牙狼討伐。獅子の杯亭。
翌朝。
レイは宿屋の主人が用意した硬いパンをかじりながら、壁に貼られた依頼書の写しを眺めていた。
昨日のゴブリン討伐で得た報酬は、想定より少なかった。
追加報酬が出る可能性はあるが、当てにはできない。装備の消耗も考えれば、手元に残る金は心許なかった。
「……もう少し割のいい仕事はねえのか…」
パンを食べ終え、レイは席を立った。
今日も冒険者ギルドへ向かう。
ギルドに着くと、レイは真っ先に依頼掲示板へ向かった。
目当ては討伐依頼。できれば日帰りで済み、報酬が確実なものがいい。
いくつかの依頼書を読み比べていると、一枚の紙が目に留まった。
――街道沿いの森林に出没する牙狼の討伐。
被害を受けたのは、グランゼルと近隣の村を結ぶ南西の街道だった。荷車が襲われ、積み荷が荒らされている。今のところ死者は出ていないものの、商人たちが通行を避け始めているという。
報酬は銀貨二十五枚。
悪くない。
レイは依頼書を剥がし、受付へ向かった。
「これを受ける」
「牙狼の討伐ですね。目撃情報によると、群れは五頭から七頭ほどとのことです」
「目撃情報ってのは、いつの話だ?」
「三日前です。襲われた商人の方が報告してくださいました」
「その商人は無事だったのか?」
「荷車を捨てて逃げたそうです。怪我は負いましたが、命に別状はありません」
レイは依頼書をカウンターに置いたまま、少し考えた。
三日前の情報。
群れの規模も正確とは限らない。
「牙狼の巣は見つかってないんだな?」
「はい。襲撃された場所はわかっていますが、巣の位置までは特定できていません」
「わかった。受ける」
受付嬢が手続きを進める。
「群れが想定より多い場合は、無理をせず撤退してください。討伐数が増えた場合は、追加報酬を申請できます」
「覚えておくよ」
依頼書を受け取ったレイは、ギルドを出た。
出発前に、道具屋で矢を数本補充する。牙狼相手にボウガンを主力として使うつもりはないが、戦闘を始める前に数を減らせるなら、そのほうがいい。
ついでに、傷薬と包帯の残りも確認した。
準備に金をかけすぎれば、稼ぎが減る。
かといって、必要なものを惜しめば、命を落とす。
冒険者という仕事は、その釣り合いを間違えないことが何より重要だった。
街を出てから一時間ほど。
レイは南西の林道に到着した。
街道から少し外れた場所に、荷車の車輪が通った跡が残っている。その脇には、折れた木の枝と、何かを引きずったような痕跡があった。
レイはしゃがみ込み、地面を調べた。
土は乾いているが、窪みに残った泥はまだ柔らかい。
足跡は複数。
四本脚の獣が、街道から森へ向かっている。
「……こっちか」
レイは足跡を追った。
しばらく進むと、木の幹に深い爪痕が残っていた。
その下には、灰色の毛が引っかかっている。
牙狼のものだ。
レイは毛を拾い、指先で軽くこすった。
それから周囲を見回す。
鳥の鳴き声がしない。
風は吹いているのに、森の奥だけ妙に静かだった。
魔物が近くにいるのかもしれない。
レイはボウガンを手に取り、矢を装填した。
そのまま慎重に進んでいくと、木々の向こうに崩れかけた小屋が見えた。
かつては林道を通る人間が休憩に使っていたのだろう。屋根の半分は落ち、壁には蔦が絡んでいる。
その周囲を、灰色の獣が歩き回っていた。
一頭。
二頭。
三頭。
レイは木陰に身を隠し、数を数えた。
小屋の前に六頭。
奥の茂みに二頭。
さらに、小屋の裏から大きな個体が姿を現した。
「……九頭かよ」
依頼書の情報を大きく上回っていた。
しかも、群れの長らしき個体は、ほかの牙狼よりも一回り大きい。首筋の毛が逆立ち、口元から覗く牙も太い。
正面から突っ込むのは得策ではない。
九頭を相手に、囲まれずに戦い続けるのは難しい。まして、あの大きな個体までいる。
レイは周囲の地形を確認した。
小屋の西側には斜面があり、東側には倒木が折り重なっている。北側は木々が密集し、南側は林道へ続いていた。
退路は確保できる。
問題は、どうやって群れを分断するかだ。
レイはボウガンを構えた。
狙うのは、群れの外れにいる一頭。
引き金を引く。
矢が飛び、牙狼の肩に突き刺さった。
獣が吠えた。
残りの牙狼が一斉に顔を上げる。
レイはすぐに走り出した。
背後から複数の足音が追ってくる。
