第6話 世話を焼くやつほど、自分の世話は焼けない
その朝、俺は水たまりに映った自分の顔を見た。
ひどい顔だった。目の下のくまが濃い。唇が乾いている。頬がこけている。
だが、それを見てもたいして何も思わなかった。まあちょっと疲れてるくらいか。そう考えただけだった。
人の顔色を見れば、足りないものが一発でわかる。ノクトを見れば「水分が足りてない」。リントを見れば「昨日の青物が効いて顔色が戻った」。勝手に頭へ浮かぶ。
だが自分の顔を見ても、なにも浮かばない。昔からそうだった。
だから俺は気づかなかった。手のかかる二人のことばかり気にしていて、自分がもう限界だということに。
思えば、前の職場でもそうだった。利用者の顔色にはすぐ気づくのに、自分が倒れる寸前までは気づけなかった。看護師長によく言われた。あんたは他人の心配ばっかりで自分の心配が下手くそだ、と。まったくそのとおりだった。
雨が降りだした。
森を抜ける道の途中だった。屋根はない。木の下で雨宿りをしたが、風が冷たかった。ここ数日、まともに食べたのは野草とパンの切れ端だけだ。しかも、その半分をノクトとリントに回していた。育ち盛りだからな。それは後から思いついた言い訳だった。
立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
視界が白くにじんだ。
あ、これはまずいやつだ。夜勤で何度も見た。低血糖と発熱、たぶん過労。処置は分かっている。分かっているのに、体が動かない。
地面が近づいてきた。
最後に見えたのは、こっちを振り返る二つの顔だった。
「マモル!?」
「おい、おっさん! どうした!」
声が遠い。
俺は濡れた地面に倒れていた。誰かが俺を抱き起こす。ひんやりした手だ。心地いい。
「熱い。この者、燃えるように熱いぞ」
「にんげんって、こんな簡単に壊れるのかよ!」
まいったな、と思った。
こいつら、看病なんてしたことがないんだ。される側にすら、なったことがない。だから、どうすればいいか分からない。声が完全に裏返っている。
「案ずるな、マモル」
ノクトの声が、やけに落ち着いた。嫌な予感がした。
「万一お前が死んでも、わらわの魔力で不死者の王として蘇らせてやる。二度と病になどかからぬし、永遠にわらわの世話ができるぞ。むしろ好都合だ」
「……まだ生きてる」
俺はかすれた声を絞り出した。
「勝手に、俺の種族を変える準備をするな」
「なら、こっちだ!」
今度はリントだった。手のひらに赤い光が集まっていくのが、閉じかけたまぶたの隙間から見えた。
「熱があるなら、病気ごと燃やせばいい! オレの炎でまとめて焼き尽くしてやる!」
「薪じゃない……宿主ごと殺す気か……」
俺は残った力の全部を使って、そいつの手をはたき落とした。
「じゃあどうすりゃいいんだよ! オレたち、こういうのやったことねえんだ!」
リントが半分泣きそうな声で叫んだ。
そうだろうな、と思った。こいつらは誰かを助けたことがない。助けられたことも、たぶんない。必死なのに、やることがいちいち殺しにかかってくる。
異世界に来て、いちばん死を覚悟した瞬間だった。盗賊より怖かった。
しばらくして、俺は少しだけ意識を取り戻した。
もうろうとしている。だが、このままだと本当にこの二人に殺される。生き延びるには、俺が指示を出すしかなかった。
皮肉なものだ。自分の世話を、自分の口で焼くしかないとは。
「……水。鉄くずのやつに水をくんでこい。飲ませるのは少しずつだ。一気に飲ませるな」
「わ、わかった」
「布を濡らして額に乗せろ。ぬるくなったら替えろ。火は少し離してたけ。あぶるな」
リントが必死の顔で薪を組み直した。火加減を、何度も何度も確かめている。国を焼ける竜が、たき火ひとつに冷や汗をかいていた。
ノクトが濡らした布を、そっと俺の額に乗せた。加減が分からないのか、最初は布を握りつぶさんばかりの力だった。それからこわごわと、羽根でも扱うように置き直した。
二人とも、俺のうわ言を一言も聞き逃すまいとしていた。まるで世界の命運がかかった呪文でも唱えられているみたいに。
ただの看病の手順なのに。夜勤なら、目をつぶってでもできることなのに。
もうろうとした頭に、あの日の言葉がふとよぎった。
城を追い出された日。無一文で、空に向かって言ったやつだ。
――誰か、俺の世話を焼いてくれない?
