爆買い
窓の隙間から、柔らかな朝日が差し込む。
金色の光が床を淡く染め、部屋の空気をほんのり温める。
外からは小鳥のさえずりが聞こえ、遠くで人の声や、馬車の音も混ざる。
ロゼルはまぶたをゆっくりと開けた。
まだ眠気の残る頭で、差し込む光にまどろみながら――
視線の先に、小さな影を認める。
ベッドの隣で、じっとこちらを見つめるアゼリア。
彼女の目は、まだ眠そうなロゼルの寝顔に向けられていた。
「……ん?」
寝起きの声が漏れる。
どうやら、アゼリアがいつの間にか潜り込んでいたらしい。
柔らかい毛布の感触と、肩にかかる軽い重み。
ロゼルの寝顔を、アゼリアが静かに観察しているのがわかる。
「……お、おはよう……」
小さく挨拶すると、アゼリアはぱっと目を見開いた。
「おはようございます、ロゼル様!」
ロゼルは眉をひそめ、くすぐったそうに言う。
「おい……ベッドは二つあるだろう? なんで俺の方に潜り込んでるんだ」
アゼリアは慌てて手を合わせ、少し俯きながら答える。
「だって……並んで寝た方が安全ですし……それに……寒かったですから……!」
ロゼルは思わず苦笑した。
「寒いか……お前骸骨だろう、感じるのか?。」
朝日がアゼリアの銀髪を白く輝かせ、部屋を柔らかく染める。
ロゼルはその横顔を眺めながら、まだ眠気の残る頭で、
「……まぁ…いいか」と呟いた。
外の小鳥のさえずりと、町の朝のざわめきが混ざる中。
二人だけの静かな時間が、ゆっくりと流れていった。
窓の隙間から柔らかな朝日が差し込み、床を淡く照らす。
冷たい空気にロゼルは身震いし、ゆっくりとベットから降りる。
指先で昨夜頼んだ湯に触れてみると――
「……っち、べた!」
すっかり冷め切っていた。
「くそ……また頼みに行かないとな」
その横でアゼリアが青い瞳を光らせ、柔らかく微笑む。
「ロゼル様、私が行きましょうか?」
ロゼルは寝ぼけたまま手を振る。
「いや、俺が自分で行く。お前はゆっくりしてろ」
アゼリアは静かに頷き、ベッドのそばで見送った。
――廊下。
階段を降りると、カウンターの向こうで店主が顔を上げる。
目が合った瞬間、昨日とは違う空気が流れた。
「あ、ああ…あんたか、昨夜はよく眠れたかい?」
どこかぎこちないが、明らかに態度が柔らかい。
ロゼルは気にした様子もなく言う。
「湯が冷めてた。もう一度頼む」
店主は一瞬きょとんとしてから、すぐに頷いた。
「へ、へい! すぐ用意する、します。」
奥へ声を飛ばす店主を横目に、ロゼルは部屋へ戻る。
部屋に入ると、アゼリアが静かに待っていた。
二人はボロボロの服に着替える。
布と呼ぶのも怪しいほど擦り切れ、ところどころ裂けている。
「……今日は絶対、服買うぞ」
ロゼルがぼそりと呟く。
テーブルの上には、昨夜運ばせた食事。
すでにすっかり冷めている。
一口食べて、肩をすくめた。
「……冷めても、そこそこイケるな」
アゼリアがくすりと微笑む。
青い瞳が柔らかく揺れた。
その時――
コンコン、と控えめなノック。
ロゼルが扉を開けると、店主が湯の入った桶を両手で抱えて立っていた。
昨日の横柄さは影もない。
「お待たせしました……!」
「置いといてくれ」
「へ、へい!」
丁寧すぎる動きで湯を置き、何度も頭を下げながら去っていく。
その背中を見送り、ロゼルは小さく鼻で笑った。
「……わかりやすいな」
アゼリアは困ったように微笑む。
その後、湯浴みを済ませ、身支度を整える。
