第11話 記憶を食べる猫
第11話です。
今回、喫茶ミオに現れるのは、記憶を食べる黒猫。
忘れたい痛み。
忘れてしまった温かさ。
そして、誰かの悲しみを軽くしようとして、別の大切なものまで食べてしまった後悔。
店主の失われた記憶にも、少しずつ近づいていきます。
第11話「記憶を食べる猫」、お付き合いいただけると嬉しいです。
郵便受けは、今日も空だった。
店主は扉の横にある古い郵便受けの前で、しばらく立ち止まっていた。
赤茶けた金属製の小さな箱。
表面には錆が浮き、蓋の端は少し曲がっている。けれど、そこには確かに文字が残っていた。
――喫茶ミオ。
昨日、未来から来た配達員、時枝カナタが言っていた。
名前を思い出したら、郵便受けを確認してください。
名前が戻ると、届くものがあります。
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
店主は、自分の名前を知らない。
喫茶ミオの店主。
マスター。
テンチョー。
そう呼ばれることはあった。
けれど、本当の名前はまだ分からない。
篠原は知っていたのかもしれない。
ミオという女性も、きっと知っていたはずだ。
もしかすると、常連帳のどこかにあるのかもしれない。
けれど、何度探しても、自分の名前だけは見つからなかった。
郵便受けの蓋に手をかける。
開けたい。
開ければ、何かが入っているかもしれない。
手紙。
写真。
鍵。
自分の名前。
ミオからの言葉。
だが、カナタは言った。
名前を思い出したら。
店主は、ゆっくり手を離した。
まだだ。
この店には、順番がある。
日記も一度に全部読んではいけない。
地下へ続く扉も、まだ開けていない。
常連帳の「最後の客」のページも空白のままだ。
焦れば、壊れる。
たぶん、この店も、自分も。
店主は小さく息を吐き、扉の札を確認した。
――開店中。
今日も喫茶店は営業している。
世界が終わっても。
未来から来た配達員が母の手紙を受け取り、夜明けのブレンドを持って去ったあとも。
そして、店主がまだ自分の名前を思い出せないままでも。
喫茶店だけは、営業している。
店主は店内へ戻った。
からん、とベルが鳴る。
カウンター横には、古い自動販売機AVM-0321が立っている。
昨日、カナタが「ありがとう」と言って、最後の商品だった夜明けのブレンドを買っていった。
今、AVMの中は空だ。
正面には、店主が書き足した紙が貼ってある。
――夜明けのブレンド 価格:ありがとう一つ
――店内専用。どういたしまして付き。
――売り切れ。
――でも、ありがとうは受付中。
売るものがなくなっても、AVMは店の一部としてそこにいる。
店主はその表面を布で軽く拭いた。
「今日もよろしくお願いします」
返事はない。
けれど、返事がないことにも、もう慣れてきた。
店主はカウンターへ入り、豆を挽いた。
今朝は少し浅めにする。
昨日のホットレモネードの甘さがまだ頭のどこかに残っていて、今日は重い苦みよりも、軽い香りのものを淹れたくなった。
湯を注ぐ。
粉がふくらむ。
香りが立つ。
白いカップに注ぎ、カウンターの端へ置く。
一杯目のコーヒー。
誰のためか分からない一杯。
湯気は細く、まっすぐ上へ伸びていた。
その湯気を見ていると、不意に何かが揺れた。
湯気の中に、影が見えた気がした。
小さな手。
青いカップ。
誰かの笑い声。
ミオ。
店主は胸を押さえた。
思い出しかけるたびに、胸の奥が痛む。
痛い。
けれど、以前より怖さは少しだけ薄くなっている。
アメは記憶を取り戻して泣いた。
ヨルは名前を呼ばれて眠った。
カナタは母の手紙を受け取って泣いた。
みんな、痛みに触れていた。
それでも、それを避けたままでは終われなかった。
なら、自分もいつか触れなければならないのだろう。
ミオのこと。
自分の名前。
世界が壊れた日のこと。
店主が湯気を見つめていた、その時だった。
カウンターの上に、猫がいた。
「……」
店主は瞬きをした。
いつ入ってきたのか、まったく分からなかった。
扉のベルは鳴っていない。
窓も閉まっている。
厨房の奥にも、店の裏口にも、猫が入れるような隙間はないはずだ。
