暗闇に光る目。
エリナとオリゴが寝息を立てるなか、ロゼルは岩陰に腰を下ろし、じっと暗闇を見つめていた。
周囲には、迷宮特有の静寂が広がっている。
時折、遠くから何かの鳴き声が響く。
それ以外には、何も聞こえない。
……少し眠いな。
ロゼルは小さく息を吐くと、荷物の中へ手を入れた。
取り出したのは、眠気覚まし用の香草だった。
細い葉を数枚まとめて口へ放り込み、噛み砕く。
途端に、口の中へ柑橘系の爽やかな香りが広がった。
だが、それも一瞬。
次の瞬間には、舌の奥まで突き刺さるような強い苦味が広がる。
「……にげぇ」
思わず眉間に皺が寄った。
それでも眠気は少し遠のいた。
ロゼルは香草を噛みながら、再び暗闇へ目を向ける。
――その時だった。
カツ。
……カツ。
何かが歩いている。
足音はほとんど聞こえない。
だが、闇の向こうで確かに何かが動いていた。
ロゼルの目が細くなる。
暗闇に目を凝らす。
やがて、夜石の淡い光が届く範囲へ、四足の影が入り込んできた。
犬。
……いや。
犬に似た魔物だ。
体格からしてヘルハウンドか、あるいはウォーグ。
暗すぎて、どちらなのかまでは判別できない。
魔物は鼻をひくつかせる。
クンクン、と鼻を鳴らしながら、辺りの匂いを探っていた。
ロゼルは大斧の柄へ手をかける。
だが、すぐには抜かなかった。
――まずいな。
このままじゃ、見つかるのは時間の問題だ。
はぐれの個体なら、まだいい。
だが、群れを持つ種類だったら厄介だ。
一度こちらの匂いを覚えられれば、しつこく追ってくる可能性がある。
エリナとオリゴを庇いながら戦うのは危険だ。
それに、ここで大斧を振り回せば、音で別の魔物を呼び寄せる可能性もある。
ロゼルは大斧から手を離した。
代わりに腰の投擲用短剣へ手を伸ばす。
一本。
そして、もう一本。
二本の短剣を抜き、刃を下に向けて構える。
魔物はまだこちらに気づいていない。
ロゼルは岩陰から静かに立ち上がった。
その瞬間だった。
ロゼルが離れたことに気づいたエリナが、眠ったまま手を伸ばす。
「……ん……」
指先が、何もない場所を探る。
ずっと握っていたものがなくなったことに気づいたのか、エリナが薄く目を開いた。
「……ロゼル……?」
その声が響いた瞬間。
魔物の耳が、ぴくりと動いた。
ロゼルは舌打ちする。
――気づかれた。
考えるより先に身体が動いた。
「ッ!」
ロゼルは岩陰から飛び出した。
魔物が振り向く。
だが、遅い。
ロゼルは地面を蹴り、そのまま魔物へ跳躍する。
落下の勢いを乗せ、両手の短剣を構えた。
狙うのは首。
一瞬で距離を詰め――
ズブッ!
二本の短剣が、魔物の首筋へ深々と突き刺さった。
「ギャオォンッ!」
魔物が大きく身体を跳ねさせる。
四本の脚が激しく地面を掻き、何度もばたばたともがいた。
ロゼルは短剣を抜かず、そのまま体重をかけて押さえ込む。
魔物の口から、血の泡が漏れた。
「……悪いな」
短く呟く。
数秒後。
魔物の身体から力が抜けた。
それを確認してから、ロゼルは短剣を引き抜く。
血を払って刃をしまう。
そして、すぐに岩陰へ振り返った。
エリナが半身を起こし、眠そうな目でこちらを見ている。
「……ロゼル……?」
「起こしちまったか」
ロゼルは小さく息を吐いた。
その視線だけは、まだ暗闇から離れていなかった。
ロゼルは短剣をしまうと、すぐさま大斧を握り直した。
倒した魔物へ視線を向けたまま、周囲の暗闇を警戒する。
――何かがおかしい。
その時だった。
暗闇の中で、赤い光がちらりと瞬いた。
ロゼルの目が細くなる。
また一つ。
さらにその向こうでも、赤い目がこちらを見つめている。
「……チッ」
ロゼルは軽く舌打ちした。
――騙された。
さっきの一体は、囮だったのだ。
こちらの出方を窺うために、わざと一体だけを近づけてきた。
ロゼルは首を動かさない。
目だけを動かし、周囲を探る。
右。
左。
……四。
いや。
「……五か」
暗闇に浮かぶ赤い目。
四つ、五つ。
おそらく五体。
いつの間にか、完全に囲まれていた。
暗闇の中でも目立つ、あの赤い瞳。
「ヘルハウンド……か」
ロゼルが呟く。
赤い目の群れが、ゆっくりと動き始めた。
一匹。
また一匹。
ロゼルを中心に、円を描くように周囲を回り始める。
逃げ道を塞ぐように。
その動きには、明らかに連携があった。
「……囲まれたな…」
ロゼルは大斧を両手で握り直した。
背後にはエリナとオリゴがいる。
ここで退けば、二人が襲われる。
なら――
前へ出るしかない。
「ロゼル!」
エリナの叫び声が響いた。
その声に反応して、オリゴも飛び起きる。
「な、なんですか!?」
だが、その瞬間だった。
五体のヘルハウンドが、一斉に地面を蹴った。
「――!」
四方から迫る黒い影。
鋭い牙を剥き、ロゼルへ飛びかかる。
その瞬間。
ロゼルは大斧から片手を離した。
そして腰から何かを取り出す。
「喰らえ!」
それを地面へ叩きつけた。
――パァンッ!!
