謎の骸骨。名はアゼリア。10年以上前の死体。
アゼリアが名乗ると、
ロゼインはしばらく黙っていた。
奈落は静かだった。
どこか遠くで、
水滴が石を叩く音だけが響いている。
ポツン。
ポツン。
⸻
ロゼインは自分の体をもう一度見た。
細い腕。
小さな手。
胸元まで垂れる金色の髪。
⸻
どう見ても、
自分の体ではない。
⸻
「……おい」
ロゼインが言った。
⸻
アゼリアは静かに首を傾げる。
「はい」
⸻
「これ」
ロゼインは自分を指差す。
「お前がやったのか」
⸻
少しの沈黙。
⸻
アゼリアは考えるように首を傾げた。
骨がコトリと鳴る。
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「やった、と申しますと?」
⸻
「俺の体だよ!」
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ロゼインは勢いよく立ち上がろうとして――
ふらついた。
⸻
視界が揺れる。
体が軽い。
軽すぎる。
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「おっと」
⸻
倒れそうになったロゼインを、
アゼリアが支えた。
骨の手だったが、
動きは驚くほど丁寧だった。
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「まだお体が安定しておりません」
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「……誰のせいだ」
⸻
アゼリアは少し困ったような声を出す。
「まぁ」
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「一応、お命は助けたつもりなのですが」
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ロゼインの眉が動いた。
「助けた?」
⸻
アゼリアは修道服の袖から
小さなガラス瓶を取り出した。
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中身は空。
⸻
「これをお飲みになりました」
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「……なんだそれ」
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「聖血でございます」
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奈落の静寂の中で、
その言葉だけが落ちた。
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ロゼインは眉をひそめる。
「聞いたことねえな」
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「わたくしも詳しくは存じません」
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アゼリアは正直に言った。
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「ですが」
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「強い回復の奇跡を持つものだと」
「聞いております」
⸻
ロゼインは自分の体を見る。
小さな体。
細い腕。
⸻
「……奇跡?」
⸻
アゼリアは静かに頷いた。
「ええ」
⸻
「少し副作用があったようですが」
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ロゼインの顔が引きつる。
⸻
「少しじゃねえ!」
⸻
奈落に少年の怒鳴り声が響いた。
⸻
その時だった。
低い唸り声が奈落に響いた。
「グルルル……」
暗闇の奥で、赤い光が揺れる。
目だ。
四つ。
六つ。
八つ。
次の瞬間、影が動いた。
石の床を爪が引っ掻く。
ガリッ
暗闇から現れたのは
腐った狼だった。
毛は抜け落ち、肉が裂け、
ところどころ骨が露出している。
腐狼。
奈落の死肉を喰らう
ダンジョンの獣だ。
一匹が低く身を沈めた。
背中の毛が逆立つ。
「来るぞ――」
ロゼインが言い終わる前に
腐狼は飛んだ。
速い。
牙が喉を狙う。
ロゼインは反射的に腕を上げた。
「くっ――!」
その瞬間。
足が動いた。
石の床を踏み込む。
ドンッ
奈落の石床が鈍く鳴った。
靴が砂を散らす。
体が横へ滑る。
腐狼の牙が空を噛んだ。
ロゼインの頬のすぐ横。
腐臭が鼻を刺す。
「……は?」
体が軽い。
違う。
動きすぎる。
自分の意思より先に体が反応している。
もう一匹の腐狼が横から飛びかかった。
ロゼインの腕が伸びる。
掴む。
腐った首の毛皮を。
骨が手の中で軋む。
「え?」
そのまま――
振った。
ブンッ
腐狼の体が宙を回る。
ドガン!!
奈落の石壁に叩きつけられた。
古い石が割れる。
砂と小石がぱらぱら落ちる。
腐狼の体は壁にぶつかり、
骨の音を立てて崩れ落ちた。
ロゼインは固まる。
自分の手を見る。
細い腕。
子供の腕。
「……俺?」
低い唸り声が広がる。
残りの腐狼が円を描くように広がった。
奈落の通路は狭い。
石柱が並び、天井は低い。
逃げ場はない。
腐狼の口から涎が垂れる。
「来いよ……」
ロゼインが構える。
次の瞬間。
三匹の腐狼が同時に動いた。
一匹が正面から。
一匹が柱の影を回り込む。
もう一匹が跳び上がる。
ロゼインの視界が静かになる。
動きが見える。
全部。
遅い。
正面の牙を避ける。
床を蹴る。
砂が舞う。
体を捻る。
拳が振り抜かれる。
ドンッ!!
