水竜
「リア!」
ロゼルが叫んだ。
「戦おうとしなくていい! 上層の入り口に向かって走れ!」
「わ、わかったわ!」
リアは一瞬だけ水竜へ視線を向けた。
だが、すぐにロゼルの言葉に従って走り出す。
「アゼリアもだ!」
「はい!」
「走れ!」
「承知しました!」
ロゼルたちは一斉に駆け出した。
背後では、アゼリアが生み出した骨龍とスケルトン兵たちが、水竜へ向かって殺到していく。
二体の骨龍が巨大な顎を開き、地面を揺らしながら突進する。
無数のスケルトン兵も、その後に続いた。
だが――。
「グォォォォォッ!」
水竜が咆哮した。
その巨体がわずかに動く。
そして。
ブォンッ!!
巨大な尾が横薙ぎに振るわれた。
直撃。
一体の骨龍が、まるで紙細工のように吹き飛んだ。
骨が砕ける。
頭蓋が割れ、背骨が折れ、肋骨が散らばる。
巨大な身体が一瞬でバラバラになった。
それでも、残った骨が地面を這うように動いた。
前脚の骨が水竜へ伸びる。
鋭い爪が、その巨体へ食らいつこうとする。
ガキィンッ!
しかし――。
傷一つ、つかなかった。
水竜の鱗はまるで巨大な鎧だった。
骨龍の爪が弾かれる。
「グルル……」
水竜はそれすら気に留めていない。
その足元では、スケルトン兵たちが必死に槍を突き立てていた。
「カタカタカタ……!」
骨の槍が鱗へ突き刺さる。
だが――。
ギィンッ!
槍の穂先が砕けた。
一本。
また一本。
何本突き立てても、水竜の鱗には傷一つ残らない。
水竜は鬱陶しそうに足を持ち上げる。
そして――。
ドンッ!
軽く振り払った。
それだけだった。
数体のスケルトン兵がまとめて吹き飛び、岩壁へ叩きつけられる。
骨が砕け、身体がバラバラに崩れ落ちた。
それでも水竜は、逃げていくロゼルたちを追おうともせず、邪魔をする骨の群れを払い続けている。
ロゼルは走りながら、背後を一瞬だけ確認した。
「……よし」
骨龍もスケルトン兵も、時間稼ぎにはなっている。
「これなら抜けられる!」
そう思った、その瞬間だった。
――♪
ロゼルの耳に、何かが届いた。
足が止まりかける。
「……?」
遠くから聞こえてくる。
水の音に混じっている。
かすかで、美しい声。
――♪ ♪……
歌。
ロゼルの目が見開かれた。
「これは……歌?」
その瞬間。
走っていたはずの身体が、ぴたりと止まった。
「……?」
足が動かない。
頭では走れと分かっている。
なのに、身体が言うことを聞かなかった。
歌声が、妙に心地いい。
もっと聞きたい。
もっと近くで聞きたい。
そんな考えが、頭の中へゆっくりと染み込んでくる。
「……セイレーンだ」
ロゼルが呟いた。
その声に、リアが振り返る。
「ロゼル?」
ロゼルは答えられない。
歌声のする方へ、身体が勝手に向こうとしている。
湖の方へ。
水の中へ。
まるで何かに手招きされているように――。
「……くそっ」
ロゼルは自分の意思とは無関係に、一歩を踏み出した。
セイレーン。
その歌声が、三人へ襲いかかっていた。
「ロゼル様!」
アゼリアの叫び声が響いた。
しかし、ロゼルは止まらない。
まるで声が届いていないかのように、湖へ向かって歩き始めていた。
一歩。
また一歩。
その足取りには、先ほどまでの焦りも警戒もない。
ただ、歌声に導かれるように、ゆっくりと水際へ近づいていく。
「ロゼル様!」
アゼリアが駆け寄り、その背中を強く叩いた。
バシッ!
「……」
ロゼルは振り返らない。
足取りも止まらない。
「ロゼル様……!」
もう一度、肩を掴んで揺さぶる。
それでも反応はない。
アゼリアの眼窩の炎が大きく揺れた。
「意識が……戻らない……」
このままではロゼルが湖へ入ってしまう。
そう判断したアゼリアは、すぐに両手を前へ出した。
「ロゼル様……申し訳ありません!」
掌に小さな青い炎が集まり始める。
炎は渦を巻きながら、徐々に形を変えていった。
細い柄。
鋭い刃。
やがて、小さな骨で作られた短剣が完成する。
アゼリアはそれを握りしめると――。
「……っ!」
ロゼルの手を掴み、その手の甲へ短剣を突き立てた。
ザクッ!
