第8話 魔王は俺を「あるじ」と呼ぶが、たぶんただのあだ名だ
俺の「三食昼寝付きで養ってもらう異世界ヒモ計画」は、町に着いて早々に深刻な矛盾を抱えていた。
目の前では自称・魔王と自称・神竜のガキ二人が、俺の稼いだパンを猛烈な勢いで貪り食っている。
おかしい。なぜ俺がこいつらを養う側に回っているんだ。
計画では俺が誰かに養われて骨抜きにされる予定だったはずだ。それがどうして朝から晩まで働いて二人分の腹を満たす大黒柱みたいなことになっているのか。
まあいい。考えても腹は膨れない。今日も働くしかない。
その日、俺は町はずれの木材屋で下働きをしていた。
主人は口の悪い中年の男だった。
「おい流れ者。そっちの丸太を全部運べ。ぐずぐずするな」
「はいはい」
俺は黙って丸太を担いだ。腰の使い方は慣れている。介護で人を持ち上げてきた体だ。丸太くらいどうということはない。
昼になっても男は俺に飯を出さなかった。
「よそ者に食わせる分はねえ。働きが済んだらパン一つで手を打ってやる」
「わかった」
俺は文句を言わなかった。損な性分だ。昔から知っている。ここで揉めて放り出されたら今夜の宿代が消える。頭を下げて働くのがいちばん早い。
だが俺の後ろに立っていた二人は、そうは思わなかったらしい。
空気がふいに重くなった。
「――おい」
ノクトの声だった。
いつもの少し舌足らずな声じゃない。腹の底に響く低い声だ。俺は丸太を担いだまま振り返った。
ノクトの紅い瞳がすうっと細くなっていた。周りの空気がぴりぴりと痺れている。足元の小石がかたかたと震えはじめた。
「この者に飯も出さず、こき使うか。下郎が。……消し炭にしてやろうか」
木材屋の主人の顔から血の気が引いた。
まずい。これはまずいやつだ。
俺は丸太を放り出してノクトの前にしゃがみこんだ。
だが俺の口から出たのは、たぶん誰も予想していない言葉だった。
「ノクト。お前、腹減ってんだろ」
「……は?」
「朝から歩き回って、まだパン半分しか食ってないもんな。腹が減るとイライラする。子どもはとくにそうだ」
俺はポケットからパンを取り出した。さっき手間賃代わりにもらった、今日の稼ぎのたった一つのパンだ。
それを半分に割った。
大きいほうをノクトの手に握らせる。
「ほら、食え。俺は昼にちょっとつまんだからこっちで足りる。……落ち着いたら機嫌も直る」
嘘だ。俺は昼に何も食っていない。
だが腹の減った子どもの前でそれを言う馬鹿はいない。
ノクトがパンと俺を交互に見た。
震えていた小石がぴたりと止まった。
ノクトはしばらく黙っていた。
それから握らされたパンを、そっと両手で包んだ。まるで割れやすいものみたいに。
「……そなたは」
ノクトの声が震えていた。
「そなたは自分が飯も食わせてもらえぬのに。侮られて、こき使われて。……それでもわらわに飯を食わせるのか」
「当たり前だろ。お前、俺より小さいんだから」
俺は心の底から不思議だった。何をそんなに驚いているんだ、こいつは。
腹の減った子どもに飯を分ける。それだけのことだ。理由なんてない。強いて言うなら目の前で腹を空かせられると俺が落ち着かないからだ。俺のためだ。
ノクトはうつむいた。
白銀の前髪がその顔を隠した。
やがてノクトは自分の胸元に手をやると、そこから小さなものを取り出した。
黒く艶のある石だった。奥のほうでかすかに赤い光がゆらいでいる。夜の色をしたきれいな石だ。
ノクトはそれを両手で俺に差し出した。
「これを、そなたに」
「ん? なんだ、これ」
「わらわのいちばん大事なものだ。……受け取ってほしい」
俺はその石を受け取った。ずしりと重い。手のひらの中でじんわり温かかった。
「へえ。きれいな石だな。お守りか?」