だが着るのは――やはりボロ布同然の服。
ロゼルは自分の金髪をかき上げながらため息をつく。
「……新しい服が必要だな、装備も。」
二人は準備を終え、宿を後にする。
扉を開けた瞬間――
朝の空気と共に、街の喧騒が流れ込んできた。
商人の呼び声。
馬車の音。
行き交う人々。
すでに街は活気に満ちている。
ロゼルは軽く伸びをし、口元を緩めた。
「よし……今日は買い出しに行くぞ」
アゼリアは青い瞳をきらりと輝かせ、頷く。
二人は並んで、朝の通りの喧騒へと歩き出した。
宿を出た二人は、朝の喧騒に包まれた通りを歩き出す。
石畳の道の両脇には、様々な店が軒を連ねていた。
香ばしい匂いを漂わせる屋台。
焼きたての肉を串に刺し、豪快に売りさばく店主の声が響く。
「焼きたてだ! 安いぞ!」
その隣では、色とりどりの瓶が並ぶ薬屋。
毒消し、回復薬、怪しげな紫色の液体まで揃っている。
さらに進めば――
黒い布で覆われた露店。
並べられているのは、正体不明の骨や干からびた臓物。
「……安いよ。珍しい素材だ」
低い声で囁く店主に、ロゼルは一瞥だけくれて通り過ぎる。
やがて通りはさらに華やかさを増していく。
磨き上げられたガラス越しに、宝石が並ぶ店。
金や銀の装飾品が朝日を受けて眩しく輝いていた。
「……すごいですね」
アゼリアが小さく呟く。
その横を、仕立ての良い服を着た貴族風の男が通り過ぎる。
明らかに、先ほどまでの区域とは客層が違う。
「この辺りが“上等”だな」
ロゼルがぼそりと呟いた。
さらに歩いた先――
ようやく目当ての店が見えてくる。
ガラス張りの正面。
整然と並べられた上質な衣服。
「……ここでいいか」
二人はそのまま店の扉を押し開けた。
――店内。
布の香りと、静かな空気。
だが。
カウンターの奥にいた店主が、二人の姿を見た瞬間――
露骨に顔をしかめた。
視線は、ボロボロの服へ。
そして、鼻で笑う。
「……おいおい」
肩をすくめながら言い放つ。
「嬢ちゃん達が着る服は、ここにはねぇよ」
空気が、わずかに冷える。
ロゼルは一歩だけ前に出る。
そして――
懐から、金貨を一枚。
無造作に、指先で弾くように見せた。
「……金ならあるぞ?」
――店主の目が見開かれる。
「なっ……!?」
一瞬で態度が揺らぐ。
だが。
ロゼルはもう興味を失っていた。
「アゼリア」
短く呼ぶ。
「向かえの店に行くぞ。ここは感じが悪い」
それだけ言うと、踵を返す。
迷いのない動き。
そのまま店を出ていく。
アゼリアは一歩遅れてついていく。
――だが。
扉を出る直前。
くるりと振り返り。
店主をちらりと見る。
そして――
にこり、と柔らかく微笑んだ。
「……さようなら」
その笑顔だけを残し、外へ。
店内には、金貨を見たまま固まる店主だけが残された。
通りの向かい。
もう一軒の服屋。
先ほどより控えめだが、落ち着いた雰囲気の店構え。
ロゼルはそのまま扉を押し開ける。
――店内。
静かに整えられた衣服。
質の良さは一目でわかる。
奥にいた店主が顔を上げる。
二人の姿を見て――
ほんのわずかに、眉が動いた。
だが、それだけ。
すぐに表情を整え、穏やかに一礼する。
「いらっしゃいませ、お客様」
柔らかな声。
視線も、決して失礼にはならない位置で止まっている。
「本日は、どのような服をお探しでしょうか?」
ロゼルはわずかに口元を緩めた。
「……いい店の様だな」
アゼリアも小さく頷き、青い瞳を細める。
店内に静かな空気が流れる。
