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聖血のロゼル  作者: チョコレートスターフィッシュ
第5章

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黄金の瞳と赤らむ頬。

 最後の一切れを口に運び、レイは満足げに息を吐いた。

「……ふぅ」

 久しぶりの豪勢な食事だった。

 冒険者をしていると、食事はどうしても腹を満たすためのものになりがちだ。迷宮に潜れば携帯食で済ませることも多いし、野営ともなれば味にこだわってはいられない。

 それだけに、温かい料理をゆっくり味わえる時間は貴重だった。

 レイは空になったエールのジョッキを置き、満足そうに腹をさする。

 さて、そろそろ帰るとしよう。

 そう思って席を立ち、給仕を探す。すると、ちょうど近くを通りかかったアンナと目が合った。

「アンナ、会計を頼むよ」

「はい!」

 アンナは明るく返事をすると、レイのテーブルへやってきた。

 レイは腰の皮袋から銅貨を数枚取り出し、代金を支払おうとする。

 そのときだった。

 アンナの表情が、ほんのわずかに曇った。

 レイは銅貨を数える手を止め、彼女の顔を見た。

 ……なんだ。もう少し話したかったのかな?

 先ほどから、こちらをちらちらと窺っていたことは知っている。

 もちろん、それだけで彼女の気持ちを決めつけるつもりはない。だが、少なくとも自分を嫌ってはいないようだった。

「料理、どれも美味しかったよ。アンナ」

「ほ、本当ですか? よかった……!」

 アンナの顔がぱっと明るくなる。

「ああ。特におすすめしてくれた料理は絶品だった。また食べに来たいね」

「ありがとうございます! 料理長にも伝えておきますね!」

 嬉しそうに笑うアンナを見て、レイも自然と口元を緩めた。

 そして、会計を済ませようとした手を止める。

「アンナ……少しいいかな?」

「は、はい! なんでしょう?」

 アンナが慌てて背筋を伸ばす。

 レイは彼女の目を見つめ、優しく微笑んだ。

 普段のレイは、どちらかといえば冷たい印象を与えることが多い。鋭い目つきに、隙のない身のこなし。冒険者として生きてきたせいか、表情にも自然と緊張感が滲んでしまう。

 だが、こうして不意に見せる微笑みは違った。

 柔らかく、穏やかで、相手を包み込むような温かさがある。

 その笑顔には、人の心を不思議と掴んでしまう魅力があった。

「君ともう少し話してみたいと思ってね。仕事が終わるのは何時頃なんだい?」

「えっ……?」

 アンナは一瞬、きょとんとした。

 思いがけない言葉に、頭がうまく働かない。

「えっと……あと少しで終わりますけど……」

「そうか」

 レイは小さく頷いた。

「もし迷惑でなければ、仕事が終わったあと、一緒に一杯どうかな?」

「……えっ?」

 アンナは目を丸くした。

 今、この人は何と言ったのだろう。

 一緒に一杯。

 つまり、仕事が終わったあとも自分と一緒に過ごしたいということだ。

「わ、私とですか?」

「ほかに誰がいるんだい?」

 レイは軽く笑った。

「さっきから、君と話すのが楽しくてね。もう少し付き合ってもらえたら嬉しいんだけど」

「そ、そんな……」

 アンナの頬が、みるみる赤く染まっていく。

 仕事中だからと断るべきだろうか。

 いや、仕事はもうすぐ終わる。店の決まりに反するわけでもない。

 それに――。

 こんなに格好いい人が、自分を誘ってくれるなんて思ってもいなかった。

 アンナは目の前のレイをそっと見上げた。

 黒髪に、綺麗な黄金色の瞳。

 すらりとした立ち姿も、落ち着いた話し方も、何気ない仕草さえも、どこか人を惹きつける。

 そんな相手が、自分ともっと話したいと言ってくれている。

 嬉しくないはずがなかった。

 けれど、同時に不安もあった。

 自分は、特別に美人というわけではない。

 胸だって小さいし、華やかな女性と比べれば見劣りするところもある。

 こんな素敵な人が、どうして自分なんかを誘ってくれるのだろう。

「……私なんかで、いいんですか?」

 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。

 言ってから、アンナはしまったと思った。

 せっかく誘ってくれたのに、これでは困らせてしまうかもしれない。

 だが、レイは笑みを消さなかった。

 ただ、ほんの少しだけ表情を和らげる。

 そして、迷うことなく、こくりと頷いた。


「君がいいんだよ、アンナ」

 レイは微笑みながら、迷いなくそう告げた。

 軽い口調ではない。けれど、重苦しさも感じさせない。

 まるで、それが当たり前のことだと言うような自然な声音だった。

 アンナは思わず息を呑んだ。

 胸の奥が、また小さく跳ねる。

 こんなふうに真っ直ぐ言われたら、どう返せばいいのかわからない。

「……お仕事が終わったら、着替えてきます」

 頬を赤くしたまま、アンナは小さな声で答えた。

「うん。楽しみにしているよ」

 レイは満足そうに頷くと、会計を済ませた。

 アンナは何度も頭を下げながら、どこか浮き足立った様子で仕事へと戻っていった。

 その背中を見送り、レイは小さく笑う。

 さて、今夜はどんな話が聞けるだろうか。

 そんなことを考えながら、レイは店を後にした。

 

