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第一章 因果応報 前編

 チリリン、とどこか聞き覚えのある鈴の音が聞こえる。それがいつ聞いたものなのか、夢の中なのかさえ分からない。凛はいつの間にか真っ黒な空間に立っていた。目の前には何故か見事な桜の木が聳え立っていて、それをただ見上げている。辺りには桜の木以外の目立ったものはなく、この空間に終わりがあるのかさえ見えなかった。ふと目を瞑ると、タイミングを図ったかのように強く風が吹き抜けていく。それに応えるかのように桜の木が生きているようにざわめく。そんな風景が何故か酷く心を締め付ける。

 ――ああ、この風景を、いつ見たのだったか。

 何かに操られるかのようにゆっくりと桜の木の根元まで歩けば、優美な光景とは裏腹に更に風は強くなっていく。まるで何も見せまいとでも言いたげな様子に、批判の意志を込めて目を細める。そんなときに、声は聞こえた。

「いってらっしゃい」

 声は優しく、そしてどこか寂しげな音で囁く。

「――――いって、らっしゃい」

 噛みしめるような声と共に真っ黒な世界が一気に白んでいく。目映い光に目を凝らした先に誰かが立っていた。でも、その姿は吹き荒ぶ風に散っていく桜で掻き消されて見ることが叶わない。

 不意に誰かの温もりが、頬を掠って通り過ぎた。それは恐らく手のひらだった、と思う。焦って通り過ぎたそれに手を伸ばしたところで、指先は虚しく空を切るだけだった。

「――――(りん)

 酷く甘い囁きが直接頭に響いてくる。夜明けの微睡みにも似た、心地の良い音階だった。それこそどうして自分の名前を知っているのかなんて些細な問題だと感じる。

「…凛」

 しかしその音階は段々荒々しい協奏曲のように凛を現実へと引き連れていく。ぼんやりと滲んだ視界の中に見慣れた愛しい者の顔が見えて、思わず手を伸ばした。指先が彼の頬に触れた瞬間、その指に鋭い痛みが走る。

「凛。凛ってば! ねぇ、起きなよ! いつまで寝惚けてるんだよ!」

「痛っ…!」

 不機嫌な調子の声にようやく目を開くと、そこには弟の陸がこちらを見下ろしていた。心地よい微睡みを感じる間もなく陸に握りしめられた指先の痛みに喘ぐと、(りく)は悪戯っぽい笑みを浮かべて凛の手を遠くに放った。

「…ちょっと…陸? お姉ちゃんに対して随分乱暴じゃない」

「寝惚けるのが悪いんじゃない?」

 起こしただけ感謝して、とそっぽを向く陸の輪郭は成長期らしく鋭くなり始めているものの、表情にはまだ幼さが交じっている。その仕草には年相応の恥じらいが見えた。急にスキンシップをとられたのが恥ずかしいだけなのは丸分かりだった。現に手を放しはしたがすぐに部屋から出て行く様子はない。

「…なんかボソボソ寝言言ってたけど、夢でも見てたの?」

 陸はベッドを降りて、思い出すかのように呟く。その言葉でようやく凛は自分が夢を見ていたことを思い出した。しかし、何の夢だったかは思い出せない。いつものように炎の夢だった気もするが、今日は――。

「別に…思い出せないくらい取り留めのないものだと思うけど」

「ふうん…そう。じゃあ、何で泣いてるの?」

「えっ?」

 戸惑う凛を置き去りに、今度は陸がそっと頬に指を這わせる。何かを掬うような動きを見せその指先をこちらの眼前に突きつけた。その指には確かに滴が乗っていた。

「昔から思ってたけど凛って、夢見悪いよね」

「…そうかな?」

「そうだよ。一人で寝た夜はいっつもそう。未だに駄目なんだね。何なら今日は俺が一緒に寝てあげようか?」

 陸は意地悪そうな笑みを浮かべて、いつもの調子を取り戻した様子で堂々と凛のベッドに跨る。今度はこちらが呆れ顔になる番だった。こんなませたことをするようになっちゃって、昔はもっと可愛らしかったのに、と意識を明後日方向へ飛ばそうとして部屋の扉が乱暴に開けられる音に正気を取り戻した。その音に驚いて動きを止めた陸に対して、開けた張本人であるもう一人の弟である(りつ)は、厄介なものを見たとでも言たげな面倒臭そうな顔を隠しもしなかった。

「ちょっと、りっちゃんも陸もいつまでじゃれてるつもり? 遅刻すんの嫌だから俺はもう行くからね」

「あー、ごめん。俺も行くわ。じゃあな凛、俺はちゃあんと起こしたから」

「えっ、ちょっと待って、今何時!?」

 慌てて枕元にある目覚まし時計を見ると、時刻は七時半を指している。目覚ましを掛けたはずなのにどうして、と思ってよく見ると掛けたはずの目覚ましが明らかに勝手に止められていた。

「…ねぇ陸、本当にお姉ちゃんに何か言うことはないの?」

「目覚ましを止めたのは俺じゃなくて律だよ」

「鳴りっぱなしでうるさかったからね」

「あんたたちは…悪戯もいい加減にしなさい!」

 凛の大声に小さな子供のように笑い声を上げる二人の弟は相変わらずの調子だ。そしてその悪戯に容易く引っ掛かるのは結局姉である凛であって。笑顔の絶えない家庭です、と言ってしまえばそれまでだが、毎朝は戦いだった。これが東雲(しののめ)一家のいつもの恒例行事みたいなものなのである。そして、至って平凡な日常の一コマ。しかしそれがかけがえのないものだと知っているのは、家がちょっと特殊な環境にあるからである。――その切欠となるのが、とある夜の出来事だ。

 自分――東雲凛(しののめりん)は幼い頃に家と両親を火事で亡くした。端的に言うならば、そういうありきたりな話になる。だが正直あの悲惨な事件の後はあまり覚えていないのだ。思い出せるのは幼い弟たちの表情の抜けた人形のような姿と、あまりにも冷たい親戚と世間の態度だった。

 あのときの凛は、薄情な親戚中から疎まれて盥回しにされても何の感情も抱くことが出来なかった。火事で両親を失ったというのに、本当の薄情は親戚ではなく凛の方だ。それを気味悪がられたことも一度ではない。それでも何もなかったように笑っていることしか出来なかった。悲しくても辛くても生きている限り、弟たちがいる限り現実に悲観するわけにはいかない。お姉ちゃんなんだから弟たちをしっかり守りなさい、というのが母の口癖だったのだから。凛は、弟や自分の心を守ることだけで本当に精一杯だったのだ。

 結局引き取り手が決まって落ち着いたのは、火事が起こって四年ほど経ってからだ。それが、現在お世話になっている、母方の遠縁である清澄家だ。彼女が快く受け入れてくれたことには今でも感謝してもし尽せない。

 もう、いろんなことがありすぎて覚えていることは少ないけれど、凛にはその程度の過去の話だった。凛の記憶からはそれ以外のものが綺麗さっぱり押し出されて消えてしまった。弟たちも幼かったせいか両親が亡くなったことに現実味がないようで、今は悲しさを微塵も感じさせない。やはり薄情のように感じるが人間は慣れる生き物なのだ。そうでなければ、きっと心が死んでしまうだろうから。

「じゃあ行ってくるから! アンタたちも気を付けて!」

「ねえ待って、りっちゃん忘れ物!」

 突然の声に振り返ると、顔に衝撃が走った。反射的に意味不明な叫び声をあげると、遠くから弟たちのけらけら笑う声が聞こえてきた。べしゃり、と顔から剥がれ落ちたそれは、自分が今日持っていくはずであったジャージ入れだ。感謝するべきところなのだろう。けれど、勿論ちっとも素直に喜べるはずもなく凛は声を荒げた。

「律、人に物を投げないの! 他の人に当たったらどうすんの!」

「りっちゃん以外に当てないから安心しなよ! …ていうかそんなことより、それ持って行かなかったら今日こそめでたく生徒指導室行きじゃなかったっけ?」

 陸とは少し異なる落ち着いた律の声が妙に説得力のあるトーンで凛に真っ直ぐ突き刺さる。

「うっ…そ、それを言われるとなんとも…じゃなくて! 投げるのはやめなさいって話!」

 腰に手を当てて叫ぶと、二人は顔を見合わせてにしし、と同じ顔をして笑う。その片方の顔が意地悪げに口角を歪める。この陰湿そうなどや顔は陸だ。

「凛、早く行かないと電車行っちゃうよ? ただでさえ遅刻魔なのにいいのー?」

「わ、分かってるよ! じゃあ行ってきます!」

 凛は慌ててバタバタと走り出す。弟の言うとおり遅刻魔なのは事実だった。そして、忘れ物が多いのもまた事実。否定できないことが更に悲しい事実だった。姉としては面目丸つぶれでしかない。遠く家の方面からまた二人の笑い声が聞こえた気がして凛はもう、と頬を膨らませた。律も陸も、どうしてああ捻くれて育ってしまったのか。育て方が悪かったのかと嘆くしかない。因みに、凛をあだ名と呼んでいるのは双子の兄である律。呼び捨てをしているのが弟の陸だ。双子の特権であるユニゾンを存分に行使する悪戯ざかりの中学三年生で、二人揃ってバスケ部に所属している。どうやら毎日お互いに楽しく鎬を削りあっているらしい。そんな二人の青春を、姉としては本当に嬉しく思っている。

 そんな姉心に頭を悩ませつつも、走る速度を確実に速めていく。こう見えて黄金の足を持っていると自称しているのだ。因みに少女漫画みたいな脳内をしていないので、曲がり角では丁寧に歩いていく。これしき一般常識は弁えているつもりだ。けれどこの春爛漫の朝の風景を見ていると、いっそ少女漫画のような甘酸っぱい物語があってもいいじゃないかと愚痴を吐きたくもなる。なんたって駅にいくまでは桜並木道だし、桜はまさに満開。少しくらい新しい出会いに胸をときめかせても罰は当たらないはずだ。

