人が、どうして自分なんかを誘ってくれるのだろう。
「……私なんかで、いいんですか?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
言ってから、アンナはしまったと思った。
せっかく誘ってくれたのに、これでは困らせてしまうかもしれない。
だが、レイは笑みを消さなかった。
ただ、ほんの少しだけ表情を和らげる。
そして、迷うことなく、こくりと頷いた。
「君がいいんだよ、アンナ」
レイは微笑みながら、迷いなくそう告げた。
軽い口調ではない。けれど、重苦しさも感じさせない。
まるで、それが当たり前のことだと言うような自然な声音だった。
アンナは思わず息を呑んだ。
胸の奥が、また小さく跳ねる。
こんなふうに真っ直ぐ言われたら、どう返せばいいのかわからない。
「……お仕事が終わったら、着替えてきます」
頬を赤くしたまま、アンナは小さな声で答えた。
「うん。楽しみにしているよ」
レイは満足そうに頷くと、会計を済ませた。
アンナは何度も頭を下げながら、どこか浮き足立った様子で仕事へと戻っていった。
その背中を見送り、レイは小さく笑う。
さて、今夜はどんな話が聞けるだろうか。
そんなことを考えながら、レイは店を後にした。
しばらくして。
レイは『獅子の杯』の裏口にいた。
店の表は相変わらず賑わっている。冒険者たちの笑い声に、酒を注文する声。扉が開くたびに、店内の喧騒が夜の街へと漏れ出していた。
常連客に見られるのは避けたほうがいいだろう。
アンナはこの店で働いているのだ。客の中には彼女の顔なじみもいるかもしれない。
わざわざ余計な噂を立てる必要もない。
そう考えたレイは、店の裏口で待ち合わせることにしたのだった。
壁にもたれ、腕を組む。
夜風が黒髪を揺らした。
しばらく待っていると、裏口の扉が開いた。
「レイさん、お待たせしました!」
聞き覚えのある声に顔を向ける。
そこには、仕事を終えたアンナが立っていた。
給仕服から着替えた彼女は、先ほどまでとは少し違った印象だった。
赤みがかった茶色の髪はそのままに、飾り気の少ない服を身につけている。農家の娘らしい素朴さがあり、気取ったところもない。
特別に着飾っているわけではない。
それでも、仕事中よりずっと自然な表情をしていた。
レイは彼女の姿を上から下まで眺めると、柔らかく微笑んだ。
「へえ。仕事着も似合っていたけど、そっちもいいね」
「ま、またそういうことを……!」
アンナは顔を赤くし、慌てて視線を逸らした。
どうしてこの人は、こんなにも平然と恥ずかしいことを言えるのだろう。
少しは照れたりしないのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎる。
「褒めちゃダメ? 本心から思ったよ」
「禁止じゃないですけど……心臓に悪いです」
アンナは胸元に手を当て、恨めしそうにレイを見た。
けれど、その表情には怒っている様子など少しもない。
むしろ、どこか嬉しそうだった。
レイはそんな彼女を見て、楽しそうに笑った。
「それは困ったな。今夜はまだ、君のことを何も知らないんだから」
「……っ!」
アンナの顔が、再び赤くなる。
今夜はまだ。
その言葉に、妙な含みを感じてしまったのだ。
もちろん、レイが何を考えているのか、アンナにはわからない。
ただ、少なくとも今夜を楽しみにしているのは、自分だけではないらしい。
それが嬉しくて、少しだけくすぐったかった。
「……もう。レイさんって、ほんとうにずるい人ですね」
「そうかな?」
「そうです」
アンナは頬を膨らませた。
それでも、すぐに小さく笑う。
「でも……嫌じゃないです」
その言葉を聞いたレイは、一瞬だけ目を細めた。
「それならよかった」
そう言って、壁から背を離す。
「じゃあ、行こうか。せっかく仕事が終わったんだ。今夜くらい、ゆっくり楽しもう」
「はい!」
アンナは弾むような声で答えた。
二人は並んで歩き出す。
夜の迷宮都市グランゼルは、まだ眠る気配を見せていなかった。
通りには酒場の灯りがこぼれ、酔客の笑い声が響いている。屋台からは焼き物の香ばしい匂いが漂い、冒険者たちが肩を組んで歩いていた。
その賑やかな街並みの中を、レイとアンナはゆっくりと進んでいく。
アンナは時折、隣を歩くレイを盗み見た。
目が合いそうになると、すぐに前を向いてしまう。
そんな様子に気づきながらも、レイは何も言わなかった。
今はまだ、この時間を楽しめばいい。
今夜、彼女がどんな話をしてくれるのか。
それを聞くのが楽しみだった。
夜のグランゼルは、昼間とはまた違った顔を見せていた。
通りには酒場の灯りがこぼれ、酔った冒険者たちの笑い声が響いている。屋台からは焼いた肉の香りが漂い、あちこちで商人と客が値段交渉をしていた。
