迷宮都市アガルタ
迷宮都市は、喧騒に満ちていた。
石畳の通りを、絶え間なく人が行き交う。
鎧を鳴らす冒険者の足音、荷車を引く商人の掛け声、首輪を付けられた奴隷たちの呻き声。耳や角を持つ亜人種が人々の間を縫うように歩き、怒号や笑い声、値切りの声が渦となって通りに響き渡る。
様々な音が入り乱れ、空気そのものが騒がしい。まるで都市そのものが息を荒げ、呼吸しているかのようだった。
その混沌の中を、二つの影が静かに歩いていた。
一人はロゼイン。
金色の髪は肩に流れ、風に揺れるたびに微かに光を反射する。長いまつ毛が大きな瞳を縁取り、真紅の瞳はその小柄な顔に映えながらも鋭さを隠さない。道行く人々の視線を、まるで矢のように受け止めているかのようだった。
隣に立つアゼリアは、スラリとした佇まいで、歩幅を揃えながら静かに横を歩く。
ボロボロの服を纏ってはいるが、その立ち姿には凛とした気高さがあり、どこか浮世離れした雰囲気を放っていた。
色白の肌に映える横顔は透明感があり、美しく、青い瞳が神秘的に輝いているようだった。
だが、そんな二人を取り巻く視線は、好奇と猜疑で混ざり合っていた。
「……なんだ、あれ」
「子供……?いや……」
「奴隷……か?」
「娼婦……って感じでもねぇな……」
値踏みするような声が、遠くから耳に届く。
ロゼインはその声に意に介さず、淡々と足を進める。
アゼリアもまた、少し視線を伏せ、静かに横を歩き続けた。
やがて、喧騒を抜け、二人は露店の並ぶ通りに差し掛かった。
蒸した芋の甘く香ばしい匂いが、空気を漂っている。寒さと空腹で弱った胃に、その香りがじんわりと染み込み、体の奥まで温もりが広がるのがわかる。
「ロゼイン様、これから、どうなさるおつもりですか」
隣のアゼリアが、静かに問いかける。
ロゼインは通りの向こう、小さな露店に並ぶ籠の中の芋を見つめ、少し考え込む。
「……まずは、腹ごしらえだな」
彼の声は低く、しかし微かに笑みを含んでいた。答えを聞いたアゼリアは、口元にほのかな微笑を浮かべる。
露店には湯気を立てる小さな籠が置かれ、ほかほかの芋が整然と並んでいた。
ロゼインは皮袋に入ったなけなしの硬貨を握り、店主に向かって声をかける。
「おっちゃん、一つ頼む」
かっぷくのいい冒険者風のおじさんは、にっこり笑って返す。
「あいよ!」
熱々の芋を手渡されると、香ばしい匂いに誘われ、ロゼインの口内によだれがじゅわっと溜まる。思わず生唾を飲み込み、寒さで硬直していた体の奥まで、温かさがじんわりと広がるのを感じた。
横でアゼリアは、青い瞳を輝かせながら微笑み、その様子を見守る。
まるで、久しぶりに暖かい食事を口にする少年を優しく見つめる姉のようで、表情から穏やかな安堵がにじんでいた。
その時、店主が少し身を乗り出し、アゼリアに声をかけた。
「姉ちゃん、金がねーのかい?……苦労してきたんだろ。ほら、もう一つおまけだ」
アゼリアは、動揺しながらも頭を下げる。
「あ、ありがとうございます!」
そして店主に見つからないよう、そっともう一つの芋をロゼインに手渡した。
ロゼインは受け取り、ふう、と息をつく。
手にした熱々の芋をそっとかじると、冷え切った体にじんわりと暖かさが染み渡る。
思わず目を細め、小さく笑みを浮かべながら呟いた。
「……食えるかな。この体になって、胃がちょっと小さくなっちゃったみたいで」
アゼリアは、にこにことその表情を見つめ、静かに笑った。
二人の間に、時間がゆっくりと流れる。
通りの喧騒が遠くで渦巻く中、ほんのひととき、温かさと穏やかさだけが二人を包んでいた。
喧騒を抜け、二人は細く曲がりくねった裏通りに足を踏み入れた。
石畳は濡れ、踏むたびに水音が小さく響く。転がる瓶の破片や破れた布切れが散らばり、滑らぬよう注意しなければならない。壁際には古びた樽や木箱が置かれ、陰から誰かが見ているような気配がちらつく。物乞いや夜鷹の者たちが低く呻き、影の奥でじっと息を潜めている。
