奴隷市
グラントの店を出ると、外の光がやけに柔らかく感じられた。
アゼリアは胸の前で手を重ねる。
(ロゼル様への贈り物……)
通りへ視線を向け、ゆっくりと歩き出す。
露店が並ぶ。
色とりどりの布。
光る装飾品。
甘い香りの菓子。
ひとつひとつ目に入るが――
「……違いますね」
小さく呟く。
宝石店の前で足を止める。
磨かれた石が、静かに光を返していた。
「……綺麗ですが」
ロゼルの顔を思い浮かべる。
あの気の抜けた顔。
興味なさそうに鼻で笑う様子。
「……こういうものは、喜ばれない気がします」
静かに離れる。
次に、衣服の店。
可愛らしい装飾のついた服。
柔らかい色合い。
「……似合いそうですが」
一瞬だけ想像する。
――嫌そうに顔をしかめるロゼル。
「……嫌がられそうです」
小さく首を振る。
また歩く。
その時だった。
ふいに、視界に入る屋台。
香ばしい匂いが、ふわりと漂う。
焼きたてのパン。
軽く焦げ目のついた表面が、きつね色に色づいている。
その間に挟まれているのは――
「……卵……」
思わず、足が止まる。
粗く潰された黄身と白身。
まだ少しだけ形を残したそれが、柔らかなクリーム状にまとまっている。
鮮やかな黄色。
艶がある。
新鮮な卵だと、一目で分かる。
そこに、ほんの少しの塩気と油分。
白身の弾力が、ところどころに残っている。
きゅうりの薄切りが挟まれていて、
瑞々しい香りが、卵のコクを引き締めていた。
パンは柔らかく、指で軽く押せば沈みそうなほど。
だが、しっとりと具を受け止めている。
「……美味しそう……」
小さく、零れる。
(ロゼル様が食べていたのも……これでしたね)
記憶の中の光景。
無造作にかぶりつく姿。
少しだけ機嫌が良さそうだった顔。
「……これなら」
アゼリアの瞳が、わずかに柔らかくなる。
「喜んでくれるかも……」
屋台へと歩み寄る。
短いやり取り。
細かい銅貨を払い、紙に包まれたそれを受け取る。
温かい。
ほんのりと手に伝わる熱。
それを見つめて――
ふっと、表情が緩んだ。
(……美味しそうに食べていましたね)
ロゼルの顔が浮かぶ。
無防備な顔。
少しだけ機嫌が良くなる瞬間。
自然と、口元に笑みが浮かぶ。
そのまま歩き出す。
軽い足取り。
「なんだかいい買い物をした気分です」
だが――
数歩進んだところで、違和感が混じる。
「……?」
空気が変わる。
さっきまでの賑やかさが、薄い膜を隔てた向こう側のように遠い。
音はある。
人もいる。
だが――質が違う。
歩いている人間。
装いは整っている。
だが目が違う。
裕福そうな男。
だらしなく肥えた腹。
指にはいくつもの指輪。
その隣を歩く、目の鋭い男。
商人風だが、視線はどこか冷たい。
笑っている。
だが、楽しんでいる笑いではない。
値踏みする笑い。
アゼリアの足が、わずかに緩む。
それでも止まらない。
進む。
――がしゃり。
金属音。
視線が向く。
首に輪をつけられた男。
鎖が伸び、その先を引かれている。
痩せ細った体。
背には過剰な荷。
足取りは重い。
ふらつく。
肌は荒れ、あちこちに傷。
目は――虚ろだった。
「ほら、止まるな」
引く側の男が、短く吐き捨てる。
痩せた男は何も言わない。
ただ、引かれるままに歩く。
「……」
アゼリアの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
だが――
視線は逸らさない。
さらに進む。
通りの奥。
鉄格子。
並ぶ檻。
その中に――人。
少女。
若い女。
どれも、まともな格好ではない。
布は最小限。
肌を隠すというより、見せるためのもの。
檻の前には、男たち。
にやついた顔。
品定めする目。
「こっちはどうだ」
「顔は悪くねぇな」
「その分、躾がなってねぇがな」
笑い声。
濁っている。
その一つの檻の前。
少女が立たされている。
ほとんど裸に近い。
力なく立っているが――
男たちの視線だけが、やけに粘ついていた。
舐めるように。
値踏みするように。
「……」
アゼリアの表情から、笑みが消える。
手の中の包みを、少しだけ握る。
温かさが、やけに浮いている。