「痛っ!」
白い肌から、真っ赤な血が噴き出した。
その瞬間だった。
ロゼルの瞳が大きく揺れる。
ぼんやりとしていた焦点が、徐々に戻っていく。
「……あ?」
自分がどこにいるのか。
なぜ湖へ向かって歩いていたのか。
そして――手の甲から流れる血。
ロゼルはそれらを一瞬で確認した。
「ロゼル様!」
アゼリアが叫ぶ。
ロゼルは自分の手の甲を見つめ、それからアゼリアへ視線を向けた。
「……助かった」
短く息を吐く。
「これが……セイレーンの魅了か」
「ロゼル様、お怪我は大丈夫ですか!?」
「ああ、大したことねぇ」
ロゼルはそう言うと、手の甲の傷口をペロリと舐めた。
口の中に広がった血を、すぐにペッと吐き出す。
「これくらいなら――」
その時だった。
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
「……待て」
何かがおかしい。
ロゼルは周囲を見回した。
「リアは?」
さっきまで一緒に走っていた。
自分とアゼリアのすぐ近くにいたはずだ。
「リアはどこに……?」
ロゼルの視線が湖へ向く。
そして――。
「……!」
水竜がいる方角。
その水際に、一人の人影があった。
「リア……?」
ふらふらと、覚束ない足取りで歩いている。
一歩。
また一歩。
まるで何かに引っ張られるように――。
リアは、ゆっくりと湖へ向かっていた。
「まずい!」
ロゼルが叫んだ。
「リア!!」
「リア!」
アゼリアも声を張り上げる。
「しっかりしてください!」
しかし、リアは振り返らない。
歌声は、まだ続いていた。
水竜のいる湖へ向かって――。
リアの足は、止まらなかった。
ロゼルは自分の服の裾を掴むと、勢いよく引き裂いた。
ビリッ――!
細長く裂けた布を手に取る。
そして、先ほどアゼリアに刺された手の甲の傷口を強く握り込んだ。
傷から滲んだ赤い血が、白い布へとじわりと染み込んでいく。
ロゼルはそれを確認すると、布をさらに細く丸めた。
そして――
自分の小さな耳へと、血の染みた布を詰め込んでいく。
「ロゼル様……?」
アゼリアが不安そうに声をかける。
ロゼルはもう一方の耳にも同じように布を詰めた。
これで完全に音を遮断できるわけじゃない。
それでも、何もしないよりは遥かにマシだ。
ロゼルは湖の方角を睨みつける。
「アゼリアはここにいろ!」
「えっ――」
返事を待つことなく、ロゼルは地面を蹴った。
一瞬で距離が開く。
「ロゼル様!」
アゼリアの叫び声を背中に受けながら、ロゼルは走った。
湖へ向かっていたリアの背中が見える。
「リア!」
だが、リアは振り返らない。
足取りはふらつき、何かに引っ張られるように一歩、また一歩と水辺へ向かっている。
「くそっ!」
ロゼルはさらに速度を上げた。
そして――
一気にリアの隣へと追いつく。
「リア!」
「…………」
返事はない。
ロゼルは腰の投擲用短剣を引き抜いた。
そして躊躇なく――
リアの手の甲へ突き刺した。
「っつぅ!」
リアの身体が跳ねた。
「痛っ……!」
刺さった手を反射的に胸元へ抱き寄せる。
そこでようやく、リアの瞳に光が戻った。
「ろ、ロゼル……?」
「喋ってる暇はねぇ!」
ロゼルはリアの顔を見ることもなく、湖の向こうへ視線を向けた。
そこには、水竜の起こした巨大な波に揺られながら、岩場に身を潜めていたセイレーンの姿があった。
歌声はまだ続いている。
ロゼルは短剣をもう一本抜いた。
「歌を止める!」
「え――?」
リアが声を上げるより早く、ロゼルは短剣を投げた。
ヒュッ――!
短剣が一直線に飛ぶ。
狙いは外れない。
「ギャッ――!」
短剣がセイレーンの喉へ吸い込まれた。
歌声が途切れる。
その瞬間だった。
水竜が巨大な身体を動かした。
ズゴォォォン――!
