青き薔薇の聖女。
オリゴに案内され、一行は三階にある大部屋へと足を踏み入れた。
広々とした室内には、大きなテーブルが用意されていた。磨き上げられた食器が並び、壁際には豪華な調度品が置かれている。
そして、そのテーブルの一角には、すでにエリナが座っていた。
「――!」
ロゼルの姿を見つけた瞬間、エリナの表情がぱっと明るくなる。
「ロゼル!」
思わず立ち上がりかけたエリナだったが、すぐに咳払いをして姿勢を整えた。
どうやら、王女としての体面を思い出したらしい。
そんなエリナの姿を、ロゼルは何気なく眺めた。
今日の彼女は、体のラインが自然に浮かび上がる、シンプルな白いドレスを身にまとっていた。
派手な装飾は控えめだが、生地の質の良さと仕立ての美しさが際立っている。
長い髪は丁寧に整えられ、化粧も完璧だった。
普段は気の強い言動ばかりが目立つエリナだが、こうして身なりを整えていると、王女らしい気品が感じられる。
そういったことにさほど関心のないロゼルでさえ、素直にそう思った。
「よぉ、美人なんだなお前」
「…………」
リアが隣で、あーあ、とでも言いたげな顔をした。
一方のエリナは、目を丸くして固まっていた。
「そ、そう?」
頬がみるみる赤く染まっていく。
「ロゼルのタイプなら嬉しいわ」
「いや、タイプとかそういう話じゃ……」
「さあ、ロゼル。私の隣で食べましょう!」
ロゼルの言葉を遮り、エリナは彼の手を取った。
そして、逃がすまいとするかのように、そのまま自分の隣の席へと引っ張っていく。
「お、おい。引っ張るなって」
「いいじゃない。席は空いているんだから!」
「そういう問題かよ……」
ロゼルは苦笑しながらも、結局そのまま席へと連れていかれた。
エリナは満足そうに微笑み、隣に座ったロゼルの姿を改めて眺める。
そこで、ふと気づいたように首を傾げた。
「……ところで、ロゼル」
「ん?」
「どうしてドレスを着ているの?」
「…………」
ロゼルは自分の格好を見下ろした。
黒いドレスに、少し踵の高い靴。
改めて見ると、どう考えても普段の自分とはかけ離れた格好だった。
「お前のとこの従者が間違えたんだよ……」
「えっ?」
「替えの服を頼んだら、これが届いたんだ。他に着る物もないし……変だろ?」
ロゼルは少々うんざりした顔で、スカートの裾をつまんだ。
「俺だって、好き好んでこんな格好してるわけじゃねぇんだぞ」
すると、エリナは口元に手を当てて、くすくすと笑い始めた。
「ううん、そんなことないわ」
「……何?」
「すごく似合ってるもの。素敵よ、ロゼル」
そう言って、エリナはロゼルの頭に手を伸ばした。
金色の髪を、軽く撫でる。
「よしよし。とっても可愛いわ」
「お、おい……」
ロゼルはくすぐったそうに顔をしかめた。
「子供扱いするなって」
「だって、可愛いんだもの」
エリナは悪びれる様子もなく、楽しそうに微笑んでいる。
その光景を、ロゼルの後ろに立っていたアゼリアが見つめていた。
「…………」
にこやかな笑顔は、そのままだった。
ただし――
ピクリ。
アゼリアの眉が、ほんのわずかに動いた。
その変化を見逃さなかったのは、隣にいたリアだった。
リアはアゼリアとエリナを交互に見比べると、そっと身を寄せ、小声で囁いた。
「……アゼ姐のライバル登場ね」
「……リア?」
「い、いえ。何でもないです」
アゼリアの微笑みが、わずかに深まった。
リアはすっと視線を逸らした。
――これは、余計なことを言ったかもしれない。
そんな予感がしたのだった。
一行はそれぞれ席に着いた。
ロゼルの隣にはエリナ。その向かい側にリアとアゼリアが座り、オリゴはテーブルの脇に控えていた。
全員が席に着いたのを確認すると、オリゴが一歩前へ出て、恭しく頭を下げる。
「皆様方、この度はお嬢様をお助けくださり、誠にありがとうございました。改めて、心より御礼申し上げます」
