挿話。 寝室ダンジョン攻略。
食事を終えた一行は、オリゴに案内され、それぞれの部屋へと戻っていた。
あれほどロゼルにべったりだったエリナも、別れ際には妙に素直だった。
「それじゃあ、ロゼル。また明日ね」
「ああ。また明日」
「絶対よ?」
「分かった分かった」
念を押すエリナに苦笑しながら、ロゼルは手を振って別れた。
いつもなら、もう少し一緒にいたいだの、部屋まで送れだのと言い出しそうなものだが、今日はあっさりと引き下がった。
ロゼルは特に気にすることなく、自分の部屋へと向かった。
なにしろ、腹は程よく満たされている。
上等な料理にワインまで楽しみ、久しぶりに贅沢な食事を堪能できた。
その代償か、今は猛烈な睡魔に襲われていた。
「ふぁぁ……眠い……」
大きな欠伸を一つ。
隣を歩いていたリアも、疲れ切った様子で肩を回した。
「私、寝るねー。疲れた」
「おやすみなさい、リア。また明日」
「うん。アゼ姐もおやすみー」
リアは片手をひらひらと振り、自分の部屋へと入っていった。
アゼリアもロゼルに向き直り、柔らかく微笑む。
「ロゼル様も、どうかゆっくりお休みください」
「ああ。二人ともおやすみ。俺も疲れた……」
ロゼルは眠たげに目をこすりながら、自分の部屋の扉を開けた。
「……あー、もう駄目だ」
部屋に入るなり、ふらふらとベッドへ向かう。
普段なら、寝る前に装備の点検やら明日の準備やらを済ませるところだが、今日はそんな気力すら残っていなかった。
そもそも、今は迷宮の中ではない。
安全な宿の一室だ。
少しくらい気を抜いても問題ないだろう。
ロゼルは着ていた黒いドレスを乱暴に脱ぎ捨てた。
ぽいっ。
ドレスが床に落ちる。
続いて靴も脱ぎ、下着だけの格好になると、そのままベッドへと飛び込んだ。
ぼふんっ。
「……おお?」
予想していたよりも、ずっと柔らかい。
身体が沈み込むような感覚に、ロゼルは思わず目を丸くした。
安宿の硬いベッドとは大違いだ。
これまでの旅では、地面に敷いた毛布や、硬い寝台で眠ることも珍しくなかった。
それが今はどうだ。
柔らかな寝具が身体を包み込み、まるで全身を受け止めてくれているかのようだった。
「……こりゃ、すげぇな」
思わず漏れた感想も、すぐに眠気に呑まれていく。
枕に顔を埋め、心地よい感触に身を委ねる。
「……明日のことは……明日考えるか……」
それが、ロゼルの最後の言葉だった。
数分も経たないうちに、静かな寝息が部屋に響き始めた。
すぅ……すぅ……。
ロゼルは完全に夢の中へと落ちていた。
そして――。
カチャ。
部屋の扉が、ほんのわずかに開いた。
廊下から漏れる明かりが、細い帯となって室内へ差し込む。
扉の隙間から、誰かがそっと中を覗き込んだ。
しばらくして、その人物は音を立てないよう、ゆっくりと扉を閉める。
カチリ。
再び部屋が暗闇に包まれた。
侵入者は、裸足だった。
床を踏む音すら立てないよう、慎重に足を運んでいる。
一歩。
また一歩。
ベッドの方へ向かって、抜き足、差し足、忍び足。
その動きは、普段の彼女からは想像できないほど慎重だった。
もちろん、ロゼルは気づいていない。
規則正しい寝息を立てながら、柔らかなベッドに身を預けている。
侵入者はベッドのすぐそばまで来ると、足を止めた。
暗闇の中で、眠っているロゼルの姿を確かめる。
そして――。
「…………」
彼女は小さく息を吐いた。
その人物の正体は、エリナだった。
エリナは、ロゼルのベッドの前で足を止めた。
暗闇の中、柔らかな寝息だけが静かに響いている。
「…………」
エリナはそっと息を呑んだ。
それから、ベッドの縁に両手をつき、ゆっくりと膝を乗せる。
ギシッ、と小さく寝台が軋んだ。
「……っ」
エリナは慌てて動きを止め、ロゼルの顔を窺った。
「…………」
ロゼルは目を覚ます気配もなく、気持ちよさそうに眠っている。
