歌声
再生ボタンを押した瞬間、
イヤホンから歌声が流れた。
そのまま電車を降りるつもりだった。
だけど、その日は少しだけ違った。
俺はしばらく動けなかった。
別に驚いたわけでも、衝撃だったわけでもない。
ただ、その声が妙に耳に残った。
閉まりかけたドアが警告音を鳴らした。
慌てて電車を降りる。
ホームを歩きながら、もう一度画面を見る。
投稿者のことは全く知らない名前だった。
再生数も登録者数も始めたてに少し毛の生えた程度で、サムネイルだって特別目を引くものじゃない。
それなのに、なぜか続きを聴いていた。
改札を抜け、駅前のコンビニの前を通り、
信号が青になった横断歩道を渡る。
見慣れた景色。
いつもと何も変わらない帰り道。
なのに、耳に流れる歌声だけが少し違った。
上手いとか下手とかじゃない。
それでも好きだと思った。
動画が終わる。
気づけば投稿一覧を開いていた。
歌ってみたが数本と短めの動画が少し。
どれも再生数は似たようなものだった。
なんとなく次の動画を押す。
そしてまた次も。
最寄り駅からマンションまでの道を歩きながら、
気づけば3本目が流れていた。
エントランスでエレベーターを待っている間も
イヤホンは外さなかった。
玄関を開け、部屋に行く前に、冷蔵庫を開け、
ビールを取り出そうとして、やめた。
代わりにベッドへ腰を下ろす。
ネクタイを外すことも、スーツを脱ぐこともせず、ただスマホの画面の向こう側の歌声に夢中になっていた。
何をやっているんだろうな。
思わず苦笑する。
明日も仕事だ、早く寝た方がいい。
そんなことは分かっている。
ただ、好きな声だった。
歌が終わる。
それで終わりのはずだった。
なのに気づけば次の動画を開いていた。
理由は分からない。
なんとなく、もう少し聴いていたかった。