「いや、もういいって。何度も礼を言われるようなことじゃないさ」
ロゼルが軽く手を振る。
オリゴは微笑み、続けた。
「今宵はささやかながら、皆様への感謝の席をご用意させていただきました。テーブルマナーなど、どうぞお気になさらず。今夜はたくさん食べて、お楽しみください」
そう言って、テーブルの上へ視線を向ける。
「皆様の手前にございますのは食前酒です。ほかにお好みのお飲み物がございましたら、何なりとお申し付けください」
「へぇ……」
ロゼルは目の前に置かれたグラスを手に取り、中の液体を眺めた。
淡い赤色をした透明な酒だった。
そのとき、オリゴが手で合図を送る。
すると、待機していた従者たちがすぐさま動き出した。
次々とテーブルに並べられていく前菜。
色鮮やかな野菜を使ったサラダに、薄く切り分けられた肉料理。香草を添えた魚のマリネや、小さな器に盛られたスープまである。
どれも丁寧に盛り付けられ、見た目からして上品だった。
そして、部屋の一角ではシェフが腕を振るっていた。
肉が焼ける音。
熱した油の弾ける音。
そこから漂ってくる、香ばしい匂い。
バターと香草の香りが室内に広がり、ロゼルの腹が小さく鳴った。
「…………」
ロゼルは何食わぬ顔で姿勢を正す。
隣に座っていたエリナが、そんな彼の様子に気づいてくすりと笑った。
「お腹が空いているのね、ロゼル」
「そりゃな。迷宮から帰ってきたばかりなんだぞ」
「ふふっ。それなら、たくさん食べてね」
エリナは満足そうに微笑むと、目の前のグラスを手に取った。
「それじゃあ……ロゼル、乾杯!」
「お、おう。乾杯」
ロゼルも慣れない手つきでグラスを持ち上げる。
普段、酒といえばエールをジョッキで飲むくらいだ。
こんな細長いグラスを持つこと自体、ほとんど経験がない。
どうにも手元が落ち着かない。
「お疲れ様!」
リアもグラスを掲げる。
「乾杯です」
アゼリアも穏やかに微笑んだ。
それぞれのグラスが軽く触れ合い、澄んだ音が響く。
ロゼルはグラスを口元へ運び、食前酒を一口含んだ。
「……ん?」
最初に感じたのは、喉を通り抜ける冷たい感覚だった。
続いて、鼻へ抜けるザクロの香り。
甘みの中に、ほんのりとした酸味がある。
強い酒精は感じられず、すっきりとした後味だった。
空腹だった胃が刺激され、自然と食欲が湧いてくる。
ロゼルはもう一口飲み、グラスを置いた。
「うん、悪くないな」
そして、少し考えてから付け加える。
「エールより好きかもしれない」
「本当?」
エリナが嬉しそうに身を乗り出した。
「ザクロを使った食前酒よ、食欲を促すために、酸味を少し利かせているんですって。」
「なるほどな。こいつは気に入った」
ロゼルはグラスを持ち上げ、残りをもう一口飲んだ。
「これ、美味しいわね!」
リアもすっかり気に入ったようだった。
グラスを傾け、味を確かめるように舌先で唇を舐める。
「甘いし、酸っぱすぎないし。これなら私でも酔っ払わないで済むかも!」
「いや、飲みやすい酒ほど気をつけた方がいいぞ」
ロゼルが釘を刺す。
「えー? これくらい平気よ!」
「その台詞を言う奴ほど、あとで面倒なことになるんだよ」
「なによ、それ!」
リアが頬を膨らませる。
そんな二人のやり取りを聞きながら、アゼリアはグラスを手に取った。
ただし、口をつけることはせず、そっと鼻を近づけて香りを楽しんでいる。
「……いい香りです」
彼女はグラスを光にかざした。
淡い赤色の液体が、照明を受けてきらきらと輝く。
「色も、ほんのり赤くて綺麗ですね」
アゼリアは微笑みながら、もう一度グラスの香りを確かめた。
その様子を見ていたエリナが、少し不思議そうに首を傾げる。
「アゼリアはお酒を飲まないの?」
「ええ。私は、こうして香りを楽しむ方が好きなのです」