狙いどおりだった。
ただし、すべての牙狼が追ってきたわけではない。小屋の周辺に残った個体もいる。
それでいい。
全頭を相手にする必要はない。まずは追ってきた群れを減らす。
レイは倒木が重なった場所へ走り込み、隙間を抜けた。
直後、牙狼が飛びかかってくる。
レイは身を横にずらし、牙を避けた。
すれ違いざまに剣を振るう。
刃が獣の脇腹を裂いた。
牙狼が地面に転がる。
間髪入れず、二頭目が迫った。
レイは剣を振り回さず、柄で鼻先を殴りつける。怯んだ獣の横を抜け、倒木の向こうへ移動した。
牙狼たちは狭い隙間に詰まり、互いに進路を塞いでいる。
「そら…こいよ…」
レイは剣を構え直した。
一頭が低く唸り、地面を蹴る。
レイは一歩引いて突進をかわし、横を通り過ぎる瞬間に前脚を斬った。
体勢を崩した牙狼が倒れる。
その背後から、別の一頭が飛び込んできた。
レイは倒木に片足をかけ、身体をひねって攻撃を避ける。着地と同時に剣を返し、獣の首元を切り裂いた。
深追いはしない。
一撃で仕留められなければ、距離を取る。
相手の動きを見て、次の攻撃に備える。
それを繰り返す。
やがて、追ってきた牙狼たちの勢いが鈍った。
仲間が次々に倒れたことで、残った個体が警戒し始めたのだ。
レイはその隙に倒木を抜け、森の開けた場所へ移動した。
牙狼たちはすぐには追ってこない。
「……よし」
レイは息を整えながら、残りの数を確認した。
倒したのは四頭。
逃げた個体はいない。
少なくとも、今のところは。
レイは剣についた血を振り払い、刃を布で拭った。
問題は、まだ小屋の周辺に牙狼が残っていることだ。
群れの長も、そこにいる。
だが、追ってきた個体を相手にしたことで、相手の動きはある程度わかった。
連携はするが、統率はそれほど強くない。
群れの長が近くにいるときは動きが揃うが、離れると個々の判断で襲いかかってくる。
ならば、残りも同じように対処できる。
レイはボウガンを回収し、矢を装填し直した。
次は、群れの長を小屋から引き離す。
そのために、レイはわざと足音を立てながら、小屋の側面へ回り込んだ。
すぐに牙狼が気づき、吠え声を上げる。
群れの長が顔を向けた。
黄金色の瞳と、獣の目が合う。
「来いよ」
レイは小さく呟き、ボウガンを構えた。
矢が群れの長の前脚をかすめる。
傷は浅い。
だが、挑発としては十分だった。
群れの長が吠え、地面を蹴った。
ほかの牙狼も後に続く。
レイは斜面へ向かって走った。
登り切る直前で身を翻し、迫ってきた先頭の牙狼をかわす。獣が勢い余って斜面を滑り落ちる。
続く二頭も、足場の悪さに動きを鈍らせた。
その瞬間、レイは駆け下りた。
先頭の牙狼の横を抜けざまに斬りつけ、返す刃で二頭目を牽制する。
群れの長が吠えた。
その巨体が、ほかの牙狼を押しのけるように前へ出てくる。
速い。
レイは咄嗟に横へ跳んだ。
牙狼の突進が、すぐ脇を通り過ぎる。
その爪が革鎧をかすめ、脇腹に熱い痛みが走った。
「っ……!」
浅い傷だ。
だが、まともに食らえば危なかった。
レイは距離を取り、呼吸を整えた。
群れの長は、こちらの動きを見ている。
ただ突っ込んでくるだけではない。こちらが避けた方向へ、次の攻撃をつなげようとしている。
厄介な相手だった。
レイは剣を握り直す。
力比べをするつもりはない。
相手の攻撃を受け止めれば、こちらの腕が持っていかれる。防御するにしても、剣だけでは足りない。
ならば、攻撃を誘う。
群れの長が再び地面を蹴った。
今度は避ける方向を変えず、レイは最後まで相手の動きを見極めた。
牙が迫る。
直前で身体を沈め、突進の下をくぐるように横へ抜けた。
そして、すれ違いざまに剣を振るう。
刃が後脚を深く切り裂いた。
巨体がよろめく。
レイはすぐに距離を取った。
追撃はしない。
群れの長が痛みに吠えた。
残った牙狼たちが、怯んだように動きを止める。
レイはその一瞬を見逃さなかった。
近くの倒木を回り込み、群れの長とほかの個体の間に距離を作る。
孤立した牙狼から順に、確実に仕留めていった。
最後に残ったのは、群れの長だった。
後脚を負傷しながらも、牙狼はまだ立っていた。
低く唸り、レイを睨みつける。
「……しぶといな」
レイは剣を構えた。
牙狼が飛びかかる。
