聖血
ロゼインの体が、前のめりに崩れ落ちた。
支えにしていた剣が、手から滑り落ちる。
ガラン――。
金属音が骨の山に反響した。
次の瞬間、力を失った体が白い骸の上へと倒れ込む。
乾いた骨が砕け、ぱきぱきと音を立てた。
転がったカンテラが石の上を転がり、弱々しい光が骨を照らす。
揺れる炎。
揺れる影。
奈落の闇の中で、その小さな灯火だけが、かろうじてロゼインの生を主張しているようだった。
⸻
骨の山の奥にいたスケルトンは、しばらく動かなかった。
古びた修道服をまとったその姿は、まるで祈りの途中で時を止めた聖職者のようだった。
空洞の眼窩が、倒れたロゼインを静かに見つめる。
ゆっくりと近づく。
カツ……カツ……
骨の足音が、石の床に小さく響いた。
スケルトンはロゼインの傍らに膝をつく。
骨の指先が、そっと頬に触れた。
冷たい。
だが、その仕草には驚くほど優しさがあった。
呼吸は浅く、か細い。
唇はひび割れ、血が乾いて黒くこびりついている。
右腕は不自然に曲がっていた。
足も腫れ上がり、まともに歩ける状態ではない。
腹部には深い裂傷。
乾いた血の匂いが濃く漂っていた。
スケルトンは小さく息を漏らす。
「……まぁ」
スケルトンは、小さく息を漏らした。
困ったように首を傾げる。
「こんなに酷いお怪我で……」
骨の指が、そっとロゼインの肩に触れる。
冷たい手だった。
だが、その仕草は驚くほど優しい。
まるで本当に、人を慈しむように。
「……このままでは」
祈るような声で、彼女は呟いた。
「死んでしまいます」
スケルトンは胸元に手を入れた。
古びた修道服の奥から、小さなガラス瓶を取り出す。
その中には――
一滴だけ。
金色の雫が静かに揺れていた。
カンテラの火を受けて、淡く神々しい光を放っている。
スケルトンは、その雫をじっと見つめた。
大切な宝物を見るように。
少しだけ、名残惜しむように。
「……これは」
静かな声。
「回復の奇跡と聞いております」
誰から聞いたのか。
いつ教わったのか。
それはもう思い出せない。
だが、彼女はずっと信じていた。
骨の手が、そっとロゼインの頭を抱き起こす。
意識はない。
体にはほとんど力が入っていない。
「ですが……」
少し寂しげな声で、彼女は続けた。
「もう、これしかございません」
金色の雫。
それは――聖血。
王侯貴族ですら手にできない、迷宮に存在する奇跡の秘薬。
だが、彼女はその価値を知らない。
ただ、目の前の命を助けたいと願っているだけだった。
「……どうか」
祈るように、そっと呟く。
「助かってくださいませ」
小瓶を傾ける。
金色の雫がゆっくりと落ち、
ロゼインの唇に触れ、
喉の奥へと流れ込んだ。
⸻
その瞬間だった。
ロゼインの体が大きく跳ねた。
ドンッ!
骨の山が揺れる。
カンテラの火が激しく揺らめいた。
「……!」
スケルトンが驚いて身を引く。
ロゼインの背中が弓なりに反り返った。
指先が石を掴む。
ギリッ――
爪が割れる音。
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「……あ……」
そして。
次の瞬間。
「――――ッ!!」
絶叫が、奈落に響き渡った。
血が沸騰する。
骨が軋む。
筋肉が裂ける。
内臓がかき回される。
ロゼインは床を転げ回った。
呼吸ができない。
喉から血がこぼれる。
全身が痙攣し、吐いた血で石床が赤く染まる。
「まぁ……!」
スケルトンは慌てて膝をついた。
「ど、どうなさったのですか!?」
もちろん、答えられるはずもない。
ロゼインは石床を掻きむしりながら叫ぶ。
「が……ああああッ!!」
ゴキ。
ゴキゴキ。
体の内側から、不気味な音が響く。
骨が。
組み替わっていく。
スケルトンの声が震えた。
「おかしいです……」
困惑したように呟く。
「これまで助けた方には、こんな現象は起きませんでしたのに……」
ロゼインの体がさらに大きく反る。
バキッ!