ほっと胸を撫で下ろしたエリナは、再び慎重に動き始めた。
膝をついたまま、少しずつ、少しずつ。
寝台を揺らさないように、物音を立てないように。
まるで、警備の目をかいくぐる盗賊のような慎重さだった。
もっとも、本人はそんなことを考える余裕もなさそうだ。
額にはうっすらと汗が浮かび、頬はほんのりと赤く染まっている。
ようやくロゼルのそばまでたどり着くと、エリナはそこで動きを止めた。
すぐ目の前にある、穏やかな寝顔。
「……ロゼル」
声にならないほど小さく、その名を呼ぶ。
もちろん、返事はない。
エリナは少しだけ身を乗り出し、彼の寝顔をじっと見つめた。
エリナは、すぐ目の前にあるロゼルの寝顔をじっと見つめていた。
普段は落ち着き払っていて、ときには自分よりもずっと年上のような口ぶりで話すロゼル。
そんな彼が、今は警戒心の欠片もなく、気持ちよさそうに眠っている。
「……ふふっ」
エリナは小さく笑うと、そっと顔を近づけた。
そして、ロゼルの金色の髪に鼻先を埋める。
すぅ……。
「…………!」
エリナの目が、ぱちりと開いた。
ひんやりとした髪から、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「……なんて、いい香りなの……」
心の中で呟きながら、エリナはもう一度、そっと匂いを確かめた。
すぅ……。
「香水でもかけているのかしら……?」
けれど、ロゼルが香水を使っているところなど見たことがない。
そもそも、迷宮帰りの彼は泥だらけで、身なりにもほとんど気を遣っていなかったはずだ。
それなのに、今はこんなにも心地よい香りがする。
エリナは不思議に思いながらも、ロゼルの髪から顔を離せなくなっていた。
どくん、どくん、どくん。
心臓がうるさいほどに鳴っている。
「……っ」
エリナは慌てて胸元を押さえた。
(お、落ち着きなさい……!)
こんなに心臓が騒いでいては、寝ているロゼルに気づかれてしまうかもしれない。
そう考えれば考えるほど、鼓動はますます速くなっていく。
額にはじんわりと汗が浮かび、頬も先ほどより赤くなっていた。
少し頭に血が上ったのか、エリナはふらりと身体を揺らす。
「……はぁ……」
思わず漏れた吐息。
エリナは口元を押さえ、もう一度ロゼルの顔を見た。
すぐ目の前にある、柔らかな頬。
そっと手を伸ばせば、触れられる距離だ。
エリナは、ロゼルの寝顔をじっと見つめていた。
すぐ目の前にある、柔らかそうな頬。
「…………」
エリナの整った口元が、わずかに開く。
チロリ、と舌先が覗いた。
けれど、あと少しというところで、エリナはぴたりと動きを止めた。
(わ、私ったら……何をしているの……?)
心の中で自分に問いかける。
それでも、目の前のロゼルから意識を逸らせない。
どくん、どくん、どくん。
心臓が、今にも胸から飛び出しそうなほど激しく脈打っていた。
再び舌をチロリと出しロゼルの頬を軽く舐める
舌先から伝わるロゼルの頬の感覚は、男性とは思えない程柔らかく。
寝汗をかいているせいか。
少し塩辛くエリナの舌を刺激する
暗闇の中、窓から差し込む月明かりが、眠っているロゼルの頬を淡く照らしていた。
その頬は、エリナの唾液で濡れており、月光を受けて鈍く光っている。
エリナはそれを見ながら、ごくりと生唾を飲む。
ポタリ。
「……えっ?」
ポタリ。
何かが寝具に落ちた。
続いて、もう一滴。
ポタリ……。
「…………?」
不思議に思ったエリナは、鼻の下に指を当てた。
ぬるり。
指先に、赤いものがついていた。
「…………え?」
もう一度、そっと鼻に触れる。
そこから滴っていたのは、紛れもない鼻血だった。
「~~~~っ!?」
エリナは慌てて両手で鼻を押さえた。
(う、嘘でしょう!? なんで鼻血なんて出てるのよ!?)