それなのに、カウンターの上には黒猫が座っていた。
真っ黒な毛並み。
細い身体。
長い尻尾。
目は左右で色が違っていた。
右目は金色。
左目は青色。
黒猫は、カウンターの端に置かれた一杯目のコーヒーをじっと見つめている。
そして、湯気に顔を近づけた。
「熱いですよ」
店主が言うと、黒猫はちらりと店主を見た。
次の瞬間、湯気を舐めた。
ぺろり。
湯気を。
猫が。
舐めた。
店主はしばらく固まった。
黒猫は、満足そうに目を細めた。
「うん。薄い」
猫が言った。
店主はゆっくり息を吸った。
最近、驚くことには慣れてきたと思っていた。
配達ロボット。
幽霊。
勇者。
自動販売機。
魔王。
三百年以上生きた老人。
未来から来た配達員。
それらと比べれば、猫がしゃべるくらい、そこまで不思議ではないのかもしれない。
そう思おうとした。
無理だった。
「しゃべるんですね」
「猫だからね」
「猫は普通しゃべらないと思います」
「普通の猫はね」
黒猫は当然のように言った。
そして、また湯気を舐めた。
「苦い。甘くない。けど、懐かしい味がする」
「それはコーヒーです」
「違うよ」
黒猫は鼻を鳴らした。
「記憶の味」
店主の手が止まった。
「記憶」
「そう」
黒猫はカップの周りを歩き、尻尾を揺らした。
「この店の湯気には、記憶が混ざってる。客が置いていったもの。店主が隠しているもの。店が抱えているもの。そういうのが、ほんの少しずつ湯気になって出てくる」
「あなたは、それを食べるんですか」
「食べる」
黒猫はぺろりと口元を舐めた。
「僕は、記憶を食べる猫だから」
店内が、少しだけ冷えたような気がした。
記憶を食べる猫。
その言葉は、可愛らしい見た目に反して、どこか恐ろしかった。
店主は、アメのことを思い出した。
記憶を売った少女。
記憶を失う痛み。
記憶を取り戻す痛み。
「勝手に食べないでください」
店主は言った。
黒猫は耳をぴくりと動かした。
「おや。怒った?」
「怒った、というより困ります」
「困る?」
「この店に残っている記憶は、大切なものかもしれません」
黒猫は金と青の目で店主を見た。
「大切な記憶なら、どうしてこんなところにこぼしてるの」
店主は答えられなかった。
「大切なら、ちゃんと抱えていればいい。名前も、顔も、声も、痛みも。こぼれるってことは、持ちきれないってことだよ」
「それでも、食べていい理由にはなりません」
「食べないと腐るよ」
黒猫は淡々と言った。
「記憶はね、ずっと置きっぱなしにすると腐る。甘かったものが酸っぱくなる。温かかったものが苦くなる。優しかった声が、責める声になる。だから、少し食べて軽くしてあげる」
「軽くする」
「そう。僕は悪い猫じゃない」
「悪い猫は、自分でそう言いそうです」
「店主、なかなか言うね」
黒猫は少し楽しそうに笑った。
猫が笑うというのも変な話だが、そう見えた。
店主はカウンターの上に置いていた布巾を手に取り、黒猫の前に置いた。
「とりあえず、カウンターの上を歩くなら、足を拭いてください」
「猫に足を拭かせる喫茶店、初めて」
「喫茶店なので」
「理由になってないよ」
文句を言いながらも、黒猫は布巾の上で前足をちょんちょんと動かした。
律儀だった。
店主は少しだけ警戒を緩めた。
「お客様ですか」
「そうだよ」
「ご注文は」
「記憶」
「うちのメニューにはありません」
「あるよ」
黒猫はカウンターの下を見た。
そこには、茶色いノートと常連帳がしまってある。
店主は思わず手で隠した。
黒猫の目が細くなる。
「いっぱいあるね。店主が書いた記憶。店が覚えている記憶。名前を呼ばれた記憶。手紙を受け取った記憶。魔王が甘い飲み物を飲んだ記憶」
「読んだんですか」
「嗅いだだけ」
「嗅げるんですか」
「記憶は匂うよ」
黒猫は鼻をひくひくさせた。
「配達ロボットは油とリボンの匂い。新聞記者はインクと雨の匂い。記憶を売った女の子は蜂蜜と涙の匂い。幽霊の先生は古い本と砂糖一つの匂い。勇者は鉄と後悔の匂い。自動販売機は缶コーヒーと『どういたしまして』の匂い。魔王は焦げた薔薇と甘い牛乳の匂い。長生きしすぎた老人は、夜明け前の空気の匂い。未来の配達員は、レモンとはがきの匂い」
