エリナ・ボレアレス
ロゼルは地面に仰向けになったまま、肩を大きく揺らして息をしていた。
「ゼェ……ゼェ……」
胸が激しく上下する。
肺が焼けるように苦しい。
それでも、少しずつ。
ゆっくりと呼吸を整えていく。
「……ふぅ……」
荒かった息が、徐々に落ち着いていく。
ロゼルは身体を起こすと、まず手の甲へ目を向けた。
先ほどアゼリアに刺された傷。
そして水竜に吹き飛ばされた際についた、身体中の細かな傷。
「……傷は小せぇし」
手の甲を軽く動かしてみる。
痛みはある。
だが、動かせないほどではない。
「手の甲の傷も、出血の割には大した事ない……」
ロゼルは傷口を確認する。
「これなら大丈夫だ」
そう呟くと、腰のポーチから道具を取り出した。
軟膏。
止血剤。
包帯。
迷宮へ潜る際に用意していた応急処置用の道具だ。
「やっぱり、迷宮に潜るなら準備はしっかりしておくもんだな……」
軟膏を傷口へ塗り、包帯を巻いていく。
深い傷はない。
幸い、骨にも異常はなさそうだった。
一通りの処置を終えると、ロゼルは大きく息を吐いた。
その少し離れた場所では、従者の男が倒れているエリナの身体を揺さぶっていた。
「お嬢様……!」
肩を揺する。
「起きてください。しっかりしてくだされ……」
「…………」
エリナは反応しない。
相変わらず、ぐったりとしたままだ。
ロゼルはその様子を横目で見ながら尋ねた。
「なぁ、あんたら何者なんだ?」
従者が顔を上げる。
「冒険者じゃねぇよな?」
「こ、これはしたり……」
男は慌てて姿勢を正した。
そして深々と頭を下げる。
「お礼がまだでしたな」
「私はこのお方の従者をしております。オリゴと申します」
オリゴは改めて頭を下げた。
「我々の命を救ってくださり、誠にありがとうございます」
「気にすんな」
ロゼルは包帯を巻き終えた手を軽く振った。
「俺はロゼルだ」
それから、地面で気絶しているエリナへ視線を向ける。
「それで?」
ロゼルは少し呆れたように続けた。
「その気絶してるバカ女は何者なんだ?」
「バ、バカ女……」
オリゴの顔が少し引きつる。
だが、すぐにエリナへ視線を落とした。
「こ、このお方は……」
言葉を濁す。
「むぅ……隠しておくことはできませんな」
オリゴは観念したように息を吐いた。
そして、静かに告げる。
「このお方は、隣国バザル王国の第三王女――」
一拍置いて。
「エリナ姫でございます」
「……王女?」
ロゼルはエリナを見る。
豪華な衣装。
明らかに迷宮へ来るような格好ではない。
その身なりからして一般人ではないとは思っていた。
だが――。
「第三王女とはな……」
ロゼルは額を押さえる。
「そりゃ、我儘なわけだ……」
「返す言葉もございません……」
オリゴが苦笑する。
ロゼルはエリナを見下ろした。
先ほどまでの威勢はどこへやら。
今は人形のようにぐったりしている。
「なんでまた王女さんが、こんな場所に?」
ロゼルは周囲を見回した。
「観光には不向きな場所だと思うがね……」
「はい……」
オリゴは困ったように頷いた。
「実は、エリナ様のお母上が冒険譚がお好きでしてな」
「冒険譚?」
「ええ」
オリゴは少し遠い目をする。
「エリナ様も幼少の頃より、母君から数々の冒険譚を聞かされて育ったのです」
ロゼルは黙って話を聞く。
「そして数ヶ月前のことです」
オリゴが続けた。
「城に一人の吟遊詩人が招かれましてな」
「そこで歌われたのが――」
オリゴは一度言葉を切った。
「ここの水竜の歌だったのです」
ロゼルの眉がわずかに動く。
「……ああ」
さっきエリナが言っていた。
あの吟遊詩人が歌っていた通り、と。
「その歌を聞いたエリナ様は、それはもう大層お気に召しましてな」
