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聖血のロゼル  作者: チョコレートスターフィッシュ
第1章

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16/36

覚醒

奈落鬼の足音が、ゆっくりと近づく。

重い。

だが、急がない。

逃げ場がないことを理解している動き。

一歩。

また一歩。

そのたびに、床が低く軋む。

ロゼインは構えたまま、動かない。

動けない、ではない。

“動かされている”。

間合いも、呼吸も、すべて奈落鬼に支配されている。

「……グ、ォ……」

低く、喉の奥で鳴る声。

奈落鬼の口が、ゆっくりと開く。

長い舌が垂れ、唾液が糸を引く。

ぽたり、と床に落ちる。

その音が、やけに近い。

(……クソが)

ロゼインの奥歯が、わずかに鳴る。

視線は逸らさない。

だが理解している。

完全に、見下されている。

奈落鬼が、腕を持ち上げる。

振り下ろし――

ロゼインは動く。

横へ。

ギリギリで避ける。

だが。

――追ってこない。

一拍、遅れる。

(……?)

次の瞬間。

反対側から、叩きつけ。

「――ッ!!」

視界が揺れる。

腕で受ける。

だが、衝撃が抜ける。

踏み止まれない。

身体が沈み、膝が床を叩く。

奈落鬼は、その様子を“見ている”。

すぐに殺せる距離。

それでも、動かない。

値踏みするように。

壊れ方を確かめるように。

ロゼインの口から、低く言葉が漏れる。

「……舐めやがって」

立ち上がる。

軋む身体を、無理やり引き上げる。

拳を握る。

骨が軋む感触が、はっきりと分かる。

それでも、構える。

奈落鬼が、わずかに首を傾ける。

その仕草が、癇に障る。

(……だったら)

ロゼインの足が、床を踏み込む。

今度は、逃げない。

真正面。

一直線に、踏み込む。

奈落鬼の腕が、動く。

振り下ろし。

正面から。

避ければ助かる。

だが――

ロゼインは、止まらない。

拳を振りかぶる。

全身の力を、一点へ。

(ぶち抜く――!)

衝突。

拳と拳が、真正面からぶつかる。

次の瞬間。

音が消える。

衝撃が、内側で爆ぜる。

「――ッ!!」

砕けた。

ロゼインの拳が。

骨が、明確に潰れる感触。

硬さが負ける。

力が、通らない。

遅れて、激痛が走る。

拳から腕へ。

肘へ。

肩へと、一気に突き抜ける。

「……ッ、ぐ……!!」

腕が、耐えきれない。

内側から、軋みが悲鳴に変わる。

次の瞬間。

“へし折れる”。

鈍い感触と共に、肘の内側で何かがずれる。

力が、抜ける。

ロゼインの身体が、そのまま弾かれる。

吹き飛ぶ。

さっきまでとは比べものにならない勢いで。

床に叩きつけられる。

転がる。

止まらない。

ようやく止まったときには、呼吸がまともにできない。

右腕が、動かない。

感覚が、半分飛んでいる。

それでも――

奈落鬼は、すぐには来ない。

ゆっくりと歩いてくる。

一歩ずつ。

確実に。

その口から、また唾液が垂れる。

視線は、外れない。

ロゼインの壊れた腕へ。

潰れた拳へ。

そして――顔へ。

「……グ、ォ……」

低く、満足したような音。

遊びは、まだ終わらない。

ロゼインは、歯を食いしばる。

視界が揺れる。

だが――

意識は、落ちない。

(……まだだ)

折れていない。

まだ、終わっていない。

終われない。


奈落鬼が、ゆっくりと歩み寄る。

重い足音。

だが急がない。

逃げ場がないことを、理解している歩き方。

ロゼインは歯を食い縛る。

崩れた体を、無理やり立たせる。

右腕は垂れ下がり、力は入らない。

それでも――構える。

奈落鬼は、その姿を見ている。

まるで、壊れかけの玩具を眺めるように。

口元が、わずかに歪む。

愉悦。

そして――恍惚。

裂けた口の奥で、舌がぬらりと動く。

唾液が糸を引き、ぽたりと床へ落ちる。

その視線は、明確に“餌”を見るものだった。

「……グ、ォ……」

低く、満足げに喉が鳴る。

一歩。

また一歩。

距離が、詰まる。

ロゼインは、動かない。

いや――動けない。

それでも視線だけは、逸らさない。

(……クソが)