そんな賑やかな通りを、レイとアンナは並んで歩いていた。
「この辺りは、夜になるとずいぶん賑やかになるんですね」
「迷宮都市だからね。明日の命もわからない冒険者が多い。稼いだ金を、その日のうちに使ってしまう連中も珍しくないよ」
「それって、ちょっともったいない気もしますけど……」
「ははっ。俺もそう思うよ」
レイが笑うと、アンナもつられて笑った。
やがて二人は、通りの喧騒から少し離れた小さな酒場へと入った。
店内は落ち着いた雰囲気で、客の数も多くない。二人はカウンターの端に並んで腰を下ろした。
「ここなら、ゆっくり話せそうだ」
「はい。こういうお店、好きです」
レイは店主に果実酒を二人分と、軽くつまめる料理を注文した。
ほどなくして運ばれてきた酒は、淡い琥珀色をしていた。
アンナはグラスを両手で包み、そっと口をつける。
「……おいしい」
「気に入った?」
「はい。甘くて飲みやすいです」
「それならよかった」
レイもグラスを傾けた。
こうして落ち着いて酒を飲みながら、誰かと他愛もない話をするのは久しぶりだった。
迷宮での探索中は、周囲への警戒を怠れない。食事も酒も、楽しむというより生き延びるためのものになりがちだ。
今夜くらいは、少し気を抜いてもいいだろう。
「そういえば、アンナは兄弟や姉妹はいるのかい?」
「いますよ。兄が二人と、妹が一人です」
「へえ、賑やかな家族だね」
「賑やかというか……うるさいですよ。特に兄たち!」
アンナは頬を膨らませた。
どうやら、思うところがあるらしい。
「私が街で働いていると、すぐに余計な心配をするんです。夜道は危ないだの、変な男には気をつけろだの……子供じゃないんですから!」
「なるほど。大事な妹が心配なんだろうね」
「それはわかっていますけど!」
アンナは不満げにグラスを置いた。
「この前なんて、実家に帰ったら、いつ結婚するんだって聞かれたんですよ。まだ二十歳なのに!」
「ははっ。ずいぶん気が早いな」
「笑い事じゃないです!」
アンナは抗議するようにレイを見た。
しかし、すぐに自分でもおかしくなったのか、ふっと表情を緩める。
「……まあ、悪い人たちじゃないんですけどね」
「うん」
「兄たちは昔からあんな感じですし、妹も私にべったりで。家族のことは好きなんです。でも、たまには放っておいてほしいなって」
「わかる気がするよ。心配される側にも、いろいろあるからね」
レイはそう答え、アンナの話を遮らずに耳を傾けた。
安易に家族を悪く言うこともなければ、家族なのだから我慢しろと説教することもない。
ただ、彼女が感じている不満を、そのまま受け止めていた。
アンナは少しずつ、胸の内に溜まっていたものを吐き出していく。
「それに、父も父で、何かあるとすぐ兄たちに相談するんです。私だって、もう大人なのに」
「自分のことは自分で決めたい?」
「そうです!」
アンナは勢いよく頷いた。
「私だって、自分の人生くらい、自分で決めたいんです」
口にしてから、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
どうやら、自分でも思っていた以上に強くそう願っていたらしい。
レイはグラスを置き、静かに尋ねた。
「……アンナは、これからどうしたいんだい?」
「え?」
「自分の人生を、自分で決めたいんだろう? だったら、君が本当にやりたいことは何なのかなと思ってね」
アンナはしばらく黙り込んだ。
先ほどまでの勢いが嘘のように、視線がグラスの中へ落ちる。
「……実は、まだ決められていないんです」
「そうか」
「家族は、いずれ実家に戻って結婚して、農家を手伝ってほしいみたいです。私も家族のことは好きですし、畑仕事が嫌いなわけじゃありません」
アンナは指先でグラスをなぞった。
「でも、それだけで人生が終わっちゃうのかなって思うと……少し、寂しいんです」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「一度くらい、街で暮らしてみたいですし、いろんな場所にも行ってみたい。知らないものを見たり、知らない人と話したり……そういうことを、もっとしてみたいんです」
「うん」
「でも、そんなことを家族に言ったら、きっと心配されます。女の一人暮らしなんて危ないとか、いつまで夢みたいなことを言っているんだとか……」
アンナは困ったように笑った。
「だから、結局いつも言えなくて。こうして街で働いているだけでも、私にしては大冒険なんですよ」
最後は、少し自嘲気味だった。
けれど、レイは笑わなかった。
「いいじゃないか」
「……え?」
「知らないものを見たい。いろんな場所へ行ってみたい。そう思うことの、何が悪いんだい?」
レイは穏やかな口調で言った。