 少女漫画のヒロイン気分でスキップ交じりに歩いていたが、ついいつもの場所でふと足を止めてしまう。それは少し風変わりな建物なのだが、周りの風景や街並みと不釣り合いというよりも明らかに()()なそれはいつだって凛の目を奪ってやまなかった。

 それは桜並木道を抜けてすぐ左手の道に反れると見える一見普通の家だ。けれど妙に不思議な雰囲気で駅とは反対方向なのに何故だか引き寄せられるかのようにいつも足を運んでしまう。凛がこの街に越してきたときから既にあった家で、誰かの噂に上がるほど別に不自然というわけでもない。――けれど、見ているとどうしてか不安になる。何と言えばいいのだろうか。どことなく、胸がざわつくのだ。いつかどこかで見たことがあるような。いや、こんな目立つ家なんてそうそう忘れたりなんてしないだろうと思うのに、何か忘れている気がしてならない。自分の知らぬところで大事なことを置き去りにしてしまったような、そんな妙な感覚を覚える。

 感傷に浸るのもそこそこに目に入ったのはその家のシンボルとも言える立派な桜の木だった。毎年のように綺麗に花を咲かせているので、恐らく桜を眺めて足を止めているのは自分だけじゃないはずだ。けれど、凛は桜を見るためだけに足を止めているわけではない。他にもちゃんとした理由があるのだ。

 何が可笑しいか、と問われれば誰が答えても一目瞭然だろう。石造りの重厚な錠口の奥に聳える見事な桜。そして、広い敷地に広がる古き良き日本庭園。ここだけ見れば昔ながらの古式ゆかしいお家なのだと思うだろう。しかし、家の外観だけはどこをどう見ても古びた洋館なのだ。一体いつ頃に建てられたものなのだろうか。大正ロマンとも言い難いそのミスマッチな装いに、家をみる者は珍妙なものを見るような目をして通り過ぎていく。桜の木を眺めるよりもそちらに目が行く者の方が多いのではないだろうか。私もいつもここを通るときだけはそんなたくさんのものに目が行きすぎて、時間が飛んでしまったかと思うぐらいの長い時間を過ごしてしまうのだ。

 唐突に何処かでチリリン、と鈴の音が聞こえた。風鈴にも似た耳障りのいい音で、軽やかに何度か鳴っては止まりを繰り返している。どこから聞こえてきたのかと辺りを見回しても、その音の出所は見つからない。チリリン、チリリンと微かに聞こえてくるそれに耳を欹てながらもう一度ゆっくり見回すと、桜の木の下で、金色の瞳と目が合った。

 にゃおん、と音の主が微かに鳴く。

「猫…?」

 いつから居たのだろうか、いつの間にか桜の木の根元に一匹の黒猫が行儀良くお座りをしていた。首元にちらりと金色の鈴のようなものが見える。恐らくあれが鳴っていたのだろう。いつまでもじっと見つめていると満月のような目に吸い込まれそうな錯覚に襲われる。否、引き寄せられてはいたのだろう、足下でパキリ、と小枝を踏みつける音で、自分があの猫に近付いていたことに気がつき、ようやく我に返った。―――ピピピ、とタイミングよくスマホのアラームが鳴る。

「うわっ、やっばい!」

 遅刻防止に自分でセットしたアラームだ。そのアラームを止める際に時間を見て凛は肩を竦ませて驚いた。この家に惹き付けられるように何分も留まってしまったりするのもこれで何度目だろう。いつもそうなのに学習しない。後悔先に立たず、つまりこれも毎回の遅刻の原因の一つだ。

 慌ててその場から走り出すと、あの猫から視線を感じた気がした。でも、その視線に振り向く暇もなく、凛の思考は家から学校へと変わっていった。チリン、チリンと静かな鈴の音が、凛が見つめていた桜の木の下から聞こえていた。


♢♢♢


「ごめんなさい! 遅刻しました!」

 元気よく教室に入ると同時にその静けさに気付いて慌てて両手で口を塞いだ。それも時既に遅く、静かに黙していたクラスメイトの大半がこちらに振り向いてしまった。思わず赤面するが、教卓で仁王立ちしていた先生の咳払いに今度は顔面からサーッと血の気が引くのを感じた。

「東雲ぇ…またお前かぁ?」

 言い訳を、と考えている内に光の速さでまるで般若のような形相の担任が眼前に迫ってきてじりじりと後退する。まるで捕獲される直前のイノシシと狩人のような図に冷や汗が噴き出した。

「げっ! か、神戸(かんべ)ちゃん…」

「げっ、じゃないだろう! 遅刻しといて堂々と…!」

「あーあーあー! ほんっとにいつもすいません!」

 担任で、現国の教師である神戸凌(かんべしのぎ)。凌という響きが良く似合う、名前に負けないくらい熱血でいい先生だ。もちろん、漫画みたいな空気の読めない熱血というわけではない。要は適度に熱意のあるいい先生なのだ。なんたって、熱血指導を謳っている癖して変なところで抜けていたりするから、こちらもまた拍子抜けである。

「お前…遅刻は一体何回目だ?」

「い、いやぁ…残念ながら数を数えるのは苦手で…あはは…」

「ほぉう。お前の頭の中には都合のいい消しゴムがあるようだな。身に覚えがないと?」

 にっこりといい笑顔の割に全く目が笑っていない神戸に、凛は背中に冷や汗を垂らしながらじりじり後退していく。エマージェンシー、エマージェンシー。

「い、イタタタタタ! と、突然頭痛で頭が痛いですねぇ! これは大変だ、保健室に急がなきゃ頭が真っ二つだぁ!」

「曲がりなりにも国語教師の前で堂々とした文法間違いとはいい度胸だな! …まあいい、そんなに保健室が好きなら今日から一週間、放課後保健室の掃除をさせてやろう!」

「え? え、ええええーっ!?」

「なんだ、生徒指導室行きの方がいいのか?」

「全身全霊で奉仕活動させて頂きます!」

 神戸は冷や汗で小池が作れそうなほどの様子の凛に不敵な顔をしてみせるとすぐに苦笑いをして言葉を続けた。

「…と、言いたいところだが、さすがに冗談だ。ましてや仮にも、一応、目の前で、頭痛を訴えている生徒相手に掃除を押しつけるつもりはないぞ!」

「はあ…?」

 がっはっは、と漫画のように豪快に笑っている神戸だが、言葉の節々には棘のようなものが含まれており、暗に罰則は追々知らせると言われているようで余計に冷や汗が噴き出した。神戸は戦々恐々とする凛に満足げな表情を見せると、表情を引き締めて声の温度を下げた。

「それに元々、今日は遅くまで残らせられないからな。まあ、追々楽しみにしておけよ!」

 聞き流してしまいそうな一瞬の声の違和感に凛は反射的に眉を顰める。それは注意深く聞いていても流してしまいそうなほど一瞬の悲哀だったように思える。

 そういえば、確か今日は部活動もない一斉下校の日だったような気がする。今日は何か特別な日だったのだろうか。いや、そんなに重大なことがあったとは思えない。さすがに大きなことは私でも覚えていられるはずだ。

 今更ながら教室を見回せば、神妙な顔つきの生徒たちがあまりにも静かに座ってこちらを見ていて反射的に肩を揺らした。

「どうした、東雲?」

「…あの、今日って何かありましたっけ?」

「はぁ? まさかお前知らんのか?」

「知らないというか…今日何があったのかさえ皆目見当がつかないのですが…」

「見当がつかないって…。今日は、この街の追悼日なんだぞ?」

「追悼日?」

 そんなもの、あっただろうか。いまいちはっきり思い出すことができない。何より、去年もその前も、そしてその前の前だって、自分たちのことで手一杯だった。

「本当に知らんとはな…。他の奴らは知っているだろうが、この街には三百年ほど前、恐ろしく残忍な()()()がいたとされている。その事件の凄惨さから追悼日まで設けられた街の欠かせない日なんだが、何故かこの事件について書いてある資料はほんの極僅かしか存在しない。いや…寧ろ、その極僅かな資料があったからこそ発覚した事件だったと言っても過言ではない。それくらい、日本全体にとっては小さな事件だったんだな。だが、この街の人々には忘れられない傷跡を残した。それはそれは、実に悲しい街の記憶だ」

「…初耳でした」

「だろうな!この街に住んでりゃ自ずと耳に入ってくるもんだと思ってたよ」

 神戸は目を丸くしながら鼻から深く息を吐き出した。そんな大きな事件があったなら、知っていてもおかしくはなかった。でも残念ながら凛は元々記憶力が乏しいのだ。覚えるということ自体を初めから諦めている節がある。だからきっとこの事件も覚える必要のないと判断する程度の認知だったのだろう。

「文献によると、ちょうど今くらいの桜が綺麗に咲いている時期か。ある日突風が吹くかのように犯人は現れ、老若男女関係なく人を殺した。なんの因果関係もなく、ただかまいたちのように通りすがった人間を手に掛けた。当時の役人からしたら、それはもうお手上げ状態だったんだそうだ。もしそいつが捕まるとしたら…今で言う現行犯か。まっ、証拠がないんじゃ仕方がないよなぁ。まあ、それからも当たり前のように誰も犯人を捕まえることは出来なかった。これは予想がつくと思うが、見回りをしていた役人も殺されたからだな」

「じゃあ被害者はどれだけ出たんですか?役人まで殺された、なんてとても小さな事件とは思えませんけど…」

「まぁな。あくまでも日本やここら一体の地方としては小さな事件だったんだろうよ?何でかって、犯人は一歩も街を出なかったからだ。被害はここら一帯、外の街の奴らも被害者にはいた…けど、殺されたのは街の中だったとか。…確か数にしたら、十人以上は殺されたと聞いたぞ。…だから街にしたら、これは大きな事件だったのさ」

 老若男女含めて十人以上が殺された大量殺人事件。なんだか、本当に頭が痛くなってきた。どんな理由であれ、誰かの気まぐれで殺されてしまうなんてあっていいはずがない。例えそこに正当な理由があったとしても、許されはしない行為だろう。

