005 絶対に怒らせてはいけない人が、そこにいた
ソフィーさんと出会ってから二ヵ月。彼女も俺たちの通信にそれなりの頻度で参加するようになった。
王城から自由に出られない彼女にとって、俺との通信は『最高の娯楽』らしい。
初対面での大やらかしを経て、俺たちは三段飛ばしの勢いで距離を縮めていた。彼女の親友であるティオとの仲の良さが、警戒心を解いている最大の理由だろうけど。
最近では三人でアニメ鑑賞をすることも増えたが、彼女が少しお色気寄りの作品で鼻息を荒くしているのは、もはや公然の秘密だ。
本人はあくまで興味がないと言い張っているが、子供すら騙せないだろう。
そして今日。ソフィーさんは世話係の目を盗み、王族としての教育時間をバックレて研究室へやってきたらしい。
……それが、この絶望的な状況を招いている。
現在。俺の前にあるモニターには、かつてないほど重苦しい空気が漂っていた。
画面の向こう、ティオとソフィーさんが床で正座している。
そして二人の前に立ち、薄く開いた瞳で微笑んでいるのは、銀色の三つ編みが美しい、俺と同年齢程に見えるメイドさんだった。
たれ目気味の糸目で右に泣き黒子がある、おっとりとした癒やし系の雰囲気――だが、そこから噴出している威圧感は、もはやラスボス級だ。画面を隔てた俺ですら、呼吸するのを躊躇うほどの重圧。
それを正面から受けている二人は、顔を青くしながら震え、俯いている。
正直、モニターの電源を切って逃げ出したいが、少しでも動いたら命を取られそうな緊張感がある。
『ソフィーリア様。羽目を外しすぎなければ、自由時間は何をなさっても構いません。ですが、最低限の義務は果たしてくださいと何度も申し上げましたよね?』
メイドが微笑を浮かべたまま問いかける。
糸目の奥に覗く青い瞳は、超高温で燃える蒼炎の如き恐怖を放ち、言葉そのものが重力を発生させているかのような錯覚を引き起こしていた。
ソフィーさんは、局所地震でも起こったかのように震えている。
『そしてティオ様。研究室はもう少し片付けてくださるようお願いしたはずです。この間私が整理したばかりの貴重な資料や危険な薬品が、なぜ、もうこんなに散らかっているのですか?』
名前を呼ばれた瞬間、ティオの体がビクンと大きく跳ねる。
冷や汗をだらだらと流しており、まるでサウナに放り込まれたかのような有様だ。
『私は最低限の約束事さえ守っていただければ、特にうるさく言うことはいたしません。ただ、その最低限が守れないというのであれば、お二人が理解なさるまで『お話』をしなければなりません。……お分かりになりますよね?』
『『ひっ……! 本当に申し訳ありませんでした!!』』
声をシンクロさせて頭を下げる二人。土下座の勢いで謝罪を繰り返す。
メイドはそれを数秒間、無言で見つめていたが、やがて重圧を解いて軽いため息を吐いた。見つめていたのはほんの数秒だったが、彼女たちにとっては、その何十倍もの時間に感じられたはずだ。
『反省していただけるのなら、私からはこれ以上は申しません。ソフィーリア様は後日、追加課題を。ティオ様はこの後、お片付けを。私もお手伝いいたしますので』
『『……わかりました』』
またもやシンクロする二人。本当に仲がいい。
そしてようやく二人に生気が戻る――いや、まだ真っ白なままだな。
そんなことを考えながら背景に徹していたが、例のメイドがこちらへ向き直った。俺の番が来たらしい。
二人の惨状を見ていたせいで、自然と姿勢が正される。
緊張のあまり、自分が唾を飲み込む音さえ大きく聞こえた。
『お見苦しいところをぉ。初めましてぇ、ソフィーリア様付き侍従頭のマリアメア=シルヴァランスと申しますぅ。よろしくお願いいたしますねぇ』
「……は、はいぃ!?」
やばい、声が裏返った。
