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聖血のロゼル  作者: チョコレートスターフィッシュ
第5章

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牙狼討伐。獅子の杯亭。

 翌朝。

 レイは宿屋の主人が用意した硬いパンをかじりながら、壁に貼られた依頼書の写しを眺めていた。

 昨日のゴブリン討伐で得た報酬は、想定より少なかった。

 追加報酬が出る可能性はあるが、当てにはできない。装備の消耗も考えれば、手元に残る金は心許なかった。

「……もう少し割のいい仕事はねえのか…」

 パンを食べ終え、レイは席を立った。

 今日も冒険者ギルドへ向かう。

     

 ギルドに着くと、レイは真っ先に依頼掲示板へ向かった。

 目当ては討伐依頼。できれば日帰りで済み、報酬が確実なものがいい。

 いくつかの依頼書を読み比べていると、一枚の紙が目に留まった。

 ――街道沿いの森林に出没する牙狼の討伐。

 被害を受けたのは、グランゼルと近隣の村を結ぶ南西の街道だった。荷車が襲われ、積み荷が荒らされている。今のところ死者は出ていないものの、商人たちが通行を避け始めているという。

 報酬は銀貨二十五枚。

 悪くない。

 レイは依頼書を剥がし、受付へ向かった。

「これを受ける」

「牙狼の討伐ですね。目撃情報によると、群れは五頭から七頭ほどとのことです」

「目撃情報ってのは、いつの話だ?」

「三日前です。襲われた商人の方が報告してくださいました」

「その商人は無事だったのか?」

「荷車を捨てて逃げたそうです。怪我は負いましたが、命に別状はありません」

 レイは依頼書をカウンターに置いたまま、少し考えた。

 三日前の情報。

 群れの規模も正確とは限らない。

「牙狼の巣は見つかってないんだな?」

「はい。襲撃された場所はわかっていますが、巣の位置までは特定できていません」

「わかった。受ける」

 受付嬢が手続きを進める。

「群れが想定より多い場合は、無理をせず撤退してください。討伐数が増えた場合は、追加報酬を申請できます」

「覚えておくよ」

 依頼書を受け取ったレイは、ギルドを出た。

 出発前に、道具屋で矢を数本補充する。牙狼相手にボウガンを主力として使うつもりはないが、戦闘を始める前に数を減らせるなら、そのほうがいい。

 ついでに、傷薬と包帯の残りも確認した。

 準備に金をかけすぎれば、稼ぎが減る。

 かといって、必要なものを惜しめば、命を落とす。

 冒険者という仕事は、その釣り合いを間違えないことが何より重要だった。

     