ロゼルは腕を組み、並べられた服をざっと見渡した。
「動きやすくて、そこそこ丈夫なやつだな。見た目は……まあ、普通でいい」
店主は一瞬だけ考え、すぐに数点の服を取り出す。
「かしこまりました。でしたらこちらなどいかがでしょう」
差し出されたのは、軽くて丈夫そうな布地の上下。
装飾は少ないが、仕立てはしっかりしている。
ロゼルはそれを受け取り、軽く引っ張ってみる。
感触を確かめる。
「……あれ、これ女物か?」
店主は苦笑し、頭をかく。
「申し訳ございません。お客様の体格ですと男性用では大きすぎます。動きやすさを重視されるなら、女性用しかご用意できませんが……」
ロゼルは眉をひそめ、渋々頷いた。
「……仕方ねえな。試してみるか」
試着室に入り、服を身に通す。肩や腕に沿う布の感触、腰回りの柔軟さ。裾や袖も無駄に長くなく、動きやすさは十分だ。鏡の前に立ち、動作を確認すると小さく肩をすくめた。
アゼリアは目を輝かせ、鏡越しに微笑む。
「ロゼル様、とてもお似合いです! 本当に素敵です!」
ロゼルは鏡をちらりと見て、軽く頷いた。
「……まあ、文句はねえな」
次にアゼリアが服を手に取り、試着室へ入る。柔らかく体に沿う布が、彼女の銀髪と青い瞳に柔らかく調和し、朝の光をまとったかのように輝いた。
鏡越しにその姿を見たロゼルは、思わず口を大きく開けて笑った。
「おう! めちゃくちゃ似合ってるぞ!」
アゼリアは頬を少し赤らめつつも、嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます、ロゼル様……! 動きやすさも問題ありません!」
店主は静かに微笑みながら声をかける。
「お二人とも、とてもお似合いでございます。サイズも合って何よりです」
ロゼルは布の感触を確かめ、さらにいくつかの色違いや形違いの服を手に取った。
「これも……あれもくれ」
アゼリアも小さく頷き、好みの服を数着選ぶ。店内には柔らかな光が差し込み、整然と並べられた衣服が、まるで二人を歓迎しているかのように見えた。
会計は店主が丁寧に金額を伝え、ロゼルは懐から金貨を数枚取り出す。
「全部まとめて払う。足りるだろう」
店主は少し驚いた表情を見せつつも、落ち着いた手つきで金貨を受け取り、包装された服を二人に手渡した。
アゼリアは嬉しそうに手に取ると、青い瞳を輝かせた。
「これで今日から、もっと快適に動けますね!」
ロゼルも小さく頷き、布の感触を確かめながら答えた。
「……ああ、いい感じだ!」
店を出ると、朝の街の光と喧騒が広がる。新しい服に包まれ、二人は軽やかに歩き出した。
新しい服を身にまとったロゼルは、柔らかい布の感触を楽しみながら石畳の通りを歩いた。
歩くたびに布が体に沿い、肩や腰にかかる負担もない。風に揺れる袖の端が、朝の光に淡く反射する。
アゼリアも隣で、青い瞳を輝かせながら、すらりとした姿で軽やかに歩いている。
「ロゼル様、本当にお似合いです。動きやすさも完璧ですね」
ロゼルは小さく笑い、軽く肩を回す。
「……ああ、気分がいいな。服一つでこんなに違うものか」
通りの喧騒を背景に、二人は石畳を進む。焼き立てのパンや肉の香ばしい匂い、遠くで馬車の車輪が石を叩く音。朝の街はすでに活気に満ちていた。
やがて、黒い木材と厚い鉄の扉。看板には
「グラント武具店」と刻まれている。小さな店だが、重厚感が漂い、武器と防具を扱う店らしい威厳がある。