店主は何も言えなかった。
黒猫は、本当に記憶を嗅いでいるのだ。
「そして、店主」
黒猫は、まっすぐ店主を見た。
「君は、閉じた扉と、青いカップと、言えなかった名前の匂いがする」
胸の奥が、鋭く痛んだ。
青いカップ。
小さな手。
笑い声。
ミオ。
店主はカウンターに手をついた。
黒猫は、じっとその様子を見ている。
「食べてあげようか」
黒猫が言った。
「何を」
「その痛いやつ」
店主は顔を上げた。
黒猫は、いつの間にかすぐ目の前に座っていた。
「思い出しかけるたびに痛む記憶。名前のない記憶。ミオって音が刺さるところ。食べてあげれば、楽になるよ」
店主は息を止めた。
「ミオを、知っているんですか」
「知ってるかもしれないし、知らないかもしれない」
「どっちですか」
「食べた記憶は、僕のものになる。でも、僕のものになった記憶は、僕自身の記憶と混ざる。だから、誰の記憶だったのか分からなくなることがある」
「それは」
「便利で、不便」
黒猫は自分の尻尾を見た。
「でも、痛みは消えるよ。君の中からは」
「僕の中からは」
「そう。君は楽になる。思い出さなくてもいい。胸も痛まない。郵便受けも開けなくていい。地下の扉も、日記も、最後の客も、全部少し遠くなる」
甘い誘いだった。
恐ろしいほどに。
忘れれば、楽になる。
ミオという名前を聞くたびに胸が痛むこともなくなる。
思い出せない自分を責める必要もなくなる。
最後の客の空白を怖がらなくてもいい。
郵便受けに何が届くのか怯えなくてもいい。
この店を閉めてはいけない理由も、深く考えずに済むかもしれない。
ただ、毎日コーヒーを淹れ、客を迎え、見送る。
それだけなら、どれほど楽だろう。
店主はカウンターの端の白いカップを見た。
一杯目のコーヒー。
誰のためか分からない一杯。
その湯気はもう少し薄くなっている。
「どうする?」
黒猫が言った。
「食べてあげようか」
店主は、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ」
黒猫は目を細めた。
「痛いよ」
「はい」
「もっと痛くなるよ」
「そうかもしれません」
「思い出したら、戻れなくなるよ」
「それでも」
店主はカップを両手で包んだ。
「忘れたままでいいとは、思えません」
黒猫は黙った。
「記憶は、痛いだけじゃありません」
店主は続けた。
「アメは、思い出して泣きました。でも、温かいと言いました。カナタさんも、手紙を読んで泣きました。でも、受け取ってよかったと思います。ヨルさんは、名前を呼ばれて眠りました」
黒猫の尻尾が、ゆっくり揺れる。
「僕も、思い出したら痛いのかもしれません。でも、その中に温かいものがあるなら、食べられたくありません」
店主は黒猫を見た。
「少なくとも、まだ」
黒猫はしばらく店主を見ていた。
やがて、小さく笑った。
「そっか。まだ、なんだ」
「はい」
「強いのか弱いのか分からない答えだね」
「僕にも分かりません」
「この店の人は、すぐ分からないって言う」
「よく言われます」
「誰に?」
「勇者や魔王に」
「ずいぶん派手な常連だね」
黒猫はカウンターの上で丸くなりかけた。
店主はすぐに言った。
「そこで寝ないでください」
「猫だよ?」
「喫茶店です」
「猫カフェじゃないの?」
「違います」
「惜しい」
黒猫は不満そうにしながらも、カウンターから飛び降りた。
足音はしなかった。
黒い身体は、床に影のように溶ける。
黒猫は窓際の席へ行き、椅子に飛び乗った。
そこは、篠原が座った席。
ヴァルグランが休暇を取った席。
ヨルが眠った席ではないが、この店の中でも特に記憶の濃い場所だった。
黒猫はその椅子の上で丸くなり、鼻をひくつかせた。
「この席、おいしい」
「食べないでください」
「全部は食べないよ。端っこだけ」
「端っこも困ります」
「けち」
店主は少し頭を抱えた。
今日の客は、かなり扱いが難しい。
ただ、黒猫は本当に悪意があるわけではなさそうだった。
勝手に食べるのは困る。
だが、食べなければ腐るという言葉も、完全な嘘ではない気がした。