今度は突進ではなく、間合いを詰めてから首元へ噛みつこうとしてきた。
レイは半歩下がり、剣の柄で顎を押し上げる。
牙が空を噛んだ。
その隙に、レイは懐へ踏み込んだ。
剣が走る。
刃が首元を深く切り裂き、牙狼の巨体が崩れ落ちた。
森に静寂が戻る。
レイはしばらく剣を構えたまま、周囲の気配を探った。
ほかに魔物の姿はない。
やがて、ゆっくりと剣を下ろした。
「……終わったか」
革鎧には爪痕が残り、脇腹には浅い傷ができていた。
大した怪我ではない。
だが、装備の修繕費を考えると、少し気が重かった。
「こりゃ追加報酬が出なきゃ、赤字だな……」
レイは血を拭った剣を鞘に収め、ボウガンの状態を確認した。
それから、討伐の証拠となる魔石を回収し、街へ戻る準備を始めた。
グランゼルへ戻った頃には、日が傾き始めていた。
レイは冒険者ギルドの受付へ向かい、討伐の報告を済ませた。
「九頭……ですか?」
受付嬢が報告書を見て、驚いたように顔を上げた。
「ああ。依頼書の情報より多かった。群れの長もいた」
「それは危険でしたね……。お怪我はありませんか?」
「かすり傷だ。問題ない」
「すぐに依頼主へ確認します。追加報酬についても申請しておきますね」
「頼む」
レイは魔石と証拠品をカウンターへ置いた。
受付嬢が手続きを進める間、レイは腕の傷を軽く押さえた。
痛みはあるが、動きに支障はない。
今日の仕事は終わった。
報酬が増えるかどうかは、ギルドと依頼主の判断次第だ。
レイは提示された基本報酬を受け取り、硬貨を革袋へしまった。
「お疲れさまでした、レイさん」
「どうも」
短く返し、受付から離れる。
依頼を受け、現場を調べ、想定外の状況に対応し、無事に帰還する。
冒険者として、特別なことをしたつもりはない。
生きて帰るために必要なことを、必要な順番でやっただけだ。
それができない者から、森や迷宮に飲み込まれていく。
「……さて。明日はどうするかね」
レイがギルドの出口へ向かおうとした、そのときだった。
「よう、レイ」
聞き覚えのある声に、足が止まる。
振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。
頑丈な鎧に、腰の幅広い剣。
スマルグだった。
「また会ったな」
「……今度は何だ、スマルグ」
レイは警戒を隠さずに尋ねた。
スマルグは、いつもの人懐こそうな笑みを浮かべた。
だが、前回のように軽い調子で肩を組もうとはしなかった。
「少し、話をさせてくれないか」
「話なら前に聞いた。廃坑の件だろ」
「ああ。だが、前に話した内容じゃ、お前が乗らないのも当然だと思ってな」
スマルグは笑みを消した。
「今度は、もう少し詳しく話す。報酬も含めてだ」
レイはすぐには答えなかった。
前回、スマルグは必要な情報をほとんど明かさなかった。
その男が、わざわざ説明し直しに来た。
何か事情が変わったのか。
それとも、最初から隠していたことを話す気になったのか。
どちらにしても、聞くだけなら損はない。
「……話だけなら聞いてやる」
レイは空いている席を顎で示した。
「ただし、くだらない話だったら帰るぞ」
「わかってる」
スマルグは頷き、レイの向かい側に腰を下ろした。
その表情から、いつもの軽薄さが薄れていた。
「実はな。あの廃坑の奥には、普通の採掘場とは違う場所があるんだ」
レイは目を細めた。
「……どういう意味だ?」
「廃坑の地下に、天然の洞窟か何かが広がっている。そこまでは知ってるか?」
「いや」
「数年前、鉱夫が掘削中に見つけたらしい。だが、奥へ進むにつれて魔物が増え、採掘どころじゃなくなった。結局、坑道は封鎖された」
「その場所に、今は魔物が巣食ってるってことか」
「そういうことだ」
スマルグは声を落とした。
「その奥で、珍しい魔石が見つかったという話がある。普通の鉱石じゃない。迷宮で採れる魔石に近い性質を持っているらしい」
レイは腕を組んだ。
「誰が見つけた?」
「元鉱夫だ。今は街で暮らしてる。本人が持ち帰ったものを見た奴もいる」
「そいつは、どこまで入った?」
「入口に近い場所までだ。奥へ進んだ連中は、戻ってこなかった」
「……それで、お前たちは何をするつもりだ?」
スマルグは一瞬だけ口を閉じた。
そのわずかな間を、レイは見逃さなかった。
