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聖血のロゼル  作者: チョコレートスターフィッシュ
第1章

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16/77

覚醒

奈落鬼の足音が、ゆっくりと近づいてくる。

 一歩踏み出すたび、石床が低く軋んだ。

 巨体に似合わぬほど慎重な歩みだった。逃げ場を失った獲物が、いつ倒れるのか。それを確かめるように、奈落鬼はロゼインとの距離を詰めていく。

「……グ、ォ……」

 裂けた口から、長い舌が覗く。粘つく唾液が糸を引き、石床に落ちた。

 ロゼインは構えを崩さなかった。

 だが、分かっている。

 間合いも、呼吸も、動くべき瞬間さえも、すべて相手に握られていた。

 さっきから、奈落鬼は攻撃を急いでいない。こちらの動きを読み、逃げ道を塞ぎ、じわじわと追い詰めている。

 まるで、殺すことなどいつでもできると言わんばかりに。

(……舐めやがって)

 奥歯を噛み締める。

 右腕には、まだ力が残っている。足も動く。戦うこと自体は、まだできる。

 だが、このままでは勝てない。

 それでも――。

 脳裏に浮かんだのは、迷宮の奥に残してきたアゼリアの姿だった。

 あの状態では、長くはもたない。

 助けるために必要なのは、奈落鬼が保有する、

特別な魔石。それを手に入れなければ、ここまで命を懸けて戦ってきた意味がなくなる。

 帰らなければならない。

 あいつのもとへ。

 そのためには、目の前の化け物を倒すしかなかった。

 奈落鬼が腕を持ち上げる。

 振り下ろされる巨腕を、ロゼインは横へ跳んでかわした。

 石床が砕け、破片が飛び散る。

 だが、奈落鬼は追撃してこなかった。

(……何だ?)

 違和感を覚えた、その瞬間。

 反対側から、凄まじい速度で巨腕が襲いかかる。

「――ッ!!」

 間に合わない。

 ロゼインは咄嗟に腕を交差させた。

 凄まじい衝撃が全身を貫く。

 踏ん張った足が滑り、身体が沈む。膝が石床を打ち、肺から息が押し出された。

「……ぐっ……!」

 顔を上げる。

 奈落鬼は、目の前に立っていた。

 すぐにでも踏み潰せる距離。それなのに、襲いかかってはこない。

 ただ、こちらを見下ろしている。

 壊れかけた獲物が、どこまで抵抗できるのか。

 それを楽しんでいるのだ。

「……っこのやろ」

 ロゼインは歯を食い縛り、身体を起こした。

 右腕が痺れている。呼吸をするたび、肋骨のあたりに鈍い痛みが走った。

 それでも、拳を握る。

 奈落鬼が、わずかに首を傾けた。

 その仕草に、腹の底から怒りが湧き上がる。

(……舐めやがって!やってやるよ!)

 ロゼインは正面から踏み込んだ。

 奈落鬼の腕が振り下ろされる。

 避ければ、生き延びられるかもしれない。

 だが、逃げ続けたところで勝ち目はない。

 ロゼインは拳を振りかぶった。

 全身の力を右腕に集める。

(ぶち抜く――!)