「それで殺された人を追悼する日ですか…」

「いやぁ、まあそれもそうなんだけどな、実はまだこの話には続きがあるんだ」

「続き?」

「街は毎日のように悲しみに包まれ、役人も激減。街は死までも覚悟した。けど犯人はある日を境に街の人々をぱったり殺さなくなった」

「ええと、殺すのをやめてこの街からいなくなったってことですか?」

「いーや、違う。犯人は街を殺し尽くす前にな、()()()()()()()()()()()()

 咄嗟に言葉が出なくなった。なんと返答したらいいのか分からなかった。

 自分を殺した。つまりそれは言葉の通り取るならば自殺をしたということだろう。何故、犯人はそんなことをしたのか。なぜ人を殺し、なぜ自分を殺したのか。何かが引っ掛かる。頭痛がじんわりと滲みだすように自分と世界の境界を曖昧にする。神戸の興奮した声が水の中に潜ったようにくぐもって不鮮明に聞こえた。

「だがな! ミステリーファンの俺としての考察はなぁ…殺人衝動がついに他人から自分へと向けられてしまい、その誘惑に勝てなかったんじゃないかと思ってるんだ。それが、犯人がある日突然殺しをやめた理由だ! どーだ!? 先生の推理は、案外的を射てるような気がしないか!」

 興奮した様子の神戸に同意も出来ずに青い顔をしていると、あの、と鈴を鳴らしたような声と白い手が静かに上がった。声の方へ振り返ると、彼女のあまり感情を宿さない冷たい瞳と眼鏡越しに視線が交わる。まるで作り物のような彼女の唇が僅かに動いて鋭い一声が響いた。

「神戸先生」

「しかも犯人は男か女か、はたまた子供か老人かも分からない! 影一つ掴めてないんだぞ? だから文献では犯人は『かまいたち』そのものだったんじゃないかと言われているがそんなことは知ったこっちゃない! 先生は絶対に人間の犯行だったと核心してるんだ! 先生はこういうのが大好きでな。東雲、お前も考察してみたらどうだ? 面白いぞ!」

「神戸先生! 少しよろしいですか」

「ん? …あぁ、三嶋(みしま)か。どうした?」

 透き通った声がひと際強く上がった。神戸は嬉々とした様子のまま彼女をみる。神戸の言葉を遮り、発言権を求めるように折り目正しく手を上げたまま立ち上がった声の持ち主はクラスの学級委員長だった。そこでやっと、凛は目を逸らすことができた。

 彼女はよく通る声で正しく発言する。

「神戸先生、もう随分話しこんでいます。追悼が終わったのなら、授業を続けていただけませんか」

「え? …あ、そんなに話しこんでたか! すまん三嶋、気付かなかった! っと、東雲、具合が優れないなら保健室へ行け。本当に顔が青いぞ」

「え? ちょ、神戸ちゃ…」

 恐らく本当に顔が青いまま考え込んでいたのだろう、強引に背中を押されて廊下に出される。ちょっと不本意だ。制止の声も虚しく大きな音を立てて無情にも扉が閉まった。聞きたいことが最終的に聞けずに胸の辺りのもやもやが気持ち悪く張り付いているように感じる。やはり何か妙だ。今知ったばかりの事件なのに、なぜか胸のあたりがざわつくのだ。確か、こんなことが前にもあったような気がする。

 頭が酷く痛む。まるで何かを拒んでいるかのように、思考に靄が掛かっていった。その靄はどこかの空で似た灰色の煙によく似ていて、思考を振り払うように煙たくもないのに咳払いをした。

「自分は…何も知らない…んだよね?」

 何を恥じることでもない、知らないだけだ。知らないことを知っているはずがないんだ。それなのに、その時は無性に知らないことがおかしいんだと直感した。何故かは分からない。自分の勘が、いつものように忘れているのさ、と笑っている気がしてならなかった。それが言いようもなく気持ち悪くて、思考回路に掛かった靄を振り払うようにその場から走り出した。


♢♢♢


 少々乱暴に保健室の扉を開けたが、咎める保険医の姿はなかった。久々の全力疾走のせいで息が大分乱れて、喉の奥に鉄くさいものを感じて無理矢理に呑み込む。日ごろの運動不足のせいかな、なんて無理に思考回路を明るくしようとしたが、今の冴えない気分でそれは逆効果のようだった。

 保健室はまったくの無人だ。不用心にも扉の鍵は開いていたので、誰かいるのではないかと幾つかベッドを見て回った。…が、そうそう漫画のように授業をサボって保健室で昼寝をしているような、絶滅危惧種のイケメンとは出くわさなかった。別に、残念だとかそんなことは思っては居ないけれど。

 一番奥で窓際のベッドに座ると、スプリングが堅く軋む安っぽい音が甲高く響く。窓の外はこちらの気も知らずに桜の花びらが舞い散る美しい景色を切り取っているが、こんな風情溢れる季節の中で、凛は似つかわしくない青い顔で花びらを睨み付けていた。

 やはり先程から、脳裏を過ぎるのは神戸が語った事件のことで。もうずっと昔に過ぎた歴史の一部だというのに、聞いた瞬間から他人事ではないような錯覚に襲われていた。

 昔から、命に関することになると他人事のようには思えない性分ではあったのだ。命の事になると、いつだって反射的に()()()()のことを思い出してしまう。燃えていく家だったものの気配、生きていたはずの空間の崩壊の音、灰の匂いと、鼻の奥がつんとするような妙な匂い、じんわりと唾液が絶えていくような舌の根の乾く感覚。あれは恐らく〝命〟が終わる瞬間の感覚だった。あんなに身体の芯は昂ぶって熱かったのに、驚くほどに寒かった。風邪を引いているような感覚に近かったのかもしれない。それが、燃え尽きるまで延々と続いた。

「っ…」

 今更ながら思い出すと胸が錆びた歯車のように軋んだ音を立てる。だが、今回はそれとはまた違う感覚だと思った。被害者に対しての同情ではない。まるで当事者になってしまったかのような寒気が足先から浸食してくるのだ。

「どうして…」

 こんなにも胸が痛いのだろうか。だってこれは自分の問題じゃないじゃないか。関係のないはずのものがこんなに気になる理由が分からない。誰も答えない一人の空間で、凛は無意味にその言葉を呟いた。この問答に誰も応えることはできないことは知っていた。

 ―――けれど、今回は違った。

「どうしてか、知りたいの?」

 返ってこないと疑わなかったこの問いに、その誰かは応えた。不意打ちすぎる反応に凛は大きな音を立てて振り返る。声の主は細かく睫を揺らして、気怠げに保健室の入り口に立っていた。眼鏡越しの真っ直ぐな瞳に見据えられると、意味もなく萎縮してしまいそうになる。

 彼女が無言で保健室に足を踏み入れたとき、思わずびくっ、と肩を跳ねさせてしまった。それが気に入らなかったのか、彼女の片眉がぴくりと跳ねたのが視界の端に映る。

「三嶋さん…?」

「そう。貴女、物覚えが悪いくせに私のこと覚えていたのね?」

「いや…そりゃ、」

 貴女は、うちのクラスの学級委員長ですから、と続けようとして睨まれた。これじゃまるで蛇に睨まれた蛙みたいだ。

「ど、どうしたの? 三嶋さん、具合でも悪いの?」

「…ええ。そんなところよ」

 彼女は無愛想に歩いてきて、隣のベッドに腰をかけた。座る際に肩で切りそろえられた髪の毛がさらりと流れる。髪の毛から目を移せば、少しくすんで血色の悪い肌の色が目に付いた。寝不足だろうか、心持ちいつもよりも元気がないように見えた。

 彼女の名前は三嶋小雪(みしまこゆき)。凛のクラスの学級委員長をしている。折り目正しく落ち着きのある上品な所作は大和撫子そのものと言えるだろう。家が古くからある由緒正しき御家だそうで、和風美人という言葉がぴったりと似合う人物だ。

 不躾に見すぎたのか、こちらを見遣る小雪の整った眉がぐっと潜められた。猫目がさらに鋭くなった気がした。

「…貴女、先程の神戸先生の言葉が気になっているんでしょう?」

「え?」

「昔に起きた事件について、」

 気になっているんじゃないの、と小雪は淡泊に続けた。

「それは、少しは気になるよ。けど、まぁ…話したところで気分がいい話でもないし…」

 それにね、と続けようとして慌てて口を噤んだ。これ以上は被害者に失礼な気もしたのだ。自分が気になっているのは被害者よりも犯人の事情だ、なんてあまりに失礼すぎる。

「教えてあげてもいいわよ?」

「え?」

 だから突然の小雪の言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。彼女は怪訝そうな顔を隠しもせずに、それでいて冷静に言葉を返してきた。

「気になるんじゃないの? あの事件の続き」

「三嶋さんは知ってるの? …その、犯人がどうして自分を殺してしまったのか」

「小雪でいいわ」

「ええと、…つまり小雪ちゃんは知ってるってことだよね?」

「ええ、知っているわ。そうじゃなかったらわざわざ授業をサボタージュしてまで貴女を追いかけると思うの? ちょっとは頭を使いなさいな」

「ひ、酷い言われようだ…」

 凛は小雪の毒舌に怯みながらも彼女の様子を窺った。それはいつも委員長として振る舞う小雪とは少し違うようだ。小雪は、まるで藁にも縋るようなそんな切羽詰まった様子に見える。一体どうしてそんな顔をしているのかが分からなくて小首を傾げる。

