第3話 魔王様、本日のバイタルは異常です
結論から言うと、俺は行き倒れの子どもを担いで廃屋に運び込んでいた。
灰縁地には空き家が三軒あった。そのうち一番マシな一軒を選んだ。屋根が半分残っていて、かまどの跡がある。上等だ。前の職場の仮眠室よりよほど広い。
断っておくが、これは善意ではない。
森の縁に死体を放置して、あとで村の誰かに見つかったとする。第一発見者はまず間違いなく俺だ。よそ者で無職で身分証もない。犯人にされるにはこれ以上ない条件がそろっている。
だから運んだ。俺の平穏な余生のためだ。
運ぶあいだ、子どもは驚くほど軽かった。骨の上に薄い皮が張っているだけだ。何日も食べていない体の重さを、俺は知っている。
子どもをわらの上に寝かせて、火を起こした。なべはなかったので、女将にもらった水筒の水を金属のカップに移して火にかけた。白湯くらいは飲ませられる。
熱がひどい。近づくだけで空気が冷たく張りつめる。悪寒が肌に移ってくるようだ。相当まずいところまで来ている。
俺は頭のスイッチを切り替えた。夜勤モードだ。
考えるのはやめる。目の前のことだけやる。熱を下げる。水を入れる。寝かせる。それだけでいい。
子どもが目を覚ましたのは、白湯が冷めかけた頃だった。
紅い目が、天井をじろりと見た。それから俺を見た。
次の瞬間、廃屋の空気がぐっと重くなった。
「……何者だ、貴様」
声が低い。子どもの声じゃない。
「わらわに、何をするつもりだ」
ああ、これだ。
高熱の患者は、目を覚ました直後がいちばん気が立っている。自分がどこにいるのか分からない。誰がそばにいるのか分からない。だから威嚇する。夜勤で百回は見た光景だ。
「起きたか。気分はどうだ」
「問いに答えよ。わらわを、どうする気だ」
「どうもしない。寝てろ。まだ熱が高い」
「ねつ……?」
子どもは自分の額に手をやろうとして、腕が上がらずに顔をしかめた。
うん。まだ動けない。指先まで血が回っていない。いい傾向ではない。
俺は子どもの手を取って、指の先を軽く揉んだ。冷たい。氷みたいだ。それでも脈はしっかりしている。死ぬ体ではない。ただ、限界まで何かを使い果たしただけの体だ。
子どもは、それでも気力を振り絞って身を起こそうとした。
そして、名乗った。
「……よいか。よく聞け。わらわは魔王ぞ」
「はいはい」
「焦熱と終焉を統べる者。真の名をノクティス・ヴェルダ。人間ごときが気安く触れてよい存在ではない」
「長いな」
「は?」
「名前。長い。ノクトでいいか」
子どもが固まった。
俺は続けた。
「ノクト。水飲めるか。ぬるいけど」
「……いま、わらわをなんと呼んだ」
「ノクト。あだ名。呼びやすいだろ。こまめに声かけて水分とらせなきゃいけないんだから」
子どもの口が半分開いたまま止まった。
まあ、こうなる。
高熱でせん妄が出ている患者に、正論をぶつけても意味がない。魔王だろうが皇帝だろうが、本人がそう思い込んでいるならそれでいい。頭ごなしに否定するのは三流のやることだ。まず相手の言い分を受け入れる。それから安心させる。介護の一番はじめに習うことだった。
「分かったよ。魔王様な。えらいえらい」
「馬鹿にしておるのか、貴様」
「してない。世界征服なんて年中無休のブラックな大仕事だろ。ちゃんと寝ないと体を壊すぞ」
俺は子どもの背中に手を回して、そっと支えて起こした。カップを口元に運ぶ。
ノクトは、白湯をじっと見た。それから俺を見た。
「毒か」
「白湯だぞ」
「……わらわを、殺す気ではないのか」
「殺すために火まで起こすやつがどこにいる。飲め。話はそのあとだ」
ノクトは、少しだけ飲んだ。
それから、また少し飲んだ。
飲み終わると、糸が切れたようにわらに沈んだ。まだ本調子には遠い。俺は濡らした布で、土に汚れた顔と手を拭いた。魔王様は抵抗しなかった。というより、抵抗する力が残っていなかった。