瞬間。
辺り一帯が、真っ白に染まった。
「きゃあっ!」
あまりにも強烈な光に、エリナは反射的に腕で顔を覆う。
オリゴも目を細め、顔を背けた。
そして、光の中心にいたヘルハウンドたちは――
「……ッ!」
動きを止めた。
暗闇に慣れていた目を、突然の閃光に焼かれたのだ。
五体の動きが、一瞬だけ完全に止まる。
その瞬間を――
ロゼルは見逃さなかった。
「――そこだ!」
大斧を横薙ぎに振り抜く。
ブォンッ!
凄まじい勢いで振り抜かれた刃が、一体目を捉えた。
そのまま勢いを殺さず、隣の個体へ叩き込む。
さらにもう一体。
三体のヘルハウンドが、ほぼ同時に斧の軌道へ巻き込まれた。
ズバッ!
三体の身体がまとめて切り裂かれ、血が飛び散る。
ロゼルは止まらない。
横薙ぎの勢いを利用して身体を回転させ、そのまま残った一体へ大斧を叩き込む。
「ギャッ!」
最後に残ったヘルハウンドが飛び退く。
だが、逃がさない。
ロゼルは大斧から片手を離すと、腰の短剣を抜き。
投げつけた。
短剣が一直線に飛び、ヘルハウンドの身体へと突き刺さる。
「ギャッ!」
よろめくヘルハウンド。
閃光によって視界を奪われ、状況を理解できていない。
ロゼルは一気に距離を詰めた。
「終わりだ!」
踏み込む。
そして――
「ッ!」
渾身の力で蹴り飛ばした。
ドゴォッ!
ヘルハウンドの巨体が宙へ浮く。
十数メートル。
そのまま岩場へ叩きつけられた。
「グギャ……ッ」
口から血を吹き出し、身体が岩壁へ激突する。
――ぐちゃり。
鈍い音を立てて、その身体が地面へ落ちた。
「……ふぅ」
ロゼルは短く息を吐いた。
だが、気を抜かない。
すぐに大斧を構え直し、暗闇へ視線を走らせる。
左右。
背後。
さらに奥。
「……まだいるか?」
返事はない。
ロゼルは耳を澄ませながら、一歩も動かずに周囲を警戒する。
エリナとオリゴは、まだ状況を理解できずに息を呑んでいた。
そしてロゼルだけが、大斧を構えたまま暗闇を睨み続けていた。
「ロゼル!」
エリナが叫んだ。
「無事なの!? ロゼル!」
岩場から身を乗り出し、今にも飛び降りてしまいそうな勢いで、下にいるロゼルを探している。
「ひ、姫様! 危のうございます! お下がりを!」
オリゴが慌ててエリナの肩を掴む。
だが、エリナはそれを振り払うようにして、なおもロゼルを見下ろしていた。
「俺なら大丈夫だ!」
ロゼルは周囲を見回し、他に魔物の気配がないことを確認する。
「驚かせたな!」
そう言って、大斧を背中へと背負い直す。
そして岩壁へ手をかけ、足場を確かめながら登っていく。
岩場の上から、エリナが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
ロゼルが岩場へ手をかけた瞬間、エリナが身を乗り出す。
「け、怪我はないの!?」
「大丈夫だ。かすり傷ひとつない」
そう答えると、エリナはロゼルの言葉が本当なのか確かめるように、顔や腕をペタペタと触り始めた。
「ここは……?」
頬。
「こっちは……?」
腕。
傷がないことを確認するたびに、エリナの表情から少しずつ強張りが消えていく。
やがて、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「し、死んでしまったかと思ったわ……」
そして、強気な顔を作る。
「急に私から離れるのは、二度と許さないわよ!」
言葉こそ強い。
だが、その顔は今にも泣き出しそうだった。
ロゼルはそんなエリナを見て、やれやれと肩をすくめる。
「悪かったよ。教えている暇がなくてな」
「……ふんっ」
エリナはそっぽを向いた。
ロゼルは苦笑しながら水筒を取り出す。
蓋を開け、そのまま一口。
「……ふぅ」
乾いた喉を潤し、息を吐く。
そして岩壁に背中を預けた。