自分の失態に気づいた途端、顔が一気に熱くなる。
誰も見ていない。
ロゼルは眠っている。
それなのに、恥ずかしさで今すぐ布団に潜り込みたくなった。
……。
エリナは目の前の布団を見た。
(……ゴクリ)
そっと手を伸ばし、ロゼルの寝具の端を持ち上げる。
(もう少しくらいなら……)
エリナは周囲を確認したあと、布団の隙間へ頭を滑り込ませた。
するり。
そして、ロゼルを起こさないよう、慎重に身体を潜り込ませていく。
布団の中は、外よりも暖かかった。
エリナは鼻を押さえたまま、身じろぎひとつせずに固まった。
(…………私、何をしているのかしら)
今さらながら、自分の行動が信じられない。
けれど、ここまで来てしまった以上、すぐに出ていくのも妙に気まずい。
エリナは真っ赤な顔を両手で覆った。
ロゼルは薄い下着を着ているだけのようだった。
エリナは布団の中で、そっとロゼルの様子を窺う。
そして、ゆっくり、ゆっくりとロゼルのシャツに手をかけた。
慎重に布地をつまみ、少しずつ捲り上げていく。
布団の中は、エリナの体温と興奮のせいか、ずいぶんと熱がこもっていた。
「……うーん……」
突然、ロゼルが寝言を漏らした。
「……っ!」
エリナはびくりと身体を硬直させる。
ロゼルが目を覚ましてしまったのではないかと、心臓が跳ね上がった。
しかし、ロゼルは目を閉じたまま、再び静かな寝息を立て始める。
エリナはほっと息を吐き、再びロゼルへと視線を戻した。
捲り上げられたシャツの下から、小さなおへそが覗いている。
月明かりに照らされた肌は白く、滑らかだった。
「可愛いおへそ……」
エリナは、ロゼルの小さなおへそを見つめながら、そっと顔を近づけた。
そして、鼻先を寄せると、静かに匂いを嗅ぐ。
すぅ……。
甘く、優しい香りが鼻を通り抜けていく。
「…………」
エリナの頬は、ますます赤く染まっていた。
ポタリ。
ロゼルのおへそに、赤い雫が落ちた。
エリナの鼻から滴った血だった。
白い肌に落ちた赤い雫は、月明かりの中でひどく目立っていた。
エリナは、その光景をじっと見つめた。
自分の血で汚れてしまったロゼルのおへそ。
その光景に、エリナは自分でも説明できない不思議な高揚を覚えていた。
ゴクリ。
再び喉を鳴らす。
ポタリ……ポタリ……。
エリナの鼻から、またしても血が滴り落ちた。
彼女は慌てて鼻を押さえようともせず、ロゼルへと視線を向けていた。
そして、その視線がゆっくりと下へと移っていく。
「…………」
エリナの顔が、ますます赤く染まった。
(……もっと…もっと見たい…)
気づけば、エリナはそっと手を伸ばしていた。
ロゼルを起こさないように、慎重に。
指先が、彼の下着に触れようとした――その瞬間。
むずっ。
「……え?」
突然、背後から服を掴まれた。
そのまま、ぐいっと持ち上げられる。
「キャッ!?」
エリナの身体が浮き上がり、次の瞬間、ベッドの端へと転がされた。
「いたっ! ちょ、ちょっと何するのよ!」
慌てて顔を上げたエリナは、目の前に立つ人物を見て凍りついた。
白銀の髪。
青い瞳。
そして――。
ぴくぴくと、眉を震わせているアゼリアの姿があった。
「…………」
にこりとも笑っていない。
普段の穏やかな表情は、どこにもなかった。
「……何をなさっておられるんですか?」
アゼリアの声は、いつもどおり丁寧だった。
だからこそ、余計に恐ろしい。
「わ、私は……!」
エリナは慌てて身を起こし、乱れた服を整えた。
「へ、部屋を……部屋を間違えたのよ!」
「…………」
アゼリアは無言でエリナを見下ろした。
「部屋を間違えるはず、ないでしょう?」
「うっ……」
「ロゼル様のお部屋から、何やらハレンチな気配がしたもので、急いで駆けつけたのですが……」
アゼリアの眉が、再びぴくりと動いた。
「まさか、あなたとは……」
「だ、誰がハレンチよっ!」
エリナは顔を真っ赤にして叫んだ。
「わ、私はただ、その……!」
「ただ、何でしょう?」
「そ、それは……!」
言葉に詰まるエリナ。
アゼリアは笑顔ひとつ浮かべず、じっと彼女を見つめていた。
そのときだった。
「……んん……」
ベッドの上から、眠たげな声が聞こえた。
二人が同時に振り向く。
「……ん?」
ロゼルが、もぞもぞと寝返りを打った。
そして、ゆっくりと目を開ける。
「……なんだ……?」
ぼんやりとした目で周囲を見回し、頭を掻く。
「……なんしてんだ、お前ら……」
ロゼルは目をこすりながら、上半身を起こした。
目の前には、なぜか部屋にいるアゼリア。
そして、ベッドの端で顔を真っ赤にしているエリナ。
「…………」
「…………」