記憶は、抱え方を間違えると人を苦しめる。
レオンは、救えなかった記憶を一人で抱えすぎていた。
カナタは、受け取れなかった手紙の記憶から目を逸らしていた。
ヨルは、長すぎる記憶の果てに名前を失った。
もし、誰かがその重さを少し食べてくれるなら、救われる人もいるのかもしれない。
「あなたは、どうして記憶を食べるようになったんですか」
店主が尋ねると、黒猫は片目だけ開けた。
「お腹が空いたから」
「最初からですか」
「最初は普通の猫だった気がする」
「気がする?」
「猫の記憶は曖昧なんだよ」
黒猫はあくびをした。
「昔、僕は誰かに飼われていた。たぶん。名前もあった。たぶん。毎日ごはんをもらって、膝の上で寝て、窓から外を見ていた。たぶん」
「たぶんばかりですね」
「食べすぎると、自分の記憶も分からなくなる」
黒猫の声が、少しだけ静かになった。
「人の記憶を食べるとね、その人の気持ちが少し入ってくる。嬉しいこと、悲しいこと、恥ずかしいこと、忘れたいこと、忘れたくないこと。いっぱい食べると、お腹はふくらむ。でも、心の中が混ざる」
店主は黙って聞いていた。
「僕が猫だった頃の記憶も、誰かの記憶の中に埋もれた。だから、どれが僕の思い出なのか分からない」
「それでも食べるんですか」
「食べないと、お腹が空く」
黒猫は目を閉じた。
「それに、泣いている人を見ると、食べたくなる」
「どうして」
「その人が苦しそうだから」
店主は、黒猫の姿を見つめた。
記憶を食べる猫。
それは恐ろしい存在かと思った。
だが、本当は痛みを食べようとしているのかもしれない。
その代わりに、自分の中が少しずつ混ざっていく。
自分の名前も、飼い主も、過去も分からなくなるほどに。
「あなたは、誰の記憶を食べて後悔したことがありますか」
店主が尋ねると、黒猫の尻尾が止まった。
店内が静かになる。
黒猫はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さな声で答えた。
「ある」
「聞いてもいいですか」
「聞きたいの?」
「お客様なので」
「喫茶店って、面倒だね」
「そうかもしれません」
黒猫は椅子の上で身体を起こした。
金と青の目が、窓の外の灰色を映す。
「昔、女の子がいた」
黒猫は言った。
「小さい女の子。よく泣く子だった。僕を抱くのが下手で、いつも少し苦しかった。でも、手は温かかった」
「飼い主ですか」
「たぶん。名前は……」
黒猫は眉間にしわを寄せるような顔をした。
「忘れた」
「あなたの名前は」
「それも忘れた」
黒猫は少し笑った。
「でも、女の子は僕を呼んでいた。何度も何度も。雨の日も、晴れの日も。学校から帰ると、玄関で僕の名前を呼んだ」
「はい」
「その子の家に、ある日、悲しいことがあった」
「悲しいこと」
「母親が帰ってこなくなった」
店主は息を呑んだ。
「事故か病気か、戦争か、災害か。もう分からない。でも、その子はずっと母親を待っていた。玄関で。窓際で。夜になっても」
黒猫の声は、淡々としていた。
しかし、その奥にはかすかな震えがあった。
「毎晩、母親のマグカップをテーブルに置いていた。冷めた紅茶。誰も飲まない紅茶。女の子はそれを見るたびに泣いた」
「それで」
「僕は、食べた」
黒猫は言った。
「その子の中にある、母親を待つ記憶を食べた。母親の声。母親の手。母親の笑顔。玄関で待っていた夜。全部じゃない。痛いところだけ食べるつもりだった」
「でも」
「食べすぎた」
黒猫の尻尾が、椅子の上で小さく震えた。
「次の日、その子は泣かなかった。母親のマグカップも出さなかった。ご飯を食べた。学校にも行った。周りの大人は安心した。もう大丈夫なんだね、と言った」
「はい」
「でも、その子は僕の名前も呼ばなくなった」
店主は何も言えなかった。
「母親の記憶と一緒に、僕との記憶も少し食べてしまったんだと思う。母親がいなくなった後、その子が一番泣いていた時、ずっとそばにいたのは僕だったから」
「それで、あなたも忘れられた」
「うん」
黒猫は小さく言った。
「その子は僕を見ても、知らない猫みたいな顔をした。餌はくれた。でも、名前は呼ばなかった。膝にも乗せなくなった。僕を見ると、少し困った顔をした」
