第7話 魔王と神竜を連れて、はじめての買い物
三日ぶりに、屋根のある場所を見た。生きて町にたどり着けたことに、まず感謝したい。この二人を連れて、だ。
小さな町だった。石畳の大通りに屋台がならんでいる。宿屋の看板。パンの焼けるにおい。人の声。どれも、異世界に来てからいちばん「まともな暮らし」に近い光景だった。
断っておくが、俺はこの二人に情が湧いたわけではない。
昨日熱を出して看病された件も、ただの生理現象だ。弱ったときに人の体温をありがたく感じるのは当たり前で、そこに意味などない。断じてない。むしろ、あんな殺しにかかる看病を二度と受けずに済むよう己の体調管理を徹底すべきだ。そうだ。これは俺のささやかな余生を守るための、切実な危機管理の話だ。
朝からずっとブツブツ自分に言い聞かせている。
なぜこんなにムキになって言い聞かせる必要があるのかは、考えないことにした。
問題は金だった。
相変わらず俺は無一文だ。三人分の宿と飯を確保するには、まず稼がなければならない。
だが俺が交渉の算段を練るより先に、事件は起きた。
串焼きの屋台の前で、ノクトが足を止めていた。
「これをもらおう」
そう言ってノクトが手のひらを開いた。
そこに載っていたのは黒い宝珠だった。夜みたいに深い色をして、見ているだけで背筋が寒くなる。明らかにヤバいやつだ。
「一国を三日で滅ぼせる呪いが封じてある。串焼き一本の対価には釣りが出すぎるが、まあよい。取っておけ」
屋台の親父の顔が白くなった。
「ちょっと待て待て待て」
俺は慌ててノクトの手を宝珠ごと押し戻した。
「なんだそれ! そんな物騒なもんどこに隠し持ってた! つーか串焼き一本と釣り合う話じゃない! 通貨で払え、通貨で!」
「通貨」
「銅貨だよ! ……あー、持ってないか。持ってないよな。すいません親父さん。こいつ田舎から出てきたばかりで、ものを知らなくて」
俺は親父に何度も頭を下げた。
国が滅ぶ買い物は、なんとか未遂で済んだ。串焼き一本のために国を一つ失うところだった。安すぎる。命の値段が、ぜんぶおかしい。
「悪かったな、親父さん。こいつら、ほんとに世間知らずで。保護者として俺がちゃんと見てるから、大目に見てやってくれ」
詫びのついでに、串焼きを一本ちゃっかりおまけしてもらった。俺はもう一度頭を下げ、二人を背中にかばってその場を離れた。腹は減っている。もらえるものはもらう。
背中で、ノクトが小さくつぶやくのが聞こえた。「……なぜ、そなたが謝る」と。俺は聞こえないふりをした。謝るのが一番早いからだ。それだけのことだ。
安心したのも、つかの間だった。
今度は通りで犬に吠えられた。ただのやせた野良犬だ。だが、それを見たリントの目つきが変わった。
「……オレに吠えたな。下等生物が。万死に値する。灰も残さず消し飛ばして」
「やめろやめろやめろ!」
俺は全力でリントの口を両手でふさいだ。手のひらがじんわり熱い。中で炎がうずを巻いているのが分かる。
「近所迷惑だろ! 町の真ん中でブレス吐くやつがあるか! だいたい犬相手に本気になるな。大人げない! お前、三千年生きてんだろ! 犬に負けてどうする! これだから田舎者のトカゲは!」
「むぐぐ……! ……誰がトカゲだ!」
リントがじたばた暴れた。だが俺は放さなかった。
しばらくして、ようやく手のひらの熱が引いた。犬はとっくに逃げていた。
俺はぜえぜえと息を切らしながら二人を見た。
こいつら、放っておいたら初日で町を三回は滅ぼす。世話が焼けるにもほどがある。
結局その日は、宿の下働きで飯と部屋を確保した。
宿の女主人が腰を痛めていた。荷運びを代わり、かまどまわりの動線を直したら話は早かった。ついでに宿泊客の年寄りの薬の飲み方に口を出すと、女主人が笑った。
「あんた、変わった男だねえ。よく気がつくけど、そのぶん損な性分だろう」
変わった男。損な性分。まあそうだろうな。生まれてこのかた、ずっと言われ続けてきたことだ。いまさら傷つきもしない。