 街を出てから一時間ほど。

 レイは南西の林道に到着した。

 街道から少し外れた場所に、荷車の車輪が通った跡が残っている。その脇には、折れた木の枝と、何かを引きずったような痕跡があった。

 レイはしゃがみ込み、地面を調べた。

 土は乾いているが、窪みに残った泥はまだ柔らかい。

 足跡は複数。

 四本脚の獣が、街道から森へ向かっている。

「……こっちか」

 レイは足跡を追った。

 しばらく進むと、木の幹に深い爪痕が残っていた。

 その下には、灰色の毛が引っかかっている。

 牙狼のものだ。

 レイは毛を拾い、指先で軽くこすった。

 それから周囲を見回す。

 鳥の鳴き声がしない。

 風は吹いているのに、森の奥だけ妙に静かだった。

 魔物が近くにいるのかもしれない。

 レイはボウガンを手に取り、矢を装填した。

 そのまま慎重に進んでいくと、木々の向こうに崩れかけた小屋が見えた。

 かつては林道を通る人間が休憩に使っていたのだろう。屋根の半分は落ち、壁には蔦が絡んでいる。

 その周囲を、灰色の獣が歩き回っていた。

 一頭。

 二頭。

 三頭。

 レイは木陰に身を隠し、数を数えた。

 小屋の前に六頭。

 奥の茂みに二頭。

 さらに、小屋の裏から大きな個体が姿を現した。

「……九頭かよ」

 依頼書の情報を大きく上回っていた。

 しかも、群れの長らしき個体は、ほかの牙狼よりも一回り大きい。首筋の毛が逆立ち、口元から覗く牙も太い。

 正面から突っ込むのは得策ではない。

 九頭を相手に、囲まれずに戦い続けるのは難しい。まして、あの大きな個体までいる。

 レイは周囲の地形を確認した。

 小屋の西側には斜面があり、東側には倒木が折り重なっている。北側は木々が密集し、南側は林道へ続いていた。

 退路は確保できる。

 問題は、どうやって群れを分断するかだ。

 レイはボウガンを構えた。

 狙うのは、群れの外れにいる一頭。

 引き金を引く。

 矢が飛び、牙狼の肩に突き刺さった。

 獣が吠えた。

 残りの牙狼が一斉に顔を上げる。

 レイはすぐに走り出した。

 背後から複数の足音が追ってくる。

 狙いどおりだった。

 ただし、すべての牙狼が追ってきたわけではない。小屋の周辺に残った個体もいる。

 それでいい。

 全頭を相手にする必要はない。まずは追ってきた群れを減らす。

 レイは倒木が重なった場所へ走り込み、隙間を抜けた。

 直後、牙狼が飛びかかってくる。

 レイは身を横にずらし、牙を避けた。

 すれ違いざまに剣を振るう。

 刃が獣の脇腹を裂いた。

 牙狼が地面に転がる。

 間髪入れず、二頭目が迫った。

 レイは剣を振り回さず、柄で鼻先を殴りつける。怯んだ獣の横を抜け、倒木の向こうへ移動した。

 牙狼たちは狭い隙間に詰まり、互いに進路を塞いでいる。

「そら…こいよ…」

 レイは剣を構え直した。

 一頭が低く唸り、地面を蹴る。

 レイは一歩引いて突進をかわし、横を通り過ぎる瞬間に前脚を斬った。

 体勢を崩した牙狼が倒れる。

 その背後から、別の一頭が飛び込んできた。

 レイは倒木に片足をかけ、身体をひねって攻撃を避ける。着地と同時に剣を返し、獣の首元を切り裂いた。

 深追いはしない。

 一撃で仕留められなければ、距離を取る。

 相手の動きを見て、次の攻撃に備える。

 それを繰り返す。

 やがて、追ってきた牙狼たちの勢いが鈍った。

 仲間が次々に倒れたことで、残った個体が警戒し始めたのだ。

 レイはその隙に倒木を抜け、森の開けた場所へ移動した。

 牙狼たちはすぐには追ってこない。

「……よし」

 レイは息を整えながら、残りの数を確認した。

 倒したのは四頭。

 逃げた個体はいない。

 少なくとも、今のところは。

