地底湖。
ロゼル一行は、セーフエリアの墓所を後にし、再び迷宮の奥へと進んでいった。
しばらく歩いていると、先ほどまでとは明らかに空気が変わっていく。
ひんやりとした空気の中に、少しずつ湿気が混じり始めた。
それは次第に濃くなり、肌にまとわりつくような感覚へと変わっていく。
リアが首元をぱたぱたと手で仰いだ。
「なんだか空気がベタベタするわね」
「地底湖が近いってことだ」
先を歩くロゼルが答える。
「空気が重くてむせそうになるだろ?」
「うん。髪の毛もペタってする」
リアは自分の髪を摘まんで、少し嫌そうに眺める。
それから後ろを歩くアゼリアへ視線を向けた。
「アゼ姐は平気なの?」
「私は特に……」
アゼリアは少し考えるようにしてから、自分の足元へ目を落とす。
「ただ、足元がジメジメするのは少々気持ちが悪いですね……」
「アゼ姐、綺麗好きだもんねー」
リアが楽しそうに笑う。
「はい。できることなら、今すぐ洗濯したいです……」
アゼリアは少しだけ困ったように呟いた。
「帰るまでは我慢だ」
ロゼルが振り返らずに言う。
「地底湖に着いたら、泥くらいは落とせるだろう」
「そうですね……」
アゼリアは少しだけ元気を取り戻したように頷いた。
「それを楽しみに頑張ります」
三人はそのまま、湿気を増していく通路を進んでいく。
足元には薄く水が溜まり始め、歩くたびに靴底から小さな水音が響く。
壁も次第に濡れていき、ところどころから水滴が落ちていた。
そして――
しばらく進んだところで、目の前が突然開けた。
「……」
ロゼルが足を止める。
その先に広がっていたのは、見渡すことすらできないほど巨大な湖だった。
地底湖。
迷宮の地下深くに存在する、果ての見えない水の世界。
天井には無数の夜行石が輝いている。
淡い光を放つそれらが湖面に映り込み、キラキラと辺りを照らす。
さらに湖の中では、青や黄色に発光する魚たちが群れを成して泳いでいる。
魚が動くたび、水の中に色鮮やかな光が揺らめく。
夜行石の光と魚たちの光が重なり、地底とは思えないほど幻想的な光景を作り出していた。
迷宮の中だというのに、暗さを感じない。
アゼリアが灯していた青い炎さえ、必要ないほどだった。
その光景を目の前にしたリアは、しばらく言葉を失っていた。
そして――
「す、すっごーい!!」
思わず大声を上げる。
「ここ迷宮なの!?」
リアは湖の奥を見渡しながら、目を輝かせた。
「キレーイ……!」
その声が、広大な地底湖に響き渡っていった。
ロゼルは、思わず声を上げたリアの口元へ、そっと手を伸ばした。
「むぐっ……」
突然口を塞がれ、リアがくぐもった声を漏らす。
ロゼルは人差し指を口元に当てるような仕草をしながら、声を潜めた。
「しぃ……大きい声は出さない方がいい……」
ゆっくりと手がリアの口から離れる。
リアは慌てて頷き、今度は小さな声で尋ねた。
「わ、ご、ごめん……」
そして、先ほどまでの興奮が少しずつ引いていく。
「ここって……やっぱり危険なの?」
ロゼルは答える代わりに、地底湖の奥へ目を向けた。
そして、湖畔にいくつか並ぶ大きな岩場の一つを指差す。
「あれ、見てみろ……」
「……?」
リアはロゼルの指先を追うように、目を凝らした。
アゼリアも同じ方向へ視線を向ける。
先ほどまで穏やかだった表情が変わり、眉間にわずかに皺が寄った。
三人が見つめる先。
岩場の近くの水面が――ゆらり、と揺れた。
小さな波紋が広がっていく。
「……?」
リアが目を細める。
だが、何も見えない。
そう思った次の瞬間だった。
水面の下。
かなり深い場所。
水深にすれば、十メートルは下だろうか。
そこに――それはいた。
大きい。
あまりにも大きすぎて、最初は何なのか理解できない。
巨大だと認識することすら、一瞬遅れるほどだった。
水中をゆっくりと進む巨大な身体。
まるでボートのような大きさのひれが、水を押し分ける。
全身を覆う鱗は、天井に輝く夜行石の光を受け、鈍い輝きを返していた。
尾がゆっくりと動く。
その一振りだけで、水中に大きな流れが生まれる。
その姿は、まるで大木が水の中を進んでいるようだった。
そして――
ゆっくりと、頭部がこちらへ向いた。
龍を思わせる輪郭。
それでいて、どこか深海に潜む生物を思わせる異様な形状。
口元からは鋭い牙がちらちらと覗いている。
そして何より――
真っ黒な瞳。
その瞳が、こちらを捉えていた。
「……っ」
リアの背筋に、冷たいものが走った。
さっきまで綺麗だと騒いでいたことなど、頭から吹き飛んでいる。
リアは声を潜めた。
「あ、あれ何……?」
喉が震える。
「ロゼル……あれ、なんなの?」
ロゼルは目を離さずに答えた。
「主さ」
