第16話 示談ってのは、こうやってやるんだよ
出てきたのは、見覚えのある男だった。
白い外套。青白い顔。額の汗。
「おっ。あんた、あの時の低血糖のおっさんじゃないか」
俺は思わず声をかけた。
「血圧、落ち着いたか? つーかこんな夜更けまで働いてるのか。だから倒れるんだよ。無理すんな」
男の頬が引きつった。
「……あの日以来、三日三晩寝込んだ。貴様が流し込んだあの毒のせいで」
「毒? 飴だぞあれ。安いやつだけど」
「黙れ。それに、こんな夜更けにと言ったな。……我らの夜間の動きまで見透かしているというわけか」
「いや、暗いから」
話が通じない。まあいい。仕事の話をしよう。
「で、示談の件だが」
俺は懐から紙を出した。焼け残った包み紙の裏に炭で書いた請求書だ。
「まず家の修理費。屋根、壁、窓、家具一式。それと直るまでの仮住まいの手配。そっちの過失なんだから当然そっちが持て。敷金礼金なしの物件で頼む」
審問官が黙った。
やがて額に脂汗を浮かべて言った。
「……新たな要塞の建造費と、我が教会の領地の割譲を要求するというのか」
「誰も領地なんて言ってないだろ。四人で住める平屋でいい」
「四人。……つまり、あの三体を引き連れて我らの中枢に居座ると」
「なんでそうなる」
俺は次の項目を指した。
「あと迷惑料な。夜中に押しかけられて、うちの連中がえらく機嫌を損ねてる。あいつら機嫌が悪いと手がつけられん。宥めるのは全部俺の仕事だ。その分の手当をよこせ」
審問官の顔から完全に血の気が引いた。
「――貴様、自分の身に何かあれば、あの三体が即座に世界を焼くと。それを脅しに使うと」
「機嫌取りの菓子折り代だよ。饅頭でいい」
「ふざけるな!」
なんでキレられてるんだ、俺は。
「ではこちらの要求を言おう」
審問官が姿勢を正した。
「あの三体を国に引き渡せ。そうすれば貴様の命は保証する。莫大な金と地位も用意しよう」
俺は少し考えた。
なるほど。厄介な居候を追い出せば立ち退き料を出すという話か。あくどい不動産屋みたいな話だ。
「断る」
「なに?」
「あいつらの面倒は俺が見るって決めてんだ。手放す気はない」
審問官が目を見開いた。
「人類の命と引き換えにしてなお……貴様は、魔王を統べると言うのか」
「統べるとかじゃなくてだな。飯の世話をしてるだけだ」
通じない。まったく通じない。
「では、聞かせてやろう」
審問官の声が急に低くなった。
「貴様は、あの三体に何をしたと思っている」
「何って、飯食わせて、風呂入れて、洗濯して」
「そうだ。それが罪だ」
男が一歩踏み出した。
「あれらは神話の存在だ。国を焼き、山を割り、千年を生きる者たちだ。それを貴様は、あんな狭い掘っ立て小屋に閉じ込め、残飯のようなスープを与え、掃除や洗濯などという無価値な労働をさせた」
「無価値って」
「貴様のその『世話』こそが、あれらの誇りを奪い、鎖に繋ぎ、弱らせたのだ。貴様がいなければ、あれらは自由だった」
――胃の奥が、氷を飲んだみたいに冷たくなった。
言われなくてもわかっている。
俺はあいつらに飯を食わせて、掃除をさせて、家族ごっこみたいなことをさせていただけだ。あいつらは神話のバケモノで、俺はただの無職だ。俺がいなければ食費も手間も浮く。計算するまでもなく、そっちのほうが合理的だ。
理屈は完璧に合っている。
なのに、どうして俺はこんなに息が詰まるんだろうな。
明日あいつらに食わせるはずだった鍋の残りのことばかりが、頭にこびりついて離れない。
……いや。
やめろ。
今日は家を焼かれた件の示談交渉に来たんだ。それ以外の面倒な話は俺の管轄外だ。
それに、あいつらから家事を取り上げたら、本当にただのニートになっちまうだろうが。
「話を戻していいか。修理費の件だが」
「貴様……!」
審問官がなおも何か大義を語りはじめた。
神の意志だの、人類の存続だの、選ばれし責務だの。長い。