 レイは剣についた血を振り払い、刃を布で拭った。

 問題は、まだ小屋の周辺に牙狼が残っていることだ。

 群れの長も、そこにいる。

 だが、追ってきた個体を相手にしたことで、相手の動きはある程度わかった。

 連携はするが、統率はそれほど強くない。

 群れの長が近くにいるときは動きが揃うが、離れると個々の判断で襲いかかってくる。

 ならば、残りも同じように対処できる。

 レイはボウガンを回収し、矢を装填し直した。

 次は、群れの長を小屋から引き離す。

 そのために、レイはわざと足音を立てながら、小屋の側面へ回り込んだ。

 すぐに牙狼が気づき、吠え声を上げる。

 群れの長が顔を向けた。

 黄金色の瞳と、獣の目が合う。

「来いよ」

 レイは小さく呟き、ボウガンを構えた。

 矢が群れの長の前脚をかすめる。

 傷は浅い。

 だが、挑発としては十分だった。

 群れの長が吠え、地面を蹴った。

 ほかの牙狼も後に続く。

 レイは斜面へ向かって走った。

 登り切る直前で身を翻し、迫ってきた先頭の牙狼をかわす。獣が勢い余って斜面を滑り落ちる。

 続く二頭も、足場の悪さに動きを鈍らせた。

 その瞬間、レイは駆け下りた。

 先頭の牙狼の横を抜けざまに斬りつけ、返す刃で二頭目を牽制する。

 群れの長が吠えた。

 その巨体が、ほかの牙狼を押しのけるように前へ出てくる。

 速い。

 レイは咄嗟に横へ跳んだ。

 牙狼の突進が、すぐ脇を通り過ぎる。

 その爪が革鎧をかすめ、脇腹に熱い痛みが走った。

「っ……!」

 浅い傷だ。

 だが、まともに食らえば危なかった。

 レイは距離を取り、呼吸を整えた。

 群れの長は、こちらの動きを見ている。

 ただ突っ込んでくるだけではない。こちらが避けた方向へ、次の攻撃をつなげようとしている。

 厄介な相手だった。

 レイは剣を握り直す。

 力比べをするつもりはない。

 相手の攻撃を受け止めれば、こちらの腕が持っていかれる。防御するにしても、剣だけでは足りない。

 ならば、攻撃を誘う。

 群れの長が再び地面を蹴った。

 今度は避ける方向を変えず、レイは最後まで相手の動きを見極めた。

 牙が迫る。

 直前で身体を沈め、突進の下をくぐるように横へ抜けた。

 そして、すれ違いざまに剣を振るう。

 刃が後脚を深く切り裂いた。

 巨体がよろめく。

 レイはすぐに距離を取った。

 追撃はしない。

 群れの長が痛みに吠えた。

 残った牙狼たちが、怯んだように動きを止める。

 レイはその一瞬を見逃さなかった。

 近くの倒木を回り込み、群れの長とほかの個体の間に距離を作る。

 孤立した牙狼から順に、確実に仕留めていった。

 最後に残ったのは、群れの長だった。

 後脚を負傷しながらも、牙狼はまだ立っていた。

 低く唸り、レイを睨みつける。

「……しぶといな」

 レイは剣を構えた。

 牙狼が飛びかかる。

 今度は突進ではなく、間合いを詰めてから首元へ噛みつこうとしてきた。

 レイは半歩下がり、剣の柄で顎を押し上げる。

 牙が空を噛んだ。

 その隙に、レイは懐へ踏み込んだ。

 剣が走る。

 刃が首元を深く切り裂き、牙狼の巨体が崩れ落ちた。

 森に静寂が戻る。

 レイはしばらく剣を構えたまま、周囲の気配を探った。

 ほかに魔物の姿はない。

 やがて、ゆっくりと剣を下ろした。

「……終わったか」

 革鎧には爪痕が残り、脇腹には浅い傷ができていた。

 大した怪我ではない。

 だが、装備の修繕費を考えると、少し気が重かった。

「こりゃ追加報酬が出なきゃ、赤字だな……」

 レイは血を拭った剣を鞘に収め、ボウガンの状態を確認した。

 それから、討伐の証拠となる魔石を回収し、街へ戻る準備を始めた。

     