「自分を殺した。つまり言葉通り自殺したのよ、犯人は。…そこまではいいわね」

「それは神戸ちゃんの考察の話じゃないの?」

「神戸先生の話は当たらずとも遠からずってところよ。問題はその自殺について、彼は誤って自殺したわけではないし…自分の意志で自殺したわけでもないというところ」

「…え、それってどういうこと? 自分の意志じゃない自殺なんて、それこそ自殺じゃないよ。…ていうか彼って…」

 凛は思ってもみない言葉に少なからず戸惑った。だって、意志のない自殺なんてものは自殺ではない、つまりそれは他殺か事故でしかないからだ。自らを殺すには自らが決意し行動しなければ、その意味を為さない。ならば犯人は元々自分を殺してはいないって論法になってしまう。つまり、それでは結局考察は間違ってるってことになる。文献が間違っているのか、それとも私の思考が間違っているのか。凛の脳内会議は慌ただしかった。それを見透かしたように小雪は神妙な面持ちで首を横に振った。

「私にもよく分からないわよ。でも確かなのは、死に至るまでの形跡は偶然だったにしろ、死ぬことを認めて決意したのは彼自身だったってこと。だからカテゴリー的には自殺なのよ。…暴論に聞こえるかしら?」

「…よく分からない、かな」

「どっちにしろ、文献からしたら自殺よ。間違うことなく完全なる自殺。もっと言うなら罪を悔いて自殺、になるわね。これは専門家の勝手な推論だけれど」

「本当にそれは随分な暴論だね。…でも小雪ちゃんの話も、ある意味突飛な説だよね?だってさっきの話が本当なら、まるで小雪ちゃんが本人か第三者として見ていたみたいな口ぶりに聞こえるもん」

 冗談めかしてそう言えば、小雪はそうかもしれないわね、と薄く笑った。そして改めて凜と目を合わせてきた。

「…これから話す話を信じるかしら。貴女は私を笑わない?」

「笑わないよ。ただ、信じるかどうかっていうのは内容にもよる。もし小雪ちゃんが自分なら話していいって思うなら話してほしいかな?」

 小雪はその言葉に一瞬だけ躊躇うように顔を背けた。正直、何のことだか分からない急展開過ぎる話についていけていないのだ。是非とも躊躇いたいところだと思う。それをしないあたり、私はやっぱりこういう適当な性格なんだろうと心の片隅で笑った。

「…いつからだったかは、覚えてないのだけれど。頭の中で、声が聞こえたの。『返せ』って静かな声が。それが誰の声だか気付いたときは驚いたわ。まさか、って」

「誰の、声だったの?」

「…貴女、分かってるんじゃないの? こんな話をした後でその声の持ち主が誰かなんて愚問だわ」

「…愚問って言われても…」

 この話の繋がりでそんな言い方をされたら誰だって戸惑うだろう。だって、それを肯定するにはあまりにスピリチュアルな話過ぎる。凛は今まで、一度だって幽霊の一つも見たことがないのだ。そう言った類のものは実際信じてはいない。

 けれどあまりに真剣すぎる小雪の瞳に気圧されて静かに一度頷く。

「その事件の犯人の声…ってこと?」

「……そう、だと思う。恐らくあの声の主は、事件を起こした彼だったと思うわ。それを理解してしまったときは自分の頭がどうかしてしまったと本気で悩んだ。…でも聞こえるんだもの、仕方がないじゃない。けれどその声が聞こえるようになって、何だか段々彼の気持ちが分かってきて、彼がどうしてこんなに人を殺さなければならなかったのか、…それはとても身勝手で本当に馬鹿な話だけれど」

 小雪の言葉は段々と文法も何もかもめちゃくちゃになっていた。それだけ切羽詰まっているのだろう。小雪は苦痛に歪んだその表情を隠そうともせずに話し続けている。その様子は、犯人のことをまるで自分のように話している、そんな表情だった。

「その声や言葉を聞いて私は知ってしまった、理解してしまったの、だから私は毎日毎日あの人の夢を見て…っ!」

「小雪ちゃん…?」

 その常とは全然違うであろう取り乱した様子に、凛は思わず手を伸ばした。そして、折れてしまいそうなくらい細い小雪の肩に手を置いた瞬間。()()は何の前触れもなく突然起きた。

 ――そこは知らない街並みに見えた。夜桜がとても綺麗なのに周りには人っ子一人も見当たらない。それは当然だろう、その桜の辺り一帯には夥しい血のようなものが桜と同じように散っていたからだ。それがあまりにも不釣り合いなようで、なのにとても美しく見えて、あまりにも倒錯的に感じる。

 その風景を見ているのが誰の視点かも分からないまま、凛の視界は誰かを追っていた。それに声も聞こえる。

『どうしても許せない…どうして()はいなくなったんだ? なぜ君は俺を見てくれない?愛してくれない? どうして? どうして!』

 よくよく見れば、追いかけられているのは綺麗な着物の女性だった。女性は怯えた表情で草履を鳴らしながら駆けている。凛の視点は、その女性を追っている人物だった。声は低くしゃがれたものだったから、恐らくこれは男性だろう。

 そして、無情にも足を縺れさせた女は地面へ膝をついてしまう。草履の鼻緒が切れていた。女性は温かそうな夜なのに、歯をがちがちと鳴らして全身を震わせて男を見上げている。次の瞬間、ついに男は女を刀で切り裂いた。見てもいられないほどに悲惨な状況だった。女性は声さえ出せずに怯えを含んだ瞳は光を失って無感情なものへとなっていく。男は今し方事切れた女性の顔を掴み、まじまじと見た後にまた叫んだ。

『…()()。俺はこんなこと望んでなんかいないんだ。俺はただ君といたかっただけなんだ。こんなに愛してる、こんなにも愛しいのに。君は俺を見てくれない、傍にいてくれない、君は俺のものじゃない。どうして、俺はこんなに…』

 男は錯乱状態から一時正気に戻ったようだった。けれど呟く愛の呪詛は変わらない。吐き散らす言葉の一つ一つは棘があるように感じた。そうして、男は静かに自分の手を見る。男の顔は酷く悲しそうに歪んだ。

『俺はこんなことをしたいんじゃない…でも、もう』

 彼のその手は、見るも無残なほどに彼の愛と言う名の血生臭い衝動で汚れきっていた。

「もうこんな悪夢は嫌…どうして、なんて私が聞きたいくらいよ! 私は三嶋小雪であって、男でもなければたった十七年しか生きてない。だからこんなおかしな記憶は絶対にあってはならないものなの…。私、頭がどうかしちゃったのかしら…。きっと、そうよ…!」

 小雪の声に、凛ははっと我に返り現実に引き戻される。完全に思考がトリップしていた。思わず自分の手のひらを見たけれど、その手に異変など起こっていない。真っ新としていて血の一滴も見当たらない。

 あの情景は一体何だったんだろう。見慣れない街並みだった。今よりも、もっとずっと昔のような景色。例えるならそう、極端に言えば江戸時代くらいのまだ科学が発展する前の街並み。見たこともない景色。…なのにどこか懐かしい。自分はあの景色を見たことがある。知らないはずなのに、この景色について何か知っている。自分の知らない自分の記憶が、忘れきれていない記憶が脳のどこかに、ある。…そう思うと途端に怖くなった。

 小雪に触れた手が痺れるような錯覚を覚えて咄嗟に手を離した。気が付けば小雪の瞳には涙が溜まっていて、彼女の精神が既に異常なまでのストレスに晒されていることが目に見えた。悲痛に歪んだその顔はいつもの澄ました顔とは全く違って、一体誰かと思うくらいに別人のようだった。小雪は凛へ縋りつくようにして息を荒げている。それを可哀想だと思う前に、どうしても恐ろしいと思えてしまってならなかった。

「それは…いつから見ていた悪夢なの?」

「…確か、中学一年生の頃…だったかしら。春になるとよく見る夢だったの…。でも、こんな酷い夢なんかじゃなくて…」

 小雪の言いたいことは痛いほど分かった。凛も夢見がいい方ではないからその気持ちはよく分かる。この街に越してきた当初だって中学生になったストレスなのか、悪夢ばかり見て魘された。

「中学、一年生?」

 ―――なんだろう、この違和感(デジャヴ)

「でも、最近は毎晩毎晩同じ夢を見るわ。何をしていてもしていなくても耳元で囁くの。私だって頭がどうかしてると思ったわ。でも、正気よ!だから周りにこの話をしたの。でも、誰も私の話をまともに取り合ってはくれなかった…」

「…だったら、周りに認知されない夢だとしたら。どうして自分なんかに話したの?」

 一番の疑問に思っていたことをぶつけた。なぜ凛にその事実を明かしたのか。凛にそれを言ったところで解決するとは限らない。しかも、凛が彼女の話を笑わない、ましてや言い触らさないなんて保証もないのだ。それなのに、言わざるを得なかったその理由が分からなかった。だから妙に薄ら寒い。何か、釦を掛け違えたかのような気持ち悪さがあるのだ。

 縋る思いでそう尋ねた。小雪は、何てことはないのと薄く笑う。

「貴女はこの事件を知らなかったでしょう? なのにさっき教室で見た貴女の姿は、まるでこの事件を知っているみたいだった…私と同じかと思ったの。藁にも縋る、ってこういうことかしらね…」

「自分は…」

 本当に、何も知らない。何が見えたとしても、何も分からないし何も出来ない。いつだって記憶は気まぐれで、凛が見たくないものをたくさん見せてくるし、大事なものは頭からすり抜けて消えてしまう。それが記憶なのか幻想なのかは見当もつかない。けれど、毎回決まって分かることはある。見えても、自分には何も出来ないのだ。だって、見えているだけだから。

 小雪の縋るような視線に耐えきれず、凛は全てを振り払うように座ったベッドから立ち上がった。

「東雲さん?」

 不安そうな小雪に、かけてあげる言葉が見つからない。結局炎の前で立ち尽くしたあの日と同じように、何も出来ずに暫く立ち止まったままだった。けれどやがて沈黙に耐えられなくなり、分かっていながら去り際に酷いことを言う。

「ごめん、小雪ちゃん自分にもよくわからないよ…。だって、神戸ちゃんの話を聞くまで事件のことすら知らなかったんだよ? 自分が、小雪ちゃんのその悪夢のことを解決できるわけもない。自分には何も…何もないの」

