3話
「お邪魔、します……」
ミリサが、ガチガチに緊張した声で王都の片隅にある古びたアパートのドアをくぐった。
魔王軍の過酷な兵舎しか知らない彼女にとって、ここは未知の領域――人間の、それも『男の部屋』への初めての侵入である。
「適当に座ってろ。今、火を入れる」
俺はミリサの抱えていたスーパーサトーのレジ袋を受け取り、玄関先の極小キッチンへと向かった。
六畳一間のワンルーム。家具は小さなちゃぶ台と万年床の布団しかないが、キッチン周りだけは異常なほどピカピカに磨き上げられ、大小様々な調理器具が整然と並んでいる。
ミリサはちゃぶ台の前に正座し、キョロキョロと部屋を見回した。
(勇者の部屋……もっと武器とか地図とか転がってるのかと思ったら、すっごく生活感ある……)
ガチャリ。
俺が重々しい音を立てて勇者の証である『白銀の胸当て』を外し、床に置いた。
ミリサの肩がビクッと跳ねる。
「……あれ? ヴァルト、鎧脱いじゃうの?」
「料理するのに鎧なんて着てたら邪魔だろ。匂いもつくしな」
俺はインナーの黒いシャツ姿になると、壁のフックから『淡いピンク色の、少しフリルのついたエプロン』を手に取り、慣れた手つきで首と腰の紐を結んだ。
「…………っ!」
その姿を見た瞬間、ミリサの頭の中で何かがショートした。
戦場では死神のように恐ろしい勇者が、今、自分のため(魔王のためだが)にエプロン姿になり、袖をまくって前腕の筋肉を覗かせている。
その圧倒的な『家庭的な隙』と、隠しきれない雄としての色気のギャップに、ミリサの顔からプシューッと湯気が上がった。
「ど、どうした? 顔赤いぞ」
「な、なんでもないっ! 暖房が効きすぎてるだけ!」
動揺を隠すように、ミリサはキッチンへと立ち上がった。
「わ、私も手伝う! こんにゃく切るね!」
彼女はまな板の上のこんにゃくに手を伸ばし、見様見真似で包丁を握る。
だが、時給八百五十円の補助業務(主に皿洗いと買い出し)しかしてこなかった彼女の手つきは、見ていて恐ろしいほど危なっかしい。
「……ミリサ。そのまま切ったら、指が飛ぶぞ」
「えっ?」
俺はため息をつき、ミリサの背後に回った。
そして、彼女の小さな両手を、俺の大きな手で外側からすっぽりと包み込んだ。
「ひゃうっ……!?」
ミリサが変な声を上げる。
俺の胸板がミリサの背中に触れそうになる、ゼロ距離の密着。俺の鼻先で、彼女の銀髪から甘い石鹸のような香りがした。
「左手は猫の手だ。力を抜いて、刃の重みを利用して引くように切る。……いや、そもそも豚汁のこんにゃくは、包丁で綺麗に四角く切るもんじゃないな」
俺はミリサの手を優しくほどき、包丁を置かせた。
そして、こんにゃくを素手で掴み、ちぎり始めた。
「いいか。こうやって手で不規則にちぎることで、表面積が増える。そこに旨味たっぷりの汁が染み込むんだ。見た目より、味がどう入るかを優先しろ」
「あ、う、うん……表面積……」
ミリサの返事は上の空だった。
背中から伝わってきた勇者の体温と、耳元で低く響いた声の余韻で、頭が完全にフリーズしているのだ。
「よし、具材の準備は終わりだ。火を入れるぞ」
俺はフライパンにごま油をたっぷり引き、火にかけた。
そして、買ってきたばかりの豚バラ肉を投入する。
――ジュワァァァァァァッ!!
狭いワンルームに、暴力的なまでの焼き音が炸裂した。
ごま油の芳醇な香りと、豚の脂が熱で溶け出し、アミノ酸が焦げる甘く香ばしい匂いが一気に部屋中を蹂躙し始める。
「あっ……!」
ミリサがお腹を押さえ、その場にうずくまった。
魔王軍の粗末な配給食で限界まで飢えていた彼女の胃袋が、この暴力的な匂いの前に完全に悲鳴を上げている。
ぐきゅるるるるるるるっ……!!
「ひゃああっ! な、鳴ってない! 今のは魔王軍の軍用犬の遠吠えだから!」
「無理すんな。豚バラの焼ける匂いは、空腹の理性を破壊するからな」
俺はニヤリと笑い、さらにごぼうとこんにゃくを投入して炒め合わせる。
鍋の中で具材が踊るたびに、旨味の爆弾のような匂いが換気扇の吸引力を無視して部屋を満たしていく。
「水を入れるぞ。本当ならここで一晩寝かせた昆布出汁を使いたいところだが……時間がない」
俺は腰の鞘から、再び聖剣を抜いた。
「聖刃・水衝破抽」
剣先を水面に触れさせ、水分子にキャビテーションを発生させる。
昆布と鰹節の細胞壁を瞬時に破壊し、旨味だけを極限まで抽出した黄金色の出汁が完成した。それを鍋に注ぎ込み、最後に味噌をお玉で溶き入れる。
ふわりと立ち上る、大豆の優しい香りと、重厚な豚の脂の匂い。
「……うわぁ……」
ミリサの目が、完全に鍋に釘付けになっていた。
唾液を飲み込む音が、静かなキッチンに響く。
「よし、完成だ。冷めないうちに魔王のところへ持って行け」
俺は魔王専用のタッパーに豚汁を注ぎ、ミリサに手渡した。
しかし、彼女はタッパーを受け取ったまま、動こうとしない。
その大きなアメジストの瞳には、抗いがたい食欲と、何かを期待するような切実な光が宿っていた。