 しばらくして。

 レイは『獅子の杯』の裏口にいた。

 店の表は相変わらず賑わっている。冒険者たちの笑い声に、酒を注文する声。扉が開くたびに、店内の喧騒が夜の街へと漏れ出していた。

 常連客に見られるのは避けたほうがいいだろう。

 アンナはこの店で働いているのだ。客の中には彼女の顔なじみもいるかもしれない。

 わざわざ余計な噂を立てる必要もない。

 そう考えたレイは、店の裏口で待ち合わせることにしたのだった。

 壁にもたれ、腕を組む。

 夜風が黒髪を揺らした。

 しばらく待っていると、裏口の扉が開いた。

「レイさん、お待たせしました!」

 聞き覚えのある声に顔を向ける。

 そこには、仕事を終えたアンナが立っていた。

 給仕服から着替えた彼女は、先ほどまでとは少し違った印象だった。

 赤みがかった茶色の髪はそのままに、飾り気の少ない服を身につけている。農家の娘らしい素朴さがあり、気取ったところもない。

 特別に着飾っているわけではない。

 それでも、仕事中よりずっと自然な表情をしていた。

 レイは彼女の姿を上から下まで眺めると、柔らかく微笑んだ。

「へえ。仕事着も似合っていたけど、そっちもいいね」

「ま、またそういうことを……!」

 アンナは顔を赤くし、慌てて視線を逸らした。

 どうしてこの人は、こんなにも平然と恥ずかしいことを言えるのだろう。

 少しは照れたりしないのだろうか。

 そんな疑問が頭をよぎる。

「褒めちゃダメ? 本心から思ったよ」

「禁止じゃないですけど……心臓に悪いです」

 アンナは胸元に手を当て、恨めしそうにレイを見た。

 けれど、その表情には怒っている様子など少しもない。

 むしろ、どこか嬉しそうだった。

 レイはそんな彼女を見て、楽しそうに笑った。

「それは困ったな。今夜はまだ、君のことを何も知らないんだから」

「……っ!」

 アンナの顔が、再び赤くなる。

 今夜はまだ。

 その言葉に、妙な含みを感じてしまったのだ。

 もちろん、レイが何を考えているのか、アンナにはわからない。

 ただ、少なくとも今夜を楽しみにしているのは、自分だけではないらしい。

 それが嬉しくて、少しだけくすぐったかった。

「……もう。レイさんって、ほんとうにずるい人ですね」

「そうかな?」

「そうです」

 アンナは頬を膨らませた。

 それでも、すぐに小さく笑う。

「でも……嫌じゃないです」

 その言葉を聞いたレイは、一瞬だけ目を細めた。

「それならよかった」

 そう言って、壁から背を離す。

「じゃあ、行こうか。せっかく仕事が終わったんだ。今夜くらい、ゆっくり楽しもう」

「はい!」

 アンナは弾むような声で答えた。

 二人は並んで歩き出す。

 夜の迷宮都市グランゼルは、まだ眠る気配を見せていなかった。

 通りには酒場の灯りがこぼれ、酔客の笑い声が響いている。屋台からは焼き物の香ばしい匂いが漂い、冒険者たちが肩を組んで歩いていた。

 その賑やかな街並みの中を、レイとアンナはゆっくりと進んでいく。

 アンナは時折、隣を歩くレイを盗み見た。

 目が合いそうになると、すぐに前を向いてしまう。

 そんな様子に気づきながらも、レイは何も言わなかった。

 今はまだ、この時間を楽しめばいい。

 今夜、彼女がどんな話をしてくれるのか。

 それを聞くのが楽しみだった。






夜のグランゼルは、昼間とはまた違った顔を見せていた。

 通りには酒場の灯りがこぼれ、酔った冒険者たちの笑い声が響いている。屋台からは焼いた肉の香りが漂い、あちこちで商人と客が値段交渉をしていた。