 それは酷い罪の告白のようだった。酷な事を小雪に言ったとは思う。けれどもそれ以上に凛も苦しかった。誰が何のために、何を求めて自分にこんなものを見せるのかなんて分からない。

「きっと夢だよ…ただの悪夢なんだよ。そう思うのが一番普通でしょ? 自分には、話を聞くことはできても、時間を共有したって…何も出来ないんだ。…ごめんね」

 あまりの心苦しさに、言葉を零した瞬間、弾かれるように凛はその場を走り去った。引き留める声が聞こえたような気がしたが、振り返ることすら出来なかった。自分はいつもそうだった。何を見ても、何かしてあげたくても、何もしてあげることが出来なかったんだ。

 例えば、こちらに越してきてすぐに怪我を負った犬を見つけたことがある。でも、消毒をしたところで、連れて帰り保護することは出来なかった。中途半端な優しさで、結局犬に期待だけを持たせて裏切っただけだった。声をかけないで知らないふりをすればよかった。でも、それだと犬は痛いままだったろう。連れて帰ってあげればよかった。でも、餌代や世話は誰がする? いつもそう。いつだって中途半端だ。

 ――気がついたら、凛は電車の中にいた。中途半端な時間の電車の中はガラガラで、数人が座っている程度だった。久しぶりにこんな静かな電車に乗った気がする。ふと、窓ガラスに映った自分が見えた。映った自分があまりに情けなく見えて、深いため息をひとつ吐いた。

 電車を降りてから何も考えずに歩いていると、どこからかチリン、チリン…という音が聞こえてくる。どこか聞き覚えのある小さな鈴の音だ。音のする方へと顔をあげれば、突然前方から春風が大きく吹いた。目も開けていられないような強風に、思わず凛は目を覆う。

 やっと風が止んでからゆっくり目を覆う手をどけると――目の前にあの和洋あべこべの不思議な建物があった。気が付かない間にここまで歩いてきていたのか、と内心驚く。いつもと変わりないその家。庭には桜が綺麗に花を咲かせている。いつものように散っていく花びらを辿っていくと、その下にいつもと違うものを見た。

「あっ…」

 思わず声を出してしまった。いつもと同じ風景の中に、まるで間違い探しのように溶け込んでいる人物がいたからだ。最初からずっとそこにいたかのように思える。それくらい、よく見なければ気付かないのだ。

 その人は、()()だった。それもきっといい意味で、だ。何と言ったら正しいのかさえ分からない。ただ、この景色の中に佇んでいても見劣りなどしない美しさがそこにはあった。

 言うならばそれは、人を優しく包み込むような柔らかな春。白くも見える髪の毛は日の光に透けてきらきらと光っていた。伏せられた瞳から零れ落ちるような蜂蜜色が、あまりにも儚い、そんな幻想を抱かせた。今は珍しい昔の書生服がまるでその人のためにあるかのように違和感一つない。腕には一際目立つ、毛並みの整った黒猫が抱かれていた。暖かな雰囲気を思わせるそれらには、突然とした闇を思わせる色に異様なものを感じずにはいられない。微動だにしない姿は死んでいるようにも見えて、勝手な想像に背筋を震わせた。

 そんな意味のないことを考えていると、前方から抑えていた笑いを思わず漏らしたような声が聞こえてきた。

「ふふ…っ」

 目の前のその人は途端に花が綻ぶかのように小気味よくころころと笑い声を上げる。さも愉快だと細められた瞳は、さっきよりも鋭い金色に見えた。

「な、なんで笑うんですか!」

「何故って…。そんなに見ないで下さいよ、穴が開きますから」

「はぁ!? そんなに見てません! 自意識過剰なんじゃないですか!?」

「っふ、ふふっ…あっはっはっは!」

 そうして彼は更に笑い出した。綺麗な顔や雰囲気からは想像も出来ない豪快な笑い方だ、と関係のないことを心の内で思っていた。

「はっはっは! 自意識過剰ね、…よく言いますよ、あれだけ見られたら自意識過剰にもなっちゃいますから、ふふ」

「~~っ! もう黙ってください!」

 顔が熱くなるのを感じて大きな声を出すと、彼はコホンと咳払いをして居住まいを直した。

「すみません。いくら見られていたと言えど突然笑ったら驚きますよね」

「い、いや…こちらこそ、不躾にすみません…」

「大方、この家に住人を見たことがなかったから驚いたのでしょう?」

「…はい」

「今日は桜が綺麗でね、つい足が外に向いてしまったんですよ」

「…ええと、その」

「? ああ、自己紹介がまだでしたね。ここの住人の、三倉(さくら)と言います」

 三倉は凛が次に聞く質問なんてお見通し、というように名前を教えてくれた。彼は一枚の絵のように流れる仕草で小首を傾げる。首元の細い鎖のようなネックレスが春風にしゃらり、と揺れている。

 その全てが現実とはかけ離れた、まるで絵の中の出来事のようで見惚れてしまった。

「貴女は?」

「自分は…東雲凛です」

 聞かれるとは思わなかったが、聞いてしまった以上形式的にこっちも答えるべきなのだろう。躊躇いがちな声は、自分らしくもなく小さくか細かった。

「凛…ですか。貴女らしい名前ですね」

「え?」

「いえ、こっちの話です。貴女は確かに強そうですからね」

「…仮にも女の子に強いってどうなんですか…」

「ああいや、悪い意味ではないですよ? 名前の通り、凛としていて芯が通っている。そう言いたかったんです」

 思ったよりも素直な誉め言葉に閉口する。それでも黙っているのはむず痒くて当て擦りのような嫌味を無理やり考えて口に出す。

「何だか詩人みたいなこと言うんですね…」

「風情があると言ってくださいよ。これでも一応褒めたんですよ? ちょっとは喜んだらどうですか?」

「自分がそんなに純粋に見えます?」

「見えませんね。けど、とても可愛らしいと思いますよ」

「可愛らしい!?」

 彼があまりにも軽薄にそんなことを言うものだから、言っていることの大半が嘘っぱちに聞こえてくる。それもきっとこの飄々とした性格のせいなんだろう。けれど、可愛らしいなんて嘘でも言われた試しがない。耐性なんてものは持ち合わせていない。嘘でもなんでも、異性に言われたら誰だって驚くものだ。

「何て。…本気にしました?」

「…だろうと思いましたよ!」

 初対面の女の子にここまで意地悪するなんて、とてもじゃないが相当な男だと思った。きっとこんな白くて美しい外見とは裏腹に、腹の奥底はどす黒い考えが渦巻いていることだろう。十中八九そんなものだ。三倉の表情は相変わらず読めないままだった。

「…それにしても。今日は一体、どうかなさったのですか? 化け猫にでも化かされたような顔をしていますね」

「化け猫?」

「ふふ、言葉の文ですよ。…浮かない顔をしていますね、と言いたかったんです」

 …やっぱり読めない。何も言った覚えがないのにそうやって見透かしたように聞いてくる。きっと、いや絶対と言っていいがこのパターンでは彼はもう既に何らかを知っていそうだ。エスパーなんじゃないかと冗談に薄笑いを浮かべた。

「学校でいろいろあって」

()()()()? …ああ! なるほど。して、その学校で何かありましたか」

「いや…自分を頼りにしてきたクラスメイトの力になれなかっただけ。なんか、情けないなと思ったの。大したことないですよ!」

「ほう…それで浮かない顔をね」

 三倉は言葉と共に寄りかかっていた桜の幹から離れて歩きだした。そして、門の前に立って恭しくこちらにお辞儀をした。その行動を不思議に思い無意識に眉を顰めた。

「ど、どうしたんですか、いきなり」

「いえ? 立ち話も何だから家に招待しようと思って」

「知らない人の家に入るのはちょっと…」

「安心なさい、私の好みは年上の女性です。子供に興味はありません」

 三倉は凛を安心させるかのように胸をトンと拳で叩いた。正直言って、彼が完璧に安全とは言い難い。それに少し言葉を交わしただけの初対面だ。しかも胡散臭い。けれど、どこかその雰囲気に惹かれるものがあって、何かに吸い寄せられるように敷地に足を踏み入れていた。門を跨いだ先は、やはりどこか懐かしさを覚えた。こんな洋館、一度も入ったことないのに。こんなところへは来たこともないはずなのに。

「おかえりなさい、我が家へ!」

 三倉は御茶目に両手を広げてそう言った。その行動に目を丸くすれば、三倉はゆっくり目を細めた。

「なんちゃって。同居人がいないので言う機会がなくて言ってみましたが。…ドキッとしました?」

 と、笑顔を浮かべてそう言った。不安要素を取り除くかのようなその行動は、凛の肩の荷を少し下ろしてくれたような気がした。

 入って最初に目についたのは、たくさんの壁掛け時計だった。流石にこんなにいらないだろう、と思うくらいびっしりと掛けてある。廊下にはガラスケースが並べられ、中には小さなタイプの置時計や腕時計、懐中時計などの比較的小さな種類の時計が置いてあった。

「見ての通り、私は()()を扱う仕事をしているんです。どれも、とても美しい時計でしょう? けれど残念ながら、ここまで膨大になってしまうと不思議と逆の感情が芽生えてしまうことが多いのです。ですから、大抵の人はこれを見ると気味悪がってしまうのですよ。…本当はどれも、美しい時間を刻んでいるというのに」

 物珍しいそれらから目を離せずにいると、彼は気にした様子もなく悠々と空に語る。慈しむように時計をなぞる三倉の指は、壊れ物を扱うかのようにやけに優しかった。つられるように凛は時計を見渡す。その中で、ふと不思議なことに気付いた。

「あれ…? なんか時計狂ってませんか?」

 よく見ると雑然と目の前に並ぶ時計たちは、全てが全く違う時間を指している。もちろんどれも止まっているわけではなく、きちんと違う時間を刻んでいた。カチ、カチ、と刻む秒針の音だけがただ合わさって聞こえる。