「そうなのね。じゃあ、無理に勧めるのはやめておくわ」
エリナはあっさりと頷いた。
その頃には、テーブルの上に前菜が一通り並び終えていた。
焼きたてのパンが籠に盛られ、温かなスープからは湯気が立ち上っている。
そして、厨房からは先ほどよりも一層食欲をそそる香りが漂ってきた。
ロゼルはそちらへ目を向ける。
「……で、メインはまだか?」
「ふふっ、ロゼルったら」
エリナが楽しそうに笑う。
「もう少し待っていて。シェフが腕によりをかけて作っているところよ」
「そいつは楽しみだ」
ロゼルは前菜に手を伸ばした。
迷宮での泥まみれの逃走劇が、ずいぶん昔のことのように思える。
今はただ、温かい食事を腹いっぱい食べたい。
それだけだった。
リアが魚をじっくり煮込んだ濃厚なスープに舌鼓を打ち、ロゼルが上等なワインですっかりご機嫌になっていた頃。
ついに、メインディッシュが運ばれてきた。
従者が恭しく皿を置く。
そこに盛り付けられていたのは、こんがりと焼き上げられた肉料理だった。
表面には香ばしい焼き色がつき、肉の上には艶のあるソースがかけられている。付け合わせの野菜も色鮮やかで、見た目からして食欲をそそる一皿だった。
「お待たせいたしました。こちら、本日のメインディッシュでございます」
「おお……!」
ロゼルの目が輝いた。
肉はあらかじめ食べやすい大きさに切り分けられている。
ロゼルはさっそくフォークを手に取り、そのうちの一切れに突き刺した。
じゅわっ。
フォークを持ち上げた瞬間、肉汁がじわりと溢れ出す。
「…………」
ロゼルは思わず喉を鳴らした。
そして、そのまま口へ運ぶ。
パクリ。
「――!」
口に入れた瞬間、驚いた。
柔らかい。
あまりにも柔らかい。
歯を立てると、肉は抵抗することなくほろりと崩れた。
噛むたびに上質な脂の甘みが広がり、肉本来の旨味と濃厚なソースが絶妙に絡み合う。
それでいて、脂っこさは感じない。
口の中でとろけるようにほぐれた肉は、自然と喉の奥へ滑り込んでいった。
「…………」
ロゼルはしばらく無言だった。
そして、ゆっくりとフォークを下ろす。
「う、うまい……な……」
思わず漏れた声には、心の底からの感動が滲んでいた。
迷宮で硬い干し肉を齧り、固くなったパンをスープで流し込んできた身としては、この料理はもはや別世界の食べ物だった。
「なんだ、これ……」
ロゼルはもう一切れを口に運ぶ。
「うま……」
そして、また一切れ。
どうやら、すっかり夢中になっているらしい。
その隣では、リアも目を丸くしていた。
「何これ……!」
彼女は肉を口に入れたまま、驚いたように呟く。
「こんな柔らかいお肉、初めて……!」
リアは慌てて飲み込むと、すぐさま次の一切れに手を伸ばした。
パクリ。
モグモグ。
パクリ。
モグモグ。
「ん~~っ! おいしい!」
すっかり食べることに夢中になっている。
普段は食事の最中でも周囲への警戒を怠らないリアだが、今ばかりは目の前の肉に意識を奪われていた。
「これ、どうやって作ってるのかしら……。こんなに柔らかいなんて……!」
「さあな……。俺にもわからん」
ロゼルも肉を頬張りながら答えた。
「だが、間違いなく今まで食った肉で一番だ」
「でしょ!?」
二人は顔を見合わせ、再び肉へと視線を戻した。
そんな二人の様子を、エリナは隣から眺めていた。
その表情は、いつもの気の強い王女のものとは違っていた。
柔らかな笑みを浮かべ、ロゼルが美味しそうに食事をする姿を、じっと見つめている。
ロゼルが肉を口に運ぶたび、エリナの表情も自然と緩んでいった。
やがて、彼女はそっと声をかける。
「……美味しい? ロゼル」
「ああ、美味いよ」
ロゼルは顔を上げ、素直に答えた。
「来た甲斐があった」
「ふふふ……」
エリナは嬉しそうに笑った。
「それならよかったわ」