中に入ると、鉄と煤の匂いが鼻をつく。奥の作業場からがっしりした体格のドワーフが姿を現した。長い髭は太く編み込まれ、腕組みしたまま鋭い目で二人を睨む
「……なんじゃお主ら、女子供か?」
ぶっきらぼうな声。鼻で笑い、明らかに軽く見下す態度だ。
「小娘が武器屋に来ても、扱える武器なぞないじゃろうが」
ロゼルは迷わず、棚から適当な剣を手に取った。
「おい、これこれ! 勝手に触るでない! 怪我をするぞ!」
グラントは腕組みのまま声を荒げ、鋭い目をロゼルに向ける。長い髭を震わせ、鼻を鳴らして警告する。
ロゼルは軽く肩をすくめ、にやりと笑う。
「ふんっ!」
その瞬間――
全身の筋肉を瞬間的に収縮させると、剣が空気を切る音を残して振り下ろされた。
――しかし次の瞬間、鋼の叫びのような音とともに、剣は根元からポッキリと折れ、刃先が床に勢いよく落ちる。
「う、うおっ!?」
グラントは目を見開き、顎の髭を震わせた。信じられないという様子で、両手を伸ばし、思わずその折れた破片を拾おうとする。
「こ、こんな力……小娘が……!?」
言葉は途切れ、驚きで息が詰まったように、しばらく店内は静寂に包まれる。
ロゼルは折れた剣を軽く持ち直し、肩にかけるようにして落ち着いた声で言った。
「……これ、脆すぎるな店主、後、女じゃねー」
グラントは半ば呆れ、半ば興奮した様子で、長い髭をかき上げながら目を丸くしている。
アゼリアは思わず手を叩いた。
「ロゼル様……すごいです! 本当に力強いです!」
その言葉に、ロゼルは少しだけ照れたように肩をすくめる。
「……別に、俺は試し振りしただけさ」
だが、グラントの鋭い目はロゼルに釘付けだった。
「…ほほう、なるほど…。子供じゃと侮ってたわい、こりゃ、なめてかかれん相手のようじゃな」
長い髭をかき上げ、ドワーフは目を細めた。
グラントは店内の棚や壁から、様々な剣や斧を手に取り、ロゼルの前に並べる。
「まずはこれじゃ……試してみろい」
グラントが差し出したのは、細身で刃の軽い剣。
ロゼルは何も言わず手に取り、軽く振ってみる。刃はふわりと軽く、手首の感覚に物足りなさが残る。
「……軽すぎるな」
アゼリアが思わず小さく眉をひそめる。
「確かに動かしやすそうですが……ロゼル様には少し重さが頼りないですね」
グラントは少し顔をしかめ、くそ、と小さく呟いた。
「じゃあ次はこれじゃ」
今度は、柄の長い両手剣が差し出される。
手に取ると、先ほどよりは重みがあるが、長すぎてロゼルの腕には扱いづらい。振ろうとすれば、自然な構えが取れない。
「……うーん、悪くはないが、俺には長すぎるな」
アゼリアも首をかしげ、青い瞳で不安そうに見つめる。
「ロゼル様、無理に振ると危険かもしれません……」
「ふむ……次はこれ」
三度目は、刃の厚みも重さも十分で、手応えは悪くない。だが、豪華な装飾が過剰で、ロゼルの好みではなかった。
「……これは……飾りがな……」
ロゼルは眉をひそめ、軽く首を振る。
アゼリアは小さく笑みを浮かべつつも、目を輝かせる。
「でも、大きさや重量は先程より合っていますね」
グラントは腕を組み、しばし黙り込む。
棚に並ぶ武器を一瞥し、低く唸った。
「……ふむ……どれも決め手に欠けるか……」
ロゼルは肩をすくめる。
「まあな。悪くはねえが……しっくり来ねえ」
そのやり取りを横目に、アゼリアは店内を静かに歩いていた。
整然と並ぶ武具の間を、ゆっくりと見て回る。
――その時。
ふと、足が止まった。