 グランゼルへ戻った頃には、日が傾き始めていた。

 レイは冒険者ギルドの受付へ向かい、討伐の報告を済ませた。

「九頭……ですか?」

 受付嬢が報告書を見て、驚いたように顔を上げた。

「ああ。依頼書の情報より多かった。群れの長もいた」

「それは危険でしたね……。お怪我はありませんか?」

「かすり傷だ。問題ない」

「すぐに依頼主へ確認します。追加報酬についても申請しておきますね」

「頼む」

 レイは魔石と証拠品をカウンターへ置いた。

 受付嬢が手続きを進める間、レイは腕の傷を軽く押さえた。

 痛みはあるが、動きに支障はない。

 今日の仕事は終わった。

 報酬が増えるかどうかは、ギルドと依頼主の判断次第だ。

 レイは提示された基本報酬を受け取り、硬貨を革袋へしまった。

「お疲れさまでした、レイさん」

「どうも」

 短く返し、受付から離れる。

 依頼を受け、現場を調べ、想定外の状況に対応し、無事に帰還する。

 冒険者として、特別なことをしたつもりはない。

 生きて帰るために必要なことを、必要な順番でやっただけだ。

 それができない者から、森や迷宮に飲み込まれていく。

「……さて。明日はどうするかね」

 レイがギルドの出口へ向かおうとした、そのときだった。

「よう、レイ」

 聞き覚えのある声に、足が止まる。

 振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。

 頑丈な鎧に、腰の幅広い剣。

 スマルグだった。

「また会ったな」

「……今度は何だ、スマルグ」

 レイは警戒を隠さずに尋ねた。

 スマルグは、いつもの人懐こそうな笑みを浮かべた。

 だが、前回のように軽い調子で肩を組もうとはしなかった。

「少し、話をさせてくれないか」

「話なら前に聞いた。廃坑の件だろ」

「ああ。だが、前に話した内容じゃ、お前が乗らないのも当然だと思ってな」

 スマルグは笑みを消した。

「今度は、もう少し詳しく話す。報酬も含めてだ」

 レイはすぐには答えなかった。

 前回、スマルグは必要な情報をほとんど明かさなかった。

 その男が、わざわざ説明し直しに来た。

 何か事情が変わったのか。

 それとも、最初から隠していたことを話す気になったのか。

 どちらにしても、聞くだけなら損はない。

「……話だけなら聞いてやる」

 レイは空いている席を顎で示した。

「ただし、くだらない話だったら帰るぞ」

「わかってる」

 スマルグは頷き、レイの向かい側に腰を下ろした。

 その表情から、いつもの軽薄さが薄れていた。

「実はな。あの廃坑の奥には、普通の採掘場とは違う場所があるんだ」

 レイは目を細めた。

「……どういう意味だ?」

「廃坑の地下に、天然の洞窟か何かが広がっている。そこまでは知ってるか?」

「いや」

「数年前、鉱夫が掘削中に見つけたらしい。だが、奥へ進むにつれて魔物が増え、採掘どころじゃなくなった。結局、坑道は封鎖された」

「その場所に、今は魔物が巣食ってるってことか」

「そういうことだ」

 スマルグは声を落とした。

「その奥で、珍しい魔石が見つかったという話がある。普通の鉱石じゃない。迷宮で採れる魔石に近い性質を持っているらしい」

 レイは腕を組んだ。

「誰が見つけた?」

「元鉱夫だ。今は街で暮らしてる。本人が持ち帰ったものを見た奴もいる」

「そいつは、どこまで入った?」

「入口に近い場所までだ。奥へ進んだ連中は、戻ってこなかった」

「……それで、お前たちは何をするつもりだ?」

 スマルグは一瞬だけ口を閉じた。

 そのわずかな間を、レイは見逃さなかった。

「奥まで進んで、魔石を回収する。それが目的だ」

「それだけか?」

「少なくとも、俺たちの目的はな。」

 含みのある言い方だった。

 レイは椅子の背に体を預け、男を見据えた。

「人数は?」

「俺を含めて4人。前衛が二人、後衛が一人だ」

「お前が前衛だろ。もう一人は?」

「盾役だ。後衛は弓と少しだが、魔法を使う」

「それで足りないのか?」

「入口付近ならな。だが、奥へ進むとなると話が違う。狭い坑道で魔物に囲まれたら、数の優位がそのまま命取りになる」

 スマルグは両手を組んだ。

「俺たちは、そこまでの探索を想定していなかった。だが、鉱夫の情報が入ってから事情が変わった。奥まで行く価値がある」

「だから俺を誘う、と」

「ああ」

「……俺じゃなくてもいいだろ」

「いや、お前がいい」

 即答だった。

 スマルグはレイの目をまっすぐに見た。

「以前、一緒に依頼を受けたときのことは覚えてる。あのとき、お前は崩れかけた坑道から全員を連れ出した。俺たちが気づかなかった亀裂を見つけて、魔物が来る前に退路を確保しただろ」

