骸骨の助け舟。名はアゼリア。
「ご機嫌よう」
穏やかな女性の声が、奈落の静寂の中に落ちた。
「お気分はいかがですか?」
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ロゼインは、しばらくその声の主を見つめていた。
目の前には――
修道服を纏ったスケルトン。
白い骨。
空洞の眼窩。
それなのに、
声だけは妙に落ち着いていて、
上品な女性のものだった。
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ロゼインの頭はまだ霞んでいる。
何が起きたのか、
どうして生きているのか、
それすら理解できていない。
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だが。
違和感だけは、はっきりとあった。
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体が、軽い。
軽すぎる。
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ロゼインはゆっくりと手を持ち上げた。
視界に入った指。
細い。
白い。
そして――
小さい。
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「……?」
喉から声が漏れる。
その瞬間、
ロゼインの眉がぴくりと動いた。
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今の声。
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高い。
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「……あ?」
もう一度、声を出す。
やはり高い。
少年のような声。
いや――
子供の声だ。
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ロゼインの呼吸が浅くなる。
胸の奥がざわつく。
理解が追いつかない。
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視線が、ゆっくり下へ落ちた。
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自分の腕。
細い。
華奢だ。
遠征で鍛えた冒険者の腕ではない。
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袖が長い。
服がぶかぶかだ。
肩も合っていない。
まるで体が小さくなったかのように。
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その時。
肩から何かが滑り落ちた。
さらり、と。
柔らかな音。
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ロゼインの視界の端に、
金色のものが流れた。
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髪。
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長い髪だった。
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胸の前まで垂れ下がる、
金色の長髪。
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ロゼインの思考が止まる。
完全に止まった。
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ゆっくりと、
震える手でそれを掴む。
指の間を滑る髪。
柔らかい。
長い。
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ロゼインの喉が鳴った。
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「……は?」
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その声は、
やはり高かった。
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ロゼインは、慌てて自分の体を見た。
胸。
平らだ。
だが、
体は小さい。
細い。
脚も短い。
腰も細い。
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服の中にある体は、
完全に別物だった。
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十歳ほどの少年の体。
いや。
顔立ちだけ見れば、
少女のように美しい少年。
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ロゼインの呼吸が荒くなる。
心臓が早鐘のように鳴る。
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「……な」
声が震える。
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「なんだ……これ……」
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スケルトンは、
その様子を静かに見守っていた。
骨の指を胸の前で組み、
少しだけ首を傾げている。
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コトリ、と骨が鳴った。
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「どうかなさいましたか?」
とても落ち着いた声だった。
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ロゼインは顔を上げた。
赤い瞳が、スケルトンを睨む。
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「どうかなさいましたかじゃねえ!」
掠れた、だが高い声。
怒鳴ったつもりだったが、
どう聞いても子供の声だった。
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「俺の体が――」
ロゼインは言葉を失う。
自分の腕を見る。
髪を見る。
体を見る。
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「……小さくなってんじゃねえか!」
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奈落に、
少年の混乱した声が響いた。
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スケルトンは、少しだけ目を細めるような仕草をした。
もちろん、
骨なので表情はない。
だが雰囲気は明らかに穏やかだった。
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それから、
とても丁寧に頭を下げた。
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「申し遅れました」
柔らかな声。
修道女のような礼儀正しさ。
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「わたくし、アゼリアと申します」
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奈落の骨の山の中で。
少年と、
一体のスケルトンの出会いが、
静かに始まった。
アゼリアが名乗ると、
ロゼインはしばらく黙っていた。
奈落は静かだった。
どこか遠くで、
水滴が石を叩く音だけが響いている。
ポツン。
ポツン。
⸻
ロゼインは自分の体をもう一度見た。
細い腕。
小さな手。
胸元まで垂れる金色の髪。
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どう見ても、
自分の体ではない。
