第9話 世界一の賢者だろうが、飯と風呂は要るだろ
俺の「あるじ」という痛いあだ名は、すっかりこの二人に定着してしまった。
右からは自称・魔王が「あるじ、今日の飯はなんだ」と袖を引く。左からは自称・神竜が「オレのあるじだぞ」と対抗してくる。
もはやただの保育園だ。
そんな俺たちの前に、そいつはフラフラの足取りで現れた。
目の下に濃いくまを作ったやせすぎの女だった。銀縁の眼鏡。ボサボサの黒髪。汚れたローブ。そして、なかなかに酸っぱいにおいがした。
行き倒れる寸前といった顔をしている。
俺はまた嫌な予感がした。
「君だね」
女は俺を見るなり、目をぎらつかせて早口でまくし立てた。
「君のその魔力の流れ。ありえない。あの二つの災厄が君の周りで完全に凪いでいる。因果律が破綻している。ねえ、今すぐ観測させてくれないかな。これは魔法の歴史がひっくり返る大発見なんだよ。さあ、その現象の原理を私に説明して」
「あー……」
俺はその長い早口を右から左に聞き流した。
そしてひとつだけ気になったことを口にした。
「あんた、最後に飯食ったのいつだ」
「は?」
女がぴたりと止まった。
「いや、顔色が土みたいだぞ。さっきからずっと腹の虫が鳴ってる。あと、悪いけど……ちょっとにおう。何日か風呂に入ってないだろ」
「な……そんなことはどうでもいいんだよ! 私が聞いているのは魔導理論の話で……」
「どうでよくない。倒れるぞ」
案の定、女はその直後にぐらりと傾いて崩れ落ちた。
俺は慌てて抱きとめた。軽い。びっくりするほど軽い。骨と皮だ。
「ほら見ろ。言わんこっちゃない」
俺はため息をついた。
こういう手合いはよく知っている。前の職場にもいた。仕事に夢中で自分の飯と睡眠を後回しにして、気づいたら倒れているタイプだ。放っておけない。
「ノクト、リント。宿の女将さんに湯を沸かしてもらってこい。この人を風呂場まで運ぶの手伝え。頭からこのにおいを落とす」
「なぜ、わらわがそんなことを」
「あるじの言うことを聞け。あと、髪もとかしてやれ。こんなにボサボサじゃ可哀想だろ。……あ、手荒にするとほんとに死にそうだから、丁寧に引きずれよ」
魔王と神竜が、渋々ながら、伸びた賢者をずるずると運んでいった。
なんだか、うちの居候がまた増えそうな気配がした。やめてくれ。俺が誰かに養われたいんだって、いつも言ってるだろ。
風呂から上がった女は別人のようになっていた。
小汚さが取れると意外と若い。二十代の後半といったところか。くまさえなければ、そこそこ整った顔をしている。
俺はあり合わせの粥を器によそって、その前に置いた。
「ほら、食え。胃が弱ってるだろうから、まずはこれくらいにしとけ」
「……いらない。それより、君の観測を」
「いいから食え」
「私の話を聞け! 私はセシル・アシュフィールド。魔導理論の探求者だ。私からこの頭脳を取ったら、ただの空っぽのガラクタになる。君の生態データさえあれば、私は……!」
俺はまくし立てるセシルの口に、粥をよそったさじを無造作に突っ込んだ。
「んぐっ」
「空っぽなのはお前の胃袋だ。さっきから、みっともないくらい腹が鳴ってる」
セシルの目がまんまるに見開かれた。
俺は心底呆れて息を吐いた。
「俺は小難しい理屈はわからん。だが、三日徹夜して風呂も入らず飯も食ってない奴が、まともでいられるわけがないだろ。ガラクタになりたくないなら、まずは食え。話はそれからだ」
セシルは口の中の粥をこくりと飲み込んだ。
そしてしばらく、じっと器を見つめて動かなかった。
「……変な男だね、君は」
ぽつりとセシルが言った。
さっきまでの早口が嘘のように消えていた。
「私に会った人間は、みんな、私の頭の中身をほしがった。この理論を解け、あの術式を組め、と。誰も彼も私を便利な道具みたいに扱った。……私自身、もう自分をそういうものだと思っていた。頭脳だけが価値の、空っぽの器だと」
「ふーん」
「なのに君は。私の頭のことなんか、これっぽっちも興味がなさそうだ。ただ、私の腹が鳴った音だけを聞いていた」
セシルは二杯目の粥を自分でよそいながら、少しだけ笑った。
俺には何を感動しているのかさっぱりわからなかった。
腹が鳴ってる奴に飯を食わせる。当たり前のことだ。理屈も何もない。強いて言うなら、目の前で行き倒れられると後始末が面倒だからだ。俺のためだ。
