第4話 俺の平穏を脅かすやつは、だいたい向こうから消える
朝、目を覚ますと魔王様が俺の顔をのぞき込んでいた。
「起きたか」
「うわっ」
俺は跳ね起きた。壁にもたれたまま寝落ちしていたらしい。首が痛い。前の職場の仮眠を思い出す。
ノクトは、わらの上に座って俺を見ていた。昨日とは目つきが違う。熱が引いている。顔色も戻った。峠は越えたようだ。
「熱、下がったな。よかった」
俺はまず、そっちを確認した。額に手をあてる。平熱に近い。
「……なぜ、まだいる」
「あ?」
「貴様。わらわが眠ったあとも、ここにいたのか」
「いたよ。急変したら困るだろ」
困るのは俺だ、というのは言わなかった。夜中に容態が変わってまた介抱するはめになれば、俺の睡眠時間がさらに削られる。それだけは避けたかった。だからいた。それだけの話だ。
ノクトは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「奇妙な男だ」
「よく言われる」
朝飯は、女将にもらった固いパンの最後のひとつだった。
半分に割って、片方をノクトに渡す。ノクトはそれを、また不思議そうに見た。昨日と同じ目だ。差し出されたものの意味が分からない、という目。
「毒は入ってない。昨日も言った」
「……そうではない」
ノクトはパンをかじった。小さい歯だ。
「なぜ、わらわに分け与える。半分にすれば、貴様の取り分が減るのだぞ」
「まあな」
「損だろう」
「損だな」
俺はパンをかじった。固い。
「でも目の前で腹を減らしてるやつがいて、自分だけ食うのは据わりが悪いだろ」
ノクトは、それには答えなかった。
ただ、パンをもうひとかじりした。さっきより、少し急いで食べた気がした。
平穏は、昼前に破られた。
廃屋の外に、男が四人立っていた。革の鎧になまくらの剣。目つきの悪さと、洗っていない体のにおい。堅気ではない。
「よう。見ない顔だな」
先頭の、ひげ面が言った。
「この一帯は俺たちのシマだ。通行料をもらおうか」
なるほど。この世界にもいるのか、こういうのが。
俺は無職で無一文だ。差し出せるものは何もない。だがこういう手合いの相手は、前の職場でもした。酔って暴れる家族、金の無心に来る親戚。理屈は通じない。通じないなりの対応がある。
「あー、すいません。金ないんですわ。無職なんで」
「ふざけるな。身ぐるみ剥いでやろうか」
「剥いでもパーカーとスウェットしか出ませんよ。それより兄さんたち、顔色悪いな」
ひげ面の眉が、ぴくりと動いた。
「あ?」
「特にそこの若いの。唇が白い。ちゃんと食ってないだろ。ちょっとべろ出してみ。……うわ、ひどい。最近まともに寝てないし酒ばっかだろ。あと兄さん、その左肩をかばってるでしょ。古い傷がじくじくしてる。放っとくと熱が出るぞ。破傷風なめると死ぬからな」
「うっす……最近ちょっと酒が……って、なんで俺らが説教されてんだよ!?」
男たちが、顔を見合わせた。
俺のペースになりかけた。あと一押しで、こいつらを「患者」の枠に入れられる。そうすれば、たいていは丸め込める。
だが、そこでひげ面が廃屋の中に目をやった。
「……おい。奥に誰かいるな。ガキか」
空気が、変わった。
「上物じゃねえか。そっちをもらってくか」
俺の頭の中で、なにかのスイッチが入った。
考えるより先に、俺は廃屋の入り口に立っていた。両手を広げて、奥を隠すように。
「やめとけ」
自分でも、驚くほど低い声が出た。
「その子は病人だ。昨日まで死にかけてた。今そっちに手を出されたら、また熱がぶり返す。そうなったら、看病するのは俺だ。俺の今夜の睡眠が消える。三十時間ぶりに寝られると思ってたのに、また徹夜だ。だいたいその子からは、元気になったら宿代をふんだくるって決めてるんだ。勝手に連れてかれたら俺が損する」
「……なに言ってんだ、こいつ」
「だから、やめとけって言ってるんだ。俺の睡眠のために」
ひげ面はしばらく俺を見ていた。
それから、笑った。
「変な野郎だ。気に入らねえ」
男は、剣の柄で俺の腹を小突いた。息が詰まる。膝が地面についた。