店の奥。
作業場へと続く、重い木の扉。
閉じられているはずのその向こうから、微かに“何か”が滲み出ている。
冷たいような、ざらつくような――
空気が、ほんの僅かに歪んでいるような感覚。
アゼリアの青い瞳が、じっとその扉を見つめる。
「……」
無意識に、一歩近づく。
「ロゼル様」
静かに呼びかける声。
ロゼルとグラントの視線が向く。
アゼリアは扉を見たまま、小さく、しかしはっきりと口にした。
「…あの扉の奥には、何か危険な物があるのではありませんか?」
――空気が止まる。
グラントの眉が、ぴくりと動いた。
ロゼルがわずかに首をかしげる。
「危険な物?」
その言葉に、グラントは一瞬だけ視線を逸らす。
長い髭を指でいじり、わずかに唸る。
「……あの奥の物は……そのじゃな……」
珍しく歯切れが悪い。
先ほどまでのぶっきらぼうな態度とは違う、どこか引っかかる間。
グラントは一度だけため息を吐くと、腕を組み直した。
「……まぁ、いいじゃろ」
そして、顎で奥の扉を指す。
「ついて来い」
重い声だった。
その一言で、空気の質が変わる。
ロゼルは口元をわずかに歪め、面白そうに笑う。
「……へぇ、隠し玉か」
アゼリアは小さく頷き、その背を追った。
――三人は、ゆっくりと奥の扉へ向かう。
グラントは重い足取りで奥の扉の前に立つ。
分厚い木板に、黒ずんだ鉄の金具。長年使われていないのか、取っ手にはうっすらと埃が積もっていた。
「……本来は、客に見せるようなもんじゃないんじゃがな」
低く呟き、取っ手を掴む。
ギィ……と、軋んだ音を立てて扉が開いた。
――瞬間。
空気が変わる。
ひやりとした冷気が、じわりと店内へ流れ出す。
それはただの温度ではない。
どこか粘りつくような、肌にまとわりつく“重さ”。
アゼリアの青い瞳が、わずかに細められる。
「……やはり……」
扉の向こう。
薄暗い作業場の奥。
そこに――
ひとつ、異質な影があった。
壁に立てかけられた、大斧。
刃は漆黒。
光を反射するのではなく、吸い込んでいるように見える。
表面には歪んだ紋様が走り、見る角度によって、まるで蠢いているかのように揺らぐ。
柄は分厚く、長い。人の身の丈を軽く超えるほどの長さ。
ただ、そこに“ある”だけで――
空気が沈む。
ロゼルの視線が、すっと細くなる。
「……でかいな」
グラントは腕を組み、低く言う。
「わしの爺さんの代に」
その一言で、空気がさらに重くなる。
「迷宮の奥で見つかった品じゃ。誰が作ったのかも分からん。ただ――」
ゆっくりと斧を顎で示す。
「この斧は魔力を乱し、吸い取る」
短く、断言するように。
「持っただけで気を失う者もおる。魔力が多い者ほどな。じゃから、誰にも扱えんまま……ここに置きっぱなしじゃ」
グラントは鼻を鳴らす。
「最強の斧を寄越せとか抜かしたドワーフにも見せたがな……持ち上げることすらできんかったわい」
アゼリアが静かに呟く。
「……呪い、ですね……」
その声は、確信を帯びていた。
ロゼルは一歩、前に出る。
「……なるほどな」
ためらいはない。
そのまま、斧の前に立つ。
グラントの眉がわずかに動く。
「おい……やめておけ。そいつは――」
ロゼルは聞いていない。
無造作に、柄へ手をかける。
――瞬間。
空気が、わずかに揺れた。
だが。
「……ん?」
ロゼルは軽く首を傾げる。
何も起きない。
吸われる感覚も、乱れる感覚もない。
ただ――
「……重さは、悪くねえな」