 そんな賑やかな通りを、レイとアンナは並んで歩いていた。

「この辺りは、夜になるとずいぶん賑やかになるんですね」

「迷宮都市だからね。明日の命もわからない冒険者が多い。稼いだ金を、その日のうちに使ってしまう連中も珍しくないよ」

「それって、ちょっともったいない気もしますけど……」

「ははっ。俺もそう思うよ」

 レイが笑うと、アンナもつられて笑った。

 やがて二人は、通りの喧騒から少し離れた小さな酒場へと入った。

 店内は落ち着いた雰囲気で、客の数も多くない。二人はカウンターの端に並んで腰を下ろした。

「ここなら、ゆっくり話せそうだ」

「はい。こういうお店、好きです」

 レイは店主に果実酒を二人分と、軽くつまめる料理を注文した。

 ほどなくして運ばれてきた酒は、淡い琥珀色をしていた。

 アンナはグラスを両手で包み、そっと口をつける。

「……おいしい」

「気に入った?」

「はい。甘くて飲みやすいです」

「それならよかった」

 レイもグラスを傾けた。

 こうして落ち着いて酒を飲みながら、誰かと他愛もない話をするのは久しぶりだった。

 迷宮での探索中は、周囲への警戒を怠れない。食事も酒も、楽しむというより生き延びるためのものになりがちだ。

 今夜くらいは、少し気を抜いてもいいだろう。

「そういえば、アンナは兄弟や姉妹はいるのかい?」

「いますよ。兄が二人と、妹が一人です」

「へえ、賑やかな家族だね」

「賑やかというか……うるさいですよ。特に兄たち!」

 アンナは頬を膨らませた。

 どうやら、思うところがあるらしい。

「私が街で働いていると、すぐに余計な心配をするんです。夜道は危ないだの、変な男には気をつけろだの……子供じゃないんですから!」

「なるほど。大事な妹が心配なんだろうね」

「それはわかっていますけど!」

 アンナは不満げにグラスを置いた。

「この前なんて、実家に帰ったら、いつ結婚するんだって聞かれたんですよ。まだ二十歳なのに!」

「ははっ。ずいぶん気が早いな」

「笑い事じゃないです!」

 アンナは抗議するようにレイを見た。

 しかし、すぐに自分でもおかしくなったのか、ふっと表情を緩める。

「……まあ、悪い人たちじゃないんですけどね」

「うん」

「兄たちは昔からあんな感じですし、妹も私にべったりで。家族のことは好きなんです。でも、たまには放っておいてほしいなって」

「わかる気がするよ。心配される側にも、いろいろあるからね」

 レイはそう答え、アンナの話を遮らずに耳を傾けた。

 安易に家族を悪く言うこともなければ、家族なのだから我慢しろと説教することもない。

 ただ、彼女が感じている不満を、そのまま受け止めていた。

 アンナは少しずつ、胸の内に溜まっていたものを吐き出していく。

「それに、父も父で、何かあるとすぐ兄たちに相談するんです。私だって、もう大人なのに」

「自分のことは自分で決めたい?」

「そうです!」

 アンナは勢いよく頷いた。

「私だって、自分の人生くらい、自分で決めたいんです」

 口にしてから、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。

 どうやら、自分でも思っていた以上に強くそう願っていたらしい。

 レイはグラスを置き、静かに尋ねた。

「……アンナは、これからどうしたいんだい?」

「え?」

「自分の人生を、自分で決めたいんだろう? だったら、君が本当にやりたいことは何なのかなと思ってね」

 アンナはしばらく黙り込んだ。

 先ほどまでの勢いが嘘のように、視線がグラスの中へ落ちる。