「今日は見逃してやる。だが夜にまた来る。そのガキ、逃がすなよ」
男たちは、げらげら笑いながら去っていった。
俺は腹を押さえて、しばらく動けなかった。腹の奥が熱い。あばらにひびくらいは入ったかもしれない。
それでも、まず口から出たのは自分の心配ではなかった。
「ノクト、平気か。怖かったろ。もう行ったから大丈夫だ」
振り返ると、ノクトが俺を見ていた。
なにか言いたそうな顔だった。だが俺は、それどころではなかった。
「……まいったな。夜にまた来るってよ」
どう逃げるか。それだけを、俺は考えていた。
その夜も、俺は結局寝てしまった。
逃げる算段をしているうちに、体がもたなかった。三十時間どころか、もう四日近くまともに寝ていない。壁にもたれた瞬間、意識が落ちた。
だから俺は、知らなかった。
夜のあいだに、なにが起きたのかを。
魔王ノクティス・ヴェルダは、廃屋を出た。
男が眠ったのを確かめてから、音もなく夜の中へ歩いた。熱は引いていた。力も、半分は戻っていた。半分で十分だった。
賊の野営は、丘の向こうにあった。たき火を囲んで、下卑た笑い声を上げていた。明日、あの廃屋へ戻る算段をしていた。あの奇妙な男から、ガキを奪う算段を。
ノクティス・ヴェルダは指を一本だけ持ち上げた。
それだけだった。
丘の向こうが一度、昼のように明るくなった。音は、遅れて届いた。たき火も天幕も、そこにいた者も残らず白い灰になった。悲鳴を上げる時間さえ、与えなかった。
これは、慈悲ではない。魔王に慈悲はない。
千年ものあいだ、彼女の指の一振りは国を沈めて軍を払い王をひざまずかせてきた。その同じ指が今宵、たかが賊の一群のために動いた。
ただ、道理の問題だった。
千年のあいだ、世界は彼女から奪うばかりだった。命を。力を。名を。誰も彼女に何も与えなかった。
だが、あの男は与えた。白湯を。パンを。そして千年ぶりの、恐れのない眠りを。
わらわに与えた者の安寧を脅かすなど、魔王たるわらわへの反逆に他ならぬ。
だから、消した。それだけのことだ。
灰の野を背にして、彼女は廃屋を振り返った。
男は、まだ眠っていた。今日も明日も、何も知らずに眠っているのだろう。自分が今、何から守られたのかも知らずに。
その寝顔を見て、彼女の口から千年ぶりの言葉がこぼれた。
「……わたしのパンを分けた男の眠りを、邪魔させはせぬ」
誰も、聞いていなかった。
男は、ぐっすりと眠っていた。
翌朝、丘の向こうを見て俺は腰を抜かした。
賊の野営があったはずの場所が、まるごと更地になっていた。黒い灰だけが、円く残っている。たき火の跡ではない。あんな範囲が焦げるのは、火事どころの話ではない。
「……嘘だろ」
俺は震えた。
あの盗賊たち。夜にまた来ると言っていた。だが来なかった。来なかったどころか、自分たちの野営ごとこんな──。
「やべえ。あいつら、本当にやべえ連中だ。仲間割れか? それとも、もっとやべえ何かに潰されたのか?」
どちらにせよ、確かなことがひとつある。
こんな土地に、長居してはいけない。
俺は廃屋に駆け戻った。
「ノクト! 起きろ! 逃げるぞ! この辺、やべえやつがうろついてる!」
ノクトはわらの上で、なぜか少し不満そうな顔をしていた。
俺には、その理由が分からなかった。
荷物をまとめて──といっても毛布一枚だが──俺たちは灰縁地を出た。
森沿いの道を、南へ。あてはない。あるわけがない。だが、少なくともあの更地からは離れたかった。
その道の途中で、俺は見つけた。
道端に、一匹のトカゲがのびていた。
やたらと赤黒い、大きめのトカゲだ。腹を出して、ぐったりしている。また行き倒れか。この世界は行き倒れが多すぎる。ときどき、小さく煙を吐いている。
「お、ちょうどいい」
俺はそれを拾い上げた。
「非常食だ。昨日からパンしか食ってないからな。たんぱく質を摂らないと体がもたない。焼けば食えるだろ。ノクト、火起こせるか?」
俺の腕の中で、赤黒いトカゲがかっと目を見開いた。
隣でノクトが、なぜか半歩あとずさった。




