2話
王都最大の庶民派スーパー『サトー』。
夜八時を回った店内は、「タイムセール・半額」という赤いポップが乱舞し、主婦や仕事帰りの労働者たちが血眼になって獲物を狙う、まさに戦場と化していた。
「きゃっ……! ちょっと、押さないでよぉ!」
屈強な王都のオバチャンたちの波に飲まれそうになり、ミリサが悲鳴を上げる。
俺は舌打ちをし、人混みに流されかけていた彼女の細い腕をぐいっと引き寄せた。
「危ねえな。はぐれたら面倒だ。俺の背中から離れるな」
「あっ……う、うん」
ヴァルトの胸元にすっぽりと収まる形になったミリサが、顔を真っ赤にして俯く。
鎧越しでも伝わる俺の体温と、男らしい強引な引き寄せに、彼女の心臓が早鐘を打った。魔王軍の過酷な労働環境にしか身を置いてこなかった彼女にとって、こうした『異性からの無自覚な庇護』は刺激が強すぎるらしい。
「行くぞ。野菜コーナーの生き残りを狩る」
「は、はいっ!」
俺が人混みをかき分けて進むと、その威圧感(と勇者のオーラ)に気圧された客たちが、モーセの十戒のごとく道を空けていく。
やがて、冷気が漂う野菜コーナーの最奥。
スッカラカンになった棚の隅に、青々とした美しい『特選・泥付き長ネギ』が一本だけ残っているのを発見した。
「あった! 最後の一本!」
ミリサが歓喜の声を上げ、華奢な手を伸ばした。
だが――その瞬間。
「…………」
「…………」
ミリサが掴んだネギの根元側を、横からスッと伸びてきた『しわくちゃの小さな手』が、万力のような力でガシッと掴んでいた。
「ダ、ダリア婆さん……!」
「世知辛いねえ、ミリサ。若者が年寄りのネギを力ずくで奪うなんて」
そこに立っていたのは、腰の曲がった小柄な老婆だった。
色あせた清掃員の制服を着ているが、その瞳の奥には、尋常ではない歴戦の凄みが宿っている。
(……なんだ、この婆さん)
俺の背筋に、勇者としての本能的な悪寒が走った。
ただの老婆ではない。その華奢な体の奥底に、まるで底なしの深淵のような、規格外の魔力がとぐろを巻いているのがわかる。
――彼女の正体は、先々代の魔王『絶望のダリア』。
かつて大陸の半分を掌握し、勇者たちを絶望のどん底に叩き落とした伝説の存在である。しかし今はその身分を完全に隠蔽し、ただの清掃員として王都で気ままな隠居生活(と特売巡り)を楽しんでいるのだった。
「譲ってよぉ! 魔王様の豚汁に絶対必要なの!」
「駄目さね。ヴォルゼウス様(※ダリアから見れば可愛い孫)は、ネギをたっぷり乗せた湯豆腐が好きなのよ。婆が美味いもんを作ってやらんとね」
ネギを引っ張り合う二人。
ミリサも魔族の端くれ、それなりに腕力はあるはずだが、ダリア婆さんの手は微動だにしない。
「ミリサ、無理に引くな。ネギが潰れてエグみが出る」
俺は二人の間に割って入り、ダリア婆さんを見下ろした。
「婆さん、アンタただ者じゃないな。その握力、魔力強化のレベルを超えてるぞ」
「おや、なんの事やら。婆はただの勤続五年のパートさね。時給は九百円」
「ミリサより高いじゃねえか!」
ミリサが涙目で抗議するが、ダリア婆さんはふふっと不敵に笑う。
「さあ、どうする気だい? 力任せに奪えば、このネギは無残にちぎれるよ」
ダリアの瞳が、一瞬だけかつての『絶対的支配者』の光を帯びる。
だが、俺は落ち着いて腰の聖剣を抜いた。
「どうもしないさ。婆さんもミリサも、腹を空かせた誰かのためにこれが必要なんだろ? なら――シェアすればいい」
俺はネギを宙に軽く放り投げた。
「――聖刃・分子断裂!」
一閃。
スーパーの蛍光灯の下で、青白い神速の軌跡が宙を描く。
細胞を一切潰さず、分子間の結合だけを極限の刃で断ち切る究極の斬撃。ネギは、水分を一滴も逃すことなく、完璧な断面で『白い根元』と『青い葉』の二つに分断された。
俺は白い根元の方をキャッチし、ダリア婆さんの手へそっと乗せた。
「白い根元は、加熱すると甘みが出る。湯豆腐にはこっちが最適だ。青い部分は香りが強いから、豚汁の臭み消しに俺たちがもらう」
「……見事な剣筋だよ。譲ってやるさね」
ダリアが満足げに頷いた時。俺はふと、彼女の腰を庇うような姿勢が気になった。
「婆さん。今夜は冷え込む。冷えは腰にくるから、その湯豆腐でしっかり体を温めて、無理せず休んでくれよ」
俺はダリアの肩の埃を軽く払い、彼女の目線に合わせてしゃがみ込み、ふっと優しく微笑みかけた。
「…………ッ」
その瞬間。
かつて世界を震え上がらせ、ここ五百年ほど男の笑顔などに見向きもしていなかった先々代魔王の胸の奥底で、「ドキンッ」と乙女のような大きな音が鳴った。
(な、なんだいこの若者は……! この婆を気遣うなんて……それに、なんて真っ直ぐで色気のある目……!)
ダリアのしわくちゃの頬が、ポッと朱色に染まる。
「そ、そうかい。あんたも……風邪など引かないようにな」
「ああ、ありがとう」
ダリアはネギを胸に抱きしめ、逃げるように小刻みな足取りでレジへと向かっていった。
(……恐ろしい勇者がいたものさね。剣ではなく、あの包容力でこの婆の心臓を止めにかかるとは……罪な男だよ)
一方、そのやり取りを横で見ていたミリサは、青いネギを抱きしめたまま、少しだけ唇を尖らせていた。
「……ねえ。なんであの婆さんまであんなにメロメロにしてるのよ」
「ん? 年寄りを労るのは普通だろ」
俺はミリサの頭にポンッと手を乗せ、クシャッと彼女の銀髪を撫でた。
「ほら、こっちも目的のネギは手に入れた。精肉コーナーで豚バラ肉を回収したら、帰って豚汁の支度だ」
「ひゃっ……!」
頭を撫でられたミリサは、自分の顔が一気に熱湯のように熱くなるのを感じた。
(だめ、だめだめ……っ! 敵の勇者なのに……なんでこんなに、優しいの……っ!)
夜の冷気が二人を包む。
半額シールが貼られた豚バラ肉を無事に回収し、俺たちは肩を並べて、極小キッチンのあるアパートへと足早に帰っていくのだった。