俺にはただの石ころにしか見えなかった。だが子どもが「いちばん大事なもの」をくれるというなら、それは受け取ってやるのが大人だ。それに、こんな物騒な世界だ。なくして泣かれても寝覚めが悪い。俺はそれを上着の内ポケットにしまった。落とさないように、いちばん深いところに。
そしてノクトが顔を上げた。
まっすぐに俺を見た。
「……あるじ」
それは淀みのない声だった。
覚悟のこもったまっすぐな響きだった。
その瞬間、俺の心臓がなぜか嫌な音を立てた。
どくん、と。
この声を、この目を、軽く受け流してはいけない気がした。何か途方もなく重いものが、いま俺に手渡されようとしている。そんな予感がした。
……いや。
やめろ。変な勘違いをするな。
そんな重たいものを無職でよそ者の俺が背負えるわけがない。俺はただの居候でいたいんだ。今夜の寝床と明日のパンがあればそれでいい。
だから俺はその紅い目から逃げるように視線を外した。
そして無理やり口の端を上げた。
「あるじ? なんだそれ、あだ名か?」
俺が笑うと、重かった空気があっさりと散った。
そう。これでいい。
「まあ、呼びやすいならそれでいいけどよ。ずいぶん古臭いあだ名だな」
心を乱されるのは面倒だからだ。
だが内ポケットの石は、まだ温かかった。
「ずるいぞ!」
その声で空気が完全に台無しになった。
リントだった。パンを頬張ったまま、ものすごい勢いで割り込んでくる。
「なんでノクトだけ、おっさんを特別な呼び方してんだ! オレも呼ぶ! 今日からオレも、おっさんを『あるじ』って呼ぶからな!」
「気安く呼ぶな、小童。あるじはわらわのあるじじゃ」
「なんでだよ! おっさんはみんなのおっさんだろ!」
二人が俺の前でぎゃあぎゃあと言い争いを始めた。
どっちが「あるじ」と呼ぶ権利があるかで、しょうもない喧嘩をしている。魔王と神竜が。世界を滅ぼせる二人が。
俺は頭を抱えた。
「……おい。お前ら、俺を教祖かなんかにする気か。外でそんな痛いあだ名で大声出すな。俺が変な目で見られるだろうが。……呼ぶにしても、もっとこう、まともなやつにしろ」
木材屋の主人が、ぽかんと口を開けて俺たち三人を見ていた。
流れ者の小間使いが、二人の子どもに「あるじ」だの何だのと慕われている。きっと変な宗教の家族か何かに見えているんだろう。
まあ、それでいい。
変な家族。損な性分。世話の焼ける居候二人。
悪くない肩書きだと思った。
……いや。思っていない。ただ腹が減っていただけだ。そういうことにしておいた。
辺境の空気は澄んでいた。
その澄んだ大気の遥か彼方。大陸の反対側にそびえる古い塔の一室に、一人の女がいた。
賢者セシル・アシュフィールド。三日三晩、まんじりともせず魔力の観測を続けていた。濃いくまの浮いた目で、彼女は世界を巡る魔力の流れを読む。そして今、その観測にあり得ないものが引っかかっていた。
封じられたはずの魔王の気配。数千年、山奥に眠っていたはずの神竜の気配。世界を二度は滅ぼせるその二つの災厄が、なぜか辺境の小さな町でひとつに寄り添っている。
しかも――静かなのだ。
暴れているのでも戦っているのでもない。二つの災厄は、まるで飼い慣らされた獣のように穏やかに凪いでいた。その中心に一つだけ、名もない、ちっぽけな光がある。魔力もない。特別な力もない。ただの平凡な人間の光だ。
その平凡な光に、二つの災厄が寄り添っている。
セシルは乾いた唇をなめた。
「……ありえない。あの二つが従っている? ……いや、違う。あれは、守られている? こんな、なんの力もない光に?」
彼女は震える手で外套をつかんだ。
三日の徹夜で体は鉛のように重い。それでも確かめずにはいられなかった。
あのちっぽけな光の正体を。
二つの災厄を凪がせる、たった一人の男の正体を。