「……よく覚えてるな」

「命に関わることだからな」

 スマルグの言葉はもっともだった。

 確かに、以前の依頼でレイは崩落の兆候を見つけ、仲間を退避させたことがある。

 戦闘力だけではない。

 危険を察知し、状況を判断し、無駄な戦いを避ける。

 そうした能力も、レイの強みだった。

「報酬は?」

「基本報酬に加えて、回収した魔石の売却益を分配する。お前には五分の一を渡す」

「四人と俺で五人。均等割りか」

「そうだ」

「俺が一番危険な役を引き受けることになった場合は?」

「そのときは別途、危険手当を出す」

 レイは黙ってスマルグを見た。

 話は具体的になった。

 少なくとも、前回のような曖昧な誘いではない。

 だが、条件が整ったからといって、相手を信用できるわけではなかった。

「……まだ聞きたいことがある」

「何でも聞いてくれ」

「坑道の地図はあるのか?」

「古いものならな。魔物が住み着いてから、内部がどう変わったかはわからない」

「撤退の条件は?」

「誰かが重傷を負った場合、あるいは想定以上の魔物が現れた場合は撤退する」

「その判断は誰がする?」

「全員で相談する」

「……そうか」

 レイは目を伏せた。

 悪くない答えだ。

 少なくとも、依頼として成立するだけの情報は揃っている。

 それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。

 スマルグは、なぜそこまでして自分を誘うのか。

 以前からレイの実力を評価していたとしても、他に候補がいないとは限らない。

 それに、魔石の話にも不明な点が多すぎる。

「……俺は、お前を信用してるわけじゃないぞ」

「わかってる」

 スマルグは苦笑した。

「だから、こうして説明しに来たんだ。お前が納得できない仕事を無理に受けさせるつもりはない」

「口だけなら何とでも言える」

「それもそうだな」

 男は反論しなかった。

 そして、少しだけ頭を下げた。

「頼む、レイ。俺たちだけじゃ、奥までたどり着けない。お前の力を貸してほしい」

 その声には、先ほどまでの余裕がなかった。

 レイはしばらく黙っていた。

 報酬は悪くない。

 危険も、話を聞く限りでは対処不能というほどではない。

 そして何より、廃坑の奥に何があるのか、少し興味が湧いていた。

 もちろん、好奇心だけで命を賭けるつもりはない。

 必要な準備を整え、条件を決め、少しでも危険を減らしてから向かう。

 それがレイのやり方だった。

「……わかった。協力してやる」

 スマルグの表情が明るくなる。

「本当か?」

「ただし、条件がある。出発前に地図を見せろ。依頼書と契約内容も確認する。話が違うと判断したら、その場で抜ける」

「ああ、構わない」

「それと、俺の判断を無視して勝手に奥へ進むな。全員の命に関わる」

「約束する」

「なら、明日までに必要なものを揃えておけ。出発前にもう一度、詳しい話を聞く」

 レイは立ち上がった。

「……言っておくが、俺はお前の仲間になったわけじゃない。仕事を一緒にするだけだ」

「それで十分だ」

 スマルグも立ち上がり、手を差し出した。

 レイはその手を一瞥したが、握り返さなかった。

「じゃあな」

 それだけ言って、ギルドを出る。

 背中にスマルグの視線を感じたが、振り返らなかった。

 仕事は決まった。

 あとは、準備を整えて出発するだけだ。

 レイは夕暮れの街路を歩きながら、明日の予定を頭の中で組み立てていた。

 地図の確認。消耗品の補充。予備の矢と薬品。それから、廃坑について知っている人間を探す。

 スマルグの話だけでは、まだ足りない。

 自分の目と耳で確かめられることは、確かめておく。

 それが、レイがこれまで生き残ってきた理由の一つだった。

 ――このときのレイは、まだ知らない。

 自分がどれだけ慎重に準備を重ねても、同行する人間の思惑までは、装備のように点検できないということを。




スマルグと別れたレイは、

再び受付カウンターへと向かった。

依頼の報告自体は、すでに済ませている。

今回の牙狼討伐は、事前に聞いていた規模を大きく上回るものだった。群れの数が多かっただけでなく、通常よりもひと回り大きな個体まで混じっていたのだ。

その分の追加報酬が認められるかどうか。

今は、その確認待ちだった。

「お待たせしました、レイさん」

帳簿を確認していた受付嬢が顔を上げた。

「今回の討伐について、追加報酬が認められました」

「よかった、追加はでないかと思っていたよ」

思わず声が少し弾んだ。

受付嬢は小さく微笑み、カウンターの上に銀貨を並べ始める。