「奥まで進んで、魔石を回収する。それが目的だ」
「それだけか?」
「少なくとも、俺たちの目的はな。」
含みのある言い方だった。
レイは椅子の背に体を預け、男を見据えた。
「人数は?」
「俺を含めて4人。前衛が二人、後衛が一人だ」
「お前が前衛だろ。もう一人は?」
「盾役だ。後衛は弓と少しだが、魔法を使う」
「それで足りないのか?」
「入口付近ならな。だが、奥へ進むとなると話が違う。狭い坑道で魔物に囲まれたら、数の優位がそのまま命取りになる」
スマルグは両手を組んだ。
「俺たちは、そこまでの探索を想定していなかった。だが、鉱夫の情報が入ってから事情が変わった。奥まで行く価値がある」
「だから俺を誘う、と」
「ああ」
「……俺じゃなくてもいいだろ」
「いや、お前がいい」
即答だった。
スマルグはレイの目をまっすぐに見た。
「以前、一緒に依頼を受けたときのことは覚えてる。あのとき、お前は崩れかけた坑道から全員を連れ出した。俺たちが気づかなかった亀裂を見つけて、魔物が来る前に退路を確保しただろ」
「……よく覚えてるな」
「命に関わることだからな」
スマルグの言葉はもっともだった。
確かに、以前の依頼でレイは崩落の兆候を見つけ、仲間を退避させたことがある。
戦闘力だけではない。
危険を察知し、状況を判断し、無駄な戦いを避ける。
そうした能力も、レイの強みだった。
「報酬は?」
「基本報酬に加えて、回収した魔石の売却益を分配する。お前には五分の一を渡す」
「四人と俺で五人。均等割りか」
「そうだ」
「俺が一番危険な役を引き受けることになった場合は?」
「そのときは別途、危険手当を出す」
レイは黙ってスマルグを見た。
話は具体的になった。
少なくとも、前回のような曖昧な誘いではない。
だが、条件が整ったからといって、相手を信用できるわけではなかった。
「……まだ聞きたいことがある」
「何でも聞いてくれ」
「坑道の地図はあるのか?」
「古いものならな。魔物が住み着いてから、内部がどう変わったかはわからない」
「撤退の条件は?」
「誰かが重傷を負った場合、あるいは想定以上の魔物が現れた場合は撤退する」
「その判断は誰がする?」
「全員で相談する」
「……そうか」
レイは目を伏せた。
悪くない答えだ。
少なくとも、依頼として成立するだけの情報は揃っている。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
スマルグは、なぜそこまでして自分を誘うのか。
以前からレイの実力を評価していたとしても、他に候補がいないとは限らない。
それに、魔石の話にも不明な点が多すぎる。
「……俺は、お前を信用してるわけじゃないぞ」
「わかってる」
スマルグは苦笑した。
「だから、こうして説明しに来たんだ。お前が納得できない仕事を無理に受けさせるつもりはない」
「口だけなら何とでも言える」
「それもそうだな」
男は反論しなかった。
そして、少しだけ頭を下げた。
「頼む、レイ。俺たちだけじゃ、奥までたどり着けない。お前の力を貸してほしい」
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
レイはしばらく黙っていた。
報酬は悪くない。
危険も、話を聞く限りでは対処不能というほどではない。
そして何より、廃坑の奥に何があるのか、少し興味が湧いていた。
もちろん、好奇心だけで命を賭けるつもりはない。
必要な準備を整え、条件を決め、少しでも危険を減らしてから向かう。
それがレイのやり方だった。
「……わかった。協力してやる」
スマルグの表情が明るくなる。
「本当か?」
「ただし、条件がある。出発前に地図を見せろ。依頼書と契約内容も確認する。話が違うと判断したら、その場で抜ける」
「ああ、構わない」
「それと、俺の判断を無視して勝手に奥へ進むな。全員の命に関わる」
「約束する」
「なら、明日までに必要なものを揃えておけ。出発前にもう一度、詳しい話を聞く」
レイは立ち上がった。
「……言っておくが、俺はお前の仲間になったわけじゃない。仕事を一緒にするだけだ」
「それで十分だ」
スマルグも立ち上がり、手を差し出した。
レイはその手を一瞥したが、握り返さなかった。
「じゃあな」
