覚醒
奈落鬼の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
一歩踏み出すたび、石床が低く軋んだ。
巨体に似合わぬほど慎重な歩みだった。逃げ場を失った獲物が、いつ倒れるのか。それを確かめるように、奈落鬼はロゼインとの距離を詰めていく。
「……グ、ォ……」
裂けた口から、長い舌が覗く。粘つく唾液が糸を引き、石床に落ちた。
ロゼインは構えを崩さなかった。
だが、分かっている。
間合いも、呼吸も、動くべき瞬間さえも、すべて相手に握られていた。
さっきから、奈落鬼は攻撃を急いでいない。こちらの動きを読み、逃げ道を塞ぎ、じわじわと追い詰めている。
まるで、殺すことなどいつでもできると言わんばかりに。
(……舐めやがって)
奥歯を噛み締める。
右腕には、まだ力が残っている。足も動く。戦うこと自体は、まだできる。
だが、このままでは勝てない。
それでも――。
脳裏に浮かんだのは、迷宮の奥に残してきたアゼリアの姿だった。
あの状態では、長くはもたない。
助けるために必要なのは、奈落鬼が保有する、
特別な魔石。それを手に入れなければ、ここまで命を懸けて戦ってきた意味がなくなる。
帰らなければならない。
あいつのもとへ。
そのためには、目の前の化け物を倒すしかなかった。
奈落鬼が腕を持ち上げる。
振り下ろされる巨腕を、ロゼインは横へ跳んでかわした。
石床が砕け、破片が飛び散る。
だが、奈落鬼は追撃してこなかった。
(……何だ?)
違和感を覚えた、その瞬間。
反対側から、凄まじい速度で巨腕が襲いかかる。
「――ッ!!」
間に合わない。
ロゼインは咄嗟に腕を交差させた。
凄まじい衝撃が全身を貫く。
踏ん張った足が滑り、身体が沈む。膝が石床を打ち、肺から息が押し出された。
「……ぐっ……!」
顔を上げる。
奈落鬼は、目の前に立っていた。
すぐにでも踏み潰せる距離。それなのに、襲いかかってはこない。
ただ、こちらを見下ろしている。
壊れかけた獲物が、どこまで抵抗できるのか。
それを楽しんでいるのだ。
「……っこのやろ」
ロゼインは歯を食い縛り、身体を起こした。
右腕が痺れている。呼吸をするたび、肋骨のあたりに鈍い痛みが走った。
それでも、拳を握る。
奈落鬼が、わずかに首を傾けた。
その仕草に、腹の底から怒りが湧き上がる。
(……舐めやがって!やってやるよ!)
ロゼインは正面から踏み込んだ。
奈落鬼の腕が振り下ろされる。
避ければ、生き延びられるかもしれない。
だが、逃げ続けたところで勝ち目はない。
ロゼインは拳を振りかぶった。
全身の力を右腕に集める。
(ぶち抜く――!)
拳と拳が、真正面から激突した。
鈍い音が響く。
次の瞬間、ロゼインの右拳が潰れた。
「――ッ、がぁっ!!」
硬さが違いすぎた。
骨が砕け、指の形が崩れる。衝撃は拳だけにとどまらず、手首から肘、肩へと一気に駆け上がった。
耐えきれなかった肘が、嫌な音を立てて折れる。
全身が弾き飛ばされた。
背中から石床に叩きつけられ、身体が何度も転がる。
ようやく止まったときには、息を吸うことさえままならなかった。
「……はっ……ぐ……っ」
右腕が動かない。
潰れた拳から、血が滴っている。
視界が明滅し、意識が遠のきかけた。
それでも、ロゼインは目を閉じなかった。
奈落鬼が、ゆっくりと近づいてくる。
もう一度、立てるのか。
まだ抵抗するつもりなのか。
その答えを確かめるように、巨体が目の前で止まった。
ロゼインは左手を床につき、身体を起こそうとする。
だが、力が入らない。
膝がガクガクと震え、身体が崩れ落ちた。
「……っ、くそ……!」
立て。
立てよ。
ここで倒れたら、アゼリアを救えない。
もう一度、腕に力を込める。
身体が持ち上がりかけた、そのときだった。
奈落鬼の手が伸びてきた。
「――ッ!」
避ける間もなかった。
髪を掴まれ、強引に引き上げられる。
足が床から離れた。
折れた右腕が、力なく垂れ下がる。潰れた拳から流れ落ちた血が、床に赤い点を刻んだ。
奈落鬼の顔が迫る。
湿った息と腐臭。裂けた口の奥で、舌がぬらりと動いた。
「……グ、ォ……」
愉悦に満ちた声。
ロゼインは顔をしかめたが、抵抗する力は残っていなかった。
視界が揺れる。
呼吸が浅くなる。
このまま意識を失えば、次に目を覚ますことはないだろう。
(……アゼリア……)
あいつを、助けなければ。
だが、身体が動かない。
掴まれた髪が頭皮に食い込み、激痛が走るが、
痛みすらも遠くなっていく。
(……悪い……)
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