拳が腐狼の胴にめり込んだ。
骨が砕ける音。
体が床を滑る。
そのまま柱にぶつかり止まった。
ロゼインは止まらない。
背後。
風の動きで分かる。
振り向きざまに腕を振る。
ゴンッ
拳が腐狼の頭に当たる。
頭蓋が歪む。
体が浮く。
そのまま石床に落ちた。
乾いた音。
動かない。
残った腐狼が止まった。
赤い目が揺れる。
唸るが、近づかない。
ロゼインが一歩踏み出す。
石がコツンと鳴る。
腐狼が後退る。
もう一歩。
ロゼインの拳がゆっくり握られる。
「……なんだよこれ」
奈落は静かだった。
遠くで水滴が落ちる。
腐狼は完全に怯えていた。
ロゼインの匂いを嗅ぐように鼻を動かし――
逃げた。
暗い通路の奥へ。
爪の音が遠ざかる。
静寂が戻った。
ロゼインは立ち尽くす。
拳を見る。
息が荒い。
「……意味わかんねえ」
背後で骨が鳴った。
コツン。
コツン。
アゼリアが歩いてくる。
「まぁ」
静かな声。
ロゼインが振り向く。
「おい」
「はい」
「これお前の薬のせいか?」
アゼリアはロゼインを見つめた。
骨の瞳。
観察するように。
しばらくして言う。
「可能性はございます」
ロゼインは額を押さえる。
「ふざけんな……」
アゼリアは丁寧に一礼した。
「ですが」
「お強いです」
ロゼインは頭を抱えた。
「そういう問題じゃねえ……」
奈落の奥で水滴が落ちた。
ポツン、と。
ロゼインはしばらく頭を抱えていた。
やがて大きく息を吐く。
「……はぁ」
それから視線を落とした。
床。
腐狼の死体。
そのすぐ横に――
黒く乾きかけた血があった。
ロゼインの眉がわずかに動く。
「……あ」
ぼんやりと思い出す。
空腹。喉の渇き。
冷たい石床。
体が動かなくなっていく感覚。
視界が暗くなって――
その時だ。
口元に何かが触れた。
ガラス。
冷たい液体。
無理やり流し込まれた赤い味。
ロゼインはゆっくり顔を上げた。
アゼリアを見る。
骨の顔。
黒い修道服。
静かに立っている。
ロゼインは少しだけ目を逸らした。
頭を掻く。
「……あー」
気まずそうに言う。
「さっきの」
「助けたって話」
アゼリアは静かに待っている。
ロゼインは眉をしかめた。
「……多分」
少し間。
「本当っぽいな」
アゼリアは小さく頷いた。
「はい」
ロゼインは鼻を鳴らした。
それからぼそっと言う。
「……その」
また沈黙。
奈落に水滴が落ちる。
ポツン。
ロゼインは顔をしかめた。
「一応」
アゼリアを見る。
「ありがとな」
奈落は静かだった。
アゼリアはゆっくり頭を下げる。
「どういたしまして」
ロゼインは少しだけ肩をすくめた。
それからふと顔を上げる。
「……で」
アゼリアを見る。
目が鋭くなる。
「話戻すぞ」
指を向ける。
「アゼリアとか言ったな」
アゼリアは頷いた。
「はい」
ロゼインは一歩近づく。
「お前は何者なんだ」
奈落の空気が少し張り詰める。
腐狼の死体の匂いが漂っていた。
「魔物か?」
アゼリアは少し考えるように沈黙した。
骨の指が顎に触れる。
コトン。
それから静かに答えた。
「……分かりません」
ロゼインの眉が跳ね上がる。
「は?」
アゼリアはゆっくり続けた。
「わたくし」
「多くの記憶を失っております」
奈落に水滴が落ちた。
ポツン。
「覚えているのは」
「アゼリアという名と」
「ここにいることだけでございます」
ロゼインは腕を組んだ。
「……記憶喪失かよ」
アゼリアは静かに頷く。
「はい」
ロゼインは天井を見上げた
子供の体。
怪力。
スケルトン。
記憶喪失。
指を折って数える。
「……情報多すぎだろ」
奈落は静まり返っていた。
遠くで水滴が落ちる。
ポツン。
ポツン。
ロゼインはしばらく黙っていたが、
やがて小さく舌打ちした。
「……で」
アゼリアを見る。
「ここはどこだ?」
アゼリアは静かに首を傾げた。
骨がコトリと鳴る。
「迷宮でございます」
ロゼインは眉をしかめた。