ぐっと持ち上げる。
床から、あっさりと斧が離れた。
グラントの目が、見開かれる。
「……は?」
信じられないものを見る顔。
ロゼルはそのまま片手で軽く持ち上げ、重さを確かめるように上下させる。
鈍く、重い音が空気を震わせる。
「ちょうどいい」
その一言。
アゼリアの青い瞳が、大きく見開かれる。
「ロゼル様……お体に異常は?……」
ロゼルは何も言わず、ゆっくりと構える。
重心を落とし、肩を沈める。
そして――
「……ふんっ」
振る。
ただ、それだけの動作。
――だが。
空気が裂けた。
遅れて、鈍い衝撃音。
床に風圧が叩きつけられ、砂埃がわずかに舞い上がる。
斧は、びくともしない。
折れない。
歪まない。
ただ、そこに“応えた”。
静寂。
グラントの頬が引きつる。
口が、わずかに開いたまま固まる。
「……あり得ん……」
喉の奥から、絞り出すような声。
「その斧は……誰にも……」
アゼリアは、ぱっと顔を輝かせた。
「ロゼル様……! すごいです……!」
純粋な感嘆。
ロゼルは肩に斧を軽く担ぎ、何でもないように言う。
「とくに問題ない……これだな」
その一言で、店の空気が完全に変わった。木の壁がきしむように、重く、張り詰めた緊張が広がる。
グラントは斧からほんのわずかに漏れる気配に気づき、目を見開いた。
「お主……その斧を、平気で持っておれるのか?」
ロゼルは首をかしげる。
「……何か問題でも?」
グラントは小さく息を吐き、斧を指でさす。
「これは……ただの斧ではない。魔力を喰らう性質を持っておる。どんな人間でも、魔力を持っている限り――扱えば身を滅ぼす。だが、あんたは……」
ロゼルは肩の斧を軽く揺らしながら、淡々と言った。
「俺には魔力がない」
グラントは思わず目を丸くする。
「魔力がない……人間なぞ、存在するのか?」
「存在するさ。俺はその例だ」
グラントはしばらく言葉を失ったまま、ロゼルを見つめていた。
視線は斧へ、そしてもう一度ロゼルへと戻る。
やがて、低く息を吐く。
「……なるほどな」
長い髭を撫でながら、ぽつりと呟く。
「魔力を喰らう斧……じゃが、喰らう“魔力”がなければ、ただの重い武器に過ぎんということか」
その声には、先ほどまでの警戒はない。
代わりに――職人としての納得があった。
「誰にも扱えん呪物だと思っとったが……まさか、使い手の方が存在するとはのう」
ロゼルは肩の斧を軽く揺らす。
鈍い重みが、違和感なく体に馴染んでいる。
「悪くねえ。無駄に軽い剣より、よっぽどいい」
アゼリアが小さく頷く。
「はい……ロゼル様には、こちらの方が自然に見えます」
その一言に、グラントの目がわずかに細まる。
「自然、か……」
小さく笑った。
「確かにそうじゃな。無理に振っとる感じが一切ない」
一歩、距離を取る。
それは無意識の動きだった。
“武器として完成してしまった存在”への、本能的な間合い。
「……その斧はな、本来なら誰の手にも渡らんはずの代物じゃ」
静かに言う。
「金で測れる価値じゃない。扱える者がおらん以上、ただの厄介な遺物に過ぎんからな」
一拍。
グラントは、ロゼルを真っ直ぐに見る。
「じゃが――」
わずかに口元を歪めた。
「お主が持つなら、話は別じゃ」
店の空気が、すっと落ち着く。
ロゼルは迷いなく言った。
「気に入った」
短く、はっきりと。
「こいつを売ってくれ」
――沈黙。
グラントは一瞬だけ目を細め、すぐに鼻を鳴らす。
「……はっ」