オリゴは苦笑する。
「何度も何度も歌を聞きたがり……しまいには」
「迷宮に行きたい、と?」
「はい」
オリゴは力なく頷いた。
「それ以来、エリナ様は迷宮へ行きたいと駄々をこねるようになりまして……」
ロゼルは頭を抱えた。
「……それで、本当に来ちまったのか」
「はい……」
オリゴは深々と頭を下げた。
「まことに、お恥ずかしい限りでございます」
ロゼルは呆れたように息を吐いた。
「父親や母親は止めなかったのか?」
「もちろん止めましたとも!」
オリゴは即座に答えた。
「この街へは、あくまで観光として来たのです。迷宮を外から眺めるだけ――そういう約束で、お忍びで来たのでございます」
「だったら、なんでこんなところにいるんだ?」
「それが……」
オリゴは頭を抱える。
「まさか……勝手に冒険者を雇い、水竜見学を企んでいたなんて……夢にも思いませんでした……」
「…………」
ロゼルはしばらく無言でエリナを見る。
そして、ぽつり。
「水竜級のバカ女ってことか……」
「…………」
「行動力がある分、タチが悪い」
「……おっしゃる通りでございます」
オリゴの表情が痛々しく歪んだ。
そのときだった。
「……ん」
地面に倒れていたエリナの身体が、ぴくりと動いた。
「んん……」
「!」
オリゴがびくりとする。
「エ、エリナお嬢様……?」
エリナはゆっくりと上半身を起こした。
「おお……!」
オリゴが安堵したように顔をほころばせる。
「目覚めましたか……!」
エリナはまだ意識がはっきりしていないのか、トロンとした目で周囲を見回した。
「こ、ここは……?」
かすれた声。
「水竜は……何処へ……?」
そして、不安そうに辺りを見渡す。
「ここは……何処なの?」
「まだ、ここは迷宮の中でございます」
オリゴが答える。
「ですが、そちらのお方が我々を水竜から救ってくださったのです」
「……え?」
エリナの視線が、ゆっくりとロゼルへ向いた。
その顔にはまだ化粧の跡が残っているものの、先ほどの騒ぎで汗や涙に流されている。
化粧が落ちたことで、年相応の――まだ少し幼さを残した、美しく整った顔があらわになっていた。
エリナはしばらくロゼルを見つめる。
「…………」
そして。
何かを思い出したように、目が見開かれた。
尻を叩かれたこと。
その瞬間、顔がみるみる赤くなっていく。
整った眉がキッと吊り上がった。
「……貴様」
ロゼルが眉を上げる。
「私を助けたのか?」
「ああ」
「…………」
エリナはロゼルを睨みつけた。
「尻を叩かれたことは許せぬが――」
そこで一度、胸を張る。
「褒めてやろう」
「はぁ?」
ロゼルが呆れた声を漏らす。
エリナはそんなロゼルの反応など気にも留めず、ゆっくりと立ち上がった。
そして――
すっと右手を差し出した。
手の甲をロゼルへ向ける。
「…………?」
ロゼルは首を傾げた。
「なんだ、この手?」
その横で、オリゴの顔が青ざめる。
「ロ、ロゼル殿!」
オリゴは慌ててロゼルの耳元へ顔を寄せた。
「これは貴族の礼儀作法でして……!」
「礼儀?」
「はい!」
オリゴは小声で説明する。
「手の甲を差し出された場合、その手を軽く取り、膝をつくか――指輪に軽く口づけをするのが紳士の作法なのです……!」
「…………」
ロゼルは差し出されたエリナの手を見る。
それからエリナの顔を見る。
「…………はぁ」
大きくため息を吐いた。
そして――
パシッ。
エリナの手を雑に払いのけた。
「そんなアホな事しねぇよ」
「…………」
エリナが固まった。
信じられないものを見るような目で、自分の手を見る。
そして、ゆっくりとロゼルへ視線を戻す。
「…………」
その表情には、はっきりとこう書いてあった。
――この男、今……私の手を払った?