それだけ言って、ギルドを出る。
背中にスマルグの視線を感じたが、振り返らなかった。
仕事は決まった。
あとは、準備を整えて出発するだけだ。
レイは夕暮れの街路を歩きながら、明日の予定を頭の中で組み立てていた。
地図の確認。消耗品の補充。予備の矢と薬品。それから、廃坑について知っている人間を探す。
スマルグの話だけでは、まだ足りない。
自分の目と耳で確かめられることは、確かめておく。
それが、レイがこれまで生き残ってきた理由の一つだった。
――このときのレイは、まだ知らない。
自分がどれだけ慎重に準備を重ねても、同行する人間の思惑までは、装備のように点検できないということを。
スマルグと別れたレイは、
再び受付カウンターへと向かった。
依頼の報告自体は、すでに済ませている。
今回の牙狼討伐は、事前に聞いていた規模を大きく上回るものだった。群れの数が多かっただけでなく、通常よりもひと回り大きな個体まで混じっていたのだ。
その分の追加報酬が認められるかどうか。
今は、その確認待ちだった。
「お待たせしました、レイさん」
帳簿を確認していた受付嬢が顔を上げた。
「今回の討伐について、追加報酬が認められました」
「よかった、追加はでないかと思っていたよ」
思わず声が少し弾んだ。
受付嬢は小さく微笑み、カウンターの上に銀貨を並べ始める。
「当初の想定を上回る討伐数に加えて、大型個体の討伐も確認されています。通常の追加報酬に、危険度の上昇分を加算する形になりました」
「へえ。思ったより融通が利いてよかった。」
「もちろん、討伐の状況や証拠の確認は必要ですけれど。今回は報告内容にも問題がありませんでしたから」
「そいつは助かる」
レイは差し出された報酬を受け取り、銀貨の枚数を確かめた。
当初の見込みよりも、かなり多い。
これなら、予定していた物資の補充を済ませても余裕が残るだろう。
「ありがとうございます。またよろしくお願いしますね」
「ああ。次もいい仕事があれば頼むよ」
受付嬢に軽く手を振り、レイはカウンターを離れた。
ギルドの出入口へ向かいながら、腰の革袋を指先で弾く。
チャリ、と小気味よい音がした。
レイの口元が、自然と緩む。
まずはクロスボウの矢を補充。長剣の手入れに使う油も買っておきたい。革鎧の留め具も、そろそろ点検しておくべきだろう。
携帯食料も残りが少ない。干し肉と堅焼きパンを買い足して、宿代を確保する。
頭の中で必要な出費を差し引いていく。
――悪くない。
いや、むしろ上出来だ。
必要なものを一通り揃えても、数日は懐を気にせず過ごせそうだった。
レイは革袋を握り直した。
「これなら……今夜の食事は少し豪勢でもいいな」
ここ数日は、安いスープや硬いパンで済ませることが多かった。
冒険者という仕事柄、金を無計画に使うわけにはいかない。いつ装備が壊れるかもわからないし、急な出費だってある。
それでも、稼いだ金を使う楽しみくらいはあっていい。
今夜は焼きたての肉に、エールでもつけよう。
そう決めると、レイは機嫌よくギルドを後にした。
革袋が歩調に合わせて揺れ、中の銀貨がチャリチャリと鳴る。
いつもなら気にも留めない音が、今夜は妙に心地よかった。
レイは大通りを抜け、酒場が軒を連ねる一角へと向かう。
目当ての店は、その通りの角にあった。
木造の建物の正面には、獅子が酒杯を掲げた看板がぶら下がっている。
『獅子の杯』。
冒険者たちがよく利用する酒場で、料理の量が多く、値段も良心的だと評判の店だった。
「よし、今日はここだな」
レイは扉を押し開けた。
途端に、酒場の熱気が全身を包み込む。
肉や魚の焼ける香ばしい匂い。エールの樽から漂う麦の香り。カウンターの奥からほのかに流れてくる、葡萄酒の甘い匂い。
そこへ冒険者たちの笑い声や、酒杯のぶつかる音が重なっていた。
「……いい匂いだ」ぬ
空腹を刺激され、レイは思わず腹をさすった。
店内を見回すと、壁際にちょうど空いている席がある。
レイはそこへ向かい、椅子を引いて腰を下ろした。
「さて、と。何を食うかな」
壁に掛けられた黒板には、本日の料理が並んでいる。
香草焼きの猪肉。川魚の炭火焼き。豆と根菜の煮込み。そして、店自慢の厚切り肉の鉄板焼き。
どれも普段なら少し迷う値段だが、今夜は懐に余裕がある。