ぽつりと、言葉が漏れる。
「……ここは……」
わずかな間。
そして。
「……いったい、どういう場所なんでしょうか……」
誰に聞くでもない声だった。
「……嬢ちゃん」
低い声が、横から落ちる。
アゼリアが視線を向ける。
煙草を咥えた男。
肩に荷を担いだ、くたびれた風体の商人だった。
煙を吐きながら、ちらりとアゼリアを見る。
「迷子かい」
ぶっきらぼうな声。
だが、どこか本気の忠告が混じっている。
「このあたりはな……嬢ちゃんみたいなのが来る場所じゃねぇ」
視線を逸らす。
関わりたくない、というより――関わらせたくない、というような距離の取り方。
「嫌なもん見る前に、帰りな」
短く言い捨てる。
それ以上は何も言わず、荷を担ぎ直し――
そのまま歩いていった。
「……」
アゼリアは、少しだけその背を見送る。
戻るべきだと、頭では分かる。
だが――
その時。
店の奥から、鈍い音が響いた。
――ガンッ。
何かがぶつかる音。
続いて、怒号。
「この……っ!」
荒れた声。
「……?」
アゼリアの視線が、自然とそちらへ向く。
ほんの一瞬、迷う。
だが。
足は――動いていた。
入口へ、ゆっくりと近づく。
中を、覗く。
「――!」
空気が、さらに濃くなる。
鉄と汗と、湿った匂い。
その中心で――
一人の少女が、奴隷商に食らいついていた。
「この! またか!!」
腕を振り払おうとする男。
だが、離れない。
少女は、歯を立てていた。
ぎり、と食い込む。
血が滲む。
「離せっつってんだろうが!!」
怒鳴る。
蹴りを入れる。
それでも――離れない。
「――っ」
低く、荒い呼吸音。
少女の喉から漏れる。
威嚇するような、獣の音。
視線が、鋭い。
周囲の奴隷たちとは明らかに違う。
怯えた目ではない。
壊れた目でもない。
――抗う目だ。
紫がかった髪。
汚れているが、本来の色がわかる。
そして、瞳。
深い紫。
まっすぐに、相手を睨みつけている。
左の耳は――欠けていた。
不自然な形。
切られたような、跡。
それでも。
その少女だけは――
折れていない。
「離せッ!!」
奴隷商が、腕を振り抜く。
少女の体が弾かれる。
床に転がる。
だが、すぐに起き上がる。
四つ足のように、低く構える。
「……っ、ふー……っ」
荒い息。
牙を見せる。
完全に、獣だった。
「亜人種の分際で……逆らうんじゃねぇ!!」
怒鳴りつける奴隷商。
だが、その声に――
少女は一歩も引かない。
「……ふー……」
睨む。
そして、言う。
途切れ途切れに。
だが、はっきりと。
「……他の子に……」
息を吸う。
「手を出さないって……約束した……!」
その言葉に。
一瞬だけ、空気が止まる。
テメェみてぇな亜人種のガキとの約束なんざ――守る訳ねぇだろうが」
吐き捨てるような声。
その言葉に――
少女の目が、見開かれる。
「……レジィは……? アンは……ララは……!?」
掠れた声。
だが、その奥にあるのは必死さだった。
「……あの子達を……どこへやったの!」
牙を剥く。
喉の奥から、低い唸り声。
瞳孔が、猫のように細く開く。
口の端から、血が垂れる。
爪が、床を――ガリッ、と引き裂く。
それでも、視線は逸らさない。
奴隷商は、その様子を見て――
にやり、と笑った。
「……あのガキどもか?」
わざとらしく、間を置く。
「もう売っちまったよ」
肩をすくめる。
「今頃は……どっかの貴族の“変態”にでも、遊ばれてんじゃねぇか?」
下卑た笑い。
完全に、反応を楽しんでいる。
「……ッ」
少女の歯が、ぎり、と鳴る。
血走った目。
「……貴様ぁ……!」
声が、震える。
怒りで。
「話が違うぞ……!」
一歩、踏み出す。
「……あの子達には……手を出さないって……言った……!」
次の瞬間――
地面を蹴る。
低い姿勢のまま、一気に距離を詰める。
獣のような速さ。
一直線に、奴隷商へ。
「――ッ!」
だが。
届かない。
がしゃり、と音。
首の鎖が、横から強く引かれる。
体が、強制的に止められる。
「ぐっ……!」
喉が締まる。
呼吸が乱れる。
引き戻される。
そのまま――
地面へ叩きつけられる。