 拳と拳が、真正面から激突した。

 鈍い音が響く。

 次の瞬間、ロゼインの右拳が潰れた。

「――ッ、がぁっ!!」

 硬さが違いすぎた。

 骨が砕け、指の形が崩れる。衝撃は拳だけにとどまらず、手首から肘、肩へと一気に駆け上がった。

 耐えきれなかった肘が、嫌な音を立てて折れる。

 全身が弾き飛ばされた。

 背中から石床に叩きつけられ、身体が何度も転がる。

 ようやく止まったときには、息を吸うことさえままならなかった。

「……はっ……ぐ……っ」

 右腕が動かない。

 潰れた拳から、血が滴っている。

 視界が明滅し、意識が遠のきかけた。

 それでも、ロゼインは目を閉じなかった。

 奈落鬼が、ゆっくりと近づいてくる。

 もう一度、立てるのか。

 まだ抵抗するつもりなのか。

 その答えを確かめるように、巨体が目の前で止まった。

 ロゼインは左手を床につき、身体を起こそうとする。

 だが、力が入らない。

 膝がガクガクと震え、身体が崩れ落ちた。

「……っ、くそ……!」

 立て。

 立てよ。

 ここで倒れたら、アゼリアを救えない。

 もう一度、腕に力を込める。

 身体が持ち上がりかけた、そのときだった。

 奈落鬼の手が伸びてきた。

「――ッ!」

 避ける間もなかった。

 髪を掴まれ、強引に引き上げられる。

 足が床から離れた。

 折れた右腕が、力なく垂れ下がる。潰れた拳から流れ落ちた血が、床に赤い点を刻んだ。

 奈落鬼の顔が迫る。

 湿った息と腐臭。裂けた口の奥で、舌がぬらりと動いた。

「……グ、ォ……」

 愉悦に満ちた声。

 ロゼインは顔をしかめたが、抵抗する力は残っていなかった。

 視界が揺れる。

 呼吸が浅くなる。

 このまま意識を失えば、次に目を覚ますことはないだろう。

(……アゼリア……)

 あいつを、助けなければ。

 だが、身体が動かない。

 掴まれた髪が頭皮に食い込み、激痛が走るが、

痛みすらも遠くなっていく。

(……悪い……)

 何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。

 ただ、こんなところで終わるわけにはいかないという思いだけが、消えずに残っていた。

 そのとき――。

 どくん。

 何かが鳴った。

 ロゼインの心臓ではない。

 もっと遠く。

 迷宮の奥深く、地の底から響いてくるような脈動だった。

 どくん。

 どくん。

 奈落鬼の動きが、ぴたりと止まる。

「……?」

 ロゼインも、かすかに目を見開いた。

 音ではない。

 空気の揺れでもない。

 何かが、こちらへと呼びかけている。

 あるいは――。

 この場所が、ロゼインの死を拒んでいる。

 そんな感覚だった。

 迷宮そのものが、深い底から脈打っている。

 その脈動が、ゆっくりと近づいてくる。

 どくん。

 どくん。

 そしてその鼓動が。

 ロゼインの鼓動と重なった。

「……ぁ……?」

 喉から、かすれた声が漏れる。

 胸の奥が熱を帯びたわけではない。痛みが走ったわけでもない。

 ただ、今まで身体のどこにもなかった何かが、突然そこに存在していた。

 次の瞬間。

 青い炎が、皮膚の隙間から滲み出した。

 そして、一気に噴き上がる。

「――ッ!?」

 奈落鬼が初めて、明確な動揺を見せた。

 ロゼインの全身を青い炎が包み込む。

 それは肉体を焼く炎ではなかった。

 熱はない。

 だが、確かな異変が起きていた。

 青い光が皮膚の下を走り、身体の内側から何かを書き換えていく。

 ロゼインの赤い瞳が、深く、強く輝いた。

 掴まれていた右腕が、ぴくりと動く。

 奈落鬼の手の中で、潰れた拳が形を取り戻し始めた。

 砕けた骨が繋がり、ずれた肘が本来の位置へ戻る。

 肉が蠢き、断たれた繊維が結び直されていく。

「……ギ……?」

 奈落鬼の喉から、戸惑いの声が漏れた。

 ロゼインは自分の腕を見た。

 痛みが消えていく。

 それだけではない。

 身体の奥から、今まで感じたことのない力が溢れ出していた。

(……何だ、こいつは……)