レイは黄金色の瞳を細め、料理の名前を眺めた。
久しぶりに、ゆっくり食事を楽しめそうだった。
レイが黒板の料理を眺めていると、店内を忙しなく動き回る給仕の姿が目に入った。
木製の盆を片手に、料理の皿を次々とテーブルへ運んでいく。
別の席では空になった酒杯を回収し、カウンターの前では新たな注文を聞き取っていた。
なかなか手際がいい。
健康的に日焼けした肌に、赤みがかった茶色の髪。仕事の邪魔にならないよう、髪は後ろでひとつに束ねられている。
鼻の周りには、薄いそばかすが散っていた。
際立った美人というわけではない。
だが、よく動く表情には愛嬌があり、笑うと少し幼く見える顔立ちだった。
彼女は別の客にエールを届けたあと、ふと店内を見回した。
そして、壁際の席に座るレイに気づく。
「いらっしゃいませ!」
にこりと笑顔を向け、彼女は手にした盆を脇に抱えながら近づいてきた。
その笑顔は、客商売らしい明るい営業スマイルだった。
「ご注文はお決まりですか?」
「ああ。厚切り肉の鉄板焼きを頼む。飲み物はエールで」
「はい! 鉄板焼きとエールですね」
彼女は手元の伝票に注文を書き込んだ。
レイはそんな彼女の様子を眺めながら、もう一度、壁の黒板へ視線を向ける。
「ところで、今日のおすすめは他にはないかい?」
穏やかな口調で尋ねる。
威圧するでもなく、馴れ馴れしくするでもない。
ただ、目の前の相手に興味を持って尋ねるような、自然な聞き方だった。
「今日のおすすめですか?」
彼女は少し考えるように首を傾げた。
「そうですね……お肉もいいですけど、今日は川魚の香草焼きも評判がいいですよ。朝、市場から仕入れたばかりの魚を使っているんです。あと、豆と根菜の煮込みも、いつもよりおいしくできたって料理長が言ってました」
「へえ。そいつは気になるな」
「ふふっ。煮込みは私も味見しましたけど、おいしかったですよ」
言ってから、彼女は少しだけ目を丸くした。
「あっ、もちろん、お客さんにもおすすめできる味ですからね!」
「ははっ、わかってるよ」
レイは楽しそうに笑った。
「じゃあ、煮込みもひとつ頼もうかな」
「ありがとうございます! すぐにお持ちしますね」
彼女は伝票にもう一品を書き足すと、軽く頭を下げた。
そして、次の客に呼ばれる前に厨房へ向かおうとする。
その働きぶりを見送りながら、レイは頬杖をついた。
追加報酬のおかげで、今夜は懐に余裕がある。
料理も楽しみだが、こうして気持ちよく接客されるのも悪くない。
レイはテーブルに肘をつき、運ばれてくる料理を待つことにした。
しばらくすると、先ほどの給仕がエールの入ったジョッキを運んできた。
「お待たせしました。エールです!」
「ああ、ありがとう」
レイは差し出されたジョッキを受け取り、軽く掲げてみせた。
泡立つ琥珀色の液体から、麦の香りがふわりと漂う。
一口飲むと、冷えたエールが喉を通り抜けた。
「……うん。うまいな」
思わず漏れた言葉に、給仕の女性が嬉しそうに笑う。
「よかったです! うちはエールにもこだわってるんですよ」
「そうなのか。道理でうまいわけだ」
レイはジョッキをテーブルに置き、彼女を見上げた。
「ところで、君はこの店で長いのかい?」
「えっ? ああ、いえ。ずっと働いてるわけじゃないんです」
彼女は盆を片手に持ち直し、少し考えてから答えた。
「実家が農家なんですけど、この時期は畑の仕事が比較的少なくて。それで、手が空いている間だけ、ここで働かせてもらってるんです」
「へえ、農家の娘さんか」
「はい。家の手伝いもありますし、ずっとこっちにいるわけじゃないんですけどね」
「なるほどな。暇な時期だからって、わざわざ街に出て働くのか」
レイは感心したように頷いた。
「真面目で偉いね」
「えっ……そ、そんな、大したことじゃないですよ」
彼女は目を泳がせ、頬をほんのり赤くした。
「家にいても、やることがないだけですから」
「それでも、働いて金を稼ごうってんだ。立派なことだと思うけどな」
「……ありがとうございます」
彼女は照れ臭そうに笑った。
どうやら、こういうふうに素直に褒められることには慣れていないらしい。
レイはジョッキを傾け、もう一口エールを飲んだ。
それから、何気ない調子で尋ねる。
「そういえば、歳はいくつなんだい?」