「――カハッ……!」
肺から、空気が無理やり押し出される。
息が、できない。
そこへ――
「大人しくしてりゃいいものをよォ」
低い声。
次の瞬間。
――ドンッ。
腹へ、蹴り。
容赦のない一撃。
体が跳ねる。
「ッ……!」
声にならない。
口から、血と涎が混じった液体が溢れ出す。
床に、赤が散る。
それでも。
少女は――
倒れたまま、顔を上げる。
震える腕で、体を支える。
紫の瞳が、まだ消えていない。
睨んでいる。
折れていない。
「……っ、ふー……」
荒い呼吸。
血で濡れた口元。
それでも――
牙は、まだ剥かれていた。
蹴りが、もう一度振り下ろされようとした――その時。
「……そこまでにしていただけますか」
静かな声。
大きくもない。
だが――
はっきりと通る。
ぴたり、と動きが止まる。
奴隷商の足が、宙で止まった。
「……あ?」
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは――
一人の少女。
手には、紙に包まれたままのサンドイッチ。
場違いなほど、穏やかな立ち姿。
「なんだ、てめぇは」
苛立った声。
だが、アゼリアは気にした様子もない。
視線は、倒れている少女へ。
それから、蹴ろうとしていた男の足へ。
ゆっくりと、戻る。
「その方は――商品、ですよね?」
確認するような口調。
責めるでもない。
ただ、事実をなぞる。
男は眉をひそめる。
「だからなんだ」
アゼリアは、ほんのわずかに首を傾げる。
「壊してしまっては、価値が下がるのではないでしょうか」
静かな指摘。
その場にいた何人かが、わずかに顔を上げる。
空気が、変わる。
“感情”ではない。
“損得”の話。
奴隷商の顔が、ぴくりと動く。
「……チッ」
舌打ち。
足を下ろす。
完全にやめたわけではない。
だが――止まった。
アゼリアは一歩、近づく。
床に倒れた少女を見る。
血に濡れた口元。
荒い呼吸。
それでも消えていない瞳。
「……」
ほんの一瞬。
アゼリアの視線が、柔らかくなる。
それから、顔を上げる。
「その方――おいくらですか?」
静かな問い。
場の空気が、わずかに揺れる。
奴隷商は一瞬ぽかんとした後――
にやり、と口元を歪めた。
「……は?」
値踏みする目。
今度は隠そうともしない。
頭の先から、足元まで。
ゆっくりと舐めるように見る。
「面白ぇこと言うじゃねぇか、嬢ちゃん」
肩を鳴らす。
「これが欲しいってか?」
顎で、倒れている少女を示す。
アゼリアは頷く。
「はい」
迷いはない。
それが逆に、空気を歪ませる。
周囲の男たちが、ひそひそと囁き始める。
「おいおい……」
「正気か?」
「よりによってあれを……」
奴隷商は鼻で笑う。
「売れ残りだぞ、それ」
足で、少女の肩を軽く小突く。
「見ての通り、躾もなってねぇ。何度も噛みつきやがる」
一歩、近づく。
声を落とす。
「しかも……亜人種だ」
わざとらしく間を置く。
「だからって安くはねぇぞ?」
試すような目。
アゼリアは、少しだけ首を傾げる。
「問題ありません」
あっさりと言う。
その反応に、男の眉がぴくりと動く。
「……へぇ?」
奴隷商は、にやりと口元を歪めた。
「……いいぜ、売ってやるよ」
わざとらしく肩を回す。
「金貨――五十枚だ」
ざわり、と空気が揺れる。
「はぁ!?」
「ふっかけすぎだろ……」
周囲の客がざわつく。
明らかに、常識外れの値段。
だが――
アゼリアは、眉ひとつ動かさない。
「……50枚、ですか」
小さく繰り返す。
奴隷商はにやついたまま頷く。
「ああ。特別価格だ」
完全に、足元を見ている。
アゼリアは少しだけ首を傾げた。
「先ほど――」
静かな声。
「“売れ残り”と仰っていましたよね」
奴隷商の表情が、わずかに固まる。
「……あ?」
アゼリアは続ける。
「“躾もなっていない”とも」
視線が、少女へ向く。
血に濡れた口元。
荒い呼吸。
それでも睨み続ける目。
「さらに……傷もあります」
一拍。
「それで、五十枚は少し高いのではないでしょうか」
淡々とした指摘。
責めているわけではない。
ただ、事実を並べているだけ。
だが――