エリナは、自分の手を払われたことがどうしても信じられないといった表情を浮かべていた。
「こ、この無礼者!」
顔を真っ赤にしながら、ロゼルを睨みつける。
「私が誰かわからんのか!」
「私はバザル王国第三王女であるぞ!」
ロゼルは面倒そうに、手のひらをひらひらと振った。
「知らねぇよ……そんなの」
「なっ……!」
エリナの顔が引きつる。
「知らないだと?」
「そんなわけ……」
信じられないといった様子でロゼルを見つめ、それから身なりを見下ろす。
「片田舎の猿には、王族の顔もわからんか!」
「…………」
ロゼルの眉がぴくりと動いた。
だが、エリナは気にする様子もなく、ふんと鼻を鳴らす。
「まあいい」
エリナは自分の足元へ視線を落とした。
「おい、お前」
「俺か?」
「他に誰がいる」
エリナは当然のように命令する。
「私の足をさすれ!」
「……は?」
「歩き続けて足が痛いのだ」
ロゼルは呆れたようにエリナの足を見る。
そして、ため息をついた。
「やだよ」
「なっ……!」
「汚い足なんぞ触りたくない」
「…………」
エリナの顔が固まった。
「な、な、な……」
肩を震わせる。
「今、なんと言った!?」
「何だよ」
「私の足が汚いと言ったな!?」
「言ったか?」
「言ったではないか!」
エリナは真っ赤な顔で詰め寄る。
「『汚い足なんぞ触りたくない』と言ったではないか!」
「知らねぇよ……」
ロゼルは露骨に面倒そうな顔をした。
「そもそも、なんで俺がお前の足を揉まなきゃならねぇんだよ」
「私は王女だぞ!」
「それがどうした」
「どうしたではない!」
エリナがさらに声を荒らげる。
「王女の足を揉むのは栄誉なことであろう!」
「……あー、もう」
ロゼルは頭を掻いた。
「面倒くせぇな、あんた」
その様子を見ていたオリゴが、慌てて二人の間へ割って入った。
「お、お嬢様! どうかお落ち着きくだされ!」
「足なら私が揉みましょう!」
「爺は引っ込んでおれ!」
エリナはオリゴを睨みつける。
「私はこの者に命令しておるのだ!」
「しかし、お嬢様……」
「黙れ!」
ロゼルは二人のやり取りを眺めながら、とうとう大きくため息を吐いた。
「……うるせーなぁ」
エリナが振り返る。
「何だと?」
「俺たちは別に仲間でもねぇだろ」
ロゼルは肩をすくめた。
「あんたらとは縁もゆかりもないんだ。別行動したって、俺は構わねぇぜ?」
そう言うと、ロゼルは二人に背を向けた。
「お、おい!」
そのままスタスタと歩き出す。
「待て!」
ロゼルは止まらない。
「命令よ!」
「待ちなさい!」
それでもロゼルは振り返らなかった。
「おい! 聞いているのか!」
「待てと言っているでしょう!」
背後からエリナの声が響き続ける。
「この無礼者!」
「戻ってきなさい!」
「私を誰だと思っているの!?」
ロゼルはそれらをすべて無視し、迷宮の奥へと歩いていく。
「まったく……」
小さく呟きながら、さらに歩を進める。
背後では、エリナの叫び声がいつまでも響いていた。
「ロゼル殿……」
背後からオリゴがおずおずと声をかけた。
「何処まで進むのでしょう?」
ロゼルは歩みを止めずに答える。
「水竜の怒りが収まるまで、しばらく大人しくしていたい」
一度、後ろを振り返る。
「少なくとも一日くらいは、あそこには近づきたくないな」
「い、一日も……?」
オリゴの顔から血の気が引いていく。
「こんな所で……一日も……」
「仕方ねぇだろ」
ロゼルは肩をすくめた。
「確か、この先にセーフポイントじゃないが、休める岩場があったはずだ」
「岩場……ですか?」
「ああ」
ロゼルは前方を見ながら続ける。
「そこなら魔物が現れても気づきやすい。高い位置にある岩場だから、下から来る奴にもすぐには襲われない」
「なるほど……」
「そこで時間を潰そうと思う」
オリゴは少し考えたあと、恐る恐る尋ねた。
「な、なるほど……」
そして頭を下げる。
「我々もついて行ってもよろしいでしょうか?」
ロゼルはちらりと後ろを見る。
「好きにしな」
「ありがとうございます!」
「ただし――」
ロゼルの視線がエリナへ向く。
「その女が騒がないならな」