「当初の想定を上回る討伐数に加えて、大型個体の討伐も確認されています。通常の追加報酬に、危険度の上昇分を加算する形になりました」

「へえ。思ったより融通が利いてよかった。」

「もちろん、討伐の状況や証拠の確認は必要ですけれど。今回は報告内容にも問題がありませんでしたから」

「そいつは助かる」

レイは差し出された報酬を受け取り、銀貨の枚数を確かめた。

当初の見込みよりも、かなり多い。

これなら、予定していた物資の補充を済ませても余裕が残るだろう。

「ありがとうございます。またよろしくお願いしますね」

「ああ。次もいい仕事があれば頼むよ」

受付嬢に軽く手を振り、レイはカウンターを離れた。


ギルドの出入口へ向かいながら、腰の革袋を指先で弾く。

チャリ、と小気味よい音がした。

レイの口元が、自然と緩む。

まずはクロスボウの矢を補充。長剣の手入れに使う油も買っておきたい。革鎧の留め具も、そろそろ点検しておくべきだろう。

携帯食料も残りが少ない。干し肉と堅焼きパンを買い足して、宿代を確保する。

頭の中で必要な出費を差し引いていく。

――悪くない。

いや、むしろ上出来だ。

必要なものを一通り揃えても、数日は懐を気にせず過ごせそうだった。

レイは革袋を握り直した。

「これなら……今夜の食事は少し豪勢でもいいな」

ここ数日は、安いスープや硬いパンで済ませることが多かった。

冒険者という仕事柄、金を無計画に使うわけにはいかない。いつ装備が壊れるかもわからないし、急な出費だってある。

それでも、稼いだ金を使う楽しみくらいはあっていい。

今夜は焼きたての肉に、エールでもつけよう。

そう決めると、レイは機嫌よくギルドを後にした。

革袋が歩調に合わせて揺れ、中の銀貨がチャリチャリと鳴る。

いつもなら気にも留めない音が、今夜は妙に心地よかった。

レイは大通りを抜け、酒場が軒を連ねる一角へと向かう。

目当ての店は、その通りの角にあった。

木造の建物の正面には、獅子が酒杯を掲げた看板がぶら下がっている。

『獅子の杯』。

冒険者たちがよく利用する酒場で、料理の量が多く、値段も良心的だと評判の店だった。

「よし、今日はここだな」

レイは扉を押し開けた。

途端に、酒場の熱気が全身を包み込む。

肉や魚の焼ける香ばしい匂い。エールの樽から漂う麦の香り。カウンターの奥からほのかに流れてくる、葡萄酒の甘い匂い。

そこへ冒険者たちの笑い声や、酒杯のぶつかる音が重なっていた。

「……いい匂いだ」ぬ

空腹を刺激され、レイは思わず腹をさすった。

店内を見回すと、壁際にちょうど空いている席がある。

レイはそこへ向かい、椅子を引いて腰を下ろした。

「さて、と。何を食うかな」

壁に掛けられた黒板には、本日の料理が並んでいる。

香草焼きの猪肉。川魚の炭火焼き。豆と根菜の煮込み。そして、店自慢の厚切り肉の鉄板焼き。

どれも普段なら少し迷う値段だが、今夜は懐に余裕がある。

レイは黄金色の瞳を細め、料理の名前を眺めた。

久しぶりに、ゆっくり食事を楽しめそうだった。


 レイが黒板の料理を眺めていると、店内を忙しなく動き回る給仕の姿が目に入った。

 木製の盆を片手に、料理の皿を次々とテーブルへ運んでいく。

 別の席では空になった酒杯を回収し、カウンターの前では新たな注文を聞き取っていた。

 なかなか手際がいい。

 健康的に日焼けした肌に、赤みがかった茶色の髪。仕事の邪魔にならないよう、髪は後ろでひとつに束ねられている。

 鼻の周りには、薄いそばかすが散っていた。

 際立った美人というわけではない。

 だが、よく動く表情には愛嬌があり、笑うと少し幼く見える顔立ちだった。

 彼女は別の客にエールを届けたあと、ふと店内を見回した。

 そして、壁際の席に座るレイに気づく。

「いらっしゃいませ!」

 にこりと笑顔を向け、彼女は手にした盆を脇に抱えながら近づいてきた。

 その笑顔は、客商売らしい明るい営業スマイルだった。

「ご注文はお決まりですか?」

「ああ。厚切り肉の鉄板焼きを頼む。飲み物はエールで」

「はい! 鉄板焼きとエールですね」

 彼女は手元の伝票に注文を書き込んだ。

 レイはそんな彼女の様子を眺めながら、もう一度、壁の黒板へ視線を向ける。

「ところで、今日のおすすめは他にはないかい?」

 穏やかな口調で尋ねる。

 威圧するでもなく、馴れ馴れしくするでもない。

 ただ、目の前の相手に興味を持って尋ねるような、自然な聞き方だった。

「今日のおすすめですか?」

 彼女は少し考えるように首を傾げた。

「そうですね……お肉もいいですけど、今日は川魚の香草焼きも評判がいいですよ。朝、市場から仕入れたばかりの魚を使っているんです。あと、豆と根菜の煮込みも、いつもよりおいしくできたって料理長が言ってました」