ロゼインは慣れた足取りで先へ進む。体が変わる前も冒険者で、低ランクながらも数々の危険をくぐり抜けてきた彼にとって、この裏通りの歩行は朝飯前のようなものだ。足取りは軽く、石畳の濡れた箇所や瓦礫を自然に避けながら、先頭をグイグイ進む。
アゼリアはその後ろを、ひょこっとついていくように歩く。歩幅を揃えようとするよりも、少し遅れ気味で、でも確実にロゼインに続く。時折、彼の背中に視線をやり、目で確認するような仕草が見える。
「ロゼイン様、次はどちらへ向かわれるんですか?」
アゼリアが小声で訊く。
ロゼインは少し考え、路地の先を見やった。
「宿屋だな……。今の手持ちじゃ、ここら辺りしか泊まれない」
彼は低く呟き、扉のある古い建物を指で示す。
「この辺りだろうな」
言いながら、自然な足取りで宿屋へと向かう。
アゼリアは小さく頷き、ひょこっと後ろをついていく。二人の間に軽い会話と無言の呼吸が混ざり、歩調は程よく揃っていた。
路地の奥へ進むにつれ、狭さと暗さが増す。石畳に反射する街灯の光が、壁に落ちた影を長く引き延ばす。小さな破片や泥が足元に散らばり、湿った空気と少し腐敗した匂いが混ざる。
やがて、路地の突き当たりに古い宿屋が見えた。木枠の扉から漏れる温かい光が、冷たい路地を柔らかく照らす。看板は風雨で汚れ、文字はほとんど読めない。壁の塗料は剥がれ、窓は曇っていて、安宿らしい荒れた佇まいだ。
ロゼインは一歩立ち止まり、外の路地を軽く確認する。影は遠ざかり、通行人もいない。肩の力を抜き、ゆっくりと扉に手をかける。木の軋む音とともに扉が開き、内部の温かな光と人の気配が二人を迎えた。外の冷たい闇が背後に引き、二人は自然な歩調で宿屋の中へ足を踏み入れた。
「ぎぃ……」軋む音が廊下に響く。
中は薄暗く、床には古い汚れ、机や椅子は傷だらけだ。
奥のカウンターに無精髭の店主が座り、露骨に眉をひそめる。
「……なんだ、ガキか」
侮蔑の目で二人を値踏みする。
ロゼインは無視して短く言った。
「泊まれるか」
店主は鼻を鳴らす。
「金があるならな」
皮袋から硬貨を取り出し、カウンターに置く。
店主はそれを指で寄せ、数える。
少しだけ目を見開く。
「……一晩だ。飯は出ねぇぞ」
「いらねぇ」
ロゼインは鍵を受け取り、背を向けた。
「二階だ。奥の部屋使え」
店主は礼も言わず、視線だけが背中に刺さる。
――見下す目。だが、どうでもいい。
軋む階段を上る。
廊下は暗く、空気は淀んでいる。
「ロゼイン様、大丈夫でしょうか」
「何がだ?」
「……環境が」
ロゼインは鼻で笑った。
「……寝るだけなら、迷宮よりはずっとマシだ」
部屋の前で足を止め、鍵を差し込み回す。
中は狭く、ベッドは一つ。
シーツは薄く擦り切れ、窓からの光もほとんど入らない。
「……まあ、こんなもんか」
ロゼインは軽く周囲を見回した。
その瞬間――廊下から下卑た笑い声。
「お、面白そうな連中が来たな」
「いい女連れてんじゃねえか」
三人の冒険者風の男たちが、扉の外で絡むように立っていた。
視線はまずアゼリアへ向く。
値踏みするような目。
「女は置いてけよ。そうすりゃ見逃してやる」
そして――もう一人が、ロゼインを見て口角を歪めた。
「……って、おい」
「なんだ、こっちのガキも上玉じゃねーか」
下卑た笑いが広がる。
「二人まとめてでもいいぞ?」
沈黙。
ロゼインが、ゆっくりと振り返る。
「……言いてぇ事は終わりか?」
低い声。
次の瞬間、一歩も動かずに、一人目の胸に手のひらを置いた。
軽く触れただけ――だが、男は衝撃で壁に叩きつけられるように吹き飛び、そのまま床に崩れ落ちる。
「――な、なんだ?」
残る二人がようやく反応する。
ロゼインは一歩踏み出す。
距離が消える。
剣に手をかけた男の手首ごと、柄を握り潰すように掴む。
ぎり、と金属が軋む。
「っ、あ……!?」
力を込めるでもない。