逃げ道を塞ぐ形になっている。
周囲の何人かが、くくっと笑う。
「言われてんぞ」
「確かに欠陥品だな」
奴隷商の眉が、ぴくりと跳ねる。
「……テメェ」
低く唸る。
だが、アゼリアは一切揺れない。
「二十枚が妥当かと」
静かに言い切る。
奴隷商が鼻で笑った。
「はっ! そんな端金で売れる訳がねぇだろ!」
吐き捨てる。
その時だった。
――「……買うな……」
かすれた声。
アゼリアの視線が、わずかに動く。
倒れたままの少女。
口元に血を滲ませたまま、
それでも――こちらを見ている。
「……関わるな……」
低く、絞り出すような声。
拒絶ではない。
“巻き込むな”という意思。
アゼリアは――ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
だが。
次に顔を上げた時には、
もう迷いはなかった。
周囲も、嘲るような空気を戻しかける――
だが。
「……そうですか」
アゼリアは、わずかに頷いただけだった。
一歩も引かない。
声も荒げない。
ただ――
「でしたら、少しだけ前提を変えましょう」
首をほんの少し傾ける。
その言い方に、奴隷商の眉が寄る。
「……あ?」
アゼリアは、淡々と続ける。
「私はこれでも、冒険者でして」
一拍。
「A級冒険者パーティ“雪月花”の方と、面識もあります」
ざわり、と空気が変わる。
「……は?」
「今、なんつった……?」
周囲の視線が、一斉に集まる。
奴隷商の表情が、わずかに引きつる。
「……ギルドやA級冒険者を敵に回すと」
アゼリアの声は変わらない。
静かで、穏やか。
だが――
確実に“重さ”が乗る。
「この街での商売が、少しやりにくくなるのではないでしょうか」
逃げ場を塞ぐ一言。
さらに。
ほんのわずかに、間を置いて。
「それに……」
視線を、奴隷商へ真っ直ぐ向ける。
「調べられれば、色々と埃も出てくるのではありませんか?」
空気が、凍る。
誰も笑わない。
奴隷商の額に、じわりと汗が浮かぶ。
「そ、そんな話――でたらめだ!」
声が一段上ずる。
「証拠でもあんのかよ!」
アゼリアは、何も言わず。
懐へ手を入れる。
取り出したのは、一枚のカード。
すっと、掲げる。
そこに刻まれた紋様。
――雪月花。
一瞬の静寂。
そして。
「……おい」
誰かが、低く呟く。
「まさか……それ……」
別の男が、目を見開く。
「雪月花の……紹介札じゃねぇか……?」
ざわめきが、一気に広がる。
「本物かよ……」
「あれって、メンバーが“認めた相手”にしか渡さねぇって……」
「ギルド経由でも手に入らねぇやつだぞ……」
視線が、カードに集まる。
好奇と、警戒と、わずかな恐れ。
奴隷商の喉が、ごくりと鳴る。
額に、じわりと汗。
「……っ」
言葉が、出ない。
アゼリアはカードを一瞬だけ見せると――
すっと懐へ戻した。
見せびらかすでもない。
誇るでもない。
ただ、“事実”として置いただけ。
そして。
ほんの少しだけ、首を傾げる。
「それで……?」
穏やかな声。
だが――完全に場を制している。
「お幾らでしょうか?」
逃げ場は、もうない。
――沈黙。
数秒。
奴隷商が、歯を食いしばる。
「……チッ」
舌打ち。
「……二十だ」
吐き捨てるように言う。
だが――それ以上は何も言えない。
言えば、自分が崩れると分かっているから。
周囲から、小さく息が漏れる。
「……決まりだな」
誰かが呟いた。
アゼリアは、ゆっくりと頷いた。
「では、それで」
迷いはない。
その横で。
少女だけが――
静かに目を閉じていた。
アゼリアは、金貨を渡す前に口を開いた。
「……この子が言っていた、他の奴隷達は」
静かな声。
「何処へやったのですか?」
奴隷商は、馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「そいつは“守秘義務”ってやつさ」
にやり、と口元を歪める。
「顧客の情報を、ぺらぺら喋れる訳ねぇだろ?」
値切られた腹いせのような笑み。
わざとらしく肩をすくめる。
下卑た笑い。
その瞬間。
空気が変わった。
「――」
アゼリアの目が、細くなる。