「……実は、まだ決められていないんです」

「そうか」

「家族は、いずれ実家に戻って結婚して、農家を手伝ってほしいみたいです。私も家族のことは好きですし、畑仕事が嫌いなわけじゃありません」

 アンナは指先でグラスをなぞった。

「でも、それだけで人生が終わっちゃうのかなって思うと……少し、寂しいんです」

 言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。

「一度くらい、街で暮らしてみたいですし、いろんな場所にも行ってみたい。知らないものを見たり、知らない人と話したり……そういうことを、もっとしてみたいんです」

「うん」

「でも、そんなことを家族に言ったら、きっと心配されます。女の一人暮らしなんて危ないとか、いつまで夢みたいなことを言っているんだとか……」

 アンナは困ったように笑った。

「だから、結局いつも言えなくて。こうして街で働いているだけでも、私にしては大冒険なんですよ」

 最後は、少し自嘲気味だった。

 けれど、レイは笑わなかった。

「いいじゃないか」

「……え?」

「知らないものを見たい。いろんな場所へ行ってみたい。そう思うことの、何が悪いんだい?」

 レイは穏やかな口調で言った。

「家族を大切にすることと、自分の人生を大切にすることは、別に矛盾しないだろう?」

 アンナは、はっとしたように顔を上げた。

「もちろん、現実には金も必要だし、安全の問題だってある。思い描いたとおりにいくとは限らない」

 レイはそこで一度言葉を切り、彼女の顔を見つめた。

「でも、最初から諦める必要もないんじゃないかな」

「……」

「君はまだ二十歳だ。これからいくらでも選べる。今すぐ答えを出さなくたっていいさ」

 そう言って、レイは柔らかく微笑んだ。

「せっかくの人生なんだ。誰かの期待に応えるだけじゃなく、自分が何をしたいのかも、ちゃんと考えていいと思うよ」

 アンナは何も言わなかった。

 ただ、レイを見つめていた。

 家族からは心配され、周囲からは将来を尋ねられる。

 それ自体は、きっと悪意からではないのだろう。

 それでも、彼女が本当はどうしたいのかを、こうして真剣に聞いてくれる人は、あまりいなかった。

「……レイさんって、変わった人ですね」

「おや。今度は何だい?」

「だって、私の話なんて、つまらないでしょう? 冒険者なら、もっと面白い話がたくさんあるんじゃないですか?」

「どうだろうね。迷宮の話なら、いくらでもできるけど」

 レイは肩をすくめた。

「今は、君の話を聞くほうが面白いよ」

「……っ」

 アンナの頬が、じわりと赤く染まった。

 こういうことを、どうしてこの人は平然と言えるのだろう。

 しかも、からかうような口調ではない。

 本当にそう思っているように聞こえるから、余計に困る。

「……レイさんは、ずるいです」

「またそれかい?」

「そうですよ。そんなふうに優しくされたら、勘違いしちゃいます」

 アンナは俯きながら、小さく呟いた。

 レイは一瞬だけ目を細めた。

 そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

「勘違いかどうかは、君が決めることじゃないかな」

「えっ……?」

「少なくとも、俺は今夜、君と一緒に過ごせてよかったと思っているよ」

 アンナは言葉を失った。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 自分の悩みを聞いてくれたことが嬉しかった。