「つらかったですね」
「僕が食べたから」
黒猫は窓の外を見ていた。
「その子は楽になった。泣かなくなった。母親を待たなくなった。でも、何か大切なものまで消えた」
「その子は、その後どうなったんですか」
「大人になった」
黒猫は言った。
「僕は長く生きるようになって、その子の家を出た。記憶を食べる猫になって、いろんな場所を歩いた。たまに、その子を遠くから見た。大人になって、働いて、笑っていた。普通に生きていた」
「それは」
「よかったのかもしれない」
黒猫は言った。
「でも、ある日、その子は古い写真を見ていた。小さい頃の写真。そこに、僕が写っていた」
「はい」
「その子は写真を見て、首を傾げた。『この猫、誰だっけ』って」
黒猫は目を閉じた。
「それを聞いた時、僕は初めて、食べた記憶を返したいと思った」
店内に沈黙が落ちた。
記憶を食べる猫。
食べることはできる。
痛みを軽くすることはできる。
でも、食べたものは戻せない。
その後悔が、この猫をここへ連れてきたのだろうか。
「返せるんですか」
店主が尋ねると、黒猫は首を横に振った。
「普通は無理」
「普通は」
「この店なら、できるかもしれないと思った」
「どうして」
「匂いがしたから」
黒猫は店内を見回した。
「この店は、記憶をそのまま置いておける場所。痛くても、温かくても、古くても、壊れていても。普通の場所なら消えてしまうものが、ここでは少し残る」
「はい」
「ここなら、食べた記憶を少しだけ吐き出せるかもしれない」
店主はカウンターの下にしまってある常連帳を思い出した。
ヨルの名前を受け入れた帳面。
客たちを覚えている店。
そして、茶色いノート。
店主が見送った客のことを書き続けているノート。
この店は、忘れないための場所なのかもしれない。
記憶を食べる猫にとっては、食べた記憶を戻すための場所にもなり得るのだろうか。
「その女の子の名前は分かりますか」
店主が尋ねると、黒猫は目を伏せた。
「分からない」
「写真の場所は」
「分からない」
「あなたの名前は」
「分からない」
「では、何を返せばいいのでしょう」
黒猫は、ゆっくり口を開いた。
黒い口の奥から、小さな光がこぼれた。
店主は目を見開いた。
黒猫の口から出てきたのは、ビー玉ほどの小さな球だった。
半透明で、内側に淡い光が揺れている。
赤、金色、青、白。
いくつもの色が、ゆっくり混ざっている。
黒猫はそれをカウンターの上に置いた。
「これ」
「これは」
「食べきれなかった記憶の芯」
黒猫は言った。
「痛みは食べた。でも、これだけ残った。たぶん、その子にとっても、僕にとっても、一番大事だったところ」
店主はその小さな記憶の球を見つめた。
触れると、温かい。
そして、かすかに声が聞こえた。
――ただいま。
――おかえり。
――ミケ、こっちおいで。
店主は顔を上げた。
「ミケ」
黒猫の耳がぴくりと動いた。
「今、何て」
「ミケ、と聞こえました」
黒猫は固まった。
金と青の目が大きく開く。
「ミケ」
店主がもう一度言うと、黒猫の身体が小さく震えた。
「それ」
「あなたの名前ですか」
「……分からない」
黒猫はそう言った。
けれど、その声は震えていた。
「分からないけど、胸が変」
「痛いですか」
「痛い」
「温かいですか」
「……温かい」
黒猫は、記憶の球を見つめた。
「ミケ」
自分でそう呟いた瞬間、黒猫の左目から涙が落ちた。
猫の涙。
それは小さな光の粒のように、カウンターにこぼれた。
「僕、そんな名前だったのかな」
「かもしれません」
「黒猫なのに、ミケ?」
「三毛猫だったのかもしれません」
「今、真っ黒だけど」
「長く生きているうちに変わったのかもしれません」
「そんなことある?」
「この店では、ありそうです」
黒猫は小さく笑った。
涙を流しながら。
「雑な納得だね」
「すみません」
店主は記憶の球を手に取った。
「これを、どうすれば返せますか」
「分からない」
「分からないんですね」
「うん」
「では、試してみます」
店主は厨房へ向かった。
記憶の球をどう扱えばいいのか分からない。