ぞわり、と。
空気そのものが冷えたようだった。
普段の柔らかな雰囲気からは想像もできない。
静かな殺気。
圧力。
周囲の人間が、思わず息を呑む。
奴隷商の笑みが凍りついた。
「……っ」
額に汗が浮かぶ。
「よ、よせよ……」
声が引きつる。
一歩、わずかに後ずさる。
「に、睨まれたって顧客の情報は教えられねぇのさ……!」
焦ったように、早口になる。
「教えたら俺ぁ、この家業を引退する羽目になる……!」
喉を鳴らす。
「身の破滅だ……こればっかりは言えねぇ……」
アゼリアは、数秒だけ黙っていた。
じっと奴隷商を見る。
そして。
「……なるほど」
静かに言った。
殺気が、すっと引いていく。
周囲の空気が、ようやく動き出す。
「いいでしょう」
アゼリアは少女へ視線を向けた。
「彼女の鎖を外してください」
奴隷商が目を瞬かせる。
「……は?」
間抜けな声。
「いいのかよ? 鎖を外しちまって」
眉をひそめる。
「逃げても責任は取れねぇぜ?」
アゼリアは即答した。
「構いません」
迷いはない。
「早く外してください」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の尻尾が、ぴくりと揺れた。
紫の瞳が、わずかに見開かれる。
「……正気?」
かすれた声。
信じられないものを見る目だった。
奴隷商は舌打ちする。
「チッ……」
懐へ手を突っ込み、鍵束を取り出す。
じゃらじゃら、と金属音。
「おら、動くんじゃねぇぞ」
乱暴な声。
少女は睨み返すが、動かない。
奴隷商がしゃがみ込み――
首輪へ鍵を差し込む。
カチャリ。
乾いた音。
鉄の輪が、外れる。
少女の首から、重みが消えた。
赤く擦れた皮膚が露わになる。
少女はゆっくりと首元へ手を当てた。
まるで、本当に外れたのか確かめるように。
「……」
何も言わない。
ただ、指先がわずかに震えていた。
奴隷商が落ちた首輪を拾い立ち上がる。
「ほら、これで満足だろ?」
不機嫌そうに吐き捨てる。
アゼリアは小さく頷いた。
「ええ」
穏やかな声。
「では――契約完了ですね」
そう言って、金貨を差し出す。
一枚。
また一枚。
乾いた音が、静かに響いた。
奴隷商の店を後にする。
薄暗い路地。
さっきまで聞こえていた下卑た笑い声も、もう遠い。
アゼリアは前を歩き――
その半歩後ろを、少女が無言でついてくる。
鎖はもうない。
だが、足音にはまだ警戒が混じっていた。
逃げるでもない。
近づくでもない。
一定の距離。
紫の瞳が、ずっと周囲を見ている。
獣のように。
いつでも飛び退けるように。
アゼリアは、そんな様子をちらりと見て――
ふと、足を止めた。
リアも反射的に足を止める。
沈黙。
そしてアゼリアが振り返った。
「……では、まずは自己紹介をしましょう」
柔らかな声。
先ほどまで奴隷商へ向けていた冷気のような圧は、もうない。
「私の名はアゼリアといいます」
胸の前で手を重ね、軽く頭を下げる。
青い瞳が、まっすぐリアを見る。
「あなたのお名前は?」
優しい声色だった。
リアは一瞬だけ目を細める。
それから、ぶっきらぼうに口を開いた。
「……リア」
短く吐き捨てるように言う。
「私はリア・ティブル」
前髪を掻き上げる。
ぴくり、と欠けた左耳が動く。
「キャットピープルよ」
紫の瞳が、じろりとアゼリアを見る。
「……見れば分かるわよね」
ツンとした態度。
アゼリアは素直に頷いた。
「はい。とても立派なお耳です」
「欠けてるんだけど?」
即座に返ってくる。
アゼリアは少しだけ困ったように瞬きをした。
「……? ですが、綺麗ですよ?」
リアの眉がぴくりと動く。
返答に困ったように視線を逸らした。ゆ
だが、その奥には強い警戒が残っている。
そして。
リアは、わざと刺々しく口元を歪めた。
「それで?」
鋭い目つき。
「私に何をさせたいの?」
一歩、わずかに近づく。
「盗み?」
吐き捨てる。
「殺し?」
さらに言葉を重ねる。
「それとも――」
紫の瞳が細くなる。
「誰かのを咥えればいいわけ?」
挑発するような声音。
反応を試している。
“お前も結局そっち側なんでしょ?”