町の連中は俺を、そういう目で見ていた。手先が器用で世話焼きで、都合よくタダ働きしてくれる変な流れ者。それ以上でも、それ以下でもない。
べつに、それでよかった。俺は評価されたいわけじゃない。今夜の寝床が欲しいだけだ。
俺が頭を下げているあいだ、後ろのノクトとリントがなぜかものすごく不満そうな顔をしていた。
まるで、俺が頭を下げたことが気に入らないとでもいうような。
……いや、変な勘違いをするな。人混みを歩き回って疲れて、腹が減って機嫌が悪いだけだ。そうに決まってる。早く飯を食わせて休ませないと、俺の平穏が脅かされる。
そういうことにしておいた。心を乱されるのは、面倒だからだ。
だが、たぶんそれは違った。
あとで、リントが小声で言った。
「なんで、おっさんが頭下げるんだよ。おっさんのほうが、あいつらよりずっと」
「ずっと、なんだ?」
「……なんでもねえ」
リントは口をとがらせて、そっぽを向いた。
俺には、その理由がやっぱり分からなかった。
夜になった。
三人で、宿の狭い部屋に泊まった。硬いが、ちゃんとした寝台がある。屋根がある。雨が入ってこない。それだけで天国みたいだった。
リントは初めての寝台に大はしゃぎで飛び跳ねて、五分で寝落ちした。子どもだ。三千年生きていても、子どもだ。
俺ははだけたリントの腹に、上着をかけてやった。腹を冷やすと、ろくなことにならない。神竜だろうが、それは変わらないはずだ。たぶん。
ノクトは寝台の端に座って、俺を見ていた。
なにか言いたそうだった。昨日からずっと、そんな顔をしている。
「……マモル」
「ん?」
「わらわは、お前を……」
ノクトがそこで言葉を切った。なにか大事なことを言おうとしている。決意のこもった目だった。
「お前を、その……『ある……』」
あ、これは。
俺はぴんときた。長旅で足がむくんでいるパターンだ。慣れない石畳を一日じゅう歩いたんだ。子どもの足なら、なおさらだ。
「『歩き疲れた』か。しょうがねえな。初めての町で、はしゃぎすぎなんだよ。ほら、足出せ。揉んでやる」
「は? ちがっ、わらわはそんな……ひゃっ」
俺はノクトのふくらはぎを下から上へゆっくり揉んだ。
「うわ、パンパンじゃねえか。こんなになるまで我慢するな。痛かったら言え」
「ま、待て。そこは、あっ……」
ノクトの顔がなぜか真っ赤になっていた。
のぼせたのかもしれない。屋根の下は暖かいからな。俺は水を一杯飲ませてやってから、その夜は寝た。
結局ノクトが何を言おうとしていたのかは、聞きそびれた。
まあ、大事なことならまた今度言うだろう。急ぐ話でもない。俺たちには、たぶん時間だけはある。
わたしはあの男を、なんと呼べばいいのか分からなくなっていた。
「マモル」では足りない。ただの名前では、この胸のうちは言い表せない。
力で支配する相手なら「下僕」と呼べばいい。ひざまずかせる相手なら「臣下」と呼べばいい。わたしは、そういう言葉ならいくらでも知っていた。
だがあの男は、どれでもなかった。
わたしを支配しない。ひざまずかせもしない。ただ飯を分け、熱を冷まし、足を揉み、水を飲ませる。見返りなど、何ひとつ求めずに。
誰もくれなかったものを、あの男はあくびをしながら当たり前みたいにくれる。
だから決めたのだ。今日こそ、あの言葉で呼ぼうと。わたしにとって、たった一人の――と。
なのに。
言いかけた瞬間に、足を揉まれた。
ふくらはぎから伝わるあたたかい手がくすぐったくて。決意も覚悟も、ぜんぶそこから溶けていってしまった。
……もう少しだけ。
あの言葉は、もう少しだけとっておこう。
今はまだ、名前もつかないただのあたたかさに甘えていたい。
わたしは、すこし泣きたくなった。
魔王がたかが足を揉まれたくらいで泣くなど、あってはならないことだ。
だから、これは涙ではない。のぼせただけだ。あの男が、そう言っていた。
……そういうことにしておこう。
こんな気持ちは、千年で初めてだった。