そして、自分の皿へ目を落とす。
まだ手をつけていない肉が、綺麗に盛り付けられていた。
エリナはフォークを置くと、ロゼルの方へ皿を少し押し出した。
「ねえ、ロゼル。私のも食べる?」
「……いいのか?」
ロゼルが意外そうに尋ねる。
「うん」
エリナは頷いた。
「なんだか、胸がいっぱいなの」
そう言って、ロゼルを見つめる。
「ロゼルが美味しそうに食べている姿を見ている方が、私は嬉しいわ」
「…………」
ロゼルは一瞬、きょとんとした。
それから、エリナの顔と皿を交互に見る。
「……そうか?」
「ええ」
エリナは穏やかに微笑んだ。
ロゼルは少しだけ首を傾げたものの、深く考えることはしなかった。
「なら、遠慮なく」
そう言うと、エリナの皿から肉を一切れ受け取り、パクリと口に運んだ。
「……うん。美味い。」
「ふふっ、よかった」
エリナは満足そうに頬杖をついた。
自分の皿が空になっていくことなど、少しも気にしていない。
ただ、隣で美味しそうに肉を頬張るロゼルを、幸せそうに眺めていた。
「そうだわ」
エリナが何かを思いついたように声を上げた。
「ロゼルたちに依頼を出そうかと思うの」
「……依頼?」
ロゼルは口に運んだ肉を上等なワインで流し込み、エリナへと目を向けた。
「ええ。私が国に帰るまで、ロゼルたちに護衛してもらいたいのよ。……だめ?」
先ほどまでの嬉しそうな表情とは違い、エリナは少し不安そうにロゼルの顔を窺っていた。
どうやら、断られる可能性も考えているらしい。
ロゼルはフォークを置き、少し考えた。
護衛任務そのものは珍しくない。
目的地はバザル王国。道中の危険を考えれば、護衛が必要なのも理解できる。
それに、今の自分たちには金も必要だ。
「俺は構わないぜ。アゼリアとリアが良ければ問題ない」
「また美味しい物食べれる?」
真っ先に反応したのはリアだった。
エリナは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「ええ! 毎日食べさせてあげるわ!」
「よし、受けよう!」
「お前、判断基準が食い物しかねぇのかよ……」
即答したリアに、ロゼルは呆れたように肩をすくめた。
「だって、こんな美味しいもの毎日食べられるんだよ? 断る理由ある?」
「……まあ、否定はしないが」
ロゼルも目の前の肉に視線を落とす。
これほどの食事を毎日楽しめるのなら、悪い話ではない。
「私は……ロゼル様に従います」
アゼリアも静かに頷いた。
彼女にとって、どこへ行くかよりもロゼルと一緒にいられることの方が大切なのだろう。
「なら、決定だな」
ロゼルがそう告げた瞬間だった。
エリナの表情が、ぱっと明るくなった。
「ほ、ほんと?」
「ああ。引き受けるぜ」
「よかった!」
エリナは胸の前で両手を握り、心底嬉しそうに笑った。
「これでまだロゼルと一緒にいられるわね!」
その言葉に、ロゼルは少しだけ首を傾げた。
「……まあ、依頼が終わるまではな」
「もう! そういうところよ、ロゼル!」
「何がだよ?」
「なんでもないわ!」
エリナは頬を膨らませたものの、すぐに機嫌を直した。
ロゼルはそんな彼女を不思議そうに眺めていたが、特に気にすることなくワインを口に運んだ。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、バザル王国には行ったことがないんだよな」
「そうなの?」
「ああ。あの国にも迷宮があると聞いてる。一度、行ってみたいと思ってたんだ」
冒険者にとって、未知の迷宮は魅力的な場所だ。
どんな魔物がいるのか。
どんな素材が採れるのか。
どんな構造をしているのか。
考えるだけでも、冒険者としての好奇心が刺激される。
もっとも、ロゼルの場合は好奇心だけではなかった。
迷宮を攻略すれば、今の自分の身体について何か手がかりが見つかる可能性もある。