「へえ。そいつは気になるな」

「ふふっ。煮込みは私も味見しましたけど、おいしかったですよ」

 言ってから、彼女は少しだけ目を丸くした。

「あっ、もちろん、お客さんにもおすすめできる味ですからね!」

「ははっ、わかってるよ」

 レイは楽しそうに笑った。

「じゃあ、煮込みもひとつ頼もうかな」

「ありがとうございます! すぐにお持ちしますね」

 彼女は伝票にもう一品を書き足すと、軽く頭を下げた。

 そして、次の客に呼ばれる前に厨房へ向かおうとする。

 その働きぶりを見送りながら、レイは頬杖をついた。

 追加報酬のおかげで、今夜は懐に余裕がある。

 料理も楽しみだが、こうして気持ちよく接客されるのも悪くない。

 レイはテーブルに肘をつき、運ばれてくる料理を待つことにした。


 しばらくすると、先ほどの給仕がエールの入ったジョッキを運んできた。

「お待たせしました。エールです!」

「ああ、ありがとう」

 レイは差し出されたジョッキを受け取り、軽く掲げてみせた。

 泡立つ琥珀色の液体から、麦の香りがふわりと漂う。

 一口飲むと、冷えたエールが喉を通り抜けた。

「……うん。うまいな」

 思わず漏れた言葉に、給仕の女性が嬉しそうに笑う。

「よかったです! うちはエールにもこだわってるんですよ」

「そうなのか。道理でうまいわけだ」

 レイはジョッキをテーブルに置き、彼女を見上げた。

「ところで、君はこの店で長いのかい?」

「えっ? ああ、いえ。ずっと働いてるわけじゃないんです」

 彼女は盆を片手に持ち直し、少し考えてから答えた。

「実家が農家なんですけど、この時期は畑の仕事が比較的少なくて。それで、手が空いている間だけ、ここで働かせてもらってるんです」

「へえ、農家の娘さんか」

「はい。家の手伝いもありますし、ずっとこっちにいるわけじゃないんですけどね」

「なるほどな。暇な時期だからって、わざわざ街に出て働くのか」

 レイは感心したように頷いた。

「真面目で偉いね」

「えっ……そ、そんな、大したことじゃないですよ」

 彼女は目を泳がせ、頬をほんのり赤くした。

「家にいても、やることがないだけですから」

「それでも、働いて金を稼ごうってんだ。立派なことだと思うけどな」

「……ありがとうございます」

 彼女は照れ臭そうに笑った。

 どうやら、こういうふうに素直に褒められることには慣れていないらしい。

 レイはジョッキを傾け、もう一口エールを飲んだ。

 それから、何気ない調子で尋ねる。

「そういえば、歳はいくつなんだい?」

「私ですか? 今年で二十歳になります」

「二十歳か」

 レイは改めて彼女の顔を眺めた。

近くで見ると、アンナは思っていたよりも幼い顔立ちをしていた。

くるくると変わる表情には不思議な愛嬌があり、見ているだけでこちらまで頬が緩みそうになる。


 ――可愛らしい子だな。


 レイは思わずそう思った。


「君みたく可愛らしい子なら、結構モテるんじゃないか?」

「も、もう! からかわないでください!」

彼女は盆を胸元に抱えるようにして、慌てて首を振った。

「からかってないさ。思ったことを言っただけだよ」

「そ、そういうのが、からかってるって言うんです!」

 言い返す声には勢いがあったものの、赤くなった頬までは隠せていない。

 レイは楽しそうに笑った。

「ははっ、悪かった。困らせるつもりはなかったんだ」

「……本当に、もう」

 彼女は恨めしそうにレイを見た。

 けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。

「それじゃあ、お料理を持ってきますから。少々お待ちくださいね」

「ああ、頼むよ」

 彼女はくるりと踵を返し、厨房へと向かっていった。

 その背中を見送りながら、レイは再びエールに口をつける。

 ――なかなか、いい子じゃないか。

 気取ったところがなく、褒めれば素直に照れる。

 それでいて、言うべきことはきちんと言い返してくる。

 レイはジョッキを置き、頬杖をついた。

 今夜は、思っていた以上に楽しい食事になりそうだった。


 しばらくして、アンナが料理を運んできた。

 鉄板の上では厚切りの肉が香ばしい音を立て、表面に浮いた脂が食欲をそそる。湯気の立つ豆と根菜の煮込みも、思っていた以上に量が多い。

 レイは目の前に並べられた料理を眺め、わずかに眉を上げた。

 ……あれ?

 注文したのは確かにこの二品だ。だが、肉は厚みがあり、煮込みも器いっぱいに盛られている。どちらも、メニューに書かれていた量より多いように見えた。

 気のせいだろうか。

 そんなことを考えていると、料理を置いたアンナが、少し得意げに笑った。

「お客さん、ハンサムだから少しサービスしました」

 レイは一瞬きょとんとしたあと、口元を緩めた。

「それは光栄だね。君のような可憐な女性に言われると、なおさら嬉しいよ」

 そう言って、優しくニコリと微笑む。

 普段のレイは、どこか鋭さを感じさせる顔つきをしている。引き締まった目元と、無駄のない立ち居振る舞い。冒険者として身につけた警戒心もあって、何もしていなくても近寄りがたい印象を与えることがあった。

