指話。ハンスの懇願。
ランドは重い足取りでギルド二階へと向かっていた。
試験場は半壊。
壁は砕け、石畳は抉れ、闘技場は見るも無惨な有様になっている。
(さて……どう報告したものか。)
ランドは頭を掻きながら、小さくため息を吐いた。
「ロゼルとラズベリアが模擬戦をして、試験場を半壊させました。」
そんな報告をして、素直に信じてもらえるとは思えない。
まして相手は、あの雪月花のラズベリアだ。
ランドは二階の一番奥にあるギルド長室の前で立ち止まる。
深く息を吸い、軽く扉をノックした。
コンコン――。
「ハンス……いるか?」
すぐに部屋の中から落ち着いた声が返ってくる。
「ランドか?」
「入ってくれて構わないぞ。」
「失礼する。」
ランドは扉を開け、部屋へと足を踏み入れた。
ギルド長室は意外なほど質素だった。
壁際にはぎっしりと本棚が並び、依頼書や帳簿が几帳面に整理されている。
中央には大きな執務机。
その上には山のような書類が積み上げられていた。
机に向かっていた男は、眼鏡を掛けたまま疲れたように目を擦っている。
年の頃は四十代半ば。
整えられた黒髪に知的な顔立ち。
ギルド長――ハンスである。
ハンスは書類から目を離さぬまま口を開いた。
「試験場の件か?」
ランドは思わず苦笑する。
「耳が早いな……。」
ハンスは肩をすくめ、小さく笑う。
「あれだけ派手な音だ。」
「誰だって気付くさ。」
そう言ってようやく顔を上げ、ランドの表情を見つめる。
ハンスは椅子にもたれ掛かり、小さく息を吐いた。
「一体何があったんだ、ランド。」
眼鏡を外し、疲れたように目頭を揉む。
「詳しく説明してくれ……。」
その表情は、「ただでさえ仕事が山積みだというのに」と雄弁に物語っていた。
積み上がった書類の山も相まって、普段より幾分老けて見える。
ランドは神妙な面持ちで頷いた。
「先日話した”原石”の件を覚えているか?」
ハンスは少し考え、すぐに頷く。
「ああ。」
「ロゼルとアゼリア……だったな。」
「それがどうかしたのか?」
ランドは一度息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「そう、その二人だ。」
「そのうちの一人――ロゼルという者が、雪月花のラズベリアと模擬戦を行った。」
その瞬間。
ハンスの動きがぴたりと止まった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「雪月花と?」
眼鏡の奥の目が大きく見開かれる。
「何が何やら訳が分からない……。」
「なぜ新人が雪月花と繋がりを持っている?」
「いや、それ以前に……。」
ハンスは額に手を当て、頭を抱えるように首を振った。
「模擬戦だと?」
「そんなもの……訓練にもならないだろう。」
「実力差がありすぎる。」
ランドは静かに首を横へ振った。
「普通ならな。」
一拍置き、重々しく続ける。
「だが、結果は違った。」
「ラズベリアは私から見ても本気だった。」
「あれは模擬戦の領域を逸脱していた。途中からは勝敗ではなく、互いの意地がぶつかり合う戦いだったように見える。」
ハンスは目をぱちぱちと瞬かせる。
「……一体なぜ、そこまでの力を?」
困惑を隠せないまま、言葉を続けた。
「なら、その噂の新人は再起不能か?」
ランドはゆっくりと首を振る。
「いや。」
「模擬戦の結果は――新人、ロゼルの勝利だ。」
「ラズベリアは重傷を負い、今は三階の専用フロアで休んでいる。」
部屋の空気が凍りつく。
ハンスはしばらく何も言えなかった。
やがて乾いた声を漏らす。
「……私をからかっているのかい?」
眼鏡の奥の瞳が揺れる。
「新人が……国に数組しか存在しないA級冒険者に勝ったというのか?」
ランドは両手を軽く上げ、お手上げと言わんばかりに肩を竦めた。
「私も信じられなかった。」
「だが、今言ったことは全て事実だ。」
「この目で見届けた。」