それだけで十分だった。
男は顔を歪め、慌てて剣を手放す。
膝が崩れ落ちる。
最後の一人は完全に気圧され、後ずさる。
「……やめとけ」
低く、重い声。
それだけで、限界だった。
男は仲間を引きずるようにして、逃げるように去った。
静寂。
廊下には荒い息と微かな呻き声だけが残る。
ロゼインは何事もなかったように扉を閉めかけ――止めた。
視線だけ、階下へ向ける。
店主がこちらを見ていた。
さっきまでの侮蔑は消え、警戒と、わずかな敬意。
ロゼインは口を開く。
「修理代は――」
一拍。
「アイツらにつけとけ」
吐き捨てる。
店主は、無言で頷いた。
それでいい。
ロゼインは扉を閉める。
軋む音。
静寂が戻る。
静寂が戻ってから、しばらく。
ロゼインは体を起こし、軽く肩を回した。
「……汗が気持ち悪ぃな」
迷宮からの疲れも、街の埃も、全てが肌に張り付いている感覚。
「ロゼイン様、お湯を借りてきましょうか」
アゼリアが静かに言う。
「ああ、頼む」
しばらくして、桶に汲まれたぬるい湯が部屋に運び込まれた。
宿の質相応――清潔とは言い難いが、ないよりはマシだ。
ロゼインは服を脱ぎ、ため息をつく。
「……はぁ」
視線を落とす。
細い腕。
しなやかな指。
無駄のない肩のライン。
鏡などなくとも分かる。
どう見ても――少女の体だ。
白い肌は傷一つなく、余計な肉もない。
むしろ整いすぎている。
線が細いのに、どこか芯の通った張りがある。
均整の取れた、完成された肉体。
「……なんでこうなる」
ぼそり、と呟く。
かつての自分の体とは、何もかもが違う。
軽い。細い。柔らかい。
そして――妙に整いすぎている。
「ロゼイン様」
不意に、後ろから声。
振り返ると、アゼリアがじっとこちらを見ていた。
青い瞳が、まっすぐに向けられている。
「……なんだ」
「お背中、お流しいたします」
「いらねぇ」
即答。
だが、アゼリアは一歩近づく。
「いえ、その……お一人では大変かと」
「いいから、あっち行ってろ」
少し強めに言う。
ぴたり、と動きが止まる。
「……はい」
しゅん、と肩を落とす。
分かりやすい。
ロゼインは一瞬だけ黙り――
「……見てんじゃねぇぞ」
ぼそっと付け加える。
「は、はいっ!」
今度は慌てて顔を逸らす。
その様子に、ロゼインは小さく息を吐いた。
湯を手に取り、頭から流す。
温い。
だが、それでも十分だった。
肌を伝う水滴が、白い体を滑り落ちる。
細い首筋から肩へ、そこから腕へ。
しなやかな線をなぞるように流れていく。
「……慣れねぇな」
手で軽く体を擦る。
筋肉の付き方も違う。
力の入り方も違う。
だが――
動きにくさはない。
むしろ、不自然なほどに“扱いやすい”。
「……気持ち悪ぃくらいだ」
短く吐き捨てる。
ひと通り流し終え、布で体を拭く。
水分を拭い取ると、肌はさらに白さを際立たせた。
「……よし」
簡単に身支度を整え、ベッドへ向かう。
ぼろい。
軋む。
だが、今はどうでもいい。
そのまま、倒れ込むように寝転ぶ。
「……はぁ」
一気に力が抜ける。
その横に、当然のようにアゼリアが腰を下ろした。
そして、そのまま――横になる。
距離が、近い。
近すぎる。
ロゼインは片目を開ける。
「……アゼリア」
「はい?」
顔が、すぐそこにある。
青い瞳が、じっとこちらを見ている。
「……見過ぎだ」
「――はっ!」
アゼリアが弾かれたように起き上がる。
「も、申し訳ございません!」
顔を赤くするわけではない。
だが、明らかに動揺している。
ロゼインは、少しだけ目を細めた。
「……別にいいけどよ」
ぼそり、と呟く。
再び目を閉じる。
「寝るぞ」
「……はい」
アゼリアは静かに横になり直す。
今度は、少しだけ距離を取って。
だが――
完全には離れない。
その距離感に、ロゼインは何も言わなかった。
薄暗い部屋。
外の喧騒は、もう遠い。
静かな時間だけが、そこにあった。