「それは見りゃ分かる」
少し間を置く。
「階層だ」
低く言う。
「何階層だって聞いてる」
奈落は静まり返っていた。
アゼリアは少し考えるように沈黙する。
そして言った。
「……申し訳ございません」
「分かりません」
ロゼインは小さく息を吐いた。
「だろうな」
ゆっくり立ち上がる。
足元で骨が転がる。
コツ。
乾いた音が奈落に響いた。
ロゼインは周囲を見渡す。
骨。
砕けた鎧。
折れた武器。
長い間放置された死体の残骸。
ロゼインは足元の武器を一つ拾い上げた。
折れた剣。
刃は完全に錆びている。
だが――
柄の紋章は残っていた。
ロゼインの目が細くなる。
「……これ」
カンテラの光に近づける。
盾と剣の紋章。
見覚えがある。
「王都遠征隊の紋章だ」
アゼリアが静かに尋ねた。
「有名なのでしょうか」
ロゼインは首を振った。
「いや」
少し考える。
「有名ってより……古い」
鎧を指で叩く。
カン。
鈍い音が奈落に響く。
ロゼインは鎧を見下ろした。
「この装備」
「十年以上前の型だ」
奈落は静まり返っていた。
ロゼインはゆっくり周囲を見る。
骨の山。
武器。
鎧。
回収されていない死体。
そして、この静けさ。
「……おかしい」
低く呟く。
アゼリアが尋ねた。
「何がでございますか」
ロゼインは通路の奥を見た。
暗闇。
光の届かない奈落。
そこから冷たい風が流れてくる。
ロゼインはゆっくり言った。
「迷宮は」
「二十階層まで地図がある」
アゼリアは黙って聞いている。
ロゼインは続けた。
「遠征隊が調査して」
「冒険者ギルドがまとめた地図だ」
骨を踏む。
パキッ。
乾いた音。
「階段の位置」
「魔物の縄張り」
「休める場所」
「そういうのを少しずつ調べて地図にする」
奈落で水滴が落ちる。
ポツン。
ポツン。
ロゼインは言葉を続けた。
「ただし」
「普通の冒険者が出入りできるのは」
少し間を置く。
「せいぜい五階層までだ」
アゼリアは静かに聞いている。
ロゼインは暗闇を見たまま言った。
「十階層で中級」
「十五階層は上級」
そして一拍置く。
「二十階層は」
小さく息を吐く。
「一流の冒険者が遠征隊を組んで降りる領域だ」
ロゼインは骨の山を顎で示した。
「だからここが上層なら」
低く言う。
「こんな風に」
「装備が放置されてることはない」
奈落は静まり返っていた。
遠くで水滴が落ちる。
ポツン。
ポツン。
ロゼインは続ける。
「しかも」
「十五階層から下は」
骨を軽く蹴る。
パキッ。
「調査も六割くらいだ」
「通路も全部は分かってない」
奈落の奥で風が鳴る。
ヒュウ……
ロゼインは暗闇を見つめた。
「それでも」
低く言う。
「二十階層までは」
「一応」
少し間を置く。
「人類が地図を持ってる場所だ」
ロゼインはゆっくり息を吐く。
そして続けた。
「でも」
「二十階層より下は」
「地図がない」
アゼリアが静かに尋ねた。
「誰も行っていないのでしょうか」
ロゼインは首を振った。
「いや」
少し考える。
「昔」
「最高位の冒険者の遠征隊が」
「三十階層のフロアボスまで到達した」
奈落の奥で風が鳴る。
ヒュウ……
ロゼインは暗闇を見つめた。
「ただし」
低く言う。
「それっきりだ」
骨の山を軽く蹴る。
パキッ。
「二十階層より下はな」
ロゼインは静かに言った。
「一流の冒険者が遠征隊を組んで潜るような場所だ」
少し間を置く。
「それだけの準備しても」
「パーティの何人かは死ぬ」
奈落は静まり返っていた。
ロゼインは足元の鎧を見る。
古い装備。
回収されていない死体。
小さく息を吐く。
「つまり」
暗闇を見る。
「ここが」
一拍。
「二十階層より下だったら」
乾いた笑いを漏らす。
「俺たちは」
「一流冒険者が簡単に死ぬような場所にいる訳だ」
奈落で水滴が落ちた。
ポツン。
ポツン。
ロゼインは暗闇を見つめたまま呟く。
「……ここから」
「出られるのか…俺たちは…」