だが、この店では、必要なものは不思議と見つかる。
アメの時には蜂蜜があった。
カナタの時にはレモンがあった。
ヨルの時には常連帳が現れた。
今回も、何かがあるはずだ。
店主は棚を開けた。
奥に、小さな白い皿があった。
猫用の皿に見えた。
今まで見たことはない。
皿の縁には、薄い青い線が入っている。
篠原のカップの線と少し似ている。
その皿を手に取ると、底に小さな文字が書かれていることに気づいた。
――ミケ用。
店主の胸が震えた。
「ミケ用」
黒猫がカウンターから身を乗り出した。
「何それ」
「あなたの皿かもしれません」
「僕の?」
店主は皿をカウンターに置いた。
黒猫はゆっくり近づき、皿の匂いを嗅いだ。
その瞬間、黒猫の目が揺れた。
「知ってる」
「思い出しましたか」
「少しだけ」
黒猫は皿の前で座った。
「この皿、知ってる。誰かが牛乳を入れてくれた。僕はいつも少し残した。すると、その子が怒った。『ミケ、ちゃんと飲みなさい』って」
「女の子ですか」
「たぶん」
黒猫は目を閉じた。
「台所の匂い。雨の日の匂い。濡れた靴下。笑い声」
店主は、記憶の球を皿の上に置いた。
球はころんと転がり、皿の中央で止まった。
何も起こらない。
店主は少し考え、冷蔵庫を開けた。
そこには、小瓶に入った牛乳があった。
古いものではない。
白く、少し温かさすら感じる、不思議な牛乳。
店主はそれを小鍋に入れ、弱火で温めた。
沸騰しないように。
ゆっくり。
丁寧に。
温まった牛乳を、記憶の球が入った皿へ注ぐ。
白い液体が球を包み込んだ瞬間、淡い光が広がった。
店内の空気が、少し変わった。
雨の匂いがした。
世界が終わった灰色の雨ではない。
もっと昔の、普通の雨。
傘を叩く雨音。
玄関のドアが開く音。
小さな足音。
女の子の声。
――ただいま!
別の声。
大人の女性の声。
――おかえり。靴、そろえてね。
そして、猫を呼ぶ声。
――ミケ、こっちおいで。
黒猫は、皿の前で固まっていた。
光の中に、小さな部屋が見えた。
古い木の床。
低いテーブル。
白いマグカップ。
女の子。
そして、膝の上に乗る三毛猫。
黒、白、茶色の毛並み。
今の黒猫とは違う。
けれど、金と青の目は同じだった。
女の子が笑っている。
涙の跡はない。
母親もそこにいる。
三人と一匹の、何でもない夕方。
牛乳の皿。
紅茶の香り。
雨の音。
ただいまと、おかえり。
その記憶は、あまりに普通で、あまりに温かかった。
黒猫の身体が震えた。
「これ」
声がかすれている。
「僕の」
「はい」
「僕、ミケだった」
黒猫は皿に顔を近づけた。
牛乳を飲む。
ぺろり。
一口飲むたびに、黒い毛並みの中に一瞬だけ三毛の模様が浮かんだ。
黒、白、茶。
けれどすぐに、また黒へ戻る。
「女の子」
黒猫は呟いた。
「名前、思い出せない」
「無理に全部思い出さなくてもいいと思います」
「でも」
「今、ミケと呼ばれていたことは思い出しました」
黒猫は泣いていた。
牛乳を飲みながら。
声も出さずに。
「返したい」
黒猫は言った。
「この記憶、その子に返したい」
「どこにいるか分からないんですよね」
「うん」
「では、この店に預けますか」
黒猫が顔を上げる。
「預ける?」
「この店は、記憶を置いておける場所です。いつか、その人が来るかもしれません。あるいは、届く形が見つかるかもしれません」
店主は、カナタの不達票を思い出した。
届かなかったものも、いつか届くことがある。
五十年遅れの荷物も。
未来から来た手紙も。
なら、この記憶も。
いつか、どこかへ届くかもしれない。
「それまで、この記憶を食べずに残しておきます」
店主は言った。
「できますか」
黒猫は、皿の中の光を見つめた。
牛乳は少しずつ薄くなり、中央には小さな光の球が残っている。
その光は、さっきより柔らかくなっていた。
痛みの芯ではなく、温かい記憶の種のように。
「食べない」
黒猫は言った。
「食べたくない」
「では、預かります」
店主は小さなガラス瓶を探した。
棚の奥に、蓋つきの小瓶があった。
そこへ記憶の球をそっと入れる。
瓶の中で、光がゆっくり揺れた。
雨の音が、ほんの少しだけ聞こえた。
