32.婚約の契約(2)
——どれくらい、経っただろうか。
アルフレッド様に包まれて、彼の鼓動や匂いにクラクラしそうだ。
( ……ど、どうしよう……動くに、動けない…… )
離れないといけないと分かってはいるのに俺の中のディルクも、俺も……あんなに枕をびっちゃびちゃにして泣き腫らして気持ちを切り替えようと頑張っていたのに、アルフレッド様の鼓動や体温を感じると胸が切なくて、悲鳴を上げている。
この方は本当に罪な方だ。心はセシル様に向かっていらっしゃる筈なのに、正式に婚約者になる予定の俺がアルフレッド様に心を寄せているのを知っていて、そんな俺に同情して優しくしてくれているだけなのだ。ただ、それだけだって分かっているのに。
そして俺も大概の大馬鹿者なのだ。そんな中途半端な優しさなんか必要ありません!って彼にハッキリ言えればいいのに。
中途半端な優しさでも、与えてくれる温かさや匂いに……嬉しさが込み上げるのを感じている。
( 抱きしめられている今が、すごく、嬉しい……このまま、こうしていたい…… )
「——婚約の契約の前だぞ?君たちはまだ正式な婚約者ではない。そんな関係なのに……大事な我が息子にベタベタしすぎじゃあないかな?ローゼンフェスト公爵令息」
地響きの様に低く蠢く声を後ろから発したのは、俺の父上であるロウエン・ヴァーミリオン伯爵だった。
ニッコリしているその表情とは裏腹に父上の周りには暗黒のオーラが漂いまくっている。
「ちっ!父上!ア、アルフレッド様!あの、さすがに父上の前でこの状態は……!は、離して……!えええ、ビ、ビクともしない……っ!」
「——ディル?三日。三日だ。三日も……私は、お預けを食らっていたんだぞ?……離すわけ、ないだろう?——伯爵様、申し訳ありませんが約束のお時間まで、まだ……かなりあるかと。私はディル不足なのです。三日もこの子に触れられなかった。今、ディルを補充しているところですし、まだまだこれ以上にしたいことがある。お時間まではどうか、この部屋に入らずお待ち願いたい」
「へっ?!」
「……ああ、ディル……?真っ赤になった君を見るのは三日ぶりだな……ふふ。私の行動で頬を紅潮させる君が、堪らない……三日前の続きを……」
「ローゼンフェスト公爵令息……、そこまでだ。ディルクは大事な大事な一人息子でね。デビュタントからの帰り道、この子に婚約の打診を依頼された時はどこの馬の骨かと頭に血が昇りそうなのを必死に堪えて……相手を聞いたら君だというじゃあないか。堅実で誠実だと貴族社会でも有名なラインハルトとマリアベルの子である君だからこそ、私もイヤイヤだが許諾をしたのだ。こんなに可愛くて可憐で頭脳明晰な可愛いディルクを目の前にしてもすぐには手を出さまいと踏んで……それが、どうだ。君もディルクの前では……ただの年頃の狼ではないか」
「ち、父上……?もうすぐ18歳になる俺を、可愛いとはさすがに……しかも2回も」
「何を言うかディルク。君のその可愛さ可憐さ美しさは貴族令息の中でもトップクラスだ。君の見目はシルヴィそのもの。可愛いに決まっているし大事なことだから最低2回は言うだろう。2回でも足りないくらいだ」
さすが、母上にぞっこんな父上なだけはある。俺の見た目は完全に母上譲り。母上の学生の頃のようだと何度も当時の母上の写真を父上に見せられたことか。まあ確かに似ている。双子と言っても過言ではないくらいに。
父上は、その剣だこが沢山出来たゴツゴツした逞しい手を俺とアルフレッド様の間に入れてベリッと引き剥がすと、俺を抱き上げて「ディルク?いい子だから、そっちのソファに腰掛けなさい」と促した。俺はこの状態の父上は初めて見るため、下手に逆らってはいけないと危機察知能力が発動し、コクコク頷きながら、サッとソファに腰掛ける。俺が座ったのを見計らうと目の前のアルフレッド様に視線を戻して話を続けた。
「ローゼンフェスト公爵令息。私は、不誠実な男は嫌いでね。……正式に婚約をしていない身でディルクに手を出そうとする不届き物には、婚約なぞ……!」
「ロウエーン。そこまで。落ち着いて。大人げないわよ」
「はっ!母上!」
「っ、シルヴィ……!しかしだな……!」
ズモモモ……と怒り狂っていた父上を止めに入ったのは俺の母上であるシルヴィア・ヴァーミリオン伯爵夫人だった。
母上は、アルフレッド様に突っかかろうとした父上の頭部をペシンとはたいて「アルフレッド、ごめんなさいね。この人、ディルクの事になると頭に血が昇りやすくて」と言いながら俺の横のソファに腰掛けた。
父上は惚れた弱みからか、母上には全く頭が上がらない。まあ、母上の考えや姿勢が正しいものだというのが一番の理由なのだろうなと思う。
母上は扇子をバッと広げて、口元を隠しながらニコニコ微笑んで言葉を続けた。
「——でもね。アルフレッド。ロウエンの気持ちも、正直分かるの。ディルクは私達の大事な大事な宝物だから。この子が悲しんだり、辛い思いをしているのを見るのは……とても辛いわ」
「……勿論……承知して、おります」
「——そう?分かっているならいいの。じゃあ、約束してほしい。ディルクをこれ以上——絶対に悲しませないで」
母上のその台詞で、俺のこの三日間の生活を両親にいたく心配させてしまった事に気付かされて。
客間の入り口にいるテスターを見遣ると、眉をハの字にして困ったように微笑まれてしまった。
テスターは何も悪くないのに、そんな表情をさせてしまったことが何だか申し訳なかった。
アルフレッド様は「承知いたしました」とだけ母上に告げた。きっと思うところは沢山あったんだろうけれど、今は強制力が働いていて抗えない状態だから……すみませんアルフレッド様。これも俺をざまぁするための大事なイベントなので、許してほしい。
「——では、少し早いけれど王宮へ参りましょうか」
母上のその言葉で、飛んでいた意識が戻って。
目の前に手を差し出してくださったアルフレッド様の令息振る舞いに甘えて、彼の手を取るとそこからアルフレッド様は俺の手を片時も離してくださらなかったのだった。