湖面が大きく盛り上がり、巨大な波が岩場を飲み込んでいく。
セイレーンの身体も、その波にさらわれた。
「ギャ……!」
その姿は瞬く間に水の中へ消えていった。
ロゼルは振り返る。
「リア! 走れ!」
「う、うん!」
リアはまだ足元がおぼつかない。
それでも必死に身体を立て直し、アゼリアのいる方向へ走り出した。
「アゼ姐……!」
「リア!」
アゼリアが駆け寄る。
だが――
ロゼルはその場から動かなかった。
背後から、巨大な気配が迫っている。
ゆっくりと振り返る。
水竜がいた。
黒い瞳が、まっすぐロゼルを捉えている。
「……見てんじゃねーよデカブツ…」
水竜の身体が沈む。
次の瞬間――
ズンッ!
大地が揺れた。
巨大な前足が持ち上がる。
鋭い爪が夜石の光を受け、ぎらりと輝いた。
「ちっ!」
ロゼルは背負っていた大斧を引き抜く。
両手で柄を握り締める。
「来い……!」
水竜の前足が振り下ろされる。
ロゼルも同時に踏み込んだ。
「おおおおおおっ!」
全身の力を込め、大斧を振り上げる。
ガギィィィン――!
大斧の刃が、水竜の硬い鱗へ叩き込まれた。
凄まじい衝撃が腕を駆け抜ける。
だが――
「なっ……!」
傷がつかない。
水竜の鱗は、まるで巨大な鎧そのものだった。
そして次の瞬間。
「ぐっ――!」
水竜の前足が大斧ごとロゼルを弾き飛ばした。
ドゴォンッ!
身体が宙を舞う。
地面へ叩きつけられ、そのまま何度も転がっていく。
「ロゼル様!」
アゼリアの叫び声が響いた。
ロゼルの身体は地面を何度も跳ねた。
「ぐっ……!」
背中を打ち、肩を擦り、最後には勢いのまま岩場へ叩きつけられる。
「がはっ……!」
土埃が舞い上がった。
全身のあちこちに裂傷が走り、服も大きく破れている。
それでも――。
「……っ」
ロゼルは歯を食いしばり、地面に手をついた。
痛む身体を無理やり起こす。
膝が震える。
それでも倒れない。
ロゼルはすかさず叫んだ。
「アゼリア! リアを連れて先にいけ!」
「ですが、ロゼル様は!?」
アゼリアが振り返る。
その隣では、リアが刺された手の甲をもう片方の手で押さえながら、苦しそうにロゼルを見ていた。
ロゼルはそんなリアの姿を一瞬だけ見つめる。
そして、すぐにアゼリアへ視線を戻した。
「俺なら大丈夫だ!」
「ですが――!」
「お前達だけで先にいけ!」
ロゼルは大斧を握り直す。
腕にはまだ水竜の一撃を受けた衝撃が残っている。
それでも、声だけは力強かった。
「墓所で合流しよう!」
アゼリアは言葉を失った。
目の前には、傷だらけになりながらも立ち上がったロゼル。
そして、痛む手を押さえながら立っているリア。
アゼリアはリアを見る。
それから、もう一度ロゼルを見る。
――私達がいては、ロゼル様の邪魔になってしまう……。
ならば――。
「……ここは、リアを連れて引くしか……」
アゼリアは拳を握り締めた。
そして、決意したように顔を上げる。
「わかりました、ロゼル様!」
ロゼルが頷く。
「墓所で待ちます」
アゼリアはリアの身体を支えるように肩を抱いた。
「どうか……ご無事で!」
「ああ。先に行ってろ」
アゼリアは一度だけ振り返った。
傷だらけのロゼルが、巨大な水竜と向かい合っている。
その姿を目に焼き付けるように見つめ――
「行きましょう、リア」
「……うん」
リアも小さく頷いた。
アゼリアに支えられながら、上層へ続く道へと歩き出す。
一歩。
また一歩。
二人の姿が暗い通路の奥へ消えていく。
それを見届けたロゼルは、ゆっくりと水竜へ向き直った。
「……さて」
大斧を構える。
「ここからは、俺一人だな」
ロゼルは、アゼリアとリアの姿が通路の奥へ消えていくのを確認した。
「……よし」
これで二人は大丈夫だ。
そう思った直後――。
ズン……。
地面が揺れた。
ロゼルが振り返る。
水竜が、ゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
巨大な身体が動くたび、湖面が大きく揺れる。
黒い瞳が、まっすぐロゼルを捉えている。
「……まだ俺を狙ってやがるのか」
そのときだった。
ロゼルの視界の端に、うずくまっている人影が映った。
「……あ?」
すぐ近くだ。
エリナが地面にうずくまり、肩を震わせながら泣いている。
その隣では、先ほどから「爺」と呼ばれていた従者が必死に彼女を立たせようとしていた。
「エ、エリナ様!」
「……ひっ……!」
「立ってくだされ! お願いします!」
従者が両腕を掴んで引っ張る。
だが、エリナは恐怖で身体が固まってしまっている。
「いや……いやぁ……!」
涙を流しながら、ただ首を横に振る。
足にはまったく力が入っていない。
「エリナ様! このままでは……!」
「……チッ」
ロゼルは舌打ちした。
水竜は、もうすぐそこまで来ている。
このまま二人を置いていけば、あの巨体に巻き込まれるのは時間の問題だ。
「面倒くせぇ……!」
ロゼルは大斧を背中へ担いだ。
そしてエリナと従者のところまで一気に駆け寄る。
「えっ――」
「な、何を――」
ロゼルは二人の身体をまとめて掴んだ。
「うおっ!」
ぐいっ!