奈落鬼の手が、伸びる。

避けられない。

髪を、掴まれる。

強引に。

指が頭皮に食い込み、そのまま持ち上げられる。

「――ッ……!」

身体が浮く。

足が床を離れる。

右腕が、だらりと垂れる。

潰れた拳から、血が滴る。

奈落鬼の顔が、目の前に迫る。

息がかかる。

湿った、腐臭。

舌が覗く。

唾液が垂れる。

「……グ、ォ……」

壊れた獲物を、味わうように。

ロゼインの体が、わずかに揺れる。

呼吸が浅い。

意識が、沈みかける。

(……クソ……)

力が抜ける。

このまま――

その時だった。

――どくん。

何かが、鳴った。

ロゼインの心臓ではない。

もっと、外側。

迷宮の奥深く。

地の底から、響くような脈動。

どくん。

どくん。

遅い。

だが、重い。

空間そのものが、わずかに脈打っている。

奈落鬼の動きが、一瞬だけ止まる。

「……?」

ロゼインの瞳が、わずかに揺れる。

(……なんだ……?)

違う。

音ではない。

“圧”でもない。

もっと曖昧で、それでいて確かな感覚。

――拒まれている。

このまま終わることを。

この場所が。

この迷宮そのものが。

ロゼインの“死”を、是としていない。

そんな錯覚。

だが――

確かに、感じる。

どくん。

どくん。

脈動が、近づく。

重なってくる。

ロゼインの内側へと。

「……ァ……」

喉が、勝手に鳴る。

その瞬間。

体の奥で、何かが弾けた。

――青い炎。

それが、漏れ出す。

最初は、わずかに。

皮膚の隙間から、滲むように。

次の瞬間。

噴き出した。

「――ッ!?」

奈落鬼が、明確に反応する。

ロゼインの全身から、青い炎が噴き上がる。

燃えているわけではない。

侵食している。

肉体そのものを、内側から塗り替えるように。

熱はない。

だが、圧がある。

異質な力が、明確に“満ちていく”。

ロゼインの瞳が、開く。

赤い。

だがその赤が、さらに濃く、深く。

内側から光るように、輝き始める。

「……っ……!」

握られたままの身体が、震える。

右腕。

潰れたはずの拳が――

ぴくり、と動いた。

奈落鬼の手の中で。

骨が、鳴る。

ぐちゃり、と潰れていたはずの構造が、内側から“戻る”。

筋肉が蠢く。

繊維が繋がる。

血が、逆流するように戻っていく。

「……ギ……?」

奈落鬼の喉が、わずかに鳴る。

理解が、追いついていない。

だが本能が告げる。

――これは、違う。

ロゼインの腕が、持ち上がる。

掴まれている状態のまま。

折れていたはずの肘が、元の位置へと戻る。

音を立てて。

骨が、噛み合う。

「……は……」

ロゼインの口から、息が漏れる。

さっきまでの掠れたものではない。

力を帯びた、息。

青い炎が、さらに噴き上がる。

身体の輪郭が、揺らぐ。

奈落鬼の指が、わずかに強くなる。

だが――

止まらない。

ロゼインの再生は、止まらない。

拳が、完全に形を取り戻す。

指が、握られる。

力が、戻る。

いや――

それ以上に。

溢れてくる。

(……なんだ……これ)