汗をかいている。着替えはないので、乾いた布を背中に一枚入れて汗を吸わせた。この手のことは体が勝手に動く。二年間、毎晩やっていたことだ。
ノクトは、拭かれるあいだずっと俺の手を目で追っていた。その手がいつ自分に害をなすのかを見張るように。だが俺の手は汚れを拭い、汗を吸い取っただけだった。ついでに乱れた前髪もよけてやった。
紅い目に、戸惑いが浮かんでいた。害されることには慣れていても、世話をされることには慣れていない。そういう目だ。何度か夜勤で見たことがある。ずっと誰にも触れられずに来た人の目だ。
その途中で、ノクトが急に口を開いた。
「……離れよ。今のわらわでも、貴様ひとりを消し炭にするくらいは」
その口が、何かを唱えかけた。
唱えかけたところに、俺は冷ましておいた白湯のカップをもう一度あてがった。
「はい、口開けて。もう一口いっとこう。水分足りてないんだから」
ノクトの言葉が、ぬるい白湯と一緒に喉の奥へ引っ込んだ。
こくり、と喉が鳴った。
それきり、ノクトは何も唱えなかった。物騒なうわ言をつぶやきかけた口から漏れたのは、熱で喉が張りついたようなかすれ声だった。
「……あたたかい」
「白湯だからな」
ノクトは、自分が今なにを言いかけていたのかも忘れたような顔をしていた。
「……なぜだ」
ノクトが、天井を見たまま言った。
「なぜ、こんなことをする。わらわが誰か、聞いたであろう」
「聞いた。魔王様だろ」
「ならば、なぜ」
「なぜって」
俺は布を絞りながら考えた。考えたが、たいした答えは出てこなかった。
「熱があるやつが目の前にいたら、まあそうするだろ。普通」
「普通、だと」
「そう。普通」
ノクトは黙った。
それからずいぶん長い沈黙のあと、絞り出すように言った。
「……なぜ、わらわを恐れぬ」
紅い目が、暗い廃屋の中でらんらんと光った。すさまじい熱量だ。近くにいるだけで肌がぞわりとする。
なるほど。熱のピークが来たな。こういうとき、幻覚を見る患者もいる。目が普通じゃない。
「こわがる元気があるなら、寝ろ」
俺は布をたたんで、ノクトの額に乗せた。
「怖い夢は熱のせいだ。朝には引く。それまで俺がいる。だから寝ろ」
ノクトが、俺を見た。
さっきまでの、にらむような目ではなかった。
熱で心細くなっているだけの、ただの子どもの目だ。
「……いてくれるのか」
「行くところもないしな」
それは本当だった。俺には帰る家も、次の予定もない。だからこれは優しさなどではない。無職のよそ者が、たまたま暇を持て余しているだけだ。元気になったら宿代くらいふんだくってやろうという打算もある。
自分の中で、そういうことにしておいた。
ノクトのまぶたが、ゆっくり落ちていった。
張りつめていた空気が、少しずつほどけていく。悪寒が引いてきたらしい。熱が下がる前触れだ。よかった。峠は越えた。
俺はかまどの火を少し足して、壁に背を預けた。
今夜は長い夜勤になりそうだった。
千年のあいだ、眠りは戦いだった。
眠っている隙に討たれぬよう、いつも半分だけ目を開けていた。近づいてくる者は皆、剣を持っているかひざまずいているかのどちらかだった。前者は殺しに来る者。後者はもっと悪く、彼女を神に祭り上げて利用しに来る者だった。
どちらも、彼女を見てはいなかった。魔王という名の恐怖を見ていた。
だから、この夜のことを彼女は生涯忘れなかった。
男は、彼女の名乗りに一切ひるまなかった。世界を灰にする者だと告げても、「長いな」と言った。恐怖の代わりに、白湯を差し出した。威厳の代わりに、あだ名をつけた。魔法を放とうとした口には、もう一口の白湯を押し込んできた。
男にとって彼女は、魔王ではなかった。
ただ熱を出して腹を空かせた、小さな子どもだった。
千年ぶりに、彼女は両目を閉じて眠った。
男が、すぐそばにいた。