「迷宮が、他にもあるんですか?」
アゼリアが不思議そうに尋ねた。
その反応に、リアが目を丸くする。
「アゼ姐、知らないの?」
「はい……。申し訳ありません。私、どうにも知らないことばかりで……」
アゼリアは困ったように微笑んだ。
記憶を失っている彼女にとって、自分が知っているはずのことすら分からないのは、もどかしいことなのだろう。
リアは気にした様子もなく、指を一本立てた。
「私たちが潜った深界迷宮のほかにも、グリンダ迷宮とアルバルの迷宮があるの。合わせて三大迷宮って呼ばれていて、冒険者の間じゃ有名よ」
「三大迷宮……」
「そうそう。もちろん、規模も魔物もそれぞれ違うらしいけどね。私も実際に潜ったことがあるのは深界迷宮だけだし、詳しいことまでは知らないわ」
「なるほどな」
ロゼルは頷いた。
三大迷宮か。
それぞれに異なる歴史や特徴があるのなら、冒険者として一度は見てみたいものだ。
そして――。
「アゼリアの記憶の手がかりもあるかもしれないしな」
ロゼルがそう口にすると、アゼリアは少し驚いたように顔を上げた。
「私の……記憶ですか……」
「ああ。今いる場所だけが手がかりとは限らないだろ。別の迷宮に何か残ってる可能性だってある」
もちろん、確証などない。
それでも、何もしないよりはいい。
アゼリアはしばらく考え込むように視線を落としたあと、小さく頷いた。
「……そうですね。何か分かるといいのですが」
そんな彼女を見ていたエリナが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……吟遊詩人の詩で、あなたと同じ名前を聞いたことがあるわ」
「詩?」
ロゼルが顔を向ける。
「それって、どういう詩だ?」
エリナは少し姿勢を正した。
まるで、幼い頃に聞かされた物語を思い出すように、どこか懐かしそうな表情を浮かべる。
「知らない? 『聖女アゼリアの詩』よ」
その言葉に、アゼリアの肩がぴくりと動いた。
「聖女……アゼリア……?」
「ええ。有名な詩なの。吟遊詩人によって細かな歌い方は違うけれど、こんな内容よ」
エリナは静かに語り始めた。
「蒼き瞳は涙を隠し」
「白銀の髪は風に揺れ」
「祈りは剣よりも強く」
「その身は夜に溶けて消えた」
彼女の声が、少しずつ静かになっていく。
「――ああ、アゼリア」
「青き薔薇の聖女よ」
「あなたの祈りは」
「今も街を守り続ける」
最後の一節を口にすると、エリナはそっと息をついた。
「……有名な詩よ。私も子供の頃から何度も聞いてきたわ」
食事の手を止めていたロゼルは、アゼリアへと視線を向けた。
蒼い瞳。
白銀の髪。
そして、アゼリアという名前。
偶然と言い切るには、あまりにも符合するものが多い。
「…………」
当のアゼリアは、何も言わずに自分の手を見つめていた。
まるで、心の奥底に沈んでいた何かが、かすかに揺れたかのように。
「アゼリア?」
ロゼルが声をかける。
彼女ははっと顔を上げた。
「……すみません。何か思い出せそうな気がしたのですが……」
そこまで言って、アゼリアは首を横に振った。
「やはり、何も……」
「そうか」
ロゼルはそれ以上、無理に尋ねなかった。
記憶を失った人間に、思い出せと迫っても仕方がない。
だが、手がかりが一つ見つかったのは確かだった。
聖女アズリア。青き薔薇の聖女。
その名が、アゼリアの失われた記憶とどう繋がっているのか。
そして、詩の最後にある――『今も街を守り続ける』という言葉は、いったい何を意味しているのか。
ロゼルはグラスに残ったワインを飲み干した。
「……バザル王国に行く理由が、一つ増えたな」
その言葉に、アゼリアは静かに頷いた。
「はい、ロゼル様」
彼女の青い瞳には、まだ答えのない不安と、ほんのわずかな希望が浮かんでいた。




