4話
「…………」
「…………ミリサ?」
タッパーを抱えたまま、ミリサはうつむいて微動だにしない。
部屋中に充満する、ごま油と豚の脂、そして味噌の甘い香り。魔王軍の粗末な配給食で限界まで削られていた彼女の胃袋が、キュルキュルと悲鳴にも似た音を鳴らし続けていた。
「……あの、ヴァルト」
「なんだ?」
「……一口だけ、毒見、してもいい……?」
上目遣いで、ミリサが懇願してくる。
その表情は、餌を前にお預けをくらった捨て犬のように不憫で、抗いがたい庇護欲をそそるものだった。
「駄目だ。お前の主が腹空かせて待ってんだろ。味が落ちる前にさっさと転移陣を開け」
「うぅっ……ケチ……勇者のケチ……!」
ミリサが涙目でぷくっと頬を膨らませる。
しかし、その目には完全に涙が浮かんでおり、今にも泣き出しそうだった。
……仕方ない。俺は小さくため息をつき、鍋底に残っていた一口分の豚汁を、木のスプーンですくい上げた。
「ほら」
「え?」
「味見だ。毒見じゃないからな。……口、開けろ」
俺は、熱々の豚汁が乗ったスプーンにフーフーと息を吹きかけて冷ますと、そのままミリサの口元へと差し出した。
「なっ……!?」
ミリサの顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。
(えっ、えっ!? ヴァルトが、私に……あ、あーん!? これって、そういうこと!? しかも、ヴァルトがさっき味見で使ってたスプーン……っ!!)
「どうした。食わないなら捨てるぞ」
「た、食べるっ!!」
パニックになったミリサは、目をギュッと瞑り、小さな口をあーんと大きく開けた。
俺はそこへ、優しくスプーンを運び入れる。
――こくり。
「…………ッ!!」
ミリサの大きな瞳が、限界まで見開かれた。
熱い汁と共に、舌の上で豚の脂の暴力的なまでの甘みが弾け飛ぶ。そこに、ごま油の香ばしさと、聖剣で抽出された極上の出汁の旨味が重なり合い、完璧なハーモニーとなって脳髄を直接殴りつけた。
「おいひぃ……っ!」
ミリサの目から、感動の大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「熱くて、甘くて……お肉がとろとろで……こんな美味しいもの、私、生まれて初めて食べた……っ!」
「大げさな奴だな。ほら、冷める前に早く行け」
俺がスプーンを引き抜くと、ミリサは名残惜しそうに唇をペロリと舐め、ボロボロの羊皮紙――魔王城直通の転移スクロールを取り出した。
「……ヴァルト」
「ん?」
「あのね、色々と……ありがと。ごちそうさまでしたっ!」
パッと花が咲くような最高の笑顔を残し、ミリサは魔法陣の光と共に、豚汁のタッパーごと姿を消した。
静寂の戻ったキッチン。
俺は残った鍋の底を見つめ、小さく笑みをこぼした。
◆
同じ頃。
魔王城・玉座の間。
暗雲渦巻く漆黒の広間で、覇王ヴォルゼウスは空のお椀を撫でながら、静かに、しかし限界の腹を鳴らしていた。
世界を滅ぼす魔力を持つ覇王が、今はただ、ひたすらに夕飯を待っている。
ポンッ。
間抜けな音と共に、空間が歪み、ミリサが転がり出た。
「も、申し訳ありませんヴォルゼウス様! 大変長らくお待たせいたしました!」
「構わぬ。それより……そのタッパーから漏れ出ている、抗いがたい香りは……」
ミリサが蓋を開け、漆黒の椀に熱々の豚汁を注ぎ、玉座へと差し出す。
立ち昇る湯気。
ごま油、豚肉、味噌、そして根菜の香り。
ヴォルゼウスは無言で椀を受け取り、一口すすった。
ズズッ。
静寂。
魔王城を支配する、重苦しいまでの沈黙。
ミリサが(味が薄かったのかな……)と青ざめかけた、その時――。
ポツリ。
ヴォルゼウスの赤い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……うまい」
覇王の低く重い声が、震えていた。
「なんという滋味深さ……。五臓六腑に染み渡る豚の脂、大地の力強さを感じる根菜……。これぞ、我々魔族が永きにわたり求め続けた、真の『豊穣の味』ではないか……!」
ヴォルゼウスは一気に豚汁を飲み干し、感涙にむせびながらミリサを見下ろした。
「ミリサよ。貴様……ついに料理の真髄を掴んだか。この料理、一体誰の教えを受けたのだ?」
「えっ」
ミリサは一瞬、言葉に詰まった。
『人間の勇者に作ってもらいました』などと言えば、その場で首が飛ぶかもしれない。
だが、あの極小キッチンで、フリルのエプロンを着て自分のために「あーん」をしてくれたヴァルトの横顔が、脳裏に鮮明にフラッシュバックする。
「あ、あの……」
ミリサは顔を真っ赤にして、モジモジと指を絡ませながら、つい口走ってしまった。
「……私の、専属の料理人……ですっ」
「おお! ならば明日から貴様を――魔王軍第一厨房長に任命する! その専属料理人とやらと共に、我が軍の胃袋を満たしてくれ!」
「……ええっ!?」
王都の片隅から届けられた一杯の豚汁と、少女の小さな嘘が。
この後、魔王軍の組織図と予算を狂わせ、世界を巻き込む『終わりの始まり』を引き起こすことになろうとは、この時はまだ誰も知る由もなかった。