 夢を笑わずにいてくれたことも。

 そして何より、この人と話していると、普段は胸の奥にしまい込んでいる気持ちまで、自然と言葉になって出てくるのだった。

「……私もです」

 アンナは小さく答えた。

「今日、レイさんに誘ってもらえて、本当によかったです」

 レイは優しく頷き、グラスを持ち上げる。

「それなら、もう一杯どうかな?」

「……はい!」

 アンナは今度こそ、満面の笑みで頷いた。

     ◇

 それからも、二人は話を続けた。

 アンナは家族への愚痴をこぼしたかと思えば、いつか行ってみたい土地の話を始め、気づけば夢中になって語っていた。

 レイは時折質問を挟みながら、楽しそうに耳を傾ける。

 普段は鋭い目つきで周囲を警戒している彼女が、今はずいぶんと穏やかな顔をしていた。

 アンナの話を聞くのは楽しかった。

 人の望みや不安は、それぞれ違う。

 強がっている者もいれば、夢を語るのが恥ずかしい者もいる。

 目の前のアンナも、その一人なのだろう。

 だからこそ、レイは彼女の話を否定しなかった。

 自分のことを話すつもりは、なかったけれど。

 他人の心に寄り添うことと、自分の心を明かすことは、レイにとってまったく別の話だった。

     ◇

 酒場を出る頃には、夜もすっかり更けていた。

 夜風が頬を撫で、火照った身体に心地よい。

 アンナは隣を歩くレイを、そっと見上げた。

 もっと一緒にいたい。

 今夜が終わってしまうのが、少し寂しい。

 そんな気持ちが胸の中で膨らんでいた。

 けれど、自分から口にするのは、どうにも恥ずかしい。

 何か言おうかと迷っていると、不意にレイが足を止めた。

「アンナ」

「は、はい?」

 呼ばれて、アンナも立ち止まる。

 レイは彼女の顔を見つめ、穏やかな笑みを浮かべた。

「まだ時間はあるかい?」

 アンナは一瞬、戸惑った。

 けれど、すぐにその言葉の意味を考え、頬を染める。

「……はい」

 小さく頷く。

 レイは彼女の返事を確かめるように見つめてから、ゆっくりと口を開いた。

「それなら、もう少し一緒にいようか」

 アンナは胸の前で両手を握りしめた。

「……はい。私も、まだ一緒にいたいです」

 今度は、はっきりとそう答えた。

 レイは満足そうに微笑むと、再び歩き出した。

 