「家族を大切にすることと、自分の人生を大切にすることは、別に矛盾しないだろう?」
アンナは、はっとしたように顔を上げた。
「もちろん、現実には金も必要だし、安全の問題だってある。思い描いたとおりにいくとは限らない」
レイはそこで一度言葉を切り、彼女の顔を見つめた。
「でも、最初から諦める必要もないんじゃないかな」
「……」
「君はまだ二十歳だ。これからいくらでも選べる。今すぐ答えを出さなくたっていいさ」
そう言って、レイは柔らかく微笑んだ。
「せっかくの人生なんだ。誰かの期待に応えるだけじゃなく、自分が何をしたいのかも、ちゃんと考えていいと思うよ」
アンナは何も言わなかった。
ただ、レイを見つめていた。
家族からは心配され、周囲からは将来を尋ねられる。
それ自体は、きっと悪意からではないのだろう。
それでも、彼女が本当はどうしたいのかを、こうして真剣に聞いてくれる人は、あまりいなかった。
「……レイさんって、変わった人ですね」
「おや。今度は何だい?」
「だって、私の話なんて、つまらないでしょう? 冒険者なら、もっと面白い話がたくさんあるんじゃないですか?」
「どうだろうね。迷宮の話なら、いくらでもできるけど」
レイは肩をすくめた。
「今は、君の話を聞くほうが面白いよ」
「……っ」
アンナの頬が、じわりと赤く染まった。
こういうことを、どうしてこの人は平然と言えるのだろう。
しかも、からかうような口調ではない。
本当にそう思っているように聞こえるから、余計に困る。
「……レイさんは、ずるいです」
「またそれかい?」
「そうですよ。そんなふうに優しくされたら、勘違いしちゃいます」
アンナは俯きながら、小さく呟いた。
レイは一瞬だけ目を細めた。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「勘違いかどうかは、君が決めることじゃないかな」
「えっ……?」
「少なくとも、俺は今夜、君と一緒に過ごせてよかったと思っているよ」
アンナは言葉を失った。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
自分の悩みを聞いてくれたことが嬉しかった。
夢を笑わずにいてくれたことも。
そして何より、この人と話していると、普段は胸の奥にしまい込んでいる気持ちまで、自然と言葉になって出てくるのだった。
「……私もです」
アンナは小さく答えた。
「今日、レイさんに誘ってもらえて、本当によかったです」
レイは優しく頷き、グラスを持ち上げる。
「それなら、もう一杯どうかな?」
「……はい!」
アンナは今度こそ、満面の笑みで頷いた。
◇
それからも、二人は話を続けた。
アンナは家族への愚痴をこぼしたかと思えば、いつか行ってみたい土地の話を始め、気づけば夢中になって語っていた。
レイは時折質問を挟みながら、楽しそうに耳を傾ける。
普段は鋭い目つきで周囲を警戒している彼女が、今はずいぶんと穏やかな顔をしていた。
アンナの話を聞くのは楽しかった。
人の望みや不安は、それぞれ違う。
強がっている者もいれば、夢を語るのが恥ずかしい者もいる。
目の前のアンナも、その一人なのだろう。
だからこそ、レイは彼女の話を否定しなかった。
自分のことを話すつもりは、なかったけれど。
他人の心に寄り添うことと、自分の心を明かすことは、レイにとってまったく別の話だった。
◇
酒場を出る頃には、夜もすっかり更けていた。
夜風が頬を撫で、火照った身体に心地よい。
アンナは隣を歩くレイを、そっと見上げた。
もっと一緒にいたい。
今夜が終わってしまうのが、少し寂しい。
そんな気持ちが胸の中で膨らんでいた。
けれど、自分から口にするのは、どうにも恥ずかしい。
何か言おうかと迷っていると、不意にレイが足を止めた。
「アンナ」
「は、はい?」
呼ばれて、アンナも立ち止まる。
レイは彼女の顔を見つめ、穏やかな笑みを浮かべた。
「まだ時間はあるかい?」
アンナは一瞬、戸惑った。
けれど、すぐにその言葉の意味を考え、頬を染める。
「……はい」
小さく頷く。
レイは彼女の返事を確かめるように見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「それなら、もう少し一緒にいようか」
アンナは胸の前で両手を握りしめた。
「……はい。私も、まだ一緒にいたいです」
今度は、はっきりとそう答えた。
レイは満足そうに微笑むと、再び歩き出した。
夜のグランゼルは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
石畳の道を歩くたび、二人の足音が夜の街に響く。
夜風は冷たく、吐き出した息が白く染まっては、暗闇へと溶けていった。