「これは…どれが正しい時間なんですか」

「…その質問に答えるのはとても難しいですね。あえて言うならば、全て正しい時間です。この中に、決して間違った時計なんてものはありません」

「は…?」

「もちろん、これも言葉の文ですが。…一般論でいう世界基準の時間、というのはあれのことですね」

 三倉が指差したのは、先程入ってきた玄関口。振り向いた先には、もちろん扉がある。…そして、その扉には時計の模様が施されていた。針は、十一時五分を指している。

「貴女の言う正しい時間とやらはあれのことでしょう。初めに言っておけばよかったですね。時計などを持っていたりしますか?」

「時計は何も…。ああ、スマホなら持ってるけど…」

「なら、お気をつけて。この中では、貴女の時計は頼りになりません。…時間は、あちらのものが正しい」

「はあ…」

「客間にご案内します。もうそろそろ、お昼時ですからね」

 三倉は変わらずに笑ってみせた。…やはり彼は何だか不思議だ。彼は必ず、そして迷うことなく凛が今ほしい言葉を、望んだ答えをくれるのだ。だからこそ凛は彼に疑念を抱く。確かに精神科医や探偵のような職業の人であれば顔色や仕草で何でも分かってしまうのかもしれない。けれど、目の前のこの男性にそんなことが出来るとは思えないのだ。

 何も話さない間には静かに時を刻む秒針の音しか聞こえない。すべてが休むことなく動いているのだろう。個性豊かな時計を見つめて、この人はどんな仕事をすると言うのだろう。そんなことを考えていると、秒針が狂いかけている今にも止まりそうな時計が目についた。

「三倉さん、あの時計壊れてますよ」

 少し上方の時計を指さす。シンプルな壁掛け時計だった。けれど、文字盤に凝った花の模様が彫られている木彫りの時計だった。三倉は少し考えるように時計を見つめてから、はっと目を丸くする。

「おや、()()()の時間ですか」

「…あの方の、時間…?」

 そうこう言っている間に、カチン、と音を立てて秒針が止まった。最期の瞬間にその時計はゴーン、ゴーン、と何処からともなく鐘の音を鳴らす。それが最期の一息だったかのようにふっと静まり返る。それがまるで命を終える生き物のように物悲しく見えた。

 三倉は姿勢を正してゆっくりと時計の前で頭を垂れる。

「大変お疲れ様でした。―――いってらっしゃいませ」

 そこで凛は、不思議なものを目の当たりにした。止まったはずの時計が動き出し、長針と短針がくるくると踊るように頂点へと合わさった。見た目からして古ぼけたその時計は、少なくとも今時の電波時計なんかじゃないだろう。なのに、今まさに自らの時間を零へとリセットしたのだ。秒針までもが時計の頂点へ、終わりと始まりの零へと至る場所へ戻る時、二つの時が溶け合う時間に戻ったとき、時計が僅かに光ったような気がした。

「珍しいものが見れましたねぇ」

 そう言って三倉が時計に背を向けた瞬間から、再び時計は折り目正しく時を刻み始めた。

「何で…!?」

「何故とは? ただ、()()が始まっただけのことですよ」

「全然分からない! どうして時計が、まるで生き物のように自分で…」

 動き出すの、と三倉に力なく言葉を投げかけた。彼は困ったような表情を張りつかせているが、到底そんな風には見えない。そんな読めない表情のまま、静かに首を横に振って見せた。

「…私は何もしていませんよ。貴女も見ていたでしょう? 時計は自ら終わり、そして始まることを選んだ。…私にはいつだって見ていることしかできません。どんなときも」

 だって、と三倉は言葉を詰まらせた。

「誰かの時間の終わりを決めるのは、私ではありません。もちろん始まりを決めるのも私ではありません。…それは彼自身の選択」

「ちょ、ちょっと待ってよ…! 一体何の話をしているの!?」

 話しが一気に分からなくなった。そして、ようやく三倉と凛の話が最初からちっとも噛み合っていないことに気付いた。時計を扱うとは言っていたけれど、彼は最初から時計を作るとは言っていなかった。三倉はそれに気付いていて敢えて言わなかったのだ。

「私は、時間の話をしています。何故って、私は時計を扱う仕事をしていますからね」

「意味が分からない…」

「分からないことはないでしょう? 見たままのことですよ」

「…ううん、全然分からないよ」

 凛は正直にそう伝えて三倉を見上げた。彼は仕方がないとでも言いたげに肩を竦める。逸らされたその瞳は何故か寂しそうに見えた。

「私の職業は、時計を扱う仕事です。時計に時間はつきもの…いえ、私の仕事はどちらかと言えば逆。()()を扱う仕事です。…時計は付属品に過ぎないのですよ」

「時間を扱う、仕事?」

「…時間というものは有限です。始まりがあれば必ず終わりがやってくる。終わると知っていながらも始めなければいけません。それが一体どれだけの悲しみを…いや、そんなものはきっと杞憂ですけれどね。時間はそんなこと考えたりはしないのですから。時間を見ているこちらからの勝手な想像ですから」

 時間を見ている、という不思議な言葉に頭が追い付いていかない。なぜならば時間を見る、というのは使い方的にはあっていても、その本質である時間を扱うなんて言葉は恐らく存在しない。そもそも、時間を扱う仕事なんて聞いたことがない。それこそ非現実的なものであって、お伽噺にでも出てくるようなものになってしまう。

「…長くなります。聞きたいですか?」

 静かな問いに、躊躇いながらも頷いた。その仕草に三倉は安堵したように表情を緩ませる。手元にあった時計たちを見つめ、愛おしむように話し始めた。

「私は、時計屋(じかんや)という仕事をしているのですよ。その名の通り、時計を通して時間を扱う仕事なのです。」

時計屋(じかんや)?」

 そんな名前の職業は聞いたことがない。時計屋(とけいや)さんならまだしも、と思いながらも聞くと言った手前ぐっと言葉を呑み込む。

「私は最近…とは言っても随分前ですが、先代の時計屋主人にこの屋敷を任されました。難しいことではありませんからね。仕事内容は至って簡単です。…ただ、過ぎていく人々の時間を見守り大切にすること。…たったそれだけのお仕事なのです」

 過ぎていく人々の時間を見守る? 大切にする? それが仕事だなんてそれこそ非現実的だ。それでもそれを語る三倉の表情は至極真剣そのものだ。だからそれが嘘であれ、本当であれ、少なくとも彼は真剣にそれをしているのだと理解できる。

「つまり現代風に言うのであれば、私は時間のストーリーテラーなのですよ」

「ストーリーテラー?」

「ええ。私は時間の語り手なんですよ」

 そこまで話を聞いて、頭痛を憶えた。言っていることは分からなくはない、もちろん。そういう仕事はあるのかもしれない。でも、単純に理解が難しい、それに限った。

「…ごめんなさい、自分には少し難しい話かも」

 凛が素直にそう告げると、三倉は慌てたように首を大きく横に振って声を明るくさせた。

「それはそうです。いきなり時間のストーリーテラーだと言っても、分かるはずがありません。そりゃあ、現実的なお仕事ではありませんからね」

「そうですね…」

「でも…貴女は本当は知っているはずですよ?」

「は…?」

 三倉はくすり、と笑った。自分がそんな非現実的なことを知っているはずがないのだ。だって、彼とは初対面で。時計屋なんて初めてで。確かに毎日この家の前を通っていた。毎日のように桜を見ていた。でも、ここに入ったのは初めてのはずだ。

 チリリリン、と三倉の腕に抱かれた猫の首から鈴の音が鳴る。その音にはっとした。聞き覚えが、あるような気が……。

「…知りません!」

「っふふ、すみません。意地悪が過ぎましたかね。怒らせてしまいました?」

「怒ってるわけじゃないです! ただ、三倉さんが変なことを言うから…!」

「そうですか。それはすみませんでした。…で、お話の続きですけれど。…まぁ、簡単に言ったらあの時計は人の命を刻んでいます」

 頭が回っていないというのに、三倉は更に混乱する言葉を続けた。だから凛は難しいことを考えるのを止めてその声に耳を傾けるだけにした。

「時の始まりは人の始まりを差します。なら、時の終わりは…」

「人が死んだ、ってこと?」

「とても端的な表現を使えばそうとも言います」

「じゃあさっきの時計が止まったのって、もしかしてそういうことなんですか? …だったらどうして人が死んだのにそんなに冷静なんですか…?」

 もしそれが事実であるならば、三倉のその飄々とした態度に苛立ちを覚えた。あんまりに薄情にも見えるその態度が、かつての過去で見たことのある人々と重なってみえてしまったから。その時計が、まるで自分の両親のように見えてしまって仕方がなかった。だから、一度緩んでしまった口が閉ざされることはなかった。

「人間が一人死ぬってことは、確かに関係のない人にとったら痛くも痒くもないのかもしれない。でも関わっている人間にとったらどれだけ辛く、苦しいものなのか貴方は分かってるんですか…?」

「分かっていますが、痛くはありませんよ」

「じゃあ…!」

「私は他の方の時間も見ているのです。他の時計はまだ、動いているのですよ」

「じゃあ何? 他の時計が生きているから、死んだものには興味がないとでも言うの?」

「そういうわけじゃありませんよ。死んだ時間にだって価値はある。私はどんな時間だって平等に見ています。どのような人生を歩み、どのように終わるのか。私は絶対に一秒たりとも見逃すことはありません。…しかし、一々悲しむことはしないのです」

「それは! …それは…」

 自分で言おうと思っていた言葉に突然自信が持てなくなってしまった。凛は、彼が命を軽々しく見ていると思っていた。だから人の死という繊細なものに対して淡泊でいられるのだと。それこそ薄情とも思える態度を取れるのだと思っていた。けれど、悲しむことはしない、という言葉に引っかかるものがあって言葉が詰まる。――悲しむことはしない、ということは悲しくないと同義ではないのだ。それを何となく感覚で分かってしまったからだった。

