第1話 ハズレスキル【世話焼き】、本日付けで無職
労働は悪だ。
とくに夜勤明けに浴びる朝日は人間の尊厳を焼き切るために開発された兵器だと思っている。
俺の名前は籐谷守。二十二歳。特別養護老人ホームの夜勤専従。今日も十六時間を生き延びて家に帰る途中だ。頭の中には布団のことしかない。
その十六時間で七人を起こした。四人を寝かしつけた。二人の転倒を防いで、一人の入れ歯を探した。入れ歯は冷蔵庫にあった。なぜそこにあったのかは今も分からない。
だから道端でうずくまっているパーカーの人影を見たときも、当然のように通り過ぎるつもりだった。関わっていいことなど何もない。これは現代社会を生き抜くための正当な自己防衛である。
なのに足が止まった。
だめだ。あのうずくまり方はだめだ。呼吸が浅くて速い。肩が小刻みに揺れている。放っておけば十分後には過呼吸を起こす。そうなったら救急車を呼ぶことになって、そうなったら俺は事情説明で一時間は拘束される。
つまりこれは善意ではない。俺の睡眠時間を守るための、極めて利己的で合理的な判断だ。
俺はため息まじりに、買ったばかりの缶コーヒーを地面に置いた。糖分だけが今日の俺をかろうじて人間の形に保っている。それでも背に腹は代えられない。
「あー……大丈夫ですか。息、ゆっくり吐いて」
その手が背中に触れる寸前で足元が光った。
気がつくと俺は石の床に座り込んでいた。
目の前で巨大な魔法陣が光っている。天井が高い。柱が太い。色つきのガラスから差す光が床に模様を落としている。どう見ても老人ホームの休憩室ではない。
周りには俺と同じように座り込んだ人間が三人いた。制服姿の男子。同じく制服の女子。それからスーツの若い男。全員が日本人の顔をしている。
正面には金の縫い取りが入った服の連中がずらりと並んでいた。中央の玉座には白髪の男が座っている。
「勇者よ。よくぞ参られた」
王様だ。たぶん王様だ。異世界だ。たぶん異世界だ。
と、頭のどこかでは理解した。理解はしたが体は別のことをしていた。
制服の女子が真っ青な顔で口元を押さえている。呼吸が速い。目の焦点が合っていない。膝が笑っている。
これは吐く。
吐かれてから片づけるより吐く前に落ち着かせるほうが手間は三分の一で済む。夜勤で百回は学んだことだ。
「はい深呼吸。吸って。止めないで、吐いて」
俺は女子の背中に手を当てて肩甲骨の下をゆっくりさすった。
「膝、床につけていいよ。立ってようとしなくていいから」
「……ぁ、は、はい」
「そう。上手。もう一回」
女子の呼吸が少しずつ深くなっていく。
「……すみません。日野です。日野灯」
日野はまだ震えの残る手で俺の袖をつかんだまま、小さく息を吐いた。
「籐谷。守でいいよ」
「……あの」
制服の男子が小声で言った。
「あなた、いま何を」
「え? ああ、過呼吸になりかけてたから」
「いや、そうじゃなくて」
男子が玉座のほうを見た。俺もつられて見た。
全員がこちらを見ていた。
俺は会釈をして、女子の背中をさすり続けた。
「……では、鑑定の儀を執り行う」
あとで聞いた話だが、この儀式は三人を呼ぶためのものだったらしい。四人目が来たのは百年ぶりの手違いだそうだ。その手違いは、いま床に座って人の背中をさすっている。
白いひげの男が水晶を運んできた。宮廷鑑定士だそうだ。順番に手をかざしていく。
制服の男子は【勇者】。おお、という声が上がった。
スーツの男は【剣豪】。おお、という声が上がった。
俺がさっき背中をさすった女子は【聖女】。今度は歓声だった。
さっきまで吐きそうだった女子が真っ赤な顔で頭を下げている。よかった。顔色が戻っている。
そして俺の番になった。
水晶に手をかざす。鑑定士が文字を読み上げる。
「……【世話焼き】」
沈黙があった。
「以上です」
「以上?」
「以上でございます」
誰かが噴き出した。ひとりが笑うと全員が笑った。金の縫い取りの連中が扇の裏でくつくつとやっている。
「世話焼き、とは」
「文字どおりかと。戦闘には転用できませぬ」
「ハズレ、ということか」
「ハズレでございます」
王が肩をすくめた。
俺は特に傷つかなかった。夜勤明けだったからだ。感情を出すには血糖値が足りない。