「私ですか? 今年で二十歳になります」
「二十歳か」
レイは改めて彼女の顔を眺めた。
近くで見ると、アンナは思っていたよりも幼い顔立ちをしていた。
くるくると変わる表情には不思議な愛嬌があり、見ているだけでこちらまで頬が緩みそうになる。
――可愛らしい子だな。
レイは思わずそう思った。
「君みたく可愛らしい子なら、結構モテるんじゃないか?」
「も、もう! からかわないでください!」
彼女は盆を胸元に抱えるようにして、慌てて首を振った。
「からかってないさ。思ったことを言っただけだよ」
「そ、そういうのが、からかってるって言うんです!」
言い返す声には勢いがあったものの、赤くなった頬までは隠せていない。
レイは楽しそうに笑った。
「ははっ、悪かった。困らせるつもりはなかったんだ」
「……本当に、もう」
彼女は恨めしそうにレイを見た。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「それじゃあ、お料理を持ってきますから。少々お待ちくださいね」
「ああ、頼むよ」
彼女はくるりと踵を返し、厨房へと向かっていった。
その背中を見送りながら、レイは再びエールに口をつける。
――なかなか、いい子じゃないか。
気取ったところがなく、褒めれば素直に照れる。
それでいて、言うべきことはきちんと言い返してくる。
レイはジョッキを置き、頬杖をついた。
今夜は、思っていた以上に楽しい食事になりそうだった。
しばらくして、アンナが料理を運んできた。
鉄板の上では厚切りの肉が香ばしい音を立て、表面に浮いた脂が食欲をそそる。湯気の立つ豆と根菜の煮込みも、思っていた以上に量が多い。
レイは目の前に並べられた料理を眺め、わずかに眉を上げた。
……あれ?
注文したのは確かにこの二品だ。だが、肉は厚みがあり、煮込みも器いっぱいに盛られている。どちらも、メニューに書かれていた量より多いように見えた。
気のせいだろうか。
そんなことを考えていると、料理を置いたアンナが、少し得意げに笑った。
「お客さん、ハンサムだから少しサービスしました」
レイは一瞬きょとんとしたあと、口元を緩めた。
「それは光栄だね。君のような可憐な女性に言われると、なおさら嬉しいよ」
そう言って、優しくニコリと微笑む。
普段のレイは、どこか鋭さを感じさせる顔つきをしている。引き締まった目元と、無駄のない立ち居振る舞い。冒険者として身につけた警戒心もあって、何もしていなくても近寄りがたい印象を与えることがあった。
だが、こういうときの表情は違う。
相手を警戒させない穏やかさと、ふとした瞬間に見せる優しさ。その笑顔には、男女を問わず人を惹きつける不思議な魅力があった。
アンナも例外ではなかった。
「……っ」
目が合った瞬間、胸が小さく跳ねる。
自分からハンサムだと言ったくせに、いざ相手に微笑まれると、どうにも落ち着かない。
アンナは誤魔化すように、お盆を胸元へ引き寄せた。
「そ、そんな……大げさですよ」
「そうかな。俺は素直にそう思ったんだけど」
レイは楽しそうに笑った。
からかっているようにも見える。けれど、言葉の端々に嫌味がないせいか、不思議と不快にはならなかった。
むしろ、もっと話していたいと思わせる。
「ところで、僕はレイと言うんだ。君の名前も……聞いてもいいかな?」
レイが尋ねると、アンナは一瞬だけ目を泳がせた。
それから、お盆で顔の半分を隠す。
どうやら、恥ずかしくなったらしい。
「わ、私はアンナといいます……」
「アンナか」
レイはその名を確かめるように、ゆっくりと口にした。
「レイさんって言うんですね。素敵な名前」
「ありがとう。君の名前もね。明るい君にぴったりな名だ」
「も、もう……!」
アンナはお盆の陰で頬を赤くした。
けれど、先ほどのように否定することはなかった。
レイはそんな彼女を見て、ふっと目を細める。
気取ったところがなく、褒められると素直に照れる。それでいて、料理のサービスをするくらいには自分の気持ちに正直だ。
――なかなか、気が合いそうじゃないか。
そう思ったレイは、椅子に座ったまま、右手をすっと差し出した。
「よろしく、アンナ」
突然差し出された手に、アンナは一瞬戸惑った。
握手を求められているのだと気づくと、彼女はお盆を片手に持ち直し、もう片方の手を伸ばした。