「さっきも言ったでしょう? 生きているということは、必ず終わりがあるのです。今こうしている間にも、あの中の誰かの時間は死ぬ。そして、また誰かの時間は生まれる」

 自分は馬鹿だった。知らなかった。本当に視野が狭かったのだと身に摘まされる。人の死と近接的に関わるものが、人の死に何とも思わないわけがないのだ。…それは今こうして話している三倉の姿を見れば分かった。彼は、誰よりも人の死に寄り添っている。

「この膨大な時計の中で一つが止まって、それだけで語り手が一々嘆いていたら。一体誰がお話を進めるのです?」

 無神経なことを言った。彼は、自らをストーリーテラーと語った。だが彼だってきっと何度見たって、時間の終わりに感じるものがあるだろう。ないはずがないのだ。こんなに膨大な時計と共に生きていたら、それが人の命であるならば悲しくないわけないのだ。語り手は主観を入れて語ってはいけない。物語に介入してはいけない。一々嘆いていたら、お話を紡ぐことはできない。だから第三者に徹する。誰にも肩入れできない存在になる。薄情な立ち位置に甘んじることになる。

「…嘘つき、ですね。簡単な仕事なわけがない」

「嘘なんて一つもついてませんよ。本当に、ただ簡単なお仕事なのです」

 三倉はただ幸福そうに薄く笑い、凛の頭を躊躇いがちにそっと撫でた。それを拒む間もなく…その瞬間、再び()()は起こった。

 風景はとても美しい春の景色だ。美しい桜の木の下、あれは家の前にあるものだろうか。今よりももっと若い木で、小さめながらも見事な花を咲かせている。

『――――――』

 桜の木を眺めていると突然、どこからか女性の声が聞こえてきた。とても澄んだ、優しい声。けれど何を言っているのかは霞みがかったように鮮明に聞き取ることは出来なかった。思わず凛も口を開くが何の声も出なかった。当たり前か。これは人の記憶だ。やがて視点が上へとずれる。春色の着物を着た綺麗な女性。顔までは見えない。けれど整った唇が自然な弧を描いている。

『――――――』

 悪意ではない、柔らかな雰囲気で鈴を転がしたようにくすくすと笑う声が聞こえた。女性は凛の頬を指で拭って汚れを見せてくる。どうやらこの視界の持ち主は泥まみれになって遊んでいたのか相当に汚れているみたいだ。

『おいで、――――』

 その声だけははっきりと耳に届いた。澄んだ声がすんなりと入ってきて、やがて凛を暖かく包み込んだ。光から漏れて見える口元はやはり笑っていた。そして、どこからか聞き覚えのある、チリン、チリンという鈴の音がとても近くで響いていた。

「…ええと。大丈夫ですか? 頭撫でられたのそんなに嫌でした?」

「っえ!? …あ、ああ…」

「え、本当に嫌だったんですか」

「嫌…嫌というわけではなくて…」

 そうじゃなくて。貴方から何か()()()んです、だなんて言えない。それこそ非現実的で、気持ちの悪いことだ。三倉はさっきと変わらない感情の読めない笑みを浮かべている。けれど凛の思考はそれどころではなかった。さっきの記憶、それはきっと三倉さんの――。

「…それで。…クラスメイトの力になってあげられなかったという件ですが」

「えっ!? …な、何ですか急に」

「一体どんなお悩みだったのです? そのクラスメイトは」

「…凄く、表現しがたいんですけど」

 思わず目を伏せてしまった。小雪からあんな変な記憶が流れ込んできたことを、この人にどう説明していいのか分からない。今までずっとそうだった。こんな変なことを言って周囲を困らせるわけにもいかなくて、今まで誰にも言ったことがない。言ったところで子供によくある空想だと思われてしまう。だって、こんな現実的でないもの、自分が自分でなかったなら信じなかったことだから。それに、こんなことを話したところで別に解決するわけでもないのだ。

「…想像するに、大方科学的証明の難しい物事なのでしょう? なら何を心配することがあります? 私はこの通り慣れたものですけれどね」

 言い淀んだ凛へ彼は戸惑いを見透かしたように言い放った。…確かに考えればそうだ。さっき目の前で起こったことも、彼が語った仕事も。非現実的の核にいるような人物に話したところで、非現実的なことの一つも二つも変わらないだろう。しかも凛に起きるそれは記憶、の話。尚のこと信じられなくとも理解はされるかもしれない。

 ごくり、と生唾を飲みこむ。息を吸って吐いて、早鐘を打つ心臓を黙らせるようにふっと心の奥底へ力を籠める。

「その子、夢を見るんだって」

「夢、ですか」

「うん。…春になると毎回見ていた夢らしくて。小さい頃は頻繁だったみたいなんだけど、成長するにつれてそんな夢も見なくなったらしいの。…でも最近、毎晩同じ夢を見るらしくて」

「夢…ねぇ。夢は不思議ですからね。自分の願望を写す鏡とも言われますから。」

 凛は小雪に触れたときに見たあの光景を再び思い出す。ずっと気を付けてきたのだ。ああなってしまう可能性があるから、人と触れることは極力避けてきた。それでも見てしまったのだから仕方がない。向き合うしかない。

「…変な貴方にだから言いますけど、私、人に触るとたまに変なものが()()()んです」

「変なとは失敬な。でも、視える、というのは非常に興味深いですね」

「…だから変なことを言ってる自覚もありますよ。でも別に病気でもない。これでも子供の頃に病院にかかって脳も精神も問題ないってお墨付きだってあるんですから」

「大丈夫ですよ、貴女が変だとは思ってませんから。どうか話して」

 小雪の記憶の中にあったのはとても残酷な誰かの人生の終わりの光景。あれが本当かどうかは分からない。いつの出来事かも分からない。それに、あの記憶の持ち主は確実に小雪ではなかった。見知らぬ男性のものだ。でも、それでもあの夢には確かに実感があった。あれは、当事者目線の記憶なのだ。少なくとも凛が視てしまったということは、あの夢はただの夢ではない。

「小雪ちゃんに触れたとき視えたのは…。夜の街を逃げる女性の姿だった。何かに凄く怯えていて…よくよく聞けば、男の声が女性を追いかけているの。…自分が見ている視点は、追いかけているその男性のものだった」

「なるほど。あまりいい結末は思いつきませんが、それで女性はどうなったんですか?」

「…男性は刀で女性を斬り殺す。でも、男の人は満足しなくて…」

 その先を口にするのが憚られた。あの、意味の分からない言葉たち。狂ったように叫ぶあの執着に塗れた悍ましい絶叫。真っ赤に染まった自分の―――。

「それは今日聞くには…どうも耳馴染みのある話ですねぇ」

 そう呟いた三倉の声は少し固く聞こえた。何かを考え込むように腕に抱いたままの猫の背を撫でる。伏せた睫毛がやけに長くて瞳の色が昏く陰って見えた。

「…知っていますか? 昔、この街で惨たらしい()()が起こったことを。…ああ、そういえば今日がその追悼日、でしたか」

 そう言われて凛の脳裏には、神戸の言葉が蘇る。十人以上を殺し尽くしたと言う大量殺人事件。そして、犯人は街を殺しつくす前に自分を殺してしまったという話。あまりにもタイムリーすぎる話だ。都合が良すぎる、とも言う。

 ――けれど、そう言われてみればあの記憶も小雪の話もすべてこの事件と重なるものがあるような気がしてならない。

「それは…」

「その夢に何だか似ているような気がしませんか?」

「それは…偶然じゃないですか。自分はその事件については詳しく知らなくて…」

「ああ、私はその事件について詳しく知っていますからね。老若男女を殺したというその犯人、どうやら()()()をしていた、という説があるらしいですが。…知っていましたか?」

「探し物?」

「ええ。探し人なのか、探し物なのかは分かりませんが、とにかく何かを探して辻斬りをしていたという話が、とある文献に乗っています。まあ、諸説あるうちの一つで、因果関係を調べていけば調べて行く内に眉唾ものになっていきましたが。…貴女が視たというその話では、何かを探していたんでしょうか?」

 そう言われてすぐに忘れようとしていたあの声を必死に思い出す。そしてすぐに気付いた。

「人を、探していたんだと思います。いなくなった、って言っていたから…」

「…なるほど、それならやはり、あの事件の犯人の視界だったのは確実でしょうね」

「っ…でも何で? どうして小雪ちゃんがそんな昔の殺人犯の記憶を知ってるの…?」

 自分が不可解に思っていたところはそこなのだ。自分が人に触れて稀に見えるのは、その人の持つ記憶だ。正しく言うならば過去にあった出来事、その記憶の再生。なのに、小雪に触れた瞬間に見えたのはその犯人のこと。どうして小雪の中に三百年前に死んだ殺人犯の記憶があるのか全く理解できない。それがどうしても分からなくて、余計に思考が混乱して自分を頼ってきた小雪を蔑ろにしてしまった。その罪悪感は今も全身を重くさせている。

「…本当は、貴女も分かっているのでは?」

「分からないよ…全然分からないよ!」

 三倉は凛を落ち着かせるように大きく息を吸ってから、ごく平坦な調子で話し始めた。

「少し…難しい話をしましょう。貴女は、輪廻転生という言葉をご存じですか?」

「確か…生まれ変わること、だよね」

「ええ。平たく言えばそういうことです。私なりの解釈も入りますが前提として、人間の本質は霊魂である、という思想が根底にあります。人間は死後肉体を失くした後、霊魂だけの形で存続し車輪が回るように次の生へ次の生へ流転する…というような考え方を輪廻と言います。もちろんこの考え方で行けば、人間は死んだら体も記憶も消えてしまいます。ですが、実はすべて消えているわけではないのです。生きている間の記憶、軌跡…それらは霊魂が無意識に経験として記録している。ですから死後も存続した魂が次の体へ宿り新しい生命として生まれ変わっても決して消えることはないのです。因みにこれを転生と言います。…お分かりになられましたか?」