 理解できない。

 だが、確かなことが一つあった。

 もう、身体は壊れていない。

 右手の指が動く。

 拳を握る。

 力が満ちている。

 どくん。

 脈動が、再び響いた。

 今度は迷宮の奥からではない。

 自分の内側から。

 ロゼインは奈落鬼を見た。

 その目に、先ほどまでの怯えはなかった。

 奈落鬼が、掴む手に力を込める。

 だが、もう遅い。

 ロゼインの口元が、わずかに歪んだ。

 次の瞬間。

 右腕が、流れるように動いた。

 構えも、力みもない。

 ただ、手刀が奈落鬼の腕を通り抜ける。

 乾いた音が響いた。

 皮膚が裂け、筋肉が断たれ、骨の繋がりが崩れる。

 奈落鬼の手から、力が抜けた。

 切断された腕が、ロゼインの身体を掴んだまま落ちていく。

 解放されたロゼインは、床に足をついた。

 膝は折れない。

 身体も揺らがない。

 まるで、先ほどまで死にかけていたのが嘘のようだった。

 青い炎が、全身を静かに揺らめいている。

 ロゼインは手元に落ちた奈落鬼の腕を見下ろし、それから顔を上げた。

 奈落鬼は、切断面から血を噴き出させながら、呆然と立ち尽くしていた。

 自分の身体が欠けた。

 その事実を、まだ理解できていないらしい。

 やがて、巨体が一歩後ずさった。

「……グ……ァ……」

 その声に、先ほどまでの余裕はない。

 恐怖。

 それを初めて知った者の声だった。

 ロゼインは、ゆっくりと右手を握り締めた。

 青い炎が拳の周囲で揺れる。

(……そうか)