俺はそれを聞き流しながら男を見ていた。
そして、ため息をついた。
「……あんた、さっきから右足に重心かけてないな。膝か腰、やってるだろ」
「は?」
「目も白っぽい。口も乾いてる。夜、何度も起きるだろ。トイレか、痛みか」
男の言葉が止まった。
「あんた、偉そうなこと言ってるけどな。ただ体が痛くて夜も眠れなくて、それで若い連中に当たり散らしてる、よくいる頑固なじいさんと同じだ」
「私は、まだ三十二……」
「三十二でその体か。無理しすぎだ。休める時に休まないからそうなる」
俺は男の杖代わりになっている剣を指した。
「そんな重いもん支えにするな。腰に来る。ちゃんとした杖にしろ。あと寝る前の水分は控えめにして、昼に多めに取れ。夜中に起きる回数が減る」
「……なぜ、そんなことを」
「世界とか神様とかより、まず自分の腰を大事にしろよ。取り返しがつかなくなるぞ」
男の口が半分開いたまま止まっていた。
背後の若い神官たちが、なぜかざわついていた。
そのとき、後ろで悲鳴が上がった。
振り返ると、兵士の一人が人質の町人の腕をつかんで引きずり出していた。
パン屋のじいさんだった。
「時間の無駄だ! この者から順に消していけば、悪魔も口をきくだろう!」
兵士が剣を振り上げた。
じいさんがうつろな目のまま、されるがままになっている。
――
気づいたら俺は走っていた。
じいさんと剣の間に体をねじ込んで、両腕で押しのけた。
剣先が俺の頬をかすめた。
熱いものが流れた。たいした傷じゃない。夜勤中に爪で引っかかれたときのほうが痛かった。
だが。
手に持っていたおたまが剣に弾かれて飛んだ。
地面に落ちて乾いた音を立て、柄が真っ二つに割れた。
……あーあ。
百均のくせにやたらすくいやすくて、気に入ってたのに。今日のスープ、何でよそうんだよ。
俺はそれを見た。
それから兵士を見た。
その後ろの審問官を見た。
「……お前ら」
声が、自分でも驚くくらい低かった。
「今、この人を殺そうとしたな」
「悪魔の手先だ。人質としての価値も――」
「この人はパン屋だ」
俺は言った。
「朝の暗いうちから火を入れて、腰が悪いのに毎日パンを焼いて、売れ残りを子どもにやるじいさんだ。あんたらの言う人類ってのは、この人のことじゃないのか」
審問官が黙った。
「大義でもなんでも勝手に語ってろ。だがな」
俺は割れたおたまを拾った。
「他人の生活をゴミみたいに扱うやつらとは、これ以上口をきく気はねえ。……示談は決裂だ。お前ら、うちの町内は全員出入り禁止にしてやる」
俺は背を向けた。
背後で審問官が叫んだ。
「捕らえよ! この男を生かして帰すな!」
鎧の足音が、いっせいに動いた。
逃げ場はない。俺は走れない。武器もない。
手にあるのは、割れたおたまだけだった。
〔教会の懺悔室にて、若き神官が遺した告解〕
主よ。お許しください。
私の信仰は、今日、揺らぎました。
我々は世界を滅ぼす大悪魔と対峙するはずでした。
司祭様は神の威光をもって悪魔を言葉で打ち据えるはずでした。
しかし、あの男は悪魔ではありませんでした。
あの男はサンダル履きで現れました。手には割れたおたまを持っていました。
そして司祭様の膝の不調を言い当て、剣を杖にするなと叱り、水を飲む時間を指導したのです。
最後にはこう言いました。無理するな、あとは若い者に任せて寝ておけ、と。
あのとき司祭様は確かに、ほっとした顔をされました。
三十年、あの方のあんな顔を私は見たことがありません。
主よ。
我々が戦っているのは、本当に厄災なのでしょうか。
あの男が漂わせている生活の匂いは、我々の神聖な大義を砂の城のように崩していきます。
――なお、後刻。
あの男の頬に傷をつけたこと。
あの男のおたまを割ったこと。
この二つが、我らにとって何を意味するのか。
私はまだ、知りませんでした。