「なっ……!」
エリナがむっとした表情を浮かべる。
「私は別に――」
何か言い返そうとした瞬間。
「お嬢様!」
オリゴが慌てて止めた。
「ここはどうか……!」
「…………」
エリナは不満そうに口を閉じる。
明らかに気に入らないという顔をしていた。
だが――
迷宮の暗闇は、やはり怖いらしい。
少し歩くと、いつの間にかエリナはロゼルのすぐ後ろを歩いていた。
最初は数歩離れていた。
だが、暗闇の奥から何かの鳴き声が聞こえるたびに、少しずつ距離が縮まっていく。
そして、ついには――
きゅっ。
ロゼルの服の端を掴んだ。
「…………」
ロゼルは気づいていた。
だが、振り返らない。
「……はぁ」
小さくため息を吐くだけだった。
エリナは何も言わず、ロゼルの服を掴んだまま離れようとしない。
先ほどまでの威勢の良さはどこへやら。
ロゼルは一度だけ横目でその手を見る。
「…………」
そして何も言わず、再び前を向いた。
好きにさせておくことにした。
岩場へ向かってしばらく歩くと、やがて前方に大きな岩壁が見えてきた。
その岩壁の途中には、ちょうど三人ほどが休めそうな平らな場所がある。
地面からかなり高い位置だ。
ロゼルは岩場を見上げ、それから後ろにいるエリナとオリゴを見る。
「…………」
少し考える。
「この二人じゃ登れないだろうな」
エリナはもちろん、オリゴも年齢のせいか、この高さをよじ登るのは難しそうだった。
「仕方ない……」
ロゼルはそう呟くと、ゆっくりと膝をついた。
そしてエリナへ振り返る。
「ほら」
「……?」
「おんぶして岩場まで運んでやるから、つかまりな」
「お、おんぶ……?」
エリナは目を丸くした。
その場で一瞬、躊躇する。
どうやらおんぶされた経験がないらしい。
エリナが困ったようにオリゴを見る。
オリゴはすぐに彼女へ顔を寄せ、何事か耳打ちした。
「…………」
「……なるほど」
エリナは小さく頷いた。
そして、まだ少し戸惑いながらもロゼルの背中へ近づく。
「こう……か?」
「そうそう」
エリナがロゼルの背中へ身体を預ける。
細い腕がロゼルの首元へ回った。
そして、そのまま身体を覆いかぶせるようにして背中へ乗る。
ロゼルは立ち上がった。
「……軽いな」
エリナの身体は思っていたよりずっと軽かった。
ほとんど重さを感じない。
「しっかり捕まれよ」
ロゼルが言う。
「落ちて怪我しても知らないぞ」
「わ、わかった!」
そう言われたエリナは慌てた。
ぎゅっ。
ロゼルの身体を強く抱きしめる。
さらに足までロゼルの身体へ絡める。
「お、おい……」
完全に身体へしがみついている。
その姿は、まるで巨大なカタツムリのようだった。
「……これでいいか?」
「まあ、落ちなきゃいい」
ロゼルはそのまま岩壁へ向かった。
足場を一つずつ確かめながら、ゆっくりと登っていく。
エリナはロゼルの背中にぴったりとくっついたまま、黙っている。
途中、下を見そうになり――
「ひっ……」
慌ててロゼルの髪に顔を埋めた。
ロゼルは気づいていたが、何も言わなかった。
やがて――
「着いたぞ」
岩場の上へ到着する。
ロゼルはしゃがみ込み、エリナをゆっくりと下ろした。
「ほら」
「……う、うん」
エリナが岩場へ足をつく。
ロゼルはすぐに踵を返した。
「じゃあ、オリゴを連れてくる」
「え……」
ロゼルはそのまま岩場の下へ戻っていく。
エリナはその背中を目で追った。
そして――
無意識に手が伸び。
ロゼルの服の端を掴む。
「…………」
一瞬躊躇し何かを言おうとしたセレナだが、
ロゼルの服の端を、名残惜しそうに離した。
どうやら、ほんの一瞬でもこの岩場で一人になるのが嫌らしい。
エリナは不安そうな顔で、下へ降りていくロゼルを見つめた。
ロゼルはそんなことには気づかず、すぐに岩場の下へ到着する。
「よし、次は爺さんだな」
「よろしくお願いします……」
ロゼルはオリゴも同じように背負った。
「しっかり捕まってろよ」
「は、はい!」
そして再び岩場を登っていく。
今度はエリナよりは少し重そうではある。
それでもロゼルは難なく登りきった。
「着いたぞ」
「ありがとうございます……」