――ミケ、こっちおいで。
黒猫は目を閉じた。
「うん」
小さな返事だった。
その瞬間、店の奥で、かちり、と音がした。
時計の針が一つ進むような音。
店主は顔を上げた。
黒猫も耳を立てた。
「今の音」
「この店で、客が何かを終えた時に鳴る音です」
「僕、終えたの?」
「少しは」
店主は言った。
「食べた記憶を、初めて残せたんだと思います」
黒猫はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「そっか」
店主は瓶を持って倉庫へ向かった。
「預かりもの」の木箱を開ける。
錆びた鍵。
古い万年筆。
子ども用の髪留め。
折れた眼鏡。
写真の入っていない写真立て。
金属製の名札。
折れた聖剣。
黒焔城の紋章。
不達票。
そこに、ミケの記憶が入った小瓶を置く。
小瓶は、他の品々の間で淡く光っていた。
黒猫も倉庫の入口までついてきていた。
「そこ、記憶の墓場?」
「預かりものです」
「墓場じゃないの?」
「たぶん、違います」
「じゃあ、待合室?」
店主は少し考えた。
「そうかもしれません」
最後の待合室。
この店の正体に近い言葉かもしれない。
黒猫は木箱を見つめた。
「食べちゃだめ?」
「だめです」
「冗談だよ」
「本当に?」
「ちょっとだけ本当」
「だめです」
「はいはい」
店主は木箱の蓋を閉めた。
店内へ戻る。
黒猫は、なぜか当然のように店主の後ろをついてきた。
「あなたは、これからどうしますか」
店主が尋ねると、黒猫はカウンターの上に飛び乗った。
「ここにいる」
「え?」
「ここ、記憶が多くてお腹が空かないし」
「勝手に食べるのは禁止です」
「許可制?」
「はい」
「めんどくさい店」
「喫茶店なので」
「またそれ」
黒猫は尻尾を揺らした。
「でも、ここにいる」
「なぜですか」
「ミケ用の皿があったから」
黒猫は、カウンターの上に置かれた白い皿を見た。
「たぶん、僕はここを知ってる。あの女の子と来たのかもしれない。ミオって人を知ってるのかもしれない。店主の名前も、食べた記憶のどこかにあるかもしれない」
店主の胸が跳ねた。
「僕の名前を?」
「あるかもしれない。ないかもしれない」
「探せますか」
「今は無理」
黒猫は目を細めた。
「僕の中、散らかってるから。いろんな人の記憶がごちゃごちゃしてる。探すには時間がかかる」
「そうですか」
「でも、ここにいれば、そのうち匂いで分かるかも」
店主は少し迷った。
記憶を食べる猫を店に置いていいのか。
危険ではないのか。
客の記憶を勝手に食べてしまわないか。
自分の記憶も、いつか食べられるのではないか。
不安はある。
だが、この猫もまた、客だ。
そして、完全には終わっていない。
自分の名前。
女の子の記憶。
ミケという呼び名。
まだ返すべきものがある。
「条件があります」
店主は言った。
黒猫は耳を立てた。
「記憶を勝手に食べないこと」
「うん」
「カウンターの上で寝ないこと」
「それは難しい」
「努力してください」
「努力はする」
「お客様の飲み物に口をつけないこと」
「湯気は?」
「湯気もだめです」
「厳しい」
「喫茶店なので」
「もう聞き飽きた」
黒猫は文句を言いながらも、少し楽しそうだった。
「名前は、ミケでいいですか」
店主が尋ねると、黒猫は一瞬黙った。
そして、ぷいと顔を背けた。
「好きに呼べば」
「嫌なら別の名前にします」
「嫌じゃない」
小さな声だった。
「では、ミケ」
店主が呼ぶと、黒猫の耳がぴくりと動いた。
「はい」
返事は、少し遅れて返ってきた。
けれど、確かに返ってきた。
店主は少し笑った。
「よろしくお願いします、ミケ」
「よろしく、店主」
「テンチョーでもいいですよ」
「それは女の子の呼び方でしょ」
「そうですね」
「じゃあ、店主」
ミケはそう言って、カウンターから飛び降りた。
そして、AVMの横へ行く。
古い自動販売機の足元で丸くなった。
「そこはいいんですか」
「ここ、あったかい」
「もう動いていないはずですが」
「でも、あったかいよ」
ミケはAVMに身体を寄せた。
AVMの表示は消えている。
