挿話。ギルドと宿屋にて。
ギルド内。
扉をくぐった瞬間――
空気が、わずかに揺れた。
視線。
あちこちから、自然と集まる。
「……あれって、まさか……」
「雪月花の……?」
「綺麗な人……」
「背、高いんだな……」
ひそひそとした声。
隠しているつもりでも、隠しきれていない。
ディアはそれらをすべて“聞こえている”。
だが――
一切、反応しない。
歩調も、視線も、そのまま。
ただ前へ進む。
その時。
ひとりの影が、進路に立った。
若い女。
装備もまだ新しく、ぎこちない。
駆け出しの冒険者だ。
「あ、あの……ディアさん……!」
声が震えている。
ディアが、わずかに視線を落とす。
「……何か用かい?」
淡々とした声。
女は一瞬びくりとするが、意を決したように続けた。
「わ、わたし……大ファンで……!」
「憧れてます!」
一気に言い切る。
顔は赤く、今にも泣きそうだ。
「さ、サイン……いただけませんか?」
差し出された紙とペン。
ディアは一瞬だけ、内心で息を吐く。
(……またか)
だが表には出さない。
口元に、にこりと“形だけ”の笑みを浮かべる。
「ありがとう」
柔らかい声音。
「サインはこれに書けばいいかい?」
「あ、はい……!ありがとうございます……!」
半ば泣きそうな顔で、何度も頷く女。
ディアはペンを受け取り、さらりと走らせる。
迷いのない筆運び。
慣れた手つきで、名前を書き終えた。
紙を返す。
「はい」
「……っ!ありがとうございます……!」
深く頭を下げる女。
ディアは軽く手を上げ、それ以上は言葉を交わさず通り過ぎる。
(……A級になってから、増えたな)
内心で、わずかにうんざりとする。
(冒険者は、アイドルじゃないんだがな)
視線を背中に受けながら、そのまま階段へ。
迷いなく三階へ上がる。
廊下の奥。
一つの扉の前で足を止め――開けた。
中は静かだった。
「やぁ、ディア」
声がかかる。
部屋の中央。
ソファに腰掛けていた女が、ゆるく顔を上げた。
赤い髪。
長く伸びたそれを、雑に一つに束ねている。
鋭い目つき。
だが今は、どこか力の抜けた、私的な表情。
雪月花のリーダー――シエルだ。
「武器のメンテナンスは終わったかい?」
ディアは扉を閉めながら答える。
「ああ」
軽く肩を回す。
「やっぱりグラントさんは腕がいいよ。他の職人じゃ、なかなかこうはいかない」
シエルが小さく顎に手を当てる。
「ふむ……」
視線がわずかに逸れる。
「ならば次は私も頼んでみるか」
一拍。
「ドワーフは野蛮で好きではないんだがな」
ディアは肩をすくめた。
「職人の腕に、野蛮かどうかは関係ないさ」
軽く流す。
そして――少しだけ声の調子を変える。
「それより」
シエルの目が、わずかに細くなる。
「ランドさんが言っていた“噂の新人”に会ったよ」
一拍。
「驚いたよ……あれは、いい」
その言葉に、シエルの空気が変わる。
「……ほう」
椅子に深く座り直す。
「僅かの間にDランクに昇格したという、あの新人か」
視線が鋭くなる。
「どんな印象だ?」
ディアは少しだけ思い出すように目を伏せる。
「うちのお転婆魔女と……いい勝負だ」
さらりと言う。
だが、続けて――
「いや……魔力量なら、上かもしれない」
シエルの眉が、ぴくりと動く。
「うちのお転婆が“平常状態”の時の話だがね」
その一言で、意味は十分だった。
シエルはゆっくりと息を吐く。
「それ程か……」
小さく笑う。
「いや、お前が言うんだ。間違いはないだろう」
だがすぐに、視線を戻す。
「しかし……驚いたな」
「その子はパーティを組んでいるんだろう?」
ディアは頷く。
「ああ」
「会ったのは一人だけだが」
少しだけ肩をすくめる。
「彼女のリーダーは“さらに強い”と言っていたよ」
シエルの目が、わずかに光る。
「……面白い」
ディアは続ける。
「この目で見てみたいもんだ」
一拍。
「一応、招待はしておいた」
視線を少し横へ流す。
「来てくれるといいんだが」
シエルは腕を組み、天井を仰ぐ。
「お前がそこまで言う実力の冒険者なら……」
口元が、わずかに歪む。
「うちに入ってくれれば、我々の目標にまた一歩近づけるんだがな」
ディアは静かに首を振る。
「慌てても仕方ないさ」
落ち着いた声。
「この都市で冒険者をしているなら――」
一拍。
「遅かれ早かれ、必ず関わることになる」
シエルは小さく息を吐いた。
「……違いない」
そして、ふと思い出したように聞く。
「どんな容姿だ?」
ディアはわずかに笑みを浮かべる。
「青い瞳の、可愛らしい子だったよ」
一拍。
「……なんだか、不思議な空気を感じた」
シエルの視線が、静かに細まる。
「不思議……ね」
小さく呟く。
その目は、すでに興味を捉えていた。
宿の部屋。
昼下がりの光が、ゆるく差し込んでいる。
静かだ。
外の喧騒は遠く、ここだけが切り離されたような空気。
ロゼルは椅子に深く腰掛けたまま、ぼんやりと天井を見ていた。
その時――
「……くしゅんっ」
小さなくしゃみ。
一拍。
「……誰か噂してやがるな」
鼻を軽くこすりながら、ぽつりと呟く。
誰に聞かせるでもない声。
しばらく、そのまま黙る。
そして、ふと。
「……アゼリアのやつ、なかなか帰ってこねぇな」
視線だけが、扉の方へ向く。
返事はない。
当たり前だ。
「道にでも迷ったか?」
小さくぼやく。
少しだけ間を置いて――
「……厄介ごとに巻き込まれてなきゃいいが」
眉が、ほんのわずかに寄る。
椅子から体を起こしかける。
「様子、見に――」
言いかけて、止まる。
「……いや」
背もたれに、また体を預けた。
息を一つ吐く。
「好きにさせるか」
目を閉じる。
「……あいつは、真面目すぎる」
ぽつり。
「俺のことばっか気にしやがるし」
小さく鼻を鳴らす。
「ありゃ親鶏にくっつく雛だな」
一拍。
口元が、わずかに緩む。
「……可愛い子には旅を、ってやつだ」
うん、と一人で頷く。
納得したように。
静けさが戻る。
ロゼルは何気なく、手を横へ伸ばす。
いつもの位置。
皿の上。
――空。
指先が、何も触れない。
一瞬、動きが止まる。
ゆっくりと視線を落とす。
皿。
パンくずすら、ほとんど残っていない。
「……」
数秒の沈黙。
「……ない」
現実を確認するように呟く。
もう一度、皿を見る。
「……全部、食ったか」
思い出す。
さっきまでの味。
卵のコク。
きゅうりの、あのカリッとした歯応え。
「……まじかよ……」
力の抜けた声。
誰もいない部屋に、ぽつんと響く。
静かすぎるくらいの午後だった。