そのまま一気に持ち上げる。
両腕に二人分の人間を抱えたまま、ロゼルは立ち上がった。
「な、なんと……!」
従者が目を見開く。
「す、すごい力じゃ……!」
だが、エリナはそれどころではなかった。
突然身体を持ち上げられた恐怖で、さらに取り乱す。
「いやぁぁぁ!」
バタバタと足を動かす。
「降ろして! 降ろしてぇ!」
ロゼルの顔を叩く。
肩を叩く。
腕を振り回し、必死に抵抗する。
「このっ……!」
ロゼルの眉間に皺が寄った。
「大人しくしやがれ!」
バンッ!
「――っ!」
ロゼルは暴れるエリナを黙らせようと、思わず尻を強く叩いた。
思った以上に力が入っていた。
「…………!」
エリナの口が大きく開く。
声にならない叫びを漏らしたあと――
「…………」
ぐったり。
身体から力が抜けた。
「……お、お嬢様?」
従者が呆然とする。
エリナは完全に大人しくなっていた。
ロゼルは一瞬だけエリナを見た。
「……気絶したか?」
返事はない。
その口元からは、力が抜けたように涎が一筋垂れている。
「……まあいい!」
ロゼルは二人を抱え直した。
そして――
「走るぞ!」
地面を蹴った。
ドドドドドッ!
ロゼルは全力で駆け出した。
背後から、ズン……ズン……と巨大な足音が迫ってくる。
水竜がロゼルたちを追っていた。
上層へ続く入り口へ向かって走るロゼルを見て、水竜はその巨体を横へ動かした。
「……っ!」
ロゼルの目の前で、巨大な身体が上層への道を塞ごうとする。
「チッ!」
このままでは正面からぶつかる。
ロゼルは即座に方向を変えた。
「こっちだ!」
上層とは逆方向へ駆け出す。
水竜の横を抜け、さらに奥へ。
「グォォォォォ――!」
背後から、巨大な咆哮が響いた。
ロゼルは振り返らない。
ただひたすら走る。
腕にはエリナ。
もう片方には従者。
二人分の重量が両腕にかかっている。
それでも止まらない。
やがて、背後に見えていた水竜の姿が少しずつ小さくなっていく。
遠ざかっていく巨体。
「グォォォォ……!」
まるで、
――待て。
そう言っているかのような鳴き声が響く。
だが、ロゼルは無視した。
「知るか……!」
視界の端を魔物の影が横切る。
だが、それも無視する。
今は戦っている場合ではない。
ひたすら走る。
走って。
走って。
さらに走る。
どれだけ時間が経ったのか。
十数分か。
あるいは二十分ほどか。
ロゼルにはもう分からなかった。
ただ、足を止めれば追いつかれる。
それだけを考えて、全力で駆け抜けた。
「はぁ……っ!」
呼吸が乱れる。
肺が焼けるように苦しい。
それでも走る。
やがて――
「……っ!」
前方に、次の階層へ続く通路が見えた。
ロゼルはそこへ飛び込む。
長い通路を抜け――
「ここまで……来れば……!」
ようやく足を止めた。
ロゼルは抱えていた二人を地面へ下ろす。
「ほらっ!」
ドサッ。
エリナと従者が地面へ転がる。
そして――
「……俺も……無理……」
ロゼル自身も、その場でばたりと倒れ込んだ。
「ゼェ……ゼェ……!」
身体中が酸素を求めている。
肺が激しく上下する。
「ゼェ……ッ、ハァ……ッ……!」
腕も足も限界だった。
しばらく起き上がることすらできない。
ロゼルは地面に仰向けになったまま、荒い呼吸を繰り返す。
少しずつ。
少しずつ。
身体の鼓動が落ち着いていくのを待った。