ただ、こんなところで終わるわけにはいかないという思いだけが、消えずに残っていた。
そのとき――。
どくん。
何かが鳴った。
ロゼインの心臓ではない。
もっと遠く。
迷宮の奥深く、地の底から響いてくるような脈動だった。
どくん。
どくん。
奈落鬼の動きが、ぴたりと止まる。
「……?」
ロゼインも、かすかに目を見開いた。
音ではない。
空気の揺れでもない。
何かが、こちらへと呼びかけている。
あるいは――。
この場所が、ロゼインの死を拒んでいる。
そんな感覚だった。
迷宮そのものが、深い底から脈打っている。
その脈動が、ゆっくりと近づいてくる。
どくん。
どくん。
そしてその鼓動が。
ロゼインの鼓動と重なった。
「……ぁ……?」
喉から、かすれた声が漏れる。
胸の奥が熱を帯びたわけではない。痛みが走ったわけでもない。
ただ、今まで身体のどこにもなかった何かが、突然そこに存在していた。
次の瞬間。
青い炎が、皮膚の隙間から滲み出した。
そして、一気に噴き上がる。
「――ッ!?」
奈落鬼が初めて、明確な動揺を見せた。
ロゼインの全身を青い炎が包み込む。
それは肉体を焼く炎ではなかった。
熱はない。
だが、確かな異変が起きていた。
青い光が皮膚の下を走り、身体の内側から何かを書き換えていく。
ロゼインの赤い瞳が、深く、強く輝いた。
掴まれていた右腕が、ぴくりと動く。
奈落鬼の手の中で、潰れた拳が形を取り戻し始めた。
砕けた骨が繋がり、ずれた肘が本来の位置へ戻る。
肉が蠢き、断たれた繊維が結び直されていく。
「……ギ……?」
奈落鬼の喉から、戸惑いの声が漏れた。
ロゼインは自分の腕を見た。
痛みが消えていく。
それだけではない。
身体の奥から、今まで感じたことのない力が溢れ出していた。
(……何だ、こいつは……)
理解できない。
だが、確かなことが一つあった。
もう、身体は壊れていない。
右手の指が動く。
拳を握る。
力が満ちている。
どくん。
脈動が、再び響いた。
今度は迷宮の奥からではない。
自分の内側から。
ロゼインは奈落鬼を見た。
その目に、先ほどまでの怯えはなかった。
奈落鬼が、掴む手に力を込める。
だが、もう遅い。
ロゼインの口元が、わずかに歪んだ。
次の瞬間。
右腕が、流れるように動いた。
構えも、力みもない。
ただ、手刀が奈落鬼の腕を通り抜ける。
乾いた音が響いた。
皮膚が裂け、筋肉が断たれ、骨の繋がりが崩れる。
奈落鬼の手から、力が抜けた。
切断された腕が、ロゼインの身体を掴んだまま落ちていく。
解放されたロゼインは、床に足をついた。
膝は折れない。
身体も揺らがない。
まるで、先ほどまで死にかけていたのが嘘のようだった。
青い炎が、全身を静かに揺らめいている。
ロゼインは手元に落ちた奈落鬼の腕を見下ろし、それから顔を上げた。
奈落鬼は、切断面から血を噴き出させながら、呆然と立ち尽くしていた。
自分の身体が欠けた。
その事実を、まだ理解できていないらしい。
やがて、巨体が一歩後ずさった。
「……グ……ァ……」
その声に、先ほどまでの余裕はない。
恐怖。
それを初めて知った者の声だった。
ロゼインは、ゆっくりと右手を握り締めた。
青い炎が拳の周囲で揺れる。
(……そうか)
これなら、いける。
奈落鬼を倒せる。
魔石を手に入れられる。
そして――アゼリアのもとへ帰れる。
その可能性が、初めて現実のものとして見えた。
「……待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく、ロゼインは呟いた。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった迷いが消えた。
何が起きたのかは分からない。
この力が何なのかも分からない。
だが、今はそれでいい。
必要なのは、目の前の敵を倒すこと。
それだけだった。
奈落鬼が咆哮した。
「――グォォォォッ!!」
切断された腕の痛みと、初めて味わった恐怖。その両方を振り払うように、残された腕を振りかぶる。
全力の一撃。
ロゼインの頭を叩き潰すための拳が、一直線に迫った。
ロゼインは避けなかった。
左手を静かに持ち上げる。
そして、奈落鬼の拳を片手で受け止めた。
轟音はなかった。
床が砕けることも、身体が弾き飛ばされることもない。
ただ、止まった。
奈落鬼の拳が、ロゼインの手の中で完全に静止していた。
「……グ?」
押し込もうとしても動かない。
引き抜こうとしても、びくともしない。
奈落鬼の腕が震え始めた。
もう力で敵わない。
その事実を、巨体が理解し始めていた。
ロゼインは一歩踏み込んだ。
青い炎が、右拳へと集まっていく。
揺らめいていた炎が一点に収束し、密度を増していく。