オリゴを岩場へ下ろす。
これで三人とも、高い岩場の上へ集まった。
ロゼルは一息つくと、背負っていた荷物を下ろした。
そして中をゴソゴソと探り始める。
「……ほれ」
取り出したのは、一枚の白いハンカチだった。
「これで顔を拭きな」
ロゼルはエリナへ差し出す。
「…………」
エリナは少し驚いたような顔をした。
だが、今度は素直に受け取る。
「ありがとう……」
ハンカチで顔を拭いていく。
汗。
埃。
涙。
さっきまでの騒ぎで汚れていた顔を拭くたびに、白かったハンカチはどんどん汚れていった。
やがて――
「…………」
真っ白だった布は、エリナの汗や埃で真っ黒になっていた。
エリナはそれを見つめる。
そして、気まずそうにモジモジし始めた。
「…………」
返そうとする。
だが、手が止まる。
こんなに汚してしまったことが恥ずかしいのだろう。
ロゼルはそれに気づくと、軽く手を振った。
「そのハンカチ、あんたにやるよ」
「え?」
エリナが顔を上げる。
「……いいの?」
「ああ」
エリナは汚れたハンカチを見つめる。
それを大事そうに握りしめた。
そして、小さな声で呟く。
「……あ、ありがと」
「ん?」
「なんでもない」
ロゼルは気にせず、再び荷物を漁り始めた。
「さて、と……」
今度取り出したのは、火の魔石が組み込まれた小型のコンロだった。
その上に小さなカップを置く。
水を注ぎ――
コロン。
固形のスープの素を一つ落とす。
「これでいい」
火の魔石を起動させる。
小さな火が灯り、カップの中の水がゆっくりと温められていく。
ロゼルは残りの食料を確認した。
ライ麦パンが少し。
ベーコンが一欠片。
そして、小さなチョコレートが二つ。
あとは水だけ。
「…………」
ロゼルは食料を見つめる。
「まあ、今日はこんなもんでいいか」
そう呟き、温まり始めたスープをじっと見つめた。
カップの中の水は、すぐに沸騰し始めた。
「よし」
ロゼルは小さなスプーンを取り出すと、固形のスープの素が溶けるまで、くるくるとかき混ぜていく。
やがて、薄い湯気とともに塩気のある香りが立ち上った。
ロゼルは三つのカップを並べる。
そして、鍋代わりに使っていたカップを傾け、三人分のスープを分けていった。
一瞬だけ手が止まる。
ロゼルはエリナの顔を見る。
先ほどまでの騒ぎで、彼女はすっかり疲れ切っている。
「……まあ、いいか」
ロゼルはエリナのカップに、ほんの少し多めにスープを注いだ。
オリゴがそれに気づき、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……かたじけない、ロゼル殿」
「気にすんな」
ロゼルは自分のカップを手に取った。
その隣では、エリナが待ちきれないとばかりにスープへ顔を近づけている。
そして――
「……っ」
カップを持ち上げ、そのまま口をつけようとした。
「姫様……」
オリゴが小声で止める。
「はしたのうございますぞ」
「……!」
エリナの動きが止まった。
顔がみるみる赤くなる。
「い、いただくわ……」
今度はきちんとカップを両手で持ち、少しずつスープを口へ運ぶ。
ロゼルは特に気にした様子もなく、残った食料を取り出した。
ライ麦パンを温める。
そして、たった一欠片だけ残っていたベーコンをコンロの火で炙っていく。
じゅうっ……。
ベーコンから脂が染み出し、ぽたり、ぽたりと落ちる。
香ばしい肉の匂いが、岩場の周囲へ広がっていった。
「…………」
エリナの動きが止まる。
鼻が、ぴくりと動いた。
そして――
「ぐぅぅぅ……」
静かな岩場に、妙に大きな音が響いた。
「…………」
エリナが固まる。
自分のお腹を見下ろす。
「…………?」
どうやら、自分のお腹が鳴ったこと自体に驚いているらしい。
ロゼルは聞こえなかったふりをした。
何もなかったかのようにベーコンを炙り続ける。
「…………」
エリナは気まずそうに視線を逸らした。
やがてロゼルは、温めたライ麦パンにベーコンを挟む。
玉ねぎも挟もうとしたが――
「……そういや、玉ねぎはもうねぇか」
セイレーンの涙を採取するために、全部使ってしまった。