そのかわり俺は別のことが気になって仕方がなかった。
王の顔色である。
白い。血の気がない。目の下の色が悪い。さっきから同じ姿勢を保てずに玉座の背もたれへ何度も体重を預け直している。手の甲に浮いた血管。まばたきの回数。座面から尻をずらす角度。
あの動き方は知っている。
夜勤で毎晩見ている。
「あんた、寝てないだろ」
言ってしまってから、言ってしまったなと思った。
玉座の間が凍りついた。
「な……」
「三日。いや四日か。横になれてないだろ。あと腰。ずっと同じ角度で座ってるから左に逃げてる。クッションを一枚挟むだけで全然違うぞ」
「無礼者! 陛下に向かって!」
騎士が剣に手をかけた。だが王が手を上げてそれを止めた。
王は俺を見ていた。ものすごく変な顔をしていた。
「……なぜ、わかった」
「なぜって、顔に出てるから」
「顔に」
「あとそこの人。あんたは水分が足りてない。唇の乾き方がまずい。そっちの人は塩分。まぶたの腫れ方でわかる。全員ちゃんと食って寝ろ。この国は労働環境が悪すぎる」
言い終わってから気づいた。
金の縫い取りの連中が、そろって自分の唇やまぶたや腰を触っていた。
「陛下。あの、私、たしかに最近その、水を」
「黙れ。わしも腰が痛いのだ」
「はい」
厳粛だったはずの玉座の間が、いつのまにか職員の健康診断みたいな空気になっていた。
やがて王が力なく言った。
「……なんなのだ、この者は」
答えられる者はいなかった。
結論から言うと、俺は追い出された。
「戦えぬ者を城に置く余裕はない」
宰相だか大臣だかの男が事務的に告げた。他の三人は丁重に別室へ案内されていった。勇者と剣豪と聖女。当然の扱いだと思う。
俺だけが通用口のほうへ連れて行かれた。
「支度金として銀貨を三枚与える。門を出たら二度と戻るな」
銀貨三枚。相場は知らないが、たぶん少ない。手切れ金どころか交通費にもならない額だろう。
だが俺はそのとき、内心でガッツポーズをしていた。
考えてみてほしい。勇者というのは要するに、命の危険がある現場へ薄給で放り込まれる仕事だ。休みがない。代わりがいない。失敗したら全部こちらのせいにされる。
俺はその業界から逃げてきたばかりなのだ。
しかも支度金が出る。前の職場は辞めるとき何もくれなかった。むしろ制服のクリーニング代を引かれた。
二度と戻るなと言われて、はいと即答した。
「……ずいぶんと物わかりがよいな」
「おかげさまで」
俺は頭を下げて城を出た。
城門の外に立って五分で気づいた。
俺は無職である。
しかも住所がない。身分証もない。言葉は通じるが常識は何ひとつ知らない。所持金は銀貨三枚。これが百円なのか十万円なのかも分からない。持ち物はパーカーとスウェットとスニーカーだけ。
銀貨を手のひらの上で数えた。三回数えたが三枚のままだった。
空が高い。腹の虫が間抜けな音で鳴った。
夜勤明けから何も食べていないことを思い出した。というか寝ていない。かれこれ三十時間は起きている。
人の顔色を見れば足りないものが分かる。それが俺のスキルらしい。
じゃあ自分は?
自分の顔色は、自分には見えない。
俺は膝に手をついて、それから空に向かってぽつりとこぼした。
「……なあ。誰か俺の世話を焼いてくれない?」
冷たい風がスウェットの裾を揺らした。
「……できれば三食昼寝付きで、もう一生働かなくていいやつ」
返事はなかった。
宮廷鑑定士ハルド・メイネルはその夜、報告書に筆を走らせていた。
召喚された四名のうち三名は迷いなく書けた。勇者。剣豪。聖女。いずれも過去の記録に前例がある。
残る一名の欄で手が止まる。
【世話焼き】。
水晶が示した説明文は、ハルドが四十年の鑑定士人生で一度も見たことのない文字列だった。古語ですらない。どの体系にも属していない。読めないのではなく、照合する先が存在しないのだ。
ハルドはしばらく考えたのち、備考欄にこう記した。
――該当なし。ハズレ。
筆を置いたところで扉が叩かれた。
「ハルド様。陛下が」
「陛下がどうした」
「……お倒れになりました。原因が、わからぬそうで」
ハルドは眉を寄せた。
気の毒なことだ、と思った。
それだけだった。
同じ日に起きた二つの出来事を結びつける理由は、この男にはひとつもなかった。