 だが、こういうときの表情は違う。

 相手を警戒させない穏やかさと、ふとした瞬間に見せる優しさ。その笑顔には、男女を問わず人を惹きつける不思議な魅力があった。

 アンナも例外ではなかった。

「……っ」

 目が合った瞬間、胸が小さく跳ねる。

 自分からハンサムだと言ったくせに、いざ相手に微笑まれると、どうにも落ち着かない。

 アンナは誤魔化すように、お盆を胸元へ引き寄せた。

「そ、そんな……大げさですよ」

「そうかな。俺は素直にそう思ったんだけど」

 レイは楽しそうに笑った。

 からかっているようにも見える。けれど、言葉の端々に嫌味がないせいか、不思議と不快にはならなかった。

 むしろ、もっと話していたいと思わせる。

「ところで、僕はレイと言うんだ。君の名前も……聞いてもいいかな?」

 レイが尋ねると、アンナは一瞬だけ目を泳がせた。

 それから、お盆で顔の半分を隠す。

 どうやら、恥ずかしくなったらしい。

「わ、私はアンナといいます……」

「アンナか」

 レイはその名を確かめるように、ゆっくりと口にした。

「レイさんって言うんですね。素敵な名前」

「ありがとう。君の名前もね。明るい君にぴったりな名だ」

「も、もう……!」

 アンナはお盆の陰で頬を赤くした。

 けれど、先ほどのように否定することはなかった。

 レイはそんな彼女を見て、ふっと目を細める。

 気取ったところがなく、褒められると素直に照れる。それでいて、料理のサービスをするくらいには自分の気持ちに正直だ。

 ――なかなか、気が合いそうじゃないか。

 そう思ったレイは、椅子に座ったまま、右手をすっと差し出した。

「よろしく、アンナ」

 突然差し出された手に、アンナは一瞬戸惑った。

 握手を求められているのだと気づくと、彼女はお盆を片手に持ち直し、もう片方の手を伸ばした。

「……はい。よろしくお願いします、レイさん」

 小さく笑いながら、二人の手が重なる。

 レイの手は、冒険者にしては驚くほど綺麗だった。

 剣を握り、幾度も命懸けの戦いを潜り抜けてきた手。それなのに、目立った傷や荒れは少なく、指はすらりと長い。

 触れた指先は、少しひんやりとしていた。

「……」

 アンナは、思わずその手を意識してしまう。

 ほんの一瞬の握手にすぎない。

 それでも、触れた指先の感触が妙にはっきりと残っていた。

 レイはそんなアンナの心中を知ってか知らずか、穏やかな笑みを浮かべたまま手を離す。

「料理、ありがとう。ゆっくり味わわせてもらうよ」

「は、はい! ごゆっくりどうぞ!」

 アンナは少し早口でそう答えると、逃げるように厨房へと戻っていった。

 その背中を見送りながら、レイは小さく笑う。

 さて。

 せっかくのサービスだ。冷めないうちにいただくとしよう。

 そう考えてナイフを手に取ったレイは、香ばしく焼き上がった肉へと刃を入れた。


 レイは料理を堪能していた。

 厚切り肉は表面が香ばしく焼かれ、中は柔らかい。噛むたびに肉汁が広がり、ほどよく効いた香草が食欲を刺激する。豆と根菜の煮込みも、素朴ながらしっかりとした味わいで、酒の肴にもよく合った。

 思いがけず、いい店を見つけたものだ。

 そんなことを考えながら食べ進めていると、ふと、手元のエールが空になっていることに気づいた。

 おかわりを頼もうか。

 レイが顔を上げ、店内を見回そうとした、そのときだった。

 スタスタと、見覚えのある給仕がこちらへ近づいてくる。

「エールのおかわり、どうですか?」

 アンナは空になった器を回収すると、手に持っていたジョッキをテーブルに置いた。

 中には、よく冷えたエールがたっぷりと注がれている。表面には細かな泡が浮かび、器の外側には冷たさを示す水滴がついていた。

「そろそろ、おかわりが必要かと思って」

 アンナは何でもないことのように言った。

 レイは新しいジョッキと彼女の顔を交互に見て、口元を緩める。

「さすがは看板娘。気が利くね。ありがとう」

「そ、そんなことないですよ」

 そう言いながらも、アンナの表情はどこか嬉しそうだった。

 足取りも心なしか軽い。

 そのまま厨房へ戻っていく彼女の背中を見送り、レイはジョッキを持ち上げた。

 一口飲むと、冷えたエールが喉を通っていく。

「……うまい」

 レイは満足げに息をつき、再び料理へと向き直った。

 肉を切り分け、煮込みを口に運び、時折エールを飲む。

 実にいい夕食だった。

 ただ、一つだけ気になることがある。

 ――さっきから、やけに視線を感じるな。

 レイは気づいていた。

 アンナが仕事の合間に、ちらり、ちらりとこちらを見ていることに。

 目が合いそうになると、彼女は慌てて別の客へと向き直る。だが、しばらくすると、またこちらを窺っているのだ。

 別に、悪い気はしない。

 むしろ、微笑ましいとすら思う。

 とはいえ、ここでいちいち反応していては、彼女も仕事がしづらいだろう。

 レイは気づかないふりをして、食事を続けた。

 ところが――。

 アンナはすっかり油断していた。

 注文を取り、料理を運び、空いた皿を回収する。忙しく立ち働きながらも、彼女の視線はいつの間にか、壁際の席に座る黒髪の冒険者へと向かっていた。

 整った顔立ち。

 すらりとした指先。

 料理を食べるときの穏やかな表情。

 そして、時折見せる、あの優しい笑顔。

 気がつけば、アンナは仕事の手を止めかけるほど、じっとレイを見つめていた。

 ――あんなに綺麗な人、初めて見たかも……。

 その瞬間。

 レイが、ふいに顔を上げた。

 そして、アンナの視線を捉えると――。

 ニコリ。

 優しく微笑み、ひらひらと手を振った。

 黄金色の瞳が、まっすぐにアンナを見つめている。

「――っ!」

 目が合った。

 アンナは一瞬、固まった。

 まさか見られているとは思っていなかったのだろう。

 慌てて視線を逸らし、手元のお盆に目を落とす。

 だが、もう遅い。

 頬がみるみる赤く染まっていくのが、離れた席からでもはっきりとわかった。

 レイは何事もなかったかのように手を下ろし、再びエールを口に運ぶ。

 その口元には、かすかな笑みが残っていた。

 ――まったく。わかりやすい子だ。

 そんなことを思いながら、レイは冷えたエールをもう一口飲んだ。



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