第2話 ヒモになりたかった男の、就職活動
銀貨三枚の価値は、城を追い出された翌日の昼には分かった。
パンひとつが銅貨二枚。串焼きが銅貨三枚。銀貨一枚で銅貨十枚。つまり俺の全財産はパン十五個ぶんだ。
安宿の一泊が銀貨一枚だと聞いて、俺は看板の前で三分ほど立ち尽くした。
三泊で人生が終わる。
城下町は思ったより大きかった。石畳。荷車。物売りの声。焼けた油と家畜と汗のにおい。誰も俺を見ていない。パーカーとスウェットの男が歩いていても、この街ではただの薄汚い流れ者の一種でしかないらしい。
念のため、スニーカーが売れないか試した。
露店の親父は靴を裏返してしばらく眺めたあと、銅貨一枚と言った。パン半分である。
俺は黙って靴を履き直した。
働くしかない、とは思わなかった。
俺は昨日の朝まで十六時間の夜勤をしていた男である。異世界まで来て労働に戻るのは、地獄を出て地獄の隣に引っ越すようなものだ。
だから最初に立てた計画はこうだった。
誰かに養ってもらう。三食昼寝付きで。
当てはあった。
昼に串焼きを買った屋台の女が、やたらと親切だったのだ。四十がらみで腕が太くて声が大きい。宿もやっているという。
俺はその宿の食堂の隅に座り、水を一杯もらいながら全力で愛想を振りまいた。
「いやあ、女将さんはすごいですね。ひとりで宿と屋台を両方なんて」
「そうだろう。あたしは働き者なんだ」
「尊敬します。俺なんかとても」
順調である。
このまま「あんた行くところがないのかい」「実は」「じゃあうちにいなよ」の流れに持ち込めば、俺の異世界ヒモ計画は初日で完成する。
そこまで考えたところで、俺の目が女将の右手を見た。
見てしまった、というほうが正しい。
水差しを持つときだけ指の開き方がおかしい。親指の付け根をかばっている。カップを置く音が左右で違う。さっきから重いものを同じ手でばかり持っている。
「……女将さん。それ、右の親指の付け根が痛いでしょ」
女将の動きが止まった。
「なんで分かるんだい」
「持ち方で。腱ですね。使いすぎです」
気づくと俺は立ち上がって、女将の右手を取っていた。
なぜ立ち上がったのか自分でも分からない。脳が座っていろと命令するより早く、介護職の脊髄反射が勝ってしまったのだ。座っていればよかった。座っていれば俺は今ごろヒモだったはずなのに。
「親指をこう。手首はこの角度で固定。あと水差しは右で持たない。左で抱えてください。それだけで三日で楽になります」
「……三日で」
「なります。うちのばあちゃんもそうでした」
女将は自分の手をしばらく見ていた。
それから俺の顔を見た。
その目に浮かんでいたのは感謝ではなかった。
値踏みだった。
三十分後、俺は厨房に立っていた。
「洗い場がここ。鍋がそこ。火がそっち。……女将さん。これ、一日に何往復してます?」
「知らないよ。ずっとこうだから」
「鍋をこっちに寄せるだけで、たぶん半分になります」
言うんじゃなかった。
断っておくが、これは親切ではない。動線の悪い厨房を見せられると気持ちが悪いだけだ。皿の置き場が三か所に分かれている職場で働いた人間なら分かってくれると思う。
だから俺は悪くない。悪いのはこの厨房だ。
……と、心の中で言い訳を並べながら洗い場と火のあいだを鬼の形相で往復した。気がつくと日が暮れていた。
俺は棚の高さを変えた。洗い物の順番を変えた。階段で転びかけた老人の靴を見て、底が減って滑るから紐をこう結べと直した。腰の曲がった常連に椅子の高さを変えさせ、酔って寝た男を横向きに寝かせ直した。
報酬はスープ一杯だった。
「あんた、明日も来なよ。飯は出す」
「……飯は」
「出すよ」
寝床の話は一度も出なかった。
その夜、俺は宿の裏の物置で膝を抱えて梁を見上げた。
違う。
俺は世話を焼かれたかったのだ。
なぜ俺が、この街で一番よく働いているんだ。
翌日、俺は宿に行った。
行かないという選択肢もあった。あったはずだ。だが行かなければ飯が出ない。飯が出なければ死ぬ。つまりこれも打算である。そういうことにした。