けれど、ほんの一瞬だけ、淡い光が灯った。
――^^
店主は目を細めた。
「仲良くしてくださいね」
「この箱、どういたしましての匂いがする」
「そういう自動販売機です」
「変なの」
「あなたも十分変です」
「猫に失礼」
ミケはそう言いながら、目を閉じた。
数秒もしないうちに、寝息が聞こえ始める。
すう。
すう。
記憶を食べる猫。
さっきまで店主の痛い記憶を食べようとしていた猫が、今は自動販売機の横で丸くなって眠っている。
店主は少しだけ肩の力を抜いた。
店に、また一つ気配が増えた。
AVMの時とも違う。
ミケは動く。
しゃべる。
文句を言う。
勝手に湯気を食べようとするかもしれない。
けれど、店は少し賑やかになるのかもしれない。
店主は茶色いノートを開いた。
新しいページ。
ペンを持つ。
――十人目の客。ミケ。
少し迷ってから、次の行を書く。
――記憶を食べる猫。
――痛い記憶を食べて、人を少し楽にしてきた。
――けれど、食べすぎて自分の記憶を見失っていた。
店主は、ミケ用の皿を見る。
白い皿。
青い線。
底には「ミケ用」と書かれていた。
――昔、女の子に飼われていたらしい。
――その子の悲しみを食べすぎて、自分のことまで忘れられてしまった。
――記憶の芯をこの店に預けた。
さらに書く。
――この店に残ることになった。
――記憶の無断飲食は禁止。
最後の一文を書いた時、店主は少し笑った。
それから、ペンを止めた。
何かを書き足したくなった。
少し考え、最後に一行を加える。
――忘れれば楽になる痛みもある。けれど、忘れたくない温かさも同じ場所にある。
書き終えると、胸の奥が静かに痛んだ。
ミオ。
青いカップ。
小さな手。
笑い声。
まだ思い出せない。
まだ痛む。
だが、食べてもらわなくてよかった。
そう思えた。
店主はカウンターの端に置いた一杯目のコーヒーを手に取った。
もう冷めかけている。
ミケが湯気を少し舐めたせいか、香りがいつもと少し違う気がした。
記憶の味。
ミケはそう言っていた。
店主はひと口飲んだ。
苦い。
少し薄い。
けれど、どこか懐かしい。
飲み込むと、胸の奥に小さな熱が残った。
「まだ、忘れません」
店主は小さく言った。
誰に向けた言葉かは分からなかった。
自分へ。
ミオへ。
この店へ。
あるいは、いつか郵便受けに届く何かへ。
AVMの横で、ミケが寝返りを打った。
「……勝手に忘れるなよ」
寝言のような声だった。
店主は少し驚き、それから笑った。
「はい」
外では、終わった世界に風が吹いている。
灰色の街。
壊れた道路。
誰もいない歩道。
それでも、喫茶店の中には、今日から黒猫が一匹いる。
記憶を食べる猫。
かつてミケと呼ばれていた猫。
忘れたい痛みと、忘れたくない温かさを知っている猫。
店主は新しい湯を沸かした。
カップを磨く。
椅子を整える。
ミケ用の皿を洗って、AVMの近くに置いた。
その皿に、少しだけ温かい牛乳を入れる。
ミケは眠ったまま、鼻をひくひくさせた。
「あとで飲んでください」
返事はない。
それでも、尻尾が一度だけ動いた。
店主は扉の札を見た。
――開店中。
世界が終わったあとも。
未来から来た配達員が母の手紙を受け取ったあとも。
記憶を食べる猫が、自分の名前を少しだけ思い出したあとも。
喫茶店だけは、まだ営業している。
最後の客が来る、その日までは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第11話は、記憶を食べる猫・ミケのお話でした。
痛い記憶を食べることで、誰かを少し楽にしてきたミケ。
けれど、食べすぎた記憶の中には、大切な思い出や、自分自身の名前まで混ざっていました。
忘れれば楽になる痛みもある。
けれど、その痛みの奥に、忘れたくない温かさが残っていることもある。
そんなミケは、今回から喫茶ミオに残ることになりました。
少し騒がしくなりそうですが、店主にとっても心強い存在になるかもしれません。
次回は、第12話「未来に存在しない店」です。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




