29.特別な想い出
どれくらいの時間だろうか。
気付いたら、あんなに溢れて止まらなかった雫は瞳から零れるのをやめていた。
俺の耳にはトクン、トクンと彼の鼓動が優しく響いて……俺はその音を聞きながら、彼の体温に包まれている現実に安心感を覚えていた。
( アルフレッド様の鼓動も体温も……すごく、安心、する )
どんな夢だったかは全く覚えていないけれど、心にぽっかりと穴が空いた様な虚無感と息苦しさだけが感覚として残っていた。魘されていたらしい俺を、きっと助けるために必死に起こしてくれたアルフレッド様のあの表情を思い出してじわじわと胸に暖かさが宿る。
( ——すごく、ディルクのこと心配してくれてた。ディルクは勿論だけど……俺も。すごく、嬉しい。ちゃんと、お礼……言わなきゃ )
ガチガチにキツく抱きしめられていて、ちょっとやそっとの力じゃ動けなくて。顔を見てお礼を言いたくて「……あの、アルフレッド、様」と俺が口を開くと、アルフレッド様の俺を包む力が緩くなった。
自分から声を掛けたのに、アルフレッド様が俺から少し離れてしまったことが、何だか寂しくて。気持ちがぐちゃぐちゃで自分でも自分じゃないみたいだ。
でもその寂しさはきっと、見えない底なし沼に飲み込まれる恐怖から、真っ先に俺のことを救ってくれたのがこの方だったからだろう。
今、ディルクだけじゃなくて、俺も……アルフレッド様の存在が少し眩しく見えているのをヒシヒシと感じている。それが今一瞬だけの、一時の気の迷いなのか……それとも積み重なって大きくなっていく気持ちなのかは、今はまだどっちなのかも分からない。
それでも、今この瞬間だけは。目の前の彼が俺から距離を取ろうとするその事が切なくて苦しいのだ。
離れてほしくないと、心が叫んでいる。
胸が、痛い。とても……悲しい。
「っ、貴方と……離れたく、ない……」
思わず、アルフレッド様に回していた腕に力を込めて、そんな台詞が自然と零れ落ちた。自分でも驚いている。そんな台詞、言うつもりなんて微塵もなかったのに。
まるで自分が自分じゃない様で……でも、その台詞を訂正する気にもなれなくて、腕の力のままに彼の身体に身を寄せると「ディル、君の顔を、私に……見せて」と言われて。彼に言われるがままに、声のする方へ顔を向けると彼の口唇の熱が、俺の頬にゆっくりと落ちた。何度されても慣れない行為に頬に熱が集まるのを感じて、息を詰まらせていると俺のおでこに——彼はおでこを、重ねた。
「——ディル……?私はこの先、生涯命が尽きるまで君から離れることなど一切考えていない。例え君がどれだけ私から離れようとしたとしても、私は君を掴まえにいくから。……君の横が私の居場所だ。私は君と、ずっと共に」
「っ、……うわ、ど、しよ」
「……、ディル……?」
「俺、今……心臓、痛い。——ギュゥって、する」
「——奇遇だな。私も……とても、胸が苦しい」
そう言って、アルフレッド様はゆっくりと俺のおでこに、頬に、瞼に、耳に、鼻に——口唇の熱を落としていく。そのどれも、嫌じゃない。寧ろ、嬉しいと感じている自分がいるのだ。もっと……もっと、彼の熱を感じたい。
「——アルフレッド、さま」
「……ディル……」
ゆっくりと彼の右手の親指の腹が俺の下唇をなぞる。アルフレッド様が切ない表情で「重なることを……赦して、ほしい」と懇願する様に胸の苦しさが一層増した。
ディルクが望んでいるから、だけじゃなくて。俺も。
俺も——このどうしようもなく俺にだけ必死なこの方との特別が欲しくなってしまったのだ。
ゆっくりと首を縦に振って「俺も、今は……貴方と重なりたい……」と言いながら瞼を下ろすと「……っ、後悔は、させない」と聞こえた次の瞬間に。
ゆっくりと、アルフレッド様の口唇が俺の口唇に重なって……そして、ゆっくり離れた。
「……っ、ディル、ありがとう……堪らなく、嬉しい」
「ッ、はず、かし……っ、」
「——全然、足りない。もう一度、しても……?」
「……はい。今だけは、何度でも……ん、」
原作とは違い体調が悪かった俺がアルフレッド様に恋した様に、強制力が働いてセシル様と出逢って、きっと彼は必ずセシル様に恋をする。
でも、今は……どうかこの瞬間だけは。
『俺に必死に想いを伝えてくれるアルフレッド様』との特別な想い出を作らせて。
いつか夢から醒めた時、ちゃんと悪役令息を演じて、ふたりのことをいっぱい応援するから。




