第一話 左遷監査官、迷宮都市へ
第一話 左遷監査官、迷宮都市へ
迷宮都市オウラムは、雨の匂いがした。
石畳に染みついた血と泥、腐った野菜、獣脂、安酒、下水。湿った風がそれらをまとめて運び、巨大な城壁の前に立つ男の黒い外套を揺らしていく。
「……ここが、新しい職場ですか」
カイル・クロムウェルは感情のない声で呟いた。
見上げた先には、空を塞ぐほど巨大な迷宮塔があった。雲を突き刺す黒い石の塔。その内部には無数の魔獣と財宝が眠っているという。
だがカイルの目に映るのは、塔ではなかった。
城門脇の徴税机。
そこに積まれた銀貨袋。
そして門番の手つきだった。
「次! 通行税、銅貨五枚!」
革鎧の冒険者が乱暴に銅貨を叩きつける。門番は慣れた手つきでそれを数え、机の下へ滑らせた。
だが一枚だけ、袖の中へ消えた。
カイルは細く息を吐いた。
「……露骨ですね」
横にいた若い受付嬢が小声で言った。
「あ、あの……本当にやるんですか?」
栗色の髪を後ろで束ねた少女だった。まだ十九かそこらだろう。ギルド支給の制服は少し擦り切れている。
「君は?」
「ミーシャです。下級受付をしています。今日から監査官補佐を……その……命じられて」
語尾が小さくなった。
つまり押し付けられたのだろう。面倒な左遷監査官の世話係を。
カイルはどうでもよさそうに頷いた。
「そうですか」
「え、えっと……門番のベイルさん、すごく気が荒い人で……」
「関係ありません」
カイルは机へ歩いていった。
門番の男がギロリと睨む。酒臭かった。昼前だというのにもう飲んでいるらしい。
「あぁ? なんだてめぇ」
カイルは懐から羊皮紙を出した。
「王国中央監査院所属。特別監査官カイル・クロムウェルです。本日付でオウラム監査任務に着任しました」
門番は数秒黙ったあと、盛大に吹き出した。
「ははっ! 監査官!? こんな迷宮の入口まで来るのかよ!」
「帳簿を見せてください」
「は?」
「通行税の記録です」
門番の目が細くなる。
「……おいおい。赴任初日で喧嘩売ってんのか?」
「業務です」
淡々とした声だった。
それが逆に、門番の苛立ちを煽った。
「チッ……」
乱暴に帳簿が投げられる。
湿った革表紙。油と汗の臭い。カイルはページを開き、静かに指を走らせた。
横でミーシャが息を呑む。
「は、早……」
数字を見ているというより、流れを読んでいるようだった。
カイルの瞳の奥で、淡い青白い光が瞬く。
魔力の流れ。
貨幣移動。
記録改竄。
因果の歪み。
それらが一本の線になって繋がっていく。
カイルの脳裏に、透明な算盤が浮かび上がった。
【因果の算盤】
虚偽を積み重ねた者ほど、その数字は濁る。
「……なるほど」
「なんだよ」
カイルはページを閉じた。
「差額、銀貨四百二十七枚」
門番の顔が止まった。
「あ?」
「不足しています」
「な、何言って――」
「通行人数三百八十四名。徴収額との差異が発生しています」
カイルは机の下を見た。
「加えて、袖口内部に銀貨十三枚。椅子の裏に隠し袋が二つ。昨日分の未申告金貨が一枚」
門番の顔色が変わる。
ミーシャがぽかんと口を開けた。
「え……」
「利息込みで返還請求します」
静かな声だった。
だがその瞬間、空気が変わった。
カイルの背後に、青白い光の算盤が浮かび上がる。
珠が鳴った。
カチ、カチ、カチ。
「ひっ……!」
門番が後退る。
算盤から伸びた光が、門番の腰袋へ絡みついた。
「な、なんだこれ!?」
「監査執行です。不正資産を一時凍結します」
銀貨袋が光を放つ。
門番は慌てて掴もうとしたが、触れた瞬間、魔力が弾けた。
「ぐあっ!」
男が地面へ転がる。
周囲の冒険者たちがざわつき始めた。
「おい、なんだ?」
「監査官だってよ」
「マジか……」
カイルは周囲を見なかった。
「なお、過去三年分についても再監査を行います」
「ま、待て……!」
「逃亡の意思ありと判断した場合、憲兵へ通達します」
門番の唇が震える。
「ち、違う……俺だけじゃねえ……!」
「でしょうね」
カイルは即答した。
「この程度の横領額で終わる組織には見えません」
その言葉に、ミーシャが思わず顔を上げた。
雨が降り始める。
冷たい雫が石畳を叩き、迷宮都市を灰色に染めていく。
遠くで雷が鳴った。
門番は崩れるように座り込み、ぶつぶつと言い訳を始めた。
「し、仕方なかったんだ……給料だって安いし……上の奴らだって……」
「記録してください」
カイルが言う。
「え?」
「供述内容を」
「あ、は、はい!」
ミーシャが慌てて羊皮紙を取り出す。
その手は少し震えていた。
恐怖ではない。
興奮だった。
初めて見たのだ。
この街で。
権力者が。
数字で追い詰められる瞬間を。
カイルは空を見上げた。
灰色の雲。
王都と同じ色だった。
胸の奥に残っているのは疲労だけだ。怒りも希望も、もうずっと前に擦り切れている。
それでも。
この街の帳簿は、あまりにも汚かった。
「……働きたくないんですがね」
誰にも聞こえない声で呟く。
だが迷宮都市オウラムは、その程度で休ませてくれるほど優しい場所ではなかった。