「……はい。よろしくお願いします、レイさん」
小さく笑いながら、二人の手が重なる。
レイの手は、冒険者にしては驚くほど綺麗だった。
剣を握り、幾度も命懸けの戦いを潜り抜けてきた手。それなのに、目立った傷や荒れは少なく、指はすらりと長い。
触れた指先は、少しひんやりとしていた。
「……」
アンナは、思わずその手を意識してしまう。
ほんの一瞬の握手にすぎない。
それでも、触れた指先の感触が妙にはっきりと残っていた。
レイはそんなアンナの心中を知ってか知らずか、穏やかな笑みを浮かべたまま手を離す。
「料理、ありがとう。ゆっくり味わわせてもらうよ」
「は、はい! ごゆっくりどうぞ!」
アンナは少し早口でそう答えると、逃げるように厨房へと戻っていった。
その背中を見送りながら、レイは小さく笑う。
さて。
せっかくのサービスだ。冷めないうちにいただくとしよう。
そう考えてナイフを手に取ったレイは、香ばしく焼き上がった肉へと刃を入れた。
レイは料理を堪能していた。
厚切り肉は表面が香ばしく焼かれ、中は柔らかい。噛むたびに肉汁が広がり、ほどよく効いた香草が食欲を刺激する。豆と根菜の煮込みも、素朴ながらしっかりとした味わいで、酒の肴にもよく合った。
思いがけず、いい店を見つけたものだ。
そんなことを考えながら食べ進めていると、ふと、手元のエールが空になっていることに気づいた。
おかわりを頼もうか。
レイが顔を上げ、店内を見回そうとした、そのときだった。
スタスタと、見覚えのある給仕がこちらへ近づいてくる。
「エールのおかわり、どうですか?」
アンナは空になった器を回収すると、手に持っていたジョッキをテーブルに置いた。
中には、よく冷えたエールがたっぷりと注がれている。表面には細かな泡が浮かび、器の外側には冷たさを示す水滴がついていた。
「そろそろ、おかわりが必要かと思って」
アンナは何でもないことのように言った。
レイは新しいジョッキと彼女の顔を交互に見て、口元を緩める。
「さすがは看板娘。気が利くね。ありがとう」
「そ、そんなことないですよ」
そう言いながらも、アンナの表情はどこか嬉しそうだった。
足取りも心なしか軽い。
そのまま厨房へ戻っていく彼女の背中を見送り、レイはジョッキを持ち上げた。
一口飲むと、冷えたエールが喉を通っていく。
「……うまい」
レイは満足げに息をつき、再び料理へと向き直った。
肉を切り分け、煮込みを口に運び、時折エールを飲む。
実にいい夕食だった。
ただ、一つだけ気になることがある。
――さっきから、やけに視線を感じるな。
レイは気づいていた。
アンナが仕事の合間に、ちらり、ちらりとこちらを見ていることに。
目が合いそうになると、彼女は慌てて別の客へと向き直る。だが、しばらくすると、またこちらを窺っているのだ。
別に、悪い気はしない。
むしろ、微笑ましいとすら思う。
とはいえ、ここでいちいち反応していては、彼女も仕事がしづらいだろう。
レイは気づかないふりをして、食事を続けた。
ところが――。
アンナはすっかり油断していた。
注文を取り、料理を運び、空いた皿を回収する。忙しく立ち働きながらも、彼女の視線はいつの間にか、壁際の席に座る黒髪の冒険者へと向かっていた。
整った顔立ち。
すらりとした指先。
料理を食べるときの穏やかな表情。
そして、時折見せる、あの優しい笑顔。
気がつけば、アンナは仕事の手を止めかけるほど、じっとレイを見つめていた。
――あんなに綺麗な人、初めて見たかも……。
その瞬間。
レイが、ふいに顔を上げた。
そして、アンナの視線を捉えると――。
ニコリ。
優しく微笑み、ひらひらと手を振った。
黄金色の瞳が、まっすぐにアンナを見つめている。
「――っ!」
目が合った。
アンナは一瞬、固まった。
まさか見られているとは思っていなかったのだろう。
慌てて視線を逸らし、手元のお盆に目を落とす。
だが、もう遅い。
頬がみるみる赤く染まっていくのが、離れた席からでもはっきりとわかった。
レイは何事もなかったかのように手を下ろし、再びエールを口に運ぶ。
その口元には、かすかな笑みが残っていた。
――まったく。わかりやすい子だ。
そんなことを思いながら、レイは冷えたエールをもう一口飲んだ。




