第13話 俺の家に土足で上がるな
「夜中に大声出すな! 近所迷惑だろうが!」
俺が最初に叫んだのはそれだった。
数万の松明。抜き身の剣。国と教会の旗。
どう見ても異常な光景だ。だが俺の口から出たのは苦情だった。頭が現実を受けつけていなかったんだと思う。
「それにお前ら、そこ! そこは昨日耕したばかりの畑だ! 鉄の靴で踏み荒らすな! 来月の菜っ葉が採れなくなるだろうが!」
軍勢の前列がざわついた。
誰かが低い声で言うのが聞こえた。
「数万の軍を前に……己の畑の心配だと」
「惑わされるな! 恐るべき胆力だ!」
なんの話だ。
俺の後ろでノクトが一歩前に出た。
「あるじ。下がっておれ」
その声を俺は初めて聞いた。
ノクトの声じゃなかった。俺の知っている、飯をねだる子どもの声じゃない。腹の底が凍るような温度のない声だった。
「わらわの家の前に、よくも土足で立ったな」
空気が鳴った。
次の瞬間、軍勢の前列が消えた。
消えた、としか言いようがない。悲鳴すらなかった。松明の火だけが支えを失って、ぼとぼとと地面に落ちた。
俺はそれを見ていた。
昨日まで冷めたスープを文句も言わずに飲んでいた口が、抑揚のない声で言葉を紡いでいる。ケチャップの染みを気にして袖を握りしめていた手が、迷いなく振られている。
その背中が遠かった。
――俺は、世話の焼ける居候を三人、養っているつもりだった。
違ったのか。
俺はただ、神話みたいなやつらにままごとをさせていただけだったのか。
「セシル、盾を!」
「無理だ、マモル君。私の魔力が通らない。……この家は外から遮断されている」
「なんで」
「札だよ。君が四隅に貼った、あの魔除けの」
セシルが気まずそうに眼鏡を押し上げた。
「あれは魔法と転移を封じる封印札だ。私の転移も、ノクトの防壁も、ここでは半分も出ない。……気づいていたけど言えなかった。君が嬉しそうに貼っていたから」
「…………は?」
俺は壁に走った。
爪を立てて札を剥がしにかかった。糊が固い。剥がれない。
「シール剥がし! 誰か酢でもいい、持ってこい! 俺の……俺のせいか、これ! いや違う、あんな紛らわしいもんを渡してきたあのおっさんが悪い! そうだ、あいつのせいだ!」
「あるじ。よい」
「よくない!」
ノクトが振り返らずに言った。
「なくとも、殺せる」
その一言に、俺は何も返せなかった。
戦いは俺には見えなかった。
見えたのは家のことだけだった。
窓が割れた。矢が壁に刺さった。天井から埃が落ちた。誰かの魔法が屋根をかすめ、俺が直したばかりの梁が焦げた。
「ふざけんな! そこ、先週やっと修理したとこだぞ! 敷金が返ってこないだろうが!」
叫びながら思い知っていた。
俺にできるのはそれだけだ。
目の前でリントの肩から血が飛んだ。あいつは笑って「かすり傷だ」と言った。セシルの腕が焼けた。ノクトの口の端が切れた。
三人とも一歩も引かなかった。
俺を背中に置いたまま。
投資だ、パトロンだと、俺は何を言っていたんだろうな。
こいつらの腹を満たすことはできても、こいつらに向けられた刃を止める力は俺に一ミリもない。
俺は世話を焼くことで、保護者ぶることで、自分の情けなさから目を逸らしていただけだ。
足がすくんで動けなかった。
そのとき、庭の隅で誰かが倒れた。
敵の兵士だった。まだ若い。十七、八といったところか。
過呼吸を起こしていた。ノクトの殺気にあてられたんだろう。顔が真っ白で、鎧の中で肩が上下している。
気づいたら俺は走っていた。
考える前に体が動いた。介護の癖だ。