低く笑った。
「とんでもない客が来たもんじゃ」
腕を組み、少しだけ楽しそうに言う。
「ええじゃろう。売ってやる」
その声には、もう疑いはなかった。
「ただし――安くはないぞ?」
ロゼルは肩の斧を軽く叩く。
「構わねえよ」
口元に、わずかな笑み。
「それだけの価値はある」
アゼリアも、静かに頷いた。
青い瞳が、確信を宿している。
――こうして。
誰にも扱えなかった“呪いの斧”は、
初めて“武器”として選ばれた。
グラントは腕を組んだまま、しばらくロゼルを見据えていた。
視線は鋭い。
値踏みするように――だが、それだけではない。
「……さて」
低く、ゆっくりと口を開く。
「売るとは言ったがな。こいつはそこらの武器とは訳が違う」
顎で斧を示す。
「素材も、由来も不明。加工もできん。
そして何より――世界に一つの希少な武器じゃ」
一拍。
「つまり値が付けにくい」
ロゼルは肩に担いだまま、興味なさそうに返す。
「で、いくらだ?」
グラントはすぐには答えない。
髭を撫で、わざと間を置く。
「……金貨で五十枚」
店の空気が、ぴたりと止まる。
アゼリアがわずかに目を見開く。
だが何も言わない。
ロゼルは一瞬だけ目を細め――
「高ぇな」
短く言い切った。
グラントは鼻を鳴らす。
「当然じゃ。呪い付きとはいえ、あれほどの代物は他にない。
それに――」
じろりとロゼルを見る。
「お主…かなり気に入ったと見る、なら、替えは効かん」
ロゼルは軽く笑う。
「違うな」
一歩、前に出る。
「これが“俺にしか扱えねえ”なら――」
斧を軽く持ち上げる。
鈍い重みが、空気を沈める。
「お前にとっては“売れないゴミ”だ」
グラントの眉が、ぴくりと動いた。
ロゼルは続ける。
「誰も持てねえ。使えねえ。
置いとくだけで場所取る厄介物だろ?」
静かに言い切る。
「価値があるのは、“俺が持った時だけ”だ」
沈黙。
グラントの目が細くなる。
だが、否定はしない。
ロゼルはさらに踏み込む。
「金貨、十枚」
アゼリアが小さく息を呑む。
グラントは即座に吐き捨てた。
「ふざけるな。話にならん」
「じゃあ十五だ」
間を置かない。
「……二十でもいい」
ロゼルは肩をすくめる。
「それ以上ならやめる。他当たる」
踵を返しかける。
――その瞬間。
「待て」
低い声。
グラントが呼び止めた。
数秒の沈黙。
やがて、深く息を吐く。
「……三十じゃ」
譲歩。
だが、まだ強気。
ロゼルは振り返らない。
「二十」
一切ブレない。
空気が張り詰める。
グラントの奥歯が、ぎり、と鳴った。
「……二十五」
ロゼルはようやく振り返る。
一瞬だけ考え――
「いいだろう」
あっさりと言った。
「二十五で手を打つ」
グラントは大きく息を吐き、肩を落とす。
「……やれやれじゃ」
だがその口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
「完全に足元見られたわい」
ロゼルは軽く笑う。
「いい取引だったろ?」
グラントは鼻を鳴らす。
「違いない」
一歩近づき、低く言った。
「だがな――」
じっとロゼルを見る
「……大事に使え」
ロゼルは軽く頷いた。
「ああ」
短い返事。
だが、それで十分だった。
アゼリアはそのやり取りを見守りながら、静かに微笑む。
青い瞳に、確かな信頼を宿して。
――取引は成立した。
誰にも扱えなかった呪いの斧は、
初めて“選ばれた武器”として、持ち主を得た。