奈落鬼の目が見開かれた。
逃げなければ。
そう思ったのかもしれない。
だが、奈落鬼の拳は捕まれたままだった。
逃げたくとももう逃げれない。
ロゼインの拳が、奈落鬼の身体へと向けられる。
次の瞬間。
青い閃光が走った。
衝撃は外へと弾けなかった。
受け止めた拳を通じて、奈落鬼の体内へと突き抜けた。
「――ッッ!!」
巨体が硬直する。
肋骨が砕け、衝撃が内臓を打ち据える。
逃げ場を失った力が体内で暴れ、奈落鬼の身体を内側から破壊していった。
「――ガッ……!」
血が口から溢れる。
奈落鬼は拳を引こうとしたが、身体が思うように動かない。
膝が落ちた。
巨体が前屈みになり、石床に片手をつく。
呼吸が乱れ、喉から血の混じった音が漏れた。
先ほどまで、ロゼインを一方的に追い詰めていた化け物。
その奈落鬼が、今は目の前で膝をついている。
ロゼインは見下ろした。
青い炎が、静かに揺れていた。
「……カカッ」
乾いた笑いが漏れる。
強くなったことが嬉しいわけではない。
目の前の敵をいたぶるつもりもなかった。
ただ、ようやく道が開けたのだ。
アゼリアを救うための道が。
それを閉ざさせるわけにはいかない。
奈落鬼が、震える身体を引きずるように後退した。
逃げようとしている。
ロゼインは、その動きを見ていた。
ここで逃がすわけにはいかなかった。
奈落鬼が落とす魔石を手に入れなければ、すべてが無駄になる。
ここまで傷つき、死にかけてもなお戦った意味がなくなる。
ロゼインは一歩、前へ出た。
奈落鬼が顔を上げる。
その目に、明確な恐怖が浮かんでいた。
「……グ……ッ……!」
残された腕を持ち上げる。
防御のつもりか、それとも最後の抵抗か。
どちらでもよかった。
ロゼインは拳を握った。
青い炎が、再び拳へと収束する。
今度は迷わない。
「終わりだ」
踏み込む。
奈落鬼が腕を振り上げるよりも早く、ロゼインの拳が巨体の中央へと叩き込まれた。
青い光が、深く沈み込む。
奈落鬼の身体が大きく跳ねた。
「――ガァァァッ!!」
絶叫。
骨が砕け、体内で衝撃が連鎖する。
巨体が震え、支えを失った四肢が崩れた。
ロゼインは拳を押し込む。
最後の抵抗を許さない。
アゼリアの顔が、脳裏をよぎった。
あいつを救う。
そのために、ここまで来た。
だから――。
「倒れろッ!!」
拳に力を込める。
青い炎が、奈落鬼の身体の奥深くまで侵食した。
ぱき、と。
何かが砕ける音がした。
奈落鬼の目が見開かれる。
その瞳から、力が失われていく。
巨体が前へと傾き、石床に叩きつけられた。
地面が揺れる。
舞い上がった埃が、周囲を覆った。
ロゼインは、拳を下ろさなかった。
奈落鬼が再び動き出さないことを、しばらく確かめていた。
やがて、巨体から力が抜けた。
呼吸はない。
残された腕も、指一本動かない。
決着だった。
ロゼインは、ゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ……」
全身を覆っていた青い炎が、少しずつ薄れていく。
先ほどまで満ちていた力も、静かに引いていった。
だが、身体に痛みは戻らなかった。
折れていたはずの右腕も、今は何事もなかったかのように動く。
自分の身体に何が起きたのか。
迷宮の脈動は何だったのか。
考えたいことはいくらでもあった。
しかし、今は後回しだ。
奈落鬼の巨体が、淡い光を帯び始めていた。
魔物が死ぬときに起きる、迷宮特有の現象。
その身体が、少しずつ光の粒子へと変わっていく。
肉がほどけ、骨が崩れ、奈落鬼という存在そのものが空間へと還っていく。
やがて、巨体は跡形もなく消えた。
その中心に、一つの魔石が残されていた。
虹色に輝く、特別な魔石。
ロゼインは、その場に膝をつきそうになるのを堪え、ゆっくりと近づいた。
魔石を拾い上げる。
掌の中で、虹色の光が揺れた。
「……これで……」
言葉が途切れた。
まだ、アゼリアが助かると決まったわけではない。
この魔石があれば、本当に間に合うのか。それさえ、確実ではなかった。
けれど、手に入れなければ何も始まらない。
ロゼインは魔石を強く握り締めた。
「……待ってろよ、アゼリア」
声が、かすかに震えた。
死にかけたことへの恐怖が、今になって押し寄せてきたわけではない。
ただ、ようやく帰れるかもしれない。
そう思った途端、張り詰めていたものが少しだけ緩んだのだ。
ロゼインは魔石を大切にしまい、立ち上がった。
身体はまだ重い。
迷宮の奥からは、相変わらず冷たい空気が流れてくる。
それでも、足を止める理由はなかった。
アゼリアが待っている。
間に合うかどうかは、走り続けた先で確かめるしかない。
ロゼインは、来た道を振り返ることなく走り出した。