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「……おい」
ロゼインが言った。
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アゼリアは静かに首を傾げる。
「はい」
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「これ」
ロゼインは自分を指差す。
「お前がやったのか」
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少しの沈黙。
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アゼリアは考えるように首を傾げた。
骨がコトリと鳴る。
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「やった、と申しますと?」
⸻
「俺の体だよ!」
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ロゼインは勢いよく立ち上がろうとして――
ふらついた。
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視界が揺れる。
体が軽い。
軽すぎる。
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「おっと」
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倒れそうになったロゼインを、
アゼリアが支えた。
骨の手だったが、
動きは驚くほど丁寧だった。
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「まだお体が安定しておりません」
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「……誰のせいだ」
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アゼリアは少し困ったような声を出す。
「まぁ」
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「一応、お命は助けたつもりなのですが」
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ロゼインの眉が動いた。
「助けた?」
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アゼリアは修道服の袖から
小さなガラス瓶を取り出した。
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中身は空。
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「これをお飲みになりました」
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「……なんだそれ」
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「聖血でございます」
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奈落の静寂の中で、
その言葉だけが落ちた。
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ロゼインは眉をひそめる。
「聞いたことねえな」
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「わたくしも詳しくは存じません」
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アゼリアは正直に言った。
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「ですが」
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「強い回復の奇跡を持つものだと」
「聞いております」
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ロゼインは自分の体を見る。
小さな体。
細い腕。
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「……奇跡?」
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アゼリアは静かに頷いた。
「ええ」
⸻
「少し副作用があったようですが」
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ロゼインの顔が引きつる。
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「少しじゃねえ!」
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奈落に少年の怒鳴り声が響いた。
⸻
その時だった。
低い唸り声が奈落に響いた。
「グルルル……」
暗闇の奥で、赤い光が揺れる。
目だ。
四つ。
六つ。
八つ。
次の瞬間、影が動いた。
石の床を爪が引っ掻く。
ガリッ
暗闇から現れたのは
腐った狼だった。
毛は抜け落ち、肉が裂け、
ところどころ骨が露出している。
腐狼。
奈落の死肉を喰らう
ダンジョンの獣だ。
一匹が低く身を沈めた。
背中の毛が逆立つ。
「来るぞ――」
ロゼインが言い終わる前に
腐狼は飛んだ。
速い。
牙が喉を狙う。
ロゼインは反射的に腕を上げた。
「くっ――!」
その瞬間。
足が動いた。
石の床を踏み込む。
ドンッ
奈落の石床が鈍く鳴った。
靴が砂を散らす。
体が横へ滑る。
腐狼の牙が空を噛んだ。
ロゼインの頬のすぐ横。
腐臭が鼻を刺す。
「……は?」
体が軽い。
違う。
動きすぎる。
自分の意思より先に体が反応している。
もう一匹の腐狼が横から飛びかかった。
ロゼインの腕が伸びる。
掴む。
腐った首の毛皮を。
骨が手の中で軋む。
「え?」
そのまま――
振った。
ブンッ
腐狼の体が宙を回る。
ドガン!!
奈落の石壁に叩きつけられた。
古い石が割れる。
砂と小石がぱらぱら落ちる。
腐狼の体は壁にぶつかり、
骨の音を立てて崩れ落ちた。
ロゼインは固まる。
自分の手を見る。
細い腕。
子供の腕。
「……俺?」
低い唸り声が広がる。
残りの腐狼が円を描くように広がった。
奈落の通路は狭い。
石柱が並び、天井は低い。
逃げ場はない。
腐狼の口から涎が垂れる。
「来いよ……」
ロゼインが構える。
次の瞬間。
三匹の腐狼が同時に動いた。
一匹が正面から。
一匹が柱の影を回り込む。
もう一匹が跳び上がる。
ロゼインの視界が静かになる。
動きが見える。
全部。
遅い。
正面の牙を避ける。
床を蹴る。
砂が舞う。
体を捻る。
拳が振り抜かれる。
ドンッ!!
拳が腐狼の胴にめり込んだ。
骨が砕ける音。
体が床を滑る。
そのまま柱にぶつかり止まった。
ロゼインは止まらない。
背後。
風の動きで分かる。
振り向きざまに腕を振る。
ゴンッ
拳が腐狼の頭に当たる。
頭蓋が歪む。
体が浮く。
そのまま石床に落ちた。
乾いた音。
動かない。
残った腐狼が止まった。
赤い目が揺れる。
唸るが、近づかない。
ロゼインが一歩踏み出す。
石がコツンと鳴る。
腐狼が後退る。
もう一歩。
ロゼインの拳がゆっくり握られる。
「……なんだよこれ」
奈落は静かだった。
遠くで水滴が落ちる。
腐狼は完全に怯えていた。
ロゼインの匂いを嗅ぐように鼻を動かし――
逃げた。
暗い通路の奥へ。
爪の音が遠ざかる。
静寂が戻った。
ロゼインは立ち尽くす。
拳を見る。
息が荒い。
「……意味わかんねえ」
背後で骨が鳴った。
コツン。
コツン。
アゼリアが歩いてくる。
「まぁ」
静かな声。
ロゼインが振り向く。
「おい」
「はい」
「これお前の薬のせいか?」
アゼリアはロゼインを見つめた。
骨の瞳。
観察するように。
しばらくして言う。
「可能性はございます」
ロゼインは額を押さえる。
「ふざけんな……」
アゼリアは丁寧に一礼した。
「ですが」
「お強いです」
ロゼインは頭を抱えた。
「そういう問題じゃねえ……」
奈落の奥で水滴が落ちた。
ポツン、と。