 これなら、いける。

 奈落鬼を倒せる。

 魔石を手に入れられる。

 そして――アゼリアのもとへ帰れる。

 その可能性が、初めて現実のものとして見えた。

「……待ってろよ」

 誰に聞かせるでもなく、ロゼインは呟いた。

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった迷いが消えた。

 何が起きたのかは分からない。

 この力が何なのかも分からない。

 だが、今はそれでいい。

 必要なのは、目の前の敵を倒すこと。

 それだけだった。

 奈落鬼が咆哮した。

「――グォォォォッ!!」

 切断された腕の痛みと、初めて味わった恐怖。その両方を振り払うように、残された腕を振りかぶる。

 全力の一撃。

 ロゼインの頭を叩き潰すための拳が、一直線に迫った。

 ロゼインは避けなかった。

 左手を静かに持ち上げる。

 そして、奈落鬼の拳を片手で受け止めた。

 轟音はなかった。

 床が砕けることも、身体が弾き飛ばされることもない。

 ただ、止まった。

 奈落鬼の拳が、ロゼインの手の中で完全に静止していた。

「……グ?」

 押し込もうとしても動かない。

 引き抜こうとしても、びくともしない。

 奈落鬼の腕が震え始めた。

 もう力で敵わない。

 その事実を、巨体が理解し始めていた。

 ロゼインは一歩踏み込んだ。

 青い炎が、右拳へと集まっていく。

 揺らめいていた炎が一点に収束し、密度を増していく。

 奈落鬼の目が見開かれた。

 逃げなければ。

 そう思ったのかもしれない。

 だが、奈落鬼の拳は捕まれたままだった。

逃げたくとももう逃げれない。

 ロゼインの拳が、奈落鬼の身体へと向けられる。

 次の瞬間。

 青い閃光が走った。

 衝撃は外へと弾けなかった。

 受け止めた拳を通じて、奈落鬼の体内へと突き抜けた。

「――ッッ!!」

 巨体が硬直する。

 肋骨が砕け、衝撃が内臓を打ち据える。

 逃げ場を失った力が体内で暴れ、奈落鬼の身体を内側から破壊していった。

「――ガッ……!」

 血が口から溢れる。

 奈落鬼は拳を引こうとしたが、身体が思うように動かない。

 膝が落ちた。

 巨体が前屈みになり、石床に片手をつく。

 呼吸が乱れ、喉から血の混じった音が漏れた。

 先ほどまで、ロゼインを一方的に追い詰めていた化け物。

 その奈落鬼が、今は目の前で膝をついている。

 ロゼインは見下ろした。

 青い炎が、静かに揺れていた。

「……カカッ」

 乾いた笑いが漏れる。

 強くなったことが嬉しいわけではない。

 目の前の敵をいたぶるつもりもなかった。

 ただ、ようやく道が開けたのだ。

 アゼリアを救うための道が。

 それを閉ざさせるわけにはいかない。

 奈落鬼が、震える身体を引きずるように後退した。

 逃げようとしている。

 ロゼインは、その動きを見ていた。

 ここで逃がすわけにはいかなかった。

 奈落鬼が落とす魔石を手に入れなければ、すべてが無駄になる。

 ここまで傷つき、死にかけてもなお戦った意味がなくなる。

 ロゼインは一歩、前へ出た。

 奈落鬼が顔を上げる。

 その目に、明確な恐怖が浮かんでいた。

「……グ……ッ……!」

 残された腕を持ち上げる。

 防御のつもりか、それとも最後の抵抗か。

 どちらでもよかった。

 ロゼインは拳を握った。

 青い炎が、再び拳へと収束する。

 今度は迷わない。

「終わりだ」

 踏み込む。

 奈落鬼が腕を振り上げるよりも早く、ロゼインの拳が巨体の中央へと叩き込まれた。

 青い光が、深く沈み込む。

 奈落鬼の身体が大きく跳ねた。

「――ガァァァッ!!」

 絶叫。

 骨が砕け、体内で衝撃が連鎖する。

 巨体が震え、支えを失った四肢が崩れた。

 ロゼインは拳を押し込む。

 最後の抵抗を許さない。

 アゼリアの顔が、脳裏をよぎった。

 あいつを救う。

 そのために、ここまで来た。

 だから――。

「倒れろッ!!」

 拳に力を込める。

 青い炎が、奈落鬼の身体の奥深くまで侵食した。

 ぱき、と。

 何かが砕ける音がした。

 奈落鬼の目が見開かれる。

 その瞳から、力が失われていく。

 巨体が前へと傾き、石床に叩きつけられた。

 地面が揺れる。

 舞い上がった埃が、周囲を覆った。

 ロゼインは、拳を下ろさなかった。

 奈落鬼が再び動き出さないことを、しばらく確かめていた。

 やがて、巨体から力が抜けた。

 呼吸はない。

 残された腕も、指一本動かない。

 決着だった。

 ロゼインは、ゆっくりと息を吐いた。

「……はぁ……」

 全身を覆っていた青い炎が、少しずつ薄れていく。

 先ほどまで満ちていた力も、静かに引いていった。

 だが、身体に痛みは戻らなかった。

 折れていたはずの右腕も、今は何事もなかったかのように動く。

 自分の身体に何が起きたのか。

 迷宮の脈動は何だったのか。

 考えたいことはいくらでもあった。

 しかし、今は後回しだ。

 奈落鬼の巨体が、淡い光を帯び始めていた。

 魔物が死ぬときに起きる、迷宮特有の現象。

 その身体が、少しずつ光の粒子へと変わっていく。

 肉がほどけ、骨が崩れ、奈落鬼という存在そのものが空間へと還っていく。

 やがて、巨体は跡形もなく消えた。

 その中心に、一つの魔石が残されていた。

 虹色に輝く、特別な魔石。

 ロゼインは、その場に膝をつきそうになるのを堪え、ゆっくりと近づいた。

 魔石を拾い上げる。

 掌の中で、虹色の光が揺れた。

「……これで……」

 言葉が途切れた。

 まだ、アゼリアが助かると決まったわけではない。

 この魔石があれば、本当に間に合うのか。それさえ、確実ではなかった。

 けれど、手に入れなければ何も始まらない。

 ロゼインは魔石を強く握り締めた。

「……待ってろよ、アゼリア」

 声が、かすかに震えた。

 死にかけたことへの恐怖が、今になって押し寄せてきたわけではない。

 ただ、ようやく帰れるかもしれない。

 そう思った途端、張り詰めていたものが少しだけ緩んだのだ。

 ロゼインは魔石を大切にしまい、立ち上がった。

 身体はまだ重い。

 迷宮の奥からは、相変わらず冷たい空気が流れてくる。

 それでも、足を止める理由はなかった。

 アゼリアが待っている。

 間に合うかどうかは、走り続けた先で確かめるしかない。

 ロゼインは、来た道を振り返ることなく走り出した。




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