2.推しに転生しちゃった
重い瞼をゆっくりと開ける。
身を預けている布地は滑らかで、身体は低反発素材で出来たマットに優しく包まれていた。今朝まで使っていたはずの寝具も確かにベッドではあったけれど、こんなにもフカフカだっただろうか。
( 今朝?あれ?俺、今……目が覚めているのに、今朝とは……どういうことだ?——俺、確か……トラックに、撥ねられて……その後、どうしたん、だっけ……? )
直近の記憶は今朝、いつもの様に目覚めて、朝食をたべながら妹と大好きなBL小説談義に花を咲かせた。いつもの流れ。
その小説の小冊子付きの新刊を予約していた書店から入荷連絡が入っていたから放課後、書店に寄ってから家に帰ると母親に告げて家を出た。
妹と通っている高校へ向かう途中、交差点で信号待ちをしていた時に、お迎えバスを待っているのであろう幼稚園児の男の子の帽子が強風に煽られて飛んでしまった。その子のお母さんは「危ないから行っちゃダメ」だとその子を制したけど、その子は「僕の帽子!」と言いながらお母さんの制止を振り払って帽子を取りに飛び出してしまった。
横断歩道の歩行者用の信号は青が点滅していて、その子が帽子を取った瞬間に……普段そこまで車が多くない場所なのに、その日に限ってトラックがすごい勢いで突っ込んできた。
この道は、大通りに向かうために近道として割と使われている、知る人ぞ知る短縮ルートで。あのスピードからみるに、トラックの運転手はきっと走り慣れていて、時間もそこそこヤバくて、きっと慌てていたんだろうけど。
車道側の信号は黄色から赤に変わるところだったのに、横断歩道の上で、帽子を取ってお母さんの元へ向かおうとした男の子目掛けて、そのトラックは突っ込んできたのだ。
気付いたら、身体が勝手に、動いていた。
「おにい……っ!」
妹の声が聞こえたけど、それどころじゃない。
何とかしてこの子を助けたくて、全速力で男の子の元へ行き、固まってるその子を抱えて勢いよく、お母さんたちの方へ放り投げて、瞬間。
目の前には、大きな、トラック。
( ——ああ。限定小冊子を、読みたい人生だった )
トラックがぶつかった衝撃で身体が宙を浮いてる間も、俺の頭の中は今日発売の『悪役令息である夫を断罪したのち、聖女の力を持つ健気な子爵令息と結ばれることになりました』の小冊子の事だけという腐れ具合に、自分でも可笑しくて笑いそうになった。身体はそれどころじゃなくて笑えなかったけど。
今日発売の新刊は、とうとう悪役令息の夫が断罪されて、セシル様と想いを通わせたアルフレッド様が結婚式をして初夜、というweb連載ではぶっちぎりの一位を獲得し、書籍化に合わせて加筆がてんこ盛りだとファンの中でも大盛り上がりの内容だった。
そして、限定小冊子はなんと。俺の推しで、悪役令息であるディルクの過去の話が収録されていたのに。
( ディルクの内面を知れるなんて……絶対面白いのになあ…… )
そんな事を思いながら、視界は空を仰いでいた。
そこから俺の記憶は、プツリと切れて。
気がついたら、今だ。
( 何が、どうなって……?痛みも、何もない。ていうか、肌、すっべすべ…… )
今朝までの少し浅黒い肌色が自分の肌色だった筈なのに。目の前の自分の手は、透き通った雪の様な美肌。
ゆっくりと起き上がってみると、朱色の長い髪が自分の動きと共に流れて。
( へ?なに、この赤い……髪の毛、俺の……?!え、ちょ、どういう、こと )
俺の髪は、黒色で少し栗毛掛かった純日本人色のはず。訳が分からず、ひとまずフカフカのベッドがら降りて鏡を探す。
辺りは全く見た事のない、西洋風の部屋で。今朝までは確かに洋部屋だった。だったけど、ここまで西洋臭くはなかったのに。
よく見たら、さっきまで寝ていたベッドには天蓋がついていて。こんなの、異世界モノでしか、みたこと。
—————— まさか。
部屋にある鏡台を見つけて、自分を見ると、そこには。
「……ッ!ディルク、ヴァーミリオン……っ!わっ!低海先生のイラスト、そのまんま!かわい……っ!」
透き通るような雪のような白い肌。朱い夕日のような長い髪と瞳。見た目は17歳くらいだろうか。本編のキャラクター紹介と挿絵で見た彼よりまだあどけなさが残るその造形にニマニマしてしまった。何故なら俺は、ざま婚でディルクが一番好きだったのだ。
大好きな絵師さんの手によって描かれた、初めて見るディルクが、目の前に、いた。
そして自分の身に起こった、この現実を飲み込むこと、コンマ1秒。オタクの俺は、順応性が高かった。
「転生、しちゃった……!ディルクに……!っ。やっべ。嬉し……!推し、めっちゃかわいーっ!」
読めなかった限定小冊子のディルクの過去。それを自ら体験できてしまうなんて。
どんなに辛くても、苦しくても受け止める。俺は、悪役令息を、まっとうすると心に誓った。グッと握り拳を両手で作って天井に突き上げて、言ってみたかったあの台詞を捩って宣言した。
「アルフレッド様とセシル様を倖せにするための駒に、俺は、なるっ!!!」
かの有名な海のギャングの王様になろうとしている彼のように、俺は鏡の前で高らかに宣言したのだった。