残っている食料はこれだけだ。
ロゼルがパンを見る。
そしてエリナを見る。
エリナはパンをじっと見つめていた。
「…………」
ごくり。
唾を飲み込む音が聞こえた。
パンは一枚しかない。
ロゼルは小さくため息をついた。
「……仕方ねぇな」
ナイフを取り出す。
パンを半分に切る。
そして、少しだけ大きい方をエリナへ差し出した。
「ほら」
「……え?」
エリナが目を丸くする。
「食え」
残った方をオリゴへ渡す。
「ロゼル殿……」
オリゴはパンを受け取りながら、申し訳なさそうな顔をした。
「よろしいのですか?」
「いいって」
「重ね重ね、申し訳ない……」
そのやり取りを見ていたエリナは、手元のパンとロゼルを交互に見た。
「…………」
その表情が、少しだけ悲しそうになる。
自分のせいで食料を分けさせてしまった。
そんなことを考えているようだった。
ロゼルはその顔を見て、肩をすくめる。
「食って大丈夫だぜ」
「…………」
「俺はこういうのには慣れてるからな。数日くらい食わなくても平気だ」
そう言って、ロゼルは自分の服に落ちていたパン屑を指で拾った。
そのまま口へ放り込む。
「……ん」
そして水筒から水を一口飲む。
「ふぅ……」
エリナはしばらくロゼルを見つめていた。
やがて――
恐る恐る、パンへかぶりつく。
「……!」
目が大きく開いた。
塩気のあるベーコンと、硬いライ麦パン。
決して豪華な食事ではない。
むしろ王宮で食べてきた料理とは比べものにならない。
それでも――
「……!」
エリナはもう一口。
そして、さらに一口。
次第に食べる速度が上がっていく。
「ん……んむっ……」
口いっぱいにパンを頬張り、スープを飲んで流し込む。
オリゴも黙々とパンを食べている。
やがてエリナの手元から、パンがなくなった。
「…………」
エリナは空になったカップを見つめる。
まだ飲みたい。
そんな気持ちが、顔にそのまま出ていた。
ロゼルはそれを見ると、水筒を取り出した。
「ほら」
カップへ水を注ぐ。
「口の中、塩辛いだろ?」
「……!」
エリナが両手でカップを受け取る。
そしてロゼルは、もう一つ取り出したものをエリナの掌へ落とした。
ぽとり。
小さなチョコレート。
「それと、ほれ」
「…………」
エリナは掌の上の小さなチョコレートを見つめた。
「オリゴにもやる」
「これは……」
オリゴの手にも一つ落とす。
「遠慮するな。二つしかねぇからな」
そう言うと、ロゼルはコンロやカップ、スプーンなどを片付け始めた。
エリナはチョコレートを口へ入れた。
すぐには噛まない。
舌の上で転がし、ゆっくりと溶かしていく。
甘さが口の中へ広がっていく。
それを少しでも長く味わおうとしているのか、エリナはじっと目を閉じていた。
やがて水を一口。
もう一口。
そして、最後まで飲み切る。
「……ふぅ」
小さなため息が漏れた。
満腹というほどではない。
けれど、温かいスープとパン、それに甘いチョコレート。
極限まで張り詰めていた身体から、ようやく力が抜けていく。
エリナの瞼が、少しずつ重くなっていった。
「…………眠い」
ぽつりと呟く。
そのまま岩壁へ背を預ける。
ロゼルは片付けを続けながら、ちらりとエリナを見る。
「……まあ、そりゃそうだろ」
水竜に追われ、迷宮を走り回ったのだ。
疲れて当然だった。
エリナがスヤスヤと寝息を立て始める。
その隣では、オリゴも静かに目を閉じていた。
二人が眠りについたのを確認すると、ロゼルは岩場の端に腰を下ろし、暗闇へと目を向けた。
迷宮の奥では、灯りが届かない場所に何が潜んでいるのか分からない。
ロゼルは周囲の気配を探りながら、じっと警戒を続けていた。
しばらくすると、遠くから小さな足音が聞こえてきた。
――ザッ、ザッ。
ロゼルは身を固くする。
やがて暗闇の中から、数体のゴブリンらしきモンスターが姿を現した。
鼻を鳴らしながら、何かを探すように辺りを歩いている。
だが、ロゼルたちのいる岩場には気づかない。
そのまま別の通路へと消えていった。
「……行ったか」
ロゼルは小さく呟き、再び周囲を警戒する。
それから、どれほど時間が経っただろうか。