夜のグランゼルは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

石畳の道を歩くたび、二人の足音が夜の街に響く。

夜風は冷たく、吐き出した息が白く染まっては、暗闇へと溶けていった。

「……少し冷えますね」

アンナが小さく肩をすくめる。

「そうだね。もう少し着込んでくればよかったかな」

「レイさんは寒くないんですか?」

「俺は平気だよ」

そう答えたレイは、隣を歩くアンナに視線を向けた。

そして、ごく自然な仕草で彼女の手を取った。

「……っ」

アンナの肩が、ぴくりと跳ねる。

突然のことに驚いたのか、彼女は握られた手とレイの顔を交互に見つめた。

「こうしていれば、少しは暖かいだろう?」

レイは何でもないことのように微笑む。

その余裕たっぷりの表情が、アンナには少しばかりずるく思えた。

けれど、手を振りほどく気にはならなかった。

むしろ――。

アンナはためらいがちに指を動かすと、レイの手に自分の指をそっと絡めた。

「……はい」

小さな返事とともに、二人の手がしっかりと重なる。

レイはそれ以上、何も言わなかった。

ただ、アンナの歩調に合わせて、ゆっくりと夜道を歩いていく。

その沈黙が心地よかった。

言葉を交わさなくても、繋いだ手から伝わる温もりが、二人の距離を少しずつ縮めていく。

やがて、見慣れた宿の看板が見えてきた。

「ここだよ」

レイが足を止める。

アンナは建物を見上げ、それから隣のレイを見た。

「ここが……レイさんの泊まっている宿なんですね」

「ああ。宿代は一週間分、先に払ってあるんだ。しばらくはここを拠点にするつもりでね」

そう言いながら、レイは入口の扉を開けた。

中に入ると、カウンターに座っていた店主が顔を上げる。

レイは軽く目配せをした。

店主は一瞬だけアンナに目を向けたものの、特に何も尋ねず、小さく頷いて応じる。

余計な詮索をしない。

この街で過ごすうえでは、それもまたありがたいことだった。

「行こうか」

レイに促され、アンナは頷いた。

二人は階段を上り、三階へと向かう。

木の階段が、歩くたびにかすかな音を立てた。

アンナの頬は、酒のせいもあってか、ほんのりと赤く染まっている。

けれど、それだけではないのだろう。

先ほどまで自然に握っていたレイの手を、今は少しだけ強く握りしめていた。

緊張しているのかもしれない。

無理もない。

アンナはもう二十歳の大人だ。

こんな時間に、レイの部屋へ入る。

その意味を、理解していないはずがなかった。

三階の廊下を進み、レイは一番奥の部屋の前で立ち止まる。

懐から鍵を取り出し、錠前に差し込んだ。

カチャリ、と小さな音が鳴る。

扉を開けたレイは、身体を横にずらしてアンナを振り返った。

「どうぞ。散らかっているけどね」

「そ、そんなこと……」

アンナは部屋の中をちらりと覗き、それからレイを見上げた。

入口の向こうには、薄暗い室内が広がっている。

ここから先へ足を踏み入れれば、二人きりだ。

誰にも邪魔されず、誰の目も気にせずに過ごせる。

だからこそ、アンナの胸には期待と不安が入り混じっていた。

レイは、そんな彼女の様子を静かに見つめていた。

急かすつもりはなかった。

今夜、アンナと一緒に過ごしたいと思ったのは本当だ。

けれど、それは彼女も同じ気持ちであってこそ意味がある。

レイは少しだけ表情を和らげ、優しく声をかけた。

「……無理しなくても大丈夫なんだよ? アンナ」

その言葉に、アンナは目を見開いた。

からかわれると思っていたわけではない。

それでも、ここまで来た以上、レイは自分が期待しているものを求めるのだろうと、どこかで覚悟していた。

けれど、彼女の気持ちを確かめるように、レイは待ってくれている。

嫌なら断っていい。

今からでも、帰っていい。

そう言ってくれているのだ。

アンナはしばらく、レイの顔を見つめていた。

やがて、張り詰めていた表情がゆっくりとほどけていく。

「……レイさん」

「うん?」

「私……もう少しだけ、一緒にいたいです」

「そうか」

レイは穏やかに微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、アンナの中に残っていた迷いが、すっと消えていった。

彼女は自分から一歩踏み出すと、今度は自分のほうからレイの手を握った。

指を絡め、離れないように。

「……入っても、いいですか?」

「もちろん」

レイが答えると、アンナは小さく頷いた。

そして、自らレイの手を引くようにして、部屋の中へと足を踏み入れる。

レイもその後に続いた。

ばたり。

背後で扉が閉まる。

続いて、アンナが振り返り、扉の鍵をかけた。

ガチャリ。

小さな金属音が、静かな部屋に響く。

アンナは鍵から手を離すと、ゆっくりとレイのほうを振り返った。

頬はまだ赤い。

けれど、その瞳に先ほどまでの迷いはなかった。

レイは彼女を見つめ、静かに微笑んだ。

今夜は、まだ終わらない。



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