5話
翌日の夕暮れ時。
俺は六畳一間のワンルームで、聖剣の刀身を専用のクロスで丁寧に磨き上げていた。
戦士にとって武器の手入れは命を繋ぐ神聖な儀式だ。……まあ、昨夜こびりついた豚の脂とごま油の匂いを落としているだけなんだが。
「よし、ピカピカだ。これでいつでもネギが切れる」
俺が満足げに頷いた、その時だった。
ドンドンドンドンドンッ!!
「ヴァルトぉぉぉ! 開けてぇぇぇ! 助けてぇぇぇ!」
アパートの薄いドアが粉砕されんばかりの勢いで叩かれ、聞き覚えのある少女の悲鳴が響き渡った。
俺がため息交じりに鍵を開けるなり、黒いマントの少女――魔王軍のミリサが、文字通り部屋の中へ転がり込んできた。
「おいおい、近所迷惑だぞ。……って、お前」
俺は足元で涙目になっているミリサを見下ろし、目を丸くした。
昨日のくたびれた平服とは違う。漆黒の生地をベースに、豪奢な金糸の刺繍が施され、胸元にはやけに可愛らしいフリルがあしらわれた、真新しいエプロンドレスを着ていたのだ。
「……なんか、昨日よりエプロンが立派になってないか? 似合ってるけど」
「ひゃっ……!」
俺が何気なく口にした言葉に、ミリサの顔がボンッ!と音を立てて真っ赤に染まった。
(な、似合ってるって……! いきなり何を言うのよこの勇者は!)
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないの! 処刑されちゃうぅぅぅ!」
「落ち着け。とりあえず座れ。麦茶でいいか?」
俺はパニックになっている彼女をちゃぶ台の前に座らせ、よく冷えた麦茶をグラスに注いで手渡した。
ミリサは両手でグラスを受け取り、コクコクと小動物のように喉を鳴らして飲み干す。少しだけ落ち着きを取り戻した彼女は、ずんっ、と重いため息をついた。
「私ね……魔王軍の『第一厨房長』になっちゃったの」
「……はあ?」
「昨日の豚汁で、魔王様が感動して泣いちゃって……。誰が作ったのかって聞かれたから、とっさに『私の専属の料理人です』って嘘ついちゃったの……っ!」
ミリサがポロポロと涙をこぼし始める。
なるほど。見栄を張った結果、自分を料理の天才だと勘違いされたわけか。
「別にいいだろ。時給八百五十円の非常勤から、幹部クラスへの大出世じゃないか」
「よくないよ! 期待値が上がりすぎて、魔王様から無茶振りされたんだから!」
ミリサはすがりつくように、俺のジャージの裾をギュッと握りしめた。
「魔王様がね、『厨房長よ、余は人間の書物で読んだ幻の肉料理が食べたい』って言い出したの! 『はん・ばーぐ』って言うらしいんだけど……」
「ハンバーグ?」
「そう! 『ナイフを入れた瞬間、肉汁がナイアガラの滝のように溢れ出す茶色い肉塊』だって! ナイアガラってどこの領地!? 私、肉を真っ黒に焦がすことしかできないのに! 今日中に作らないと、嘘がバレて地下牢行きだよぉぉっ!」
わぁぁん、と泣き崩れ、俺の膝に顔を埋めるミリサ。
その柔らかな銀髪から、微かに甘い香りが漂ってくる。
俺は額を押さえた。覇王のくせに随分と庶民的な幻に憧れているらしい。
しかし、敵軍のメニュー開発まで勇者の俺がやる義理は――
「お願い、ヴァルト……!」
ミリサが、潤んだアメジストの瞳で俺を見上げた。
恐怖と不安で震える華奢な肩。昨日、必死に特売のネギを守ろうとしていた不憫で健気な姿が脳裏をよぎる。
(……実家が定食屋だと、こういう『腹を空かせた奴』とか『料理で困ってる奴』を無下にできないんだよな……)
俺は深く、長いため息をついた。
「……泣くな」
俺はミリサの頭に手を置き、ポンポンと優しく撫でた。
ジャージの裾を掴んでいた彼女の手をそっと握り、立ち上がらせる。
「えっ……」
「お前の『専属料理人』なんだろ、俺は。雇い主が処刑されるのを黙って見てるほど、薄情じゃない」
俺がふっと笑いかけると、ミリサの瞳から涙がピタリと止まり、代わりに顔全体が限界突破したように朱に染まった。
(せ、専属料理人って……自分で認めてくれた……っ! だめ、心臓が爆発しそう……!)
「ハンバーグは豚汁より手間がかかる。極上の肉汁を閉じ込めるには、特別な肉が必要だ」
「と、特別な肉……! やっぱり、魔界のドラゴンとか……!?」
「スーパーサトーの『牛豚合い挽き肉(特売)』だ。さっさと行くぞ。タイムセールが始まる」
俺は腰のフリルエプロンの紐を締め直し、真っ赤になって固まっているミリサの手を引いて、夕闇の王都へと駆け出した。