岩場に身を寄せてから数時間ほど経った頃。
「ん……」
エリナが小さく身じろぎした。
やがてゆっくりと上体を起こし、ぼんやりと周囲を見回す。
そして、何度も辺りを確認するように視線を動かし始めた。
落ち着かない。
明らかに何かを探している。
ロゼルはそんなエリナの様子に気づき、振り返った。
「……用を足したいか?」
「――っ!」
エリナの顔が一瞬で真っ赤になった。
まるで、この世の終わりでも来たかのような顔をしている。
「な、なにを……!」
「いや、違うならいいけどよ」
ロゼルは察したように立ち上がると、エリナに背中を向けた。
「ほら。ここじゃできないだろ?」
そして、その場にしゃがむ。
「下ろしてやるから、つかまりな」
エリナはしばらく固まっていた。
だが、やがて小さく頷く。
「……うん」
おそるおそるロゼルの背中に腕を回す。
次の瞬間――
ぎゅっ。
エリナはロゼルの背中にしがみつくように抱きついた。
「そんなに力入れなくても落とさねぇよ」
「……」
返事はない。
ロゼルはそのまま立ち上がると、エリナを背負って岩場を下りていく。
足場が悪いため、一歩ずつ慎重に進む。
数メートルほど下ったところで、ロゼルは足を止めた。
「ここら辺でいいだろ」
エリナを地面に下ろす。
「悪いが、ここらで済ませてくれ」
そう言ってロゼルが離れようとした、その時だった。
ぎゅっ。
腕を掴まれた。
「……?」
振り返ると、エリナがロゼルの腕を強く握っていた。
「い、いかないで……」
声が震えている。
そして、消え入りそうな声で続けた。
「……そばにいて……」
ロゼルは少し困ったように眉を寄せた。
「……そばって言われてもな」
暗闇を見回す。
「俺は構わないが……いいのか?」
「……」
エリナは顔を真っ赤にしたまま、俯いて小さく頷いた。
「わかったから」
ロゼルはため息をつく。
「早く済ませちまいな」
「……うん」
ロゼルはエリナのいる反対方向へ身体を向けた。
暗闇の中で、エリナがしゃがみ込む気配がする。
衣服が擦れる小さな音。
そして、すぐに――
「……ロゼル」
「ん?」
「……手」
「手?」
エリナがロゼルの手を掴んだ。
そのまま、ぎゅっと握る。
「……これでいい」
「そうか」
ロゼルは何も言わず、その手を握り返した。
しばらくして、静かな岩場に小さな水音が響く。
ロゼルは何も聞こえていないような顔をして、暗闇を見つめ続けた。
微かな匂いが漂ってきても、気づかないふりをする。
エリナが恥ずかしい思いをしなくて済むように。
ただ、握られた手だけは離さなかった。
用を済ませると、ロゼルはエリナを再び背負い、岩場へと戻っていった。
足場の悪い場所を慎重に登り、先ほどの岩場まで戻る。
「よし、着いたぞ」
ロゼルがエリナを下ろそうとすると――
ぎゅっ。
エリナはロゼルの手を離そうとしなかった。
そのまま身体を寄せ、ロゼルに体重を預ける。
「……?」
ロゼルはエリナの様子を見て、少しだけ首を傾げた。
「怖いのか?」
「……うん」
エリナは素直に頷いた。
そして、ロゼルの手を握ったまま、小さく呟く。
「でも……こうしてると安心するわ……」
「……ふふっ」
ロゼルは思わず軽く笑った。
「お姫様は、まだまだお子ちゃまってことか」
「むっ」
エリナの頬が膨らむ。
「私は貴方よりは年上よ」
「そうなのか?」
「見れば分かるでしょう」
「いや、まあ……そうだな」
ロゼルはエリナの顔をちらりと見る。
「俺はもうすぐ四十だぞ」
「……え?」
エリナが目を丸くした。
まるで嘘をつかれたとでも言うような表情で、ロゼルをじっと見つめる。
「信じられないわ……」
「そうか?」
「私の妹より幼く見えるのに……」
「……」
ロゼルは一瞬黙った。
そして、ふと何かを思い出した。
――そういえば、まだ言ってなかったな。
この姿になってから、周囲からどう見られているのかは嫌というほど分かっている。
言うべきか迷った。
だが、エリナがこうして自分の手を握っているのを見て、ロゼルは一応伝えておくことにした。
「それと……」
「?」
「俺はこんななりだが、男だからな。一応」
「…………」