「…………?」
寝起きのロゼルは、二人の間に漂う不穏な空気を理解できず、ただ首を傾げるのだった。
「ロゼル様!」
アゼリアが、ロゼルに向かって勢いよく振り返った。
「エリナ様が夜這いをかけたのです! なんてハレンチな方なんでしょう! しかも、鼻血まで出して!」
「ちょっ!?」
エリナは慌てて鼻を両手で覆った。
「こ、これは……ちょっとのぼせただけよ!」
「のぼせた?」
「そうよ! のぼせて部屋を間違えただけ! そ、それだけなんだから!」
必死に弁解するエリナ。
しかし、その鼻からは、まだわずかに血が垂れていた。
ロゼルはそんな彼女を、いぶかしげな目で見つめた。
「…………」
「…………」
「……何してんだよ、全く」
呆れたように呟くと、ロゼルは枕を抱え、ベッドから降りた。
そして、そのままスタスタと扉へ向かって歩き始める。
「えっ?」
エリナが目を見開いた。
「ロ、ロゼル? どこ行くの?」
「リアの部屋で寝る」
「なっ!?」
ロゼルは振り返りもせずに答えた。
「ここは危険そうだ……」
「危険って何よ!?」
エリナが叫ぶ。
その横で、アゼリアが腕を組んだ。
「ふんっ」
実に分かりやすい鼻の鳴らし方だった。
その表情は、まさに――ざまぁみろ、と言わんばかりである。
「~~~~っ!」
エリナの顔が真っ赤になった。
「ま、待って! ロゼル!」
慌ててベッドから立ち上がり、彼の背中に声をかける。
「もう舐めたりしないから!」
「…………」
「…………」
ロゼルとアゼリアの動きが、同時に止まった。
「……舐める?」
二人の声が、見事に重なった。
「…………あ」
エリナの顔から、さっと血の気が引いた。
しまった。
完全に口を滑らせた。
ロゼルがゆっくりと振り返る。
その目が、すうっと細くなった。
「…………」
「ち、違うのよ! 今のは、その……!」
「…………」
「ロゼル? ねえ、何か言って?」
ロゼルはエリナをじっと見つめたあと、抱えていた枕をぎゅっと抱き直した。
「……怖……」
心の底から漏れたような一言だった。
「こ、怖いって何よぉ!?」
エリナの悲鳴を背中で聞きながら、ロゼルは部屋を出ていった。
その後ろを、アゼリアが満足そうな顔でついていく。
「ロゼル様、ご安心ください。わたくしがお守りいたします」
「……頼むから、今は何も言わないでくれ…」
「はい。承知いたしました」
そう答えるアゼリアの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
まったく、承知しているようには見えなかった。
コン、コン。
夜の廊下に、控えめなノックの音が響いた。
「……んー?」
しばらくして、眠そうな声が返ってくる。
ガチャリ。
扉が開き、寝ぼけ眼のリアが顔を出した。
「なに? どうしたの、ロゼル……」
髪は乱れ、目は半分ほどしか開いていない。
完全に夢の途中だったらしい。
ロゼルは枕を抱えたまま、真剣な顔でリアを見上げた。
「……何も言わずに、かくまってくれ」
「…………は?」
リアは数秒間、瞬きすらしなかった。
それから、不思議そうに首を傾げる。
「……何それ?」
「頼む」
「いや、だから何があったのよ……」
リアが首を伸ばし、ロゼルの背後を覗き込んだ。
廊下の向こう。
ロゼルの部屋の扉の前には、鼻を押さえて顔を真っ赤にしたエリナが立っていた。
その隣では、アゼリアが腕を組み、彼女を冷ややかな目で見下ろしている。
「…………」
リアは二人を見た。
次に、ロゼルを見た。
そして、もう一度二人を見る。
「…………なるほど」
何かを察したらしい。
「いや、何も分かってないだろ」
ロゼルが即座に突っ込んだ。
「分かってる、分かってる」
リアは眠そうな顔のまま、ロゼルの腕を引いた。
「ほら、入りなよ」
「助かる……」
ロゼルは心底ほっとした様子で、リアの部屋へと足を踏み入れた。
そして――。
ガチャリ。
リアは扉を閉めると、鍵をかけた。
「よし。これで安心っと」
「……ああ」
ロゼルは深く頷いた。
扉の向こうから、エリナの声が聞こえてくる。
「ロゼルー! 誤解なのよー!」
「…………」
ロゼルは無言で枕を抱きしめた。
「……なあ、リア」
「んー?」
「朝まで、ここにいていいか?」
リアは大きな欠伸を一つすると、ベッドの空いている場所を指差した。
「いいよ。私はもう寝るから、好きにして」
「恩に着る……」
ロゼルはようやく肩の力を抜いた。
こうして、その夜。
迷宮でどんな強敵と対峙しても動じない元ベテラン冒険者は、王女の夜這いから逃れるため、仲間の部屋に避難することになったのだった。