思考が追いつかない。

だが、分かる。

体が軽い。

痛みが消えていく。

壊れていたはずのものが、すべて繋がる。

どくん。

どくん。

脈動が、今度は自分の内側で鳴る。

重なる。

完全に。

ロゼインの瞳が、奈落鬼を捉える。

その視線が――変わる。

さっきまでとは、明確に違う。

奈落鬼の手の中で。

ロゼインの口元が、わずかに歪んだ。


次の瞬間だった。

ロゼインの腕が、わずかに動く。

掴まれている、その状態のまま。

力みはない。構えもない。

ただ――流れるように、手刀。

振り抜くというより、そこに“通した”だけの動き。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

だが。

奈落鬼の腕に、線が走る。

次の瞬間――

ぴしり、と乾いた感触。

遅れて、肉が開く。

皮膚が裂け、筋が断たれ、骨の接続が“外れる”。

ぶちっ、と内部が千切れる鈍い音。

ずるり、と。

掴んでいた腕が、支えを失う。

指の力が抜けるのと同時に、接続が完全に崩壊した。

ロゼインの身体が、落ちる。

だが――

床に触れる寸前、足が滑らかに接地する。

沈まない。

崩れない。

そのまま、立つ。

まるで最初からそこにいたかのように。

青い炎が、ゆらりと揺れる。

全身から、漏れ出すように。

だが暴れることはない。

ただ、満ちている。

ロゼインの手には、切り落とされた腕。

断面からは、まだ脈打つように血が溢れ出している。

筋肉が痙攣し、指が微かに動く。

生きている“ように”見えるそれが、床へと雫を落とす。

ぽたり。

その音だけが、やけに大きく響いた。

奈落鬼が、動かない。

いや――

動けない。

その顔に浮かんでいるのは、初めての表情。

驚愕。

理解不能。

そして――

恐怖。

「……グ……ァ……?」

喉が、ひきつるように鳴る。

初めて。

自分の“身体が欠けた”という感覚。

圧倒する側だった存在が。

一方的に、削られる側へと落ちた現実。

奈落鬼の足が、わずかに下がる。

一歩。

さらに一歩。

後退。

本能が、距離を取ろうとする。

ロゼインは、動かない。

ただ、見ている。

その視線が――重い。

逃がさない。

奈落鬼の呼吸が乱れる。

荒い。

浅い。

焦りが、混ざる。

そして――

吠える。

「――グォォォォッ!!」

振り切るような咆哮。

理性ではなく、本能の暴発。

残った腕を振りかぶる。

迷いのない、全力の一撃。

叩き潰すための拳。

一直線に、落ちる。

ロゼインは――

動かない。

右手が、静かに上がる。

迎えるように。

真正面。

その拳を、片手で受け止めた。

ぶつかる――

はずだった。

だが、衝突の手応えは広がらない。

“止められている”。

完全に。

奈落鬼の拳は、ロゼインの手の中で固定されていた。

押し込んでも動かない。

引いても抜けない。

軋む音は、奈落鬼の腕の内部から響く。

骨が耐えている。

筋が悲鳴を上げている。

「……グ……?」

理解が追いつかない。

その一瞬。

ロゼインの足が、ほんのわずかに踏み込む。

床を捉える。

重心が沈む。

青い炎が、呼吸するように揺れた。

次の瞬間――

閃光。

青。

一点に収束した圧が、拳の内側から“撃ち抜く”。

外ではない。

受け止めたそのまま、内部へ通す。

奈落鬼の身体の中央。

そこに、青い衝撃が直撃した。

「――ッッ!!」

外には音が出ない。

だが内側で、破壊が連鎖する。

肋骨が砕ける。

臓器が押し潰される。

衝撃が逃げ場を失い、内部で反転しながら暴れる。

奈落鬼の身体が硬直する。

目が見開かれる。

口が開く。

だが声にならない。

一拍遅れて――

血が、溢れる。

「――ガッ……!」

膝が、落ちる。

巨体が崩れる。

床に膝をつき、そのまま前屈みに揺れる。

呼吸ができない。

吐き出すしかない。

奈落鬼の身体が、痙攣する。

視線が揺れる。

それでも――

見上げる。

ロゼインを。

そこにいるのは。


立っている存在。

揺らがない。

完全に。

上下が、逆転している。

奈落鬼の瞳に浮かぶもの。

恐怖。

理解。

そして――

初めて味わう、“格下の感覚”。

ロゼインは、それを見下ろす。

無言で。

青い炎が、静かに揺れる。

その中で――

口元が、わずかに歪む。

「……カカッ」

乾いた笑い。

短く、低く。

支配でも、喜びでもない。

ただ、終局を理解した者の音。

奈落鬼の時間が、確実に削れていく気配だけが、そこに残っていた。


奈落鬼の巨体が、崩れたまま膝をついている。

だが、それはもはや“姿勢”ではなかった。

支えを失った結果、ただそこに残っているだけの形。

呼吸は荒い。

一度吸い込むたびに、喉の奥から血がせり上がり、吐き出さざるを得ない。