豹変、なんてレベルじゃない。今の彼女はどこからどう見ても、穏やかで慈愛に満ちたお姉さんだ。だが、あの『魔王の如き重圧』を知ってしまった以上、怖くてフレンドリーに話せる気がしない。
あまりの豹変ぶりに言葉を詰まらせていると、見かねたソフィーさんが助け舟を出してくれた。
『章介さん。マリアはこちらが普段の姿ですので、身構えずとも大丈夫ですよ。基本的に包容力のある性格ですので。…………怒らせない限りは』
最後に不吉な補足をボソッと付け加えた。
確かに穏やかに微笑むマリアメアさんは、聖母のような優しい包容力を感じる。……さっきまでの衝撃で、聖母の下に阿修羅の幻覚が見えるが。
俺は深呼吸をし、少し落ち着きを取り戻すと初対面の挨拶を返した。
「すみません、返事が遅れまして。武田章介といいます。そちらの二人とは通信を通して懇意にさせてもらっています」
『はい、章介様のことはソフィーリア様から伺っておりますぅ。お二人とも、章介様とのお話は新鮮で、とても楽しいとぉ』
「それなら良かったです。……ただ、あの、俺との通信のせいで、ソフィーさんに教育事をサボらせてしまったようで、すみませんでした」
『いいえぇ、それに関しては章介様に非はありませんのでぇ。ソフィーリア様は子供の頃から脱走癖がありますからぁ。……時々、暴走して奔放になられると申しますかぁ……』
どうやら彼女は常習犯だったらしい。その『時々暴走』とやらの想像も容易につくが、サボりはよろしくない。俺は一言、釘を刺した。
「ソフィーさん、サボりはダメだよ? あまりマリアメアさんに迷惑をかけないように。俺も空いてる時間なら可能な限り付き合うから」
『何をおっしゃるんですか! 【お色気☆ハプニング】の最新話が今日配信なんですよ!? 私は王女として見聞を広めるために、至急視聴しなければならないのです! 決して、やましい気持ちはありません!』
クソみたいな理由で即答された。
ちなみにそのアニメは、ラッキースケベ体質な主人公が学園生活の中で女の子たちとムフフなハプニングに巻き込まれるエロコメだ。
ラッキースケベ満載のエロコメを、王族の教育より優先したのかこの王女。一体どこに見聞を広めるつもりだ。
呆れていると、不意に背筋へ冷たいものが走った。野生の虎が目の前にいるかのような威圧感だ。
『ソフィーリア様ぁ? もしや、反省していらっしゃらないのでぇ?』
『ひゅぃっ!?』
(何やってんだよ王女様! 声が裏返って変な鳴き声になってるぞ!)
再び膨れ上がる重圧に心の中でクレームを入れる。
すると、いつの間にか気配を消して寄ってきたティオが、画面の端で小声で囁いた。
『章介さん……マリア姉は、怒ると魔王より怖いんだよね……』
「怖いにも程があるだろ。画面越しで、しかも直接怒気を向けられていない俺ですら冷や汗が止まらないんだが? 逆鱗がどこにあるか分からなくて、怖くて会話できないぞ」
『さっきソフィーも言ってたけど、普段は優しくて包容力のある性格だから大丈夫。私たち以外を怒っている姿なんて、まず見たことないし』
「……ちなみに、二人は何でそこまで怒られたんだ?」
『えーと、今回で言えば……ソフィーは教育をバックレるために王城の三階の窓から脱走したでしょ? 私は、以前研究室を半壊させた薬品なんかを散らかしたままだったから。それを頻繁にやらかしてる感じかな』
「そりゃ怒られるだろ! アホかお前ら!」
小声でツッコむが、この二人、問題児すぎる。そりゃあ温厚なマリアメアさんだってキレるはずだ。
というか、毎回あの恐怖を味わいながら何度も繰り返すこいつらのメンタルはどうなっているんだ。きっと心臓がチタン合金で出来ているに違いない。
『いや、確かに毎回、死を覚悟するくらいの恐怖は感じるんだよ? でも、普段はすっごく優しくて姉みたいっていうか……母性が溢れているから、つい甘えちゃうんだよね。ほら、マリア姉って胸も母性が凄いでしょ?』
そう言って、手で胸の前に山を作るジェスチャーをする。完全なセクハラだ。