肩が。
腕が。
脚が。
次々と音を立てる。
骨格が縮む。
体が小さくなる。
顔立ちまでもが、別のものへと変わっていく。
やがて――
激しい痙攣は徐々に弱まり、
ついには完全に止まった。
荒れていた呼吸も、少しずつ静かになる。
石の床に横たわる小さな体は、もう動かない。
奈落は再び静寂を取り戻した。
まるで先ほどまでの苦しみが、幻だったかのように。
ポタ……
遠くで、水滴の落ちる音がした。
ポタ……
ポタ……
その音だけが、闇の奥から静かに響いてくる。
カンテラの火が、弱々しく揺れていた。
小さな灯火が照らすのは、
石の床と、
骨の山と――
そこに横たわる、小さな体。
先ほどまでの大怪我をした中年冒険者の姿は、もうなかった。
そこにいたのは――
金色の長い髪を広げた、
華奢で小さな少年。
十歳か、十二歳ほどの体。
白い肌。
細い肩。
長い睫毛。
顔立ちは、息を呑むほど整っていた。
一目見れば、誰もが少女だと思うだろう。
だが、その体は間違いなく少年のものだった。
少女のように美しい少年。
奈落の闇の中で、その姿だけが不自然なほどに儚く、美しかった。
スケルトンは、しばらく無言で見つめていた。
そして、こてりと首を傾げる。
骨が小さく鳴る。
「……まぁ」
上品な女性の声が、静かに漏れた。
「これは……」
少し考え込むように言葉を止める。
そして、丁寧に呟いた。
「どういうことなのでしょう?」
スケルトンが首を傾げたまま、
しばらくその少年を見つめていた。
奈落は静かだ。
遠くで水滴が落ちる音だけが響く。
ポタ……
ポタ……
カンテラの小さな炎が揺れ。
金色の髪をかすかに照らしていた。
その時。
少年の指が、ぴくりと動いた。
ほんのわずかな動き。
だが確かに、生きている反応だった。
スケルトンが、少しだけ身を乗り出す。
骨の指が修道服の袖から覗く。
「……大丈夫ですか?」
優しい声。
静かな驚きが混じっていた。
少年の胸が、小さく上下する。
呼吸が戻ってきている。
かすかな息。
細く、弱い。
だが確かに生きている。
まつ毛が震えた。
長いまつ毛が、
ゆっくりと動く。
まるで重たい扉を開くように、
瞼が少しずつ持ち上がる。
そして――
瞳が開いた。
赤い瞳。
深い赤。
奈落の闇の中でも、
かすかに光を宿しているような色だった。
ロゼインの視界はぼやけていた。
石の天井。
揺れる光。
冷たい空気。
奈落の匂い。
血の匂い。
骨の匂い。
全部が混ざっている。
「……ぅ……」
喉から声が漏れる。
掠れた声。
だが――
どこか違った。
少し高い。
細い。
自分の声ではないような音。
ロゼインはゆっくり瞬きをした。
視界が少しずつはっきりする。
カンテラの光。
骨の山。
折れた武器。
砕けた鎧。
そして。
目の前に立っている存在。
スケルトン。
修道服を着た、
妙に落ち着いた雰囲気のスケルトンだった。
ロゼインはぼんやりとそれを見ていた。
頭がまだ回らない。
何が起きたのか、
理解できていない。
だが、
次の瞬間。
違和感が生まれる。
体が――
軽い。
あまりにも軽い。
ロゼインはゆっくり手を動かした。
指が視界に入る。
細い。
白い。
小さい。
「……?」
掠れた声が出る。
やはり高い。
ロゼインはゆっくり体を起こそうとした。
だが――
服の袖が、やけに長い。
ぶかぶかだ。
まるで子供が大人の服を着ているように。
ロゼインは、自分の腕を見た。
細い。
明らかに細すぎる。
そして、
肩から何かが滑り落ちた。
さらり、と音がする。
髪だった。
金色の髪。
長い髪。
自分の肩を越え、
胸の前に流れてくる。
ロゼインの思考が止まる。
「……は?」
声が出た。
やはり高い。
完全に、
少年の声だった。
その様子を、
スケルトンが静かに見守っている。
骨の指を顎に当て、
少しだけ首を傾げていた。
そして、
とても丁寧に言った。
「ご機嫌よう」
穏やかな女性の声。
優しい響き。
「お気分はいかがですか?」