「……少し冷えますね」
アンナが小さく肩をすくめる。
「そうだね。もう少し着込んでくればよかったかな」
「レイさんは寒くないんですか?」
「俺は平気だよ」
そう答えたレイは、隣を歩くアンナに視線を向けた。
そして、ごく自然な仕草で彼女の手を取った。
「……っ」
アンナの肩が、ぴくりと跳ねる。
突然のことに驚いたのか、彼女は握られた手とレイの顔を交互に見つめた。
「こうしていれば、少しは暖かいだろう?」
レイは何でもないことのように微笑む。
その余裕たっぷりの表情が、アンナには少しばかりずるく思えた。
けれど、手を振りほどく気にはならなかった。
むしろ――。
アンナはためらいがちに指を動かすと、レイの手に自分の指をそっと絡めた。
「……はい」
小さな返事とともに、二人の手がしっかりと重なる。
レイはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、アンナの歩調に合わせて、ゆっくりと夜道を歩いていく。
その沈黙が心地よかった。
言葉を交わさなくても、繋いだ手から伝わる温もりが、二人の距離を少しずつ縮めていく。
やがて、見慣れた宿の看板が見えてきた。
「ここだよ」
レイが足を止める。
アンナは建物を見上げ、それから隣のレイを見た。
「ここが……レイさんの泊まっている宿なんですね」
「ああ。宿代は一週間分、先に払ってあるんだ。しばらくはここを拠点にするつもりでね」
そう言いながら、レイは入口の扉を開けた。
中に入ると、カウンターに座っていた店主が顔を上げる。
レイは軽く目配せをした。
店主は一瞬だけアンナに目を向けたものの、特に何も尋ねず、小さく頷いて応じる。
余計な詮索をしない。
この街で過ごすうえでは、それもまたありがたいことだった。
「行こうか」
レイに促され、アンナは頷いた。
二人は階段を上り、三階へと向かう。
木の階段が、歩くたびにかすかな音を立てた。
アンナの頬は、酒のせいもあってか、ほんのりと赤く染まっている。
けれど、それだけではないのだろう。
先ほどまで自然に握っていたレイの手を、今は少しだけ強く握りしめていた。
緊張しているのかもしれない。
無理もない。
アンナはもう二十歳の大人だ。
こんな時間に、レイの部屋へ入る。
その意味を、理解していないはずがなかった。
三階の廊下を進み、レイは一番奥の部屋の前で立ち止まる。
懐から鍵を取り出し、錠前に差し込んだ。
カチャリ、と小さな音が鳴る。
扉を開けたレイは、身体を横にずらしてアンナを振り返った。
「どうぞ。散らかっているけどね」
「そ、そんなこと……」
アンナは部屋の中をちらりと覗き、それからレイを見上げた。
入口の向こうには、薄暗い室内が広がっている。
ここから先へ足を踏み入れれば、二人きりだ。
誰にも邪魔されず、誰の目も気にせずに過ごせる。
だからこそ、アンナの胸には期待と不安が入り混じっていた。
レイは、そんな彼女の様子を静かに見つめていた。
急かすつもりはなかった。
今夜、アンナと一緒に過ごしたいと思ったのは本当だ。
けれど、それは彼女も同じ気持ちであってこそ意味がある。
レイは少しだけ表情を和らげ、優しく声をかけた。
「……無理しなくても大丈夫なんだよ? アンナ」
その言葉に、アンナは目を見開いた。
からかわれると思っていたわけではない。
それでも、ここまで来た以上、レイは自分が期待しているものを求めるのだろうと、どこかで覚悟していた。
けれど、彼女の気持ちを確かめるように、レイは待ってくれている。
嫌なら断っていい。
今からでも、帰っていい。
そう言ってくれているのだ。
アンナはしばらく、レイの顔を見つめていた。
やがて、張り詰めていた表情がゆっくりとほどけていく。
「……レイさん」
「うん?」
「私……もう少しだけ、一緒にいたいです」
「そうか」
レイは穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、アンナの中に残っていた迷いが、すっと消えていった。
彼女は自分から一歩踏み出すと、今度は自分のほうからレイの手を握った。
指を絡め、離れないように。
「……入っても、いいですか?」
「もちろん」
レイが答えると、アンナは小さく頷いた。
そして、自らレイの手を引くようにして、部屋の中へと足を踏み入れる。
レイもその後に続いた。
ばたり。
背後で扉が閉まる。
続いて、アンナが振り返り、扉の鍵をかけた。
ガチャリ。
小さな金属音が、静かな部屋に響く。
アンナは鍵から手を離すと、ゆっくりとレイのほうを振り返った。
頬はまだ赤い。
けれど、その瞳に先ほどまでの迷いはなかった。
レイは彼女を見つめ、静かに微笑んだ。
今夜は、まだ終わらない。