短く息を吐く。
「地底湖に大昔からいる竜種だ……」
「お、大きいです……」
アゼリアも珍しく驚きを隠せない。
「あんなに大きな水生モンスターは、私も初めて見ました……」
リアは恐る恐るロゼルを見る。
「あれ……大丈夫なの?」
「……」
「あれ、襲ってこない?」
ロゼルはしばらく水中の巨大な影を見つめた後、静かに答えた。
「ちょっかいをかけなきゃ大丈夫さ」
「……本当に?」
「ああ」
ロゼルは肩をすくめる。
「あれからしたら、俺達なんてアリかなんかと同じなんだろう」
巨大な身体は、こちらを一瞥しただけで、またゆっくりと水の中へ進んでいく。
「ここの地底湖では、あれには近づかない」
ロゼルは低い声で続けた。
「それが、この場所での最低限のルールさ」
リアはごくりと唾を飲み込む。
「……戦ったことある人、いるの? あれ……」
「噂で聞いたことがあるくらいだな」
「噂……?」
アゼリアが尋ねる。
「噂とは、どのような噂なのでしょう?」
ロゼルは少しだけ苦笑した。
「他所の国から来た余所者の冒険者パーティがな」
そして、指先を湖へ向ける。
「数十人規模で、あれに挑んだって話さ」
「数十人……」
リアの顔が引きつる。
ロゼルは続けた。
「どこぞの馬鹿王子が、あの龍に賞金を賭けたそうだぜ」
「……」
リアの喉が、ごくりと鳴った。
「そ、それで……」
恐る恐る尋ねる。
「結果は、どうなったの?」
ロゼルはすぐには答えなかった。
代わりに、湖の奥へ視線を向ける。
「地底湖の形が変わっちまったらしい」
「……え?」
ロゼルはそう言って、別の場所を指差した。
「ほら」
「あれ、見てみろよ」
その指先を追うように、リアとアゼリアも視線を向けた。
ロゼルが指差した方向へ、リアとアゼリアが目を向ける。
そこにあったのは、地底湖の天井だった。
無数の夜行石が輝き、淡い光を降らせている巨大な天井。
その一角に――
ぽっかりと穴が空いていた。
まるで何か巨大なものに抉り取られたかのような、大きな穴。
その奥は暗く、光が届かない。
どこまでも続いているように見えた。
「……あれって?」
リアが目を細める。
「穴ぼこ?」
「ああ」
ロゼルは頷いた。
「噂では、上の階層と繋がっちまってるらしい」
「上の階層と……?」
「ああ。実際、上層にもそれらしい大穴が見つかってる」
ロゼルは肩をすくめる。
「ま、飛び降りて確かめるようなバカもいないからな。眉唾かもしれないけどな」
リアは改めて、その暗い穴を見上げる。
光の届かない闇。
そこから何かが落ちてきそうな、そんな不気味さすら感じた。
「……」
アゼリアも穴をじっと見つめる。
「もしかして……あの龍が暴れて、あの大穴を開けたのでしょうか?」
「さぁな」
ロゼルは答えながら、もう一度巨大な龍へ視線を向ける。
「でも、そう言われているな」
「……」
リアは再び天井の大穴を見上げた。
想像しただけで背筋がぞくりとする。
「……うぅ」
リアの身体が、ぶるりと震えた。
「私、あれには絶対近づかないでおく……」
アゼリアも静かに頷く。
「はい。あの龍には、絶対近づかないようにしましょう……」
「うん」
リアも素直に頷いた。
そんな二人を見て、ロゼルは小さく笑う。
「安心しな。地底湖は広いし、放っておけば害はない」
ロゼルは湖の広大な水面を見渡す。
「それに、あれを見に迷宮へ潜りたがる酔狂な奴もいるくらいさ」
「……見に来るだけ?」
リアが信じられないという顔をする。
「物好きってのは、どこにでもいるもんだ」
ロゼルはそう言って、軽く肩をすくめた。
「さて……」
ロゼルが周囲を見渡す。
広大な地底湖。
無数の岩場。
遠くでは、青や黄色に光る魚たちが水中を泳いでいる。
そのどこかに、今回の目的であるセイレーンがいるはずだった。
アゼリアがロゼルへ尋ねる。
「ロゼル様、これからいったいどうするのでしょう?」
「セイレーンを一体狩る」
ロゼルは湖の周囲を観察しながら答えた。
「群れから離れて、一匹でいるのが理想だ」
「それで、セイレーンの涙が手に入るの?」
リアが尋ねる。
「いや」
ロゼルは即答した。
「それじゃ涙は手に入らない」
「え?」
リアが首を傾げる。
アゼリアも不思議そうにロゼルを見る。
「それでは……どうすれば涙が手に入るのでしょうか?」
「それはまた後で説明する」
ロゼルは視線を湖へ戻した。
「今は、セイレーンを探すことが先だ」
「……はい」
アゼリアがこくりと頷く。
リアもそれにならうように頷いた。
「分かった」
三人は再び湖へ視線を向ける。
美しく、静かな地底湖。
その水のどこかに、今回の依頼の鍵を握る魔物が潜んでいる。
ロゼルは足音を抑えながら、湖岸に沿って歩き始めた。