「そして、この事実を知っているのは、当事者を除けば――私と君だけだ。」
ハンスは力なく椅子の背にもたれ掛かった。
眼鏡を外し、深く息を吐く。
そのまま天井を見上げ、小さく呟いた。
「……そんなことが……。」
「あり得ん……。」
しばらく沈黙した後、真剣な眼差しでランドを見る。
「これは、とんでもない事態だぞ。」
「A級冒険者は、一人いるだけで国の勢力図を揺るがしかねない存在だ。」
「もしこの事実が各国に知れ渡れば、必ず争奪戦が始まる。」
「汚い手を使ってくる国もあるかもしれん、貴族や成金どもが金で囲い込もうとする者も現れるだろう。」
ハンスはゆっくりと立ち上がる。
「その前に――。」
「我々ギルドが、何としても彼らとの信頼関係を築かなければならない。」
ランドへ真っ直ぐ視線を向ける。
「ランド……。」
「協力してくれないか?」
ランドは腕を組んだまま、じっとハンスを見つめた。
やがて低い声で口を開く。
「それは……ギルド長としての命令か?」
一拍置く。
「それとも、友人としての頼みか?」
ギロリ――。
ランドの眼光が鋭く光る。
歳を重ねても、その眼差しに宿る迫力は衰えていない。
心の弱い者なら、その場ですくみ上がってしまうほどの威圧感だった。
ハンスの額に一筋の汗が流れる。
しかし、その視線から逃げることはしなかった。
真っ直ぐランドを見据え、静かに口を開く。
「ギルド長としてと言えば……君はここを去るだろう。」
苦笑を浮かべる。
「だから、これは昔からの親しい友人としての頼みだ。」
「彼らと取り次いでもらえないだろうか……。」
ランドは目を閉じる。
腕を組んだまま、何も答えない。
部屋には時計の針だけが静かに時を刻んでいた。
しばらくの沈黙の末――。
ランドがゆっくりと目を開く。
「彼らに無理強いはする気はない。」
「……だが、挨拶程度の機会なら作ろう。」
ハンスの表情が僅かに和らぐ。
しかしランドは続けた。
「私が協力するのは、そこまでだ。」
「それ以上を望むなら――」
「私と君の友情は無くなるものだと思ってくれ。」
それが頑固者のランドなりの、精一杯の譲歩だった。
ハンスは深く息を吐く。
肩の力を抜き、小さく頷いた。
「十分だ……。」
「それ以上は望むまい。」
「君との友情を天秤には掛けられないさ。」
少し寂しそうに笑う。
「だが、ギルド長として私も動かなければならない立場なのは分かってくれ。」
「感謝するよ、ランド……。」
ランドは立ち上がり、小さくため息を吐いた。
「理解しているさ。」
「だからこその譲歩だ。」
ハンスは眼鏡を外すと、眉間を指先でゆっくりとほぐした。
「常々思うんだが……。」
疲れたように笑う。
「ギルド長は、君の方が向いているんじゃないかと思うよ。」
ランドは鼻で笑う。
「私は君みたいな器用な立ち回りはできんさ。」
その言葉に、ハンスも苦笑した。
「……それは褒めてくれているつもりかな?」
ランドの口元が僅かに緩む。
「褒めたつもりさ。」
長い付き合いの二人にしか分からない、穏やかな空気が部屋を満たす。
ランドは扉へ向かいながら振り返った。
「どうだ。」
「久しぶりに今夜あたり一杯。」
ハンスは少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「そうだな……。」
「たまには、いいかもしれん。」
遠い昔を思い出すように天井を見上げる。
「いつぶりだ?」
「君と酒を飲むなんて。」
ランドは懐かしそうに笑った。
「私が冒険者を引退して、ギルドで働くと決まった夜以来だ。」
ハンスは静かに目を細める。
「……そんなに経つのか。」
「時が過ぎるのは、本当に早いな。」
ランドは静かに頷いた。
「全くだ。」
そう言い残し、ランドは部屋を後にした。
静かに閉まる扉を見つめながら、ハンスは一人、小さく呟く。
「ロゼル……。」
「君は、この街に何をもたらすのだろうな……。」