俺は天井がわりの暗い木の枝を見上げた。
叶えてくれるにしても、だ。よりによって世界を滅ぼせるポンコツ二人に、殺されかけながらとは。神様は注文の受け方が下手すぎる。こんな命がけの看病を頼んだ覚えはない。
……まあ、それでも。
額の布は冷たくて。左右から俺を挟む二つの体温は、あたたかくて。
思いのほか、悪くなかった。
言い訳を考えようとしたが、熱で頭が回らなかった。だからもう、考えるのをやめた。
喉が渇いた。水を、と言おうとして二人の顔を見た。
ノクトの唇が乾いていた。リントの顔にも疲れがにじんでいる。ずっと俺のそばを離れずにいたらしい。自分の水も飲まずに。
「……水」
「うむ。今すぐに」
「違う」
俺は首を横に振った。
「俺じゃない。お前らが飲め。唇、カサカサだぞ」
二人が動きを止めた。
「……こんなときまで」
ノクトが、絞り出すように言った。声が、少しかすれていた。
「こんなときまで、そなたは他人の心配をするのか」
だってなあ。そう言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。
倒れているのはこっちなのに、なんで俺がこいつらの心配をしているんだろう。自分でもよく分からない。目の前に足りていないものがあると、口が勝手に動く。それだけだ。
ノクトが、なにか言おうとしてやめた。それから無言で、自分のぶんの水を少しだけ飲んだ。
その手が少し震えて見えたのは、たぶん俺の目がかすんでいたせいだ。
熱が引いたのは、夜が明けるころだった。
目を覚ますと、二人が俺を挟んで泥だらけのまま眠っていた。
ノクトは、濡れた布を握ったまま。リントは、火を燃やしすぎないよう見張っていた姿勢のまま。二人ともひどい格好だった。神々しさのかけらもなかった。
俺はしばらく、その寝顔を見ていた。
ずっと、人の世話ばかり焼いてきた。誰かの不足を埋めて、誰かを寝かしつけて。自分のことは、いつも後回しだった。
守られる側の気持ちなんて、思い出せないくらい忘れていた。
俺は二人の体に、一枚しかない毛布をそっとかけ直した。
それくらいしか、俺にできることはなかった。
なあ、と俺は小さく声に出した。返事はない。二人ともよく眠っている。
「……世話焼いてくれて、ありがとうな。下手くそだったけど」
誰も聞いていなかった。それでよかった。
礼を言うのは、なんだか据わりが悪い。だから、聞かれていないくらいがちょうどいい。
これは、どの神話にも童話にも記されなかった夜の記録である。
かつて国を沈め死者を統べた魔王の手が、その夜は一人の男の額の熱を奪うためだけに置かれていた。
かつて天を焼き万物にひれ伏された神竜の炎が、その夜は一杯の白湯をぬるく保つためだけに小さく灯っていた。
彼らは、命を奪う術ならそのすべてを知っていた。だが、その強大すぎる力はもろい人の体にはただ毒でしかない。命を繋ぐ術を、二人はただの一つも知らなかった。
だから二人は泥にまみれたまま、その寝顔のかたわらに寄り添い続けた。
魔王はその夜、初めて知った。
千年ものあいだ何ひとつ失うもののなかった自分に、失いたくないものができてしまったことを。
あまりにもろく、簡単に死んでしまう温かい生き物を。
――この者を、死なせるわけにはいかぬ。
それは命令ではなかった。祈りに、いちばん近い何かだった。