そう言っている目だった。
だが。
アゼリアは、きょとんとした。
「……?」
小さく首を傾げる。
本当に意味が分かっていないような顔。
数秒考え――
「特に……して欲しいことはありませんね?」
穏やかに言う。
リアが眉をひそめる。
アゼリアは続けた。
「しいて言うなら――」
ふわり、と。
人懐っこい笑みを向ける。
「私と、お友達になりましょう」
リアの表情が止まる。
「…………はぁ?」
リアの口が半開きになる。
顎が外れそうなほど呆れた顔。
白い犬歯が覗いた。
「本気で言ってるの?」
「はい」
即答。
迷いゼロ。
リアはしばらくアゼリアの顔を見つめ――
やがて、深いため息を吐いた。
「……変なやつ」
ぼそりと呟く。
アゼリアは少し嬉しそうだった。
「リア、と呼んでも?」
リアは肩をすくめる。
「好きに呼びなさいよ」
「ありがとうございます」
嬉しそうに頷く。
「では私も、アゼリアと呼んでください」
リアは「はいはい」と雑に手を振った。
そのまま歩き出すアゼリア。
リアも後ろをついていく。
数歩進んだところで――
アゼリアが、少しだけ遠慮がちに口を開いた。
「実は私も、仕えている主人がいるんです」
リアの耳がぴくりと動く。
「……へぇ?」
「リアも、その人に仕えていただければ嬉しいんですが……」
その瞬間。
リアが「あー……」と納得した顔になる。
「なんだ、なるほどね」
視線を落とす。
「私はそのご主人様に奉仕すればいいって事ね」
静かな声。
覚悟を決めるように、目を伏せる。
アゼリアは気づかないまま、こくりと頷いた。
「はい、そうしていただけると私も嬉しいです」
満面の笑み。
「では、とにかく宿へ行きましょうか」
再び歩き出す。
その後ろで。
リアが、ぼそりと呟いた。
「……痛い事しないやつならいいなぁ……」
誰にも聞こえないくらい小さな声。
尻尾が、不安そうに揺れる。
そして、トボトボとアゼリアについていった。
一方――
アゼリアの足取りも、少しずつ重くなっていた。
(……どうしましょう……)
頭の中で、思考がぐるぐる回る。
(勢いで奴隷の少女を買ってしまうなんて……)
ロゼルの顔が浮かぶ。
あの呆れた顔。
面倒臭そうな顔。
(ロゼル様になんて説明すれば……)
沈黙。
(怒るかな……)
すぐに答えが出る。
(……きっと怒ります)
ずーん、と空気が沈む。
(出て行けと言われたらどうしたら……)
ちらり、と後ろを見る。
リアは無言でついてきている。
欠けた耳。
痩せた体。
紫の瞳。
(……でも…放っておくなんて事できません……)
アゼリアの肩が、しゅんと落ちた。
リアも不安。
アゼリアも不安。
二人揃って、足取りが重い。
夕暮れの街を。
二人はゆっくりと、宿屋へ向かって歩いていくのだった。
宿へと続く石畳の道を、二つの影がとぼとぼと歩いていた。
先を行くのはアゼリア。
その後ろを、少し距離を置いてリアがついてくる。
どちらも、足取りは重い。
さっきまで賑やかだった街の喧騒も、今はどこか遠く感じられた。
アゼリアの手には、紙に包まれた卵サンド。
まだほんのりと温かい。
ロゼルのために買った、大切なお土産。
けれど、その温もりとは裏腹に――
アゼリアの胸の中は、不安でいっぱいだった。
(どうしましょう……)
勢いで、奴隷の少女を買ってしまった。
いや、買ったというより――助けたかった。
それは間違っていないと思う。
けれど。
(ロゼル様……なんて仰るでしょう……)
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
「勝手なことをするな」と叱られるかもしれない。
最悪――
(……出て行け、と言われたら……)
そこまで考えた瞬間、アゼリアの肩がしゅんと落ちた。
後ろから、ぼそりとリアの声が聞こえる。
「……ねぇアゼリア、あなたの主人て怖い人なの?」
不安そうな小さな声。
振り向くと、リアの猫耳がぺたりと寝ていた。
尻尾も元気なく垂れ下がっている。
アゼリアは慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です!」
「……たぶん」
「たぶんって何よ……」
リアが半眼になる。
猫耳はさらにぺたりと伏せられた。
アゼリアも、リアも。
互いに違う理由で不安を抱えながら、重い足取りで歩き続ける。
やがて、見慣れた宿屋が見えてきた。
アゼリアの喉が、ごくりと鳴る。
「……着きました」
その一言に、リアの耳がびくりと震える。
二人は顔を見合わせる。
そして――
そろって、小さく息を呑んだ。