すると――
エリナが当然のようにロゼルへ身を傾けてくる。
まるで、そこが自分の定位置だと言わんばかりに。
ロゼルの手をぎゅっと握りながら、エリナが言った。
「喉が乾いたわ!」
「……」
「私にも飲ませなさい!」
ロゼルは軽くため息を吐いた。
「はいはい」
カップに水を入れようとする。
だが、片手はエリナにしっかりと握られている。
「……やりづらいんだが」
「いいから早く」
「ったく……」
ロゼルが水筒を傾けようとした、その時。
「違うわ!」
エリナが言った。
「その水筒から直接飲ませなさい」
「……?」
ロゼルは、何を言っているんだという顔をする。
「直接?」
「そうよ」
「……まぁ、いいけどよ」
ロゼルは水筒をエリナの口元へ持っていく。
エリナは素直に口をつけ、
「ごく……ごく……」
と、喉を鳴らしながら水を飲んでいく。
しばらくして水筒から口を離すと、
「ふぅ……」
満足そうに小さく息を吐いた。
「美味しい……」
「そうかい」
ロゼルは水筒を下ろす。
そして、今度はオリゴへ差し出した。
「ほら、あんたも飲むか?」
「ありがとうございます、ロゼル殿……」
オリゴが恐縮しながら手を伸ばす。
その瞬間。
「オリゴ!」
エリナがキッとした目で睨んだ。
「貴方はカップに移して飲みなさい!」
「えっ……」
オリゴの手が止まる。
「か、かしこまりました、姫様……」
オリゴは素直に引き下がると、カップを取り出した。
そこへ水筒から水を注ぐ。
「……いただきます」
オリゴはカップを両手で持ち、ゆっくりと水を口に含む。
一口。
二口。
そして、味わうようにゆっくりと飲み干した。
「……ふぅ」
ようやく一息ついたオリゴの横で、エリナは満足そうにロゼルの手を握ったままだった。
ロゼルは水筒をしまい、周囲の暗闇へ目を向けた。
「そろそろ一日ほど経ったはずだ」
そう呟いてから、二人へ視線を戻す。
「一度、地底湖のエリアまで戻って様子を見てみようと思う」
「やっと帰れるのですな!」
オリゴが、ほっとしたように声を上げる。
ロゼルはこくりと頷いた。
「ああ。ただし――」
そこで言葉を切る。
「水竜が大人しくしていたらの話だがな……」
オリゴの表情が固まった。
エリナも「帰れる」と聞いたはずなのに、どこか浮かない顔をしている。
ロゼルはそんな二人を見てから、少し真剣な表情になった。
「それと、出発する前に話しておかなきゃならないことがある」
「何かしら?」
エリナが尋ねる。
「地底湖みたいな水場では、セイレーンと出くわす可能性がある」
ロゼルは二人の顔を見ながら続けた。
「セイレーンの歌には魅了の効果がある。それは知っているな?」
エリナとオリゴが、揃ってこくりと頷く。
「ええ……知っているわ」
「はい」
「この三人の中で、まともに戦えるのは俺だけだ」
ロゼルは大斧へ一瞬だけ目を向けた。
「だから、セイレーンの歌声で俺まで魅了されたら終わりだ」
二人の表情が引き締まる。
「そこで、俺は耳に蝋を詰めて進もうと思う」
「なるほど……」
オリゴが頷く。
「ロゼル様が操られてしまえば、我々ではどうにもならないということですな」
「そうだ」
ロゼルは短く答えた。
「だから、何かあったら俺の肩を叩いてくれ」
「肩を?」
「ああ。合図を決めておく」
ロゼルは指を一本立てた。
「何か嫌な感じがしたら一回」
次に二本。
「魔物を発見したら二回」
そして三本目の指を立てる。
「それ以外は三回だ」
「わ、わかったわ」
エリナが少し緊張した面持ちで頷く。
オリゴも、
「承知いたしました」
と頷いた。
ロゼルは二人を見回す。
「いいか。声を出して知らせようとするな。これ以上水竜を刺激するのはよそう…」
二人はもう一度、黙って頷いた。
ロゼルはそれを確認すると、荷物をまとめ始めた。