「……ガ……ッ……!」

赤黒い血が、口から溢れる。

止まらない。

吐くたびに、体の奥がさらに壊れていく感覚がある。

内側で何かが潰れ、裂け、繋がらなくなっている。

奈落鬼の指が、震える。

視線が定まらない。

理解ではない。

“感じている”。

自分の内側が、崩れていくという現実を。

そして――

目の前にいる存在が、それを引き起こしているという事実を。

ロゼイン。

青い炎を纏い、揺らがず、そこにいる。

奈落鬼の視線が、否応なく引き寄せられる。

その拳。

そこに宿る“何か”。

言葉ではない。

理屈でもない。

ただ、本能が告げる。

――触れてはならない。

――近づけば、壊される。

奈落鬼の喉が、ひきつる。

「……グ……ァ……」

低い、かすれた音。

それは威嚇ではない。

初めて漏れた、“戸惑い”と“怯え”の混ざった声。

迷宮に生まれ、捕食する側であり続けた存在が。

初めて感じる感覚。

自分が、“狩られる側”に落ちたという確信。

奈落鬼の身体が、わずかに後ろへ引く。

逃げたい。

距離を取りたい。

だが――動けば崩れる。

止まっていても、壊れ続ける。

どうすればいいか分からない。

その混乱の中で。

ロゼインが、一歩踏み出す。

その一歩で、空気が変わる。

奈落鬼の呼吸が止まる。

圧ではない。

もっと直接的なもの。

“殺される”という確信が、骨の内側にまで染み込んでくる。

青い炎が、拳に収束していく。

揺らめきは激しさを増し、まるで意志を持つかのように密度を上げていく。

ロゼインの瞳が、奈落鬼を捉える。

静かに。

だが、逃がさない。

奈落鬼の瞳が、大きく見開かれる。

言葉は分からない。

だが、分かる。

目の前の存在が、自分を“終わらせに来ている”。

その意志だけは、はっきりと伝わる。

「……グ……ッ……!!」

喉が、悲鳴のように鳴る。

腕が、反射的に持ち上がる。

防ぐ。

避ける。

何かしなければならない。

だが――

遅い。

ロゼインの足が、床を踏み込む。

沈む。

距離が、一瞬で消える。

奈落鬼の視界が、拳で埋まる。

青。

逃げ場はない。

「――ッ!!」

衝突。

その瞬間、奈落鬼の身体が大きく跳ねた。

だがそれは外への衝撃ではなかった。

内部で、何かが“砕ける音”がした。

骨が軋み、折れ、崩れる。

衝撃が逃げ場を失い、体内で暴れ回る。

「――ガァァッ!!」

悲鳴が、弾ける。

初めての、明確な“絶叫”。

血が噴き出す。

口から、喉から、抑えきれない勢いで溢れる。

視界が赤く染まる。

息ができない。

肺が潰れ、空気が入らない。

呼吸しようとするたびに、血が逆流する。

「……グ……ォ……ッ……!!」

喉が裂けるように鳴る。

それでもロゼインは止めない。

拳は、めり込んだまま。

青い炎が、さらに深く侵食していく。

外ではなく、内側へ。

破壊が、連鎖する。

奈落鬼の身体が大きく震える。

四肢が、意思を失う。

膝が砕けるように折れる。

支えが消える。

逃げられない。

壊される。

終わる。

そのすべてを、奈落鬼は“理解してしまう”。

ロゼインの拳が、さらに押し込まれる。

最後の一押し。

その瞬間。

内部で、限界が“超えられた”。

ぱき、と。

乾いた音が、内側で響いた。

奈落鬼の動きが止まる。

目が見開かれる。

そこにあるのは、ただ一つ。

純粋な――恐怖。

「……ァ……ッ……!」

声にならない叫び。

助けを求める術も、意味もない。

巨体が、前に崩れ落ちる。

床に叩きつけられる衝撃で、さらに内部が壊れる。

衝撃が引き金となり、連鎖的に崩壊が進む。

奈落鬼の身体が、震えながら沈む。

やがて、動きが止まる。

呼吸が途切れる。

その直後――

身体の輪郭が、揺らぎ始めた。

血が光へと変わるように、滲み出す。

肉が、ほどける。

骨が、存在を保てなくなる。

奈落鬼という“形”が、解体されていく。

音もなく。

だが確実に。

崩壊は止まらない。

逃げ場はない。

やがて、全てが光となり、空間へと散っていく。

赤黒い痕跡は消え、ただ静かな粒子だけが残る。

その中心に――

虹色に輝く魔石が、現れる。

ロゼインは、ゆっくりと拳を引いた。

炎は、もうない。

静寂だけが戻る。

一歩、近づく。

その魔石を見下ろす。

それは、ただの戦利品ではない。

奪われたものを取り返すための、確かな証だった。

ロゼインの表情が、わずかに緩む。

短く、息を吐く。

「……待たせたな」

小さく呟き、手を伸ばす。

虹色の光が、掌に収まる。

その輝きは、静かで――

それでも確かに、“取り戻したもの”の重さを宿していた。





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