「おい。息、吐け。吸うんじゃない、先に吐くんだ。ゆっくりだ」
「ひ、う」
「そうだ。もう一回。……お前、この時間まで飯食ってないだろ。こんな重い鎧着て、夜中に歩かされて」
俺はポケットを探った。明日の朝に食うつもりだった固いパンの残りが出てきた。
それを兵士の口に押し込んだ。
「食え。腹が減ってちゃ、戦もできんだろ」
兵士が泣きそうな顔で俺を見た。
周りの兵士たちが剣を構えたまま動きを止めていた。
「……悪魔が」
「なぜ、我らに」
悪魔ってのはどっちだよ。夜中に人の家に押しかけて、畑を踏み荒らして、うちのガキに怪我をさせておいて。
そう言おうとして、俺は言えなかった。
俺の後ろでノクトが立ち尽くしていたからだ。
その目が敵に向けられていなかった。
俺と、兵士の口に押し込まれたパンを、じっと見ていた。
勝負がついたのはあっけなかった。
軍勢が退いていく。三人が息を切らして、それでも家の前から動かなかった。
俺は家の中を見た。
屋根に穴が開いていた。壁が崩れていた。四人で並べた不格好な皿が床に散らばって砕けていた。
そして、食卓が燃えていた。
みんなで囲んだ、あのボロい食卓だ。
その上に置いてあった台所の裏紙も一緒に燃えていた。三人が落書きしていた、あの紙だ。読まないと決めていたから、俺は最後まで中身を知らない。
燃えかすが風に舞って崩れた。
「……あーあ」
俺はその場に座り込んだ。
「終わったわ。俺のヒモ生活」
冗談のつもりだった。そう言わないと、他のことを言ってしまいそうだった。
三人が燃えた食卓を見ていた。
誰も何も言わなかった。
やがてノクトが静かに口を開いた。
「……あるじ」
「ん」
「少しだけ、留守にする」
「は?」
「明日の朝までには戻る。……今日は、飯は自分で食え」
その声はひどく穏やかだった。
俺に向けるときの、いつもの声だった。
だがノクトはもう俺を見ていなかった。
三人は退いていく軍勢の背中を見ていた。
リントが初めて竜の目をした。セシルが眼鏡を外し、砕けた食卓の上に置いた。
俺は何か言わなければと思った。
やめろ、とか、行くな、とか。
だが、その資格が自分にあるのかわからなかった。
俺はこいつらの何も守れなかったのだから。
〔壊滅した前線基地で発見された、異端審問官の血濡れた手記〕
神よ。我々は、触れてはならぬものに触れました。
魔王も、神竜も、賢者も、ただの怪物ではありませんでした。
あれは、たった一人の男を守るためだけに存在する狂った番犬でございます。
彼らは己の傷を意に介しませんでした。ただ、背後に立つ一人の平凡な青年に、血の一滴、灰の一粒すら降りかからぬよう、異常なまでの執念で我らをなぎ払っていったのです。
当の青年は、剣を持ちませんでした。
ただ震える足で立ち、崩れゆく己の家を見て悲鳴のような苦情を叫んでいました。曰く、梁を直したばかりだ、と。曰く、畑を踏むな、と。
そして、あろうことか。
我らの兵が一人倒れたとき、あの青年は駆け寄ってその口にパンを押し込みました。
殺しに来た者に。何の見返りも求めず。当たり前のように。
私は理解しました。
あの怪物たちが、なぜあの男に膝を折るのか。
あれは慈悲ではありません。あの男にとって我らをあわれむことは、飯を食い、息をするのと同じなのです。
だからこそ恐ろしい。
神よ。あの、なんの力も持たぬ青年こそが。
この世界にとっての、真の厄災でございます。
――今、地平の彼方が赤い。
あれは夜明けではありません。
我らが、あの男の食卓を焼いた報いです。