二日目には裏庭の物干しの位置を変えていた。三日目には常連客の薬の飲み合わせに口を出していた。
報酬はスープとパンに増えた。寝床の話はやはり出なかった。
三日目の朝に役人が来た。
滞在許可の話だった。身分証のない人間は城下町に十日以上いられない。許可を取るには銀貨が五枚要るという。
持っていない。三日で稼いだのはスープ三杯とパン二個ぶんだ。
「東の荷馬車が空いてるよ」と女将が言った。「灰縁地まで行くやつ」
「灰縁地」
「何もないとこさ。畑もろくにできない」
女将は鍋を左手で抱えながら続けた。
「まあ、誰も何も聞かない場所だね」
誰も何も聞かない。
それは俺にとって、温泉付きリゾートとほぼ同じ意味の言葉だった。
女将は毛布を一枚と、固いパンを二つ持たせてくれた。
「手首、楽になったよ。ほら、持っていきな」
「……これ、退職金代わりってことですか」
「あんた、馬鹿だね」
なぜ馬鹿と言われたのかは分からなかった。俺はただ、自分の三食昼寝付き生活のために合理的に動いていただけである。
荷馬車は丸一日揺れた。
御者は無口な爺さんで、着くまでに三回しか口をきかなかった。三回とも「揺れるぞ」だった。
灰縁地は本当に何もなかった。
枯れかけた草。低い丘。遠くに黒い森。家がぽつぽつと五軒。そのうちの一軒から細い煙が上がっている。人はいるらしい。だが誰も出てこない。
風だけがあった。
俺はその風景をしばらく眺めて、深く息を吸った。
いい。ここはいい。
何もないということは、処理すべきタスクが存在しないということだ。人がいなければ呼び出しもない。誰かのシフトを代わることもない。インフラの崩壊、大いに結構。
この絶望的な寂れ具合こそ、俺が探していた究極のホワイト環境である。
俺は毛布を担ぎ直して歩き出した。今夜の寝床を探さなければならない。
森の縁で足が止まった。
人影がうずくまっていた。
……またか。
俺は本気で天を仰いだ。四日前に同じことをやって、その結果が異世界召喚と無職である。まさか異世界に来てまで同じトラップを踏み抜く気か。学習しろ、俺の足。もう他人の世話は焼かない。
通り過ぎよう、と思った。今度こそ思った。
だが冷静に考えてほしい。
身分証も住所もない無職のよそ者が、辺境で行き倒れの第一発見者になったらどうなるか。十中八九、犯人にされる。中世レベルの牢屋に放り込まれる。俺の三食昼寝付き計画が、始まる前に終わる。
つまりこれは人助けではない。俺のスローライフを守るためのリスク管理だ。
そう言い聞かせながら、俺はもう歩き出していた。
小さい。子どもだ。銀に近い髪が土で汚れている。うつ伏せに近い姿勢で、指先が地面を掻いた跡だけが残っている。
しゃがんで首筋に指を当てた。脈はある。速い。呼吸は浅いが止まってはいない。手足の先だけが氷のように冷たい。
そして、この子のまわりの空気が妙に冷たかった。近づくと肌がぞわりとする。高熱を出した人間のそばにいるときの、あの感じだ。悪寒が移るやつである。
相当まずい。
「おい。聞こえるか」
返事はない。
俺は毛布を広げてその小さい背中にかけた。それから懐のパンをひとつ出して割った。
「食えるか。無理なら舐めるだけでいい」
まぶたが動いた。
紅い目がうっすらと開いた。
「いいから食え。まずは腹に物を入れないと始まらないぞ」
その目はまず、パンを見た。
それから俺を見た。
なぜだ、という顔をしていた。
その少女には名前が三つあった。
ひとつは古い名。ひとつは人間たちが恐れて呼ぶ名。もうひとつは、千年のあいだ誰にも呼ばれていない名。
力を使い果たしたのは三日前だ。歩けなくなったのは昨日。地面に伏せたのは今朝である。
助けは来ない。
当然だと思っていた。彼女は討たれるべきものとして生まれ、討たれるべきものとして千年を生きた。近づいてくる者は剣を持っているか、ひざまずいているか。世界にはその二種類しかいなかった。
だから毛布をかけられたとき、彼女がまず考えたのは罠の種類だった。
割ったパンを差し出されたとき、彼女は考えるのをやめた。
千年のあいだ、彼女に食べ物を分けた者はひとりもいなかった。