「それに対して俺はどう答えればいいんだよ……。そんな話をして、あの人に怒られるのなんて絶対嫌だぞ」
『大丈夫、マリア姉はそのくらいじゃ怒ったりしないから。それに見分け方もあるし。糸目が開いて『青い瞳』がバッチリ見えたら、それは本当にヤバイ時。あとは『緩く伸びている語尾がキッチリ締まっている』かだね」
「…………」
『まず滅多にないことだけどね。ただ、そうなったら本当にヤバイよ』
「…………」
『その時はなるべく視線を合わせないようにして、すぐに土下座に移れる準備をしておかないと……』
「…………」
ティオが懸命にマリアメアさんの扱いを解説してくれている。
だが、俺は先ほどから相槌を打てていない。恐怖で喉が引き攣っているからだ。
なあ、ティオ。お前のすぐ後ろで、その青い瞳が爛々と輝いているんだが。
俺の異変に気づかず喋り続けるティオの背後から、魔王の声が響く。
『ティオ様。どうやら片付けの手が止まっていらっしゃるようですが、いかがいたしました?』
『ひゅぃっ!?』
さすが親友、裏返った鳴き声までシンクロしている。
見る見るうちにティオの顔が青ざめていく。さながら、死神の鎌を首筋に添えられている気分だろう。
片付けの手が止まっていたのは事実だが、一応、俺のために状況を説明してくれていた側面もある。
正直声を出すのも恐ろしいが、弁護くらいはしてやりたい。
「あの……マリアメアさん。片付けの邪魔をしてすみません。ティオは、状況についていけていない俺に説明をしてくれていただけなんです。できれば今回は、穏便に済ませてもらえませんか……?」
『お気遣いありがとうございます。ですが、これはティオ様の普段の行いの延長ですので、章介様はお気になさらずに。……それと、私のことはマリアとお呼びください』
「は……はいっ、マ、マリアさんっ?」
薄く開いた目で微笑みかけられ、またもや声が裏返った。背中の冷や汗が止まらない。
俺の弁護で少し顔色が戻りかけたティオだったが、希望を即座に断たれ、再び絶望の表情でマリアさんに連行されていく。部屋の前にティオ本人が片付けられそうだ。
出荷される子牛を見送るような気分でいると、今度はソフィーさんがおぼつかない足取りでやってきた。顔色は青白く、満身創痍という言葉がふさわしい。
「ソフィーさん、大丈夫……? 正直、全く大丈夫そうには見えないけど、一応確認だけ」
『……ふ、ふふふ。ええ、心配ご無用です。慣れていますから。……少し平衡感覚がおかしくて、呼吸が苦しい程度ですので』
「それ、全然大丈夫じゃないからね?」
青白い顔で引きつった笑みを返される。どう聞いてもダメな状態だ。というか、これに慣れてしまうのはいかがなものか。いい加減学習した方がいい。
「ソフィーさん、今日はもう部屋に戻って休んだ方がいいよ。さすがに顔色が酷すぎる」
『いえ、通常であればそうしたいのですけれど……どうしても外せない、大事な用がありまして』
だが、ソフィーさんにはこの状態でも譲れない予定があるらしい。
自業自得とはいえ、この体調でこなせる用事なのだろうか?
『私はまだ……【お色気☆ハプニング】の最新話を、観ておりません』
「正気か?」
思わず突っ込んだ俺を、誰が責められるだろうか。鋼どころか、もはや未知の超合金レベルのメンタルだ。
確かにこれなら、マリアさんの説教を何度受けても懲りないわけだ。その不屈の精神(?)だけは、無条件で尊敬に値する。
だが、俺は心に誓った。絶対に、マリアさんだけは怒らせまい、と。
俺のメンタルと心臓は、どこまでも一般人並みなのだから。
異世界での三人目の友人、マリアメア。
彼女との出会いは、二人の友人の図太さと、メイドが見せた底知れぬ恐怖の記憶だった。
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