エリナの表情が固まった。
次の瞬間――
「……は?」
頬が一気に赤くなる。
「男?」
「そうだ」
「ありえないわ……」
エリナは信じられないものを見るように、ロゼルの顔を凝視する。
「嘘よ……」
「本当だ」
ロゼルは少し困ったように頭を掻いた。
「一応……男だ」
そして、握られていた手をそっと離そうとする。
「……やっぱ、まずいよな。男は」
その瞬間だった。
「だ、だめ!」
エリナが慌てて手を握り直した。
「離してはダメよ!」
「お、おい」
「これは命令よ!」
「……」
ロゼルは呆れたようにエリナを見る。
けれど、エリナは顔を真っ赤にしたまま、それでも手だけは絶対に離そうとしない。
「……まあ、そう言うならいいけどよ」
ロゼルは苦笑しながら、そのままエリナの隣に腰を下ろした。
エリナも少しだけ安心したように、握った手に力を込めた。
ロゼルは気まずそうに、頭をぽりぽりと掻いた。
なんとも妙な空気になってしまった。
そんなロゼルを横目に、エリナが口を開く。
「貴方は……ロゼルは冒険者なの?」
「ああ、そうだぜ」
「ふーん……冒険者なんだ……」
エリナは少し考えるように呟く。
「冒険者って、危険なのよね?」
「まあな。毎年、大勢の冒険者が死ぬ」
「危険な仕事なのね……ふーん」
エリナは少しだけ眉を寄せる。
だが、すぐに別の疑問が浮かんだらしい。
「それで、いくらくらい稼げるの?」
「そうだな……」
ロゼルは少し考える。
「ピンからキリまでいるが、A級冒険者でも年に金貨数千枚とかじゃないかな?」
「金貨数千枚……」
エリナが目を丸くする。
そして、ロゼルの顔を見る。
「ロゼルはA級なの?」
「ぐっ……」
ロゼルは気まずそうに視線を逸らした。
「俺は……D級だ」
「……D級?」
「ああ」
「Aじゃないの?」
「違う」
エリナは少し考えてから、首を傾げる。
「なら、お給料は金貨千枚くらい?」
「……」
ロゼルは呆れたように笑った。
「まさか」
「違うの?」
「年に数百枚稼げれば大成功さ」
「そうなんだ……」
エリナは妙に納得したように頷く。
「数百枚なんだ……」
そして、少し間を置いて。
「ならさ、ロゼル……」
「ん?」
「いっそ、私に仕えるのはどう?」
「仕える?」
「うん」
エリナは何でもないことのように言った。
「私に仕えてくれるなら、その何倍もあげるわ。お金ならいくらでもあるもの」
「それは……」
ロゼルは少し困った顔をする。
「すまん。できないな」
「……どうして?」
エリナがむくっと身体を起こした。
「今よりずっと稼げるし、安全よ?」
「昔の俺なら、あるいは受けていたかもな」
ロゼルは暗闇へ目を向けた。
「でも、今の俺には仲間や、その仲間との約束があるんだ」
「……」
「俺一人の都合で、勝手はできないのさ」
エリナは黙ったまま、ロゼルをじっと見つめる。
その視線を感じたロゼルは、なんとなく居心地が悪くなった。
――こういう時の女性は強い。
ロゼルはぷいっとエリナから目を逸らした。
「ふーん……」
エリナが小さく呟く。
「ロゼルには、他に大切な人がいるのね」
「まあ、そうだな」
ロゼルは少し考えてから答えた。
「家族みたいなもんだ」
「家族か……恋人じゃないのね…」
その言葉を聞いたエリナは、なぜか少し嬉しそうな顔をした。
そして――
ぎゅっ。
ロゼルの手を、再び強く握る。
「お、おい……」
さらにエリナはロゼルの腕へ身体を寄せ、足まで絡めるようにしてくる。
「近すぎないか?」
「暖かいからいいじゃない」
「……そういう問題か?」
ロゼルは困ったように頭を掻いた。
しかし、エリナは離れる気配を見せない。
そのままロゼルの肩へ身体を預ける。
しばらくすると――
「……すぅ……」
エリナから小さな寝息が聞こえてきた。
どうやら、また眠ってしまったらしい。
それでもロゼルの手だけは、絶対に離さないと言わんばかりに、ぎゅっと握ったままだった。
「……やれやれ」
ロゼルは苦笑する。
そして、エリナを起こさないように姿勢を整えると、再び暗闇へと視線を戻した。
静かな迷宮の中。
ロゼルは周囲の気配に意識を集中させ、警戒を再開した。