……いや。
勘違いするな。これは打算だ。こういう「生活力はないが頭だけはいい年上の女」は、恩を売っておけば、いつか俺のヒモ生活を支える立派なパトロンになるかもしれない。そうだ。これは先行投資だ。極めて計算高い俺の余生のためのリスクヘッジである。
だからこいつが粥をおかわりしたのを見て少しほっとしてしまったのも、優しさなんかじゃない。優良物件を確保できた安心感だ。
そういうことにしておいた。
腹が満たされると、セシルの学者の目が戻ってきた。
彼女は俺の周りをぐるぐると観察しはじめた。ノクトを見て、リントを見て、そして俺の内ポケットのあたりでぴたりと視線を止めた。
「……ねえ。君、そこに何を入れている?」
「これか? ノクトにもらった石だよ。お守りだ」
俺が石を取り出して見せた瞬間、セシルの顔からさっと血の気が引いた。
「――魔王の、真名を刻んだ魔石。命そのものだ。それを、君は」
セシルはわなわなと震えだした。
なにやらものすごい早口でぶつぶつと考察を始めた。
「……そうか。読めたぞ。君は自分の無力を装い、魔王の命を握って絶対の服従を強いている。神竜すら手駒だ。なんという冷酷な策士。いや、それだけじゃ二人のあの穏やかさは説明がつかない。とすれば、未知の超広域精神干渉魔法……いや、神格級の魅了……そうだ、それしかありえない! 君は、それを無自覚に発動する規格外の……!」
「おい」
俺は興奮して鼻息を荒くするセシルの肩をぽんと叩いた。
「難しいことはわからんが。お前、また早口になってるぞ。落ち着け。ほら、白湯でも飲め」
「〜〜っ! なんで、そんなに落ち着いていられるんだ! 私は今、世界の真理に手が届きかけて……!」
真理も何も。俺はただ腹を空かせた行き倒れに飯を食わせて風呂に入れただけだ。こちとら、ただの介護要員だぞ。
どうやらこの賢者様も、ノクトたちと同じで重度の妄想癖をこじらせているらしい。まあいい。ヒモ生活のパトロン候補だ。適当に話を合わせておくのが大人の対応というものだろう。
俺は神妙な顔で何度もうなずいてやった。
するとセシルが「わかってくれるのか……!」と、なぜかますます目を輝かせた。
結局、セシルは居座った。
「決めた。私は君を観測する。至近距離で継続的に。そのためには、君のそばにいる必要がある」
そう宣言してしれっと俺たちの隊列に加わった。
「言っておくが、これは研究だ。断じて、飯や風呂が目当てではない」
「はいはい」
「……あの、マモル君。今日の夕飯は、なにかな」
「見え見えなんだよ」
ノクトがじとりとした目でセシルを睨んだ。
「賢者。言っておくが、あるじはわらわのあるじじゃ。おかしな気を起こすでない」
「オレのでもあるからな!」
「私は観測対象と呼ぶだけだよ。所有権を主張する気はない。……ただ、明日の朝も、あの粥が食べたいだけだ」
俺は頭を抱えた。
魔王と、神竜と、賢者。世界を何度でも滅ぼせる連中が、俺の作る粥をめぐって、しょうもない小競り合いをしている。
なんで俺の扶養家族がまた一人増えてるんだ。
おかしい。計画では、俺が誰かに養われて骨抜きにされるはずだったんだ。
……なあ、誰か。そろそろ俺のことも、養ってくれないか。切実に。
観察記録・追補。対象、および自己の状態について。
私、セシル・アシュフィールドは、これまで自らを「魔導理論を処理する演算装置」と定義してきた。人間ではなく機能である、と。世界も私をそう扱った。それになんの不満もなかったはずだ。
だが観察対象マモルは違った。
彼は私の頭脳を一顧だにせず、ただ「三日入浴していない不衛生な有機体」として洗浄と給餌を行った。その行動原理は、現存するいかなる魔導理論の数式にも当てはまらない。徹底して非論理的だ。
私を「便利な道具」として見ないその視座は、私の存在意義を根本から否定する致命的な欠陥である。そのはずだ。
なのに。
押しつけられた粥の熱は、いまだに私の胃の底に、心地よい重さとして残っている。
以前、遠くから観測した二つの災厄を凪がせる「なんの力もない光」。どうやら私もその輪の中にうっかり足を踏み入れてしまったらしい。
この温かさを説明する数式を、私は持たない。
だが、悪くないエラーだ。
この未知の現象については明日も引き続き、至近距離での観測を要する。粥を、もう一杯もらいながら。