「…だいぶ、難しいですね」

 魂が本質で、身体は容れ物だと言われたってはいそうですかと納得できる話ではない。人間にとっては目に見えるものが八割は占めているのだから。

「ええ。これらはとても難しいことなのです。もっと簡単に言うなら、ずっとずっと昔、まだ人間が自我を持つ前の動物だったころから魂は受け継がれているのです。前世、というものが生きているものには必ずあります。前世が魂の経路と思ってください。体だけが朽ち、魂だけ体を渡り歩いてきた…と言えば分かりやすいのでしょうか。…時々経験したことのないものに対してデジャヴを感じることがありませんか? それは普通であれば現世で思い出すこともない、魂の記憶である可能性が非常に高かったりします」

 少しずつ、その言葉を理解していく。理解しながらも…いいや、理解しようとするからこそ、小雪から視えた記憶が…前世がもしそうであるならば、と考えてしまう。

 三倉はそれらさえも分かっているかのように言葉を続けた。

「一説では罪のある魂がもう一度生をやり直すために罰として転生する、とも言われますが、そもそも最初から人は罪深いものなのです。もしも人が罪を犯さないというのなら世界にこんなに人は溢れない。人間誰しも罪の深さは関係なく罪を背負っているのです。…ですが気に病むほどのことではありませんよ。ほとんどの人間が前世で加害者であり、同じくらいに被害者を経験している可能性が非常に高いのです。それらの経緯が、無意識ながらも魂に記憶となって残っているのでしょう。そうやって今の人格が出来ています。だから人間は一番無難で、罪を無意識に忌避する性質にできている。…東雲さんの心配するその子も、きっとそうでしょう?」

「当たり前です! 小雪ちゃんは悪いことをするような人じゃないし、今も夢に怯えてる」

「ならば、恐れることはありませんよ。彼女が至って普通の子であり、今現在の彼女がただの魂の記憶の被害者であるならば、そう悩むことなどありません」

 魂の記憶の被害者。その言葉に、全ての本質があった。それは凛が今まで意識的に避けていた問いに答えが出てしまったということでもあった。もう逃げようもなく、今までの回りくどい問答全てがここに導かれるためだけの道だったのだ。

 だから、ゆっくりと詰まった息を吐き出しながら、覚悟を決める。

「やっぱりあれは…小雪ちゃんにあった、本当の過去ってことなんですよね」

「そうですね。分かりやすく言い換えるのであれば彼女の前世の記憶、と言った方が分かり易いですかね。それが何らかの間違いで蘇ってしまっているのであればその夢について説明がつきます」

 分かっていてもやはり言葉が出てこなくなった。前世の記憶が蘇っているのかもしれない? 輪廻転生? 非現実的な言葉の羅列に、そして理解しかけているそのものに何を言ったらいいのか分からなくなった。ただ、それについてまだ疑問が残っているとしたら、それはただ一つだ。

「魂の記憶が…前世の記憶が生まれ変わった後に蘇るなんてそんなことあるんですか?」

「起こらないとは言い難いですよ。現に外つ国では自分の前世を思い出した、なんて言う子供が現れたこともあるとか。…ただ、ご友人の場合は内容が内容ですからね」

「どうにか、できないのかな…」

 小雪の憔悴した様子を思い出して下唇を噛みしめた。彼女が悩んでいるのは分かっている。でも、凛にできることは何もない。こうやって原因が分かったところで、そんなことを彼女に言ったところで混乱させるだけだ。これ以上、小雪を困らせたいわけではない。

「…どうにかできるかは分かりません。ですが、」

 ふと三倉の目が時計へと向けられた。何か確信めいた瞳をしている。

「何らかの影響で、彼女の前世の記憶の心残りが夢として表れてしまっている。そうとしか思えませんね。それも悪夢となるほど現世で強く願ってしまうほどの何かが」

 その言葉に光明が見えた気がした。もしそれが分かればもしかしたら彼女を悩ませているこの記憶に終止符が打てるかもしれないと思った。今まで無力で何もしてあげられなかった自分が、誰かの役に立てるかもしれない。今度こそ、必要とされるかもしれない。そう思ったら居てもたってもいられずに三倉の方へ前のめりになった。

「その何かって、どうにか分かりませんか!?」

「おや。……ええ、前世のことを知りたいなら簡単です。見ればいいのですよ」

「見る?」

「ええ。貴女が言う、()()()で」

 変な力、と言われて自分の掌を見る。けれど、凛が視えるのは一方的なものでしかもいつ視えるかなんて分からない。それを選ぶことも、小雪に見せることもできない。だから結局この力に使い道などなかったのだ。

「ああ、すみません。言い忘れていたんですが、実は私にもあるんです。…変な力」

「変な力、あるんですか」

「ええ。あるんです。変な力」

 その言い方にふっと口元が綻んだ。きっと本人は変な力だなんて思っていないだろうに、わざわざ凛に合わせてくれたのだ。それが分かったから、思わず笑ってしまった。初対面のはずなのに、変に優しい人だ。

「ええ。その変な力で過去の時間をお見せすることが出来ます。…ですが、それには干渉される本人は多少なりとも精神面なダメージは負うことにはなると思いますが、自分が何に悩まされているのか答え合わせをすることはできましょう」

「答え合わせ…」

「はい。彼女が望まないならば、そのまま毎日悪夢を見続ける他ありませんけれど。どちらがいいかは本人が選ぶと良いでしょう」

 一時のダメージを選ぶか、毎日悪夢が蓄積され続けることを選ぶか。そんなのどちらを選ぶかなんて一目瞭然だろう。それでも、本人が選択するべきだ。それは凛も同意見だった。それにしたってもう少し優しい言い方はないものだろうか。

「…三倉さんて、ちょっと意地悪って言われません?」

「はっはっは、今更気付きましたか」

 三倉はにっこりと満面の笑みを浮かべた。彼女が望まなければ仕方がない。けれど彼女が全ての真相を知ることを望むのであれば。その悩みが解決されるなら。――例え自分が忌避し続けていた変な力だって、誰かの役に立つのなら。

「ここに連れてきたら、手伝ってくれますか…?」

「もちろんです。歓迎しますよ」

「依頼料とか言って大金とったり、後遺症が残ったりとかしないですよね?」

 心配でそう言葉にすると、彼は一瞬だけ呆気にとられた顔をしてから、相変わらずの胡散臭い笑顔を浮かべた。

「さあ、どうでしょう? いくらにしますか?」

「やっぱり大金が必要なの!?」

 学生だから都合できる金銭なんてない。両親もいなければ裕福な生活もしていないのだからと焦っていると、三倉は更に嫌になるほど綺麗な笑顔で続ける。

「あはははっ! 貴女は本当にからかい甲斐のある! お金なんて特にいりませんけど、そうやって貴女があたふたしてくれるのならありがたく頂きましょうか」

 言い値でね、と三倉は冗談に聞こえない声の調子で言い放った。


♢♢♢


 凛は目の前には古式ゆかしき日本家屋が聳え立っている。どうやらこの荘厳な佇まいの建物が小雪の家らしい。なぜ、どうやって小雪の家に居るのかと言われると、長い話になるがちゃんと経緯はあるのだ。別にストーカーなどではない。断じて。

 あれから凛は大急ぎで学校へ戻った。いつもの遅刻魔のスキルを存分に使い、校門を持ち前の運動神経で飛び越え先生たちに見つからないように保健室に行った…のだが、そこは既にもぬけの殻で、小雪の姿はなかった。そこにやってきたのが、具合を見にやってきた神戸だった。

「おお、どうだ東雲。具合は良くなったのか?」

「いや…あの! 小雪ちゃん、保健室に来たみたいなんですけどもう教室に戻ったんですか?」

「ん? ああ、三嶋ならあんまりに顔色が悪かったんでな、家に帰したよ」

 家に帰った、という言葉に肩を落とす。学校まで来たのがまるで無駄足だ。しかも凛は小雪の家を知らない。まさに詰み、と言ったところだ。

「…お前も随分顔色が悪いな。人のこと心配してないで、お前も帰った方がいいぞ」

「…そう…ですよね」

「何か三嶋に用でもあったのか?」

「…小雪ちゃんにどうしても今日話さないといけないことがあったので…」

 でも会えないのなら仕方がない。どうにかして探すにも、この街だって狭いわけじゃない。三嶋という名前で探すにしたって時間が足りない。どうするべきか、と顔を俯かせていると、ドンッと強く背中を叩かれた。

「痛ッ!」

「よし、先生が三嶋の家まで送っていってやろう!」

「えっ?」

 思いがけない申し出に目を丸くしていると、神戸がポケットから車のキーを取り出して言った。

「小雪ちゃん、だなんていつの間にそんなに仲良くなったんだ、お前たち?」

「え、あ…いやあ…」

「お前はあんまり他人と関係を持たない奴だからな。そういうお前が、たまのたまに誰かのためを思って行動しようとしてるんだ。先生としては、そういう奴の背中は押したくなるもんなんだよ」

 そんなことを思っていたのか、と明後日な感想を抱いた。確かに凛は、いわゆる変な力のせいで必要以上に人と関わろうとはしなかった。おかげでクラスメイトはたくさんいても、仲のいい友達だと言えるような関係を築いてはこなかったのだ。それも、変な力のこともあるが、友達との些細なことを忘れてしまうことが怖かったから。それにまたいつどこかへ追い出されるかも分からない。親しい者をつくってしまったときに、また別れが来ると思うと恐ろしくてたまらなかった。

 凛とは違うが、小雪も人と一線引いたようなところがあった。実は小雪とは去年も同じクラスだったのだけれど、一年間業務的なこと以外を話すことはあまりなかったように思える。だから小雪も敢えてよく覚えていた、と言ったのだろう。だからこそ神戸は教師として、凛や小雪のことを彼なりに心配していたのだろう。

「自分は…小雪ちゃんの役に、立ちたいんです。」

「ほう、そうなのか。にしたって役に立ちたいってそりゃ違うんじゃないか?」

 あれからすぐに車を出してくれた神戸は、小雪の家に向かう車の中でいつもの熱血ぶりを発揮して熱弁する。

「国語教師として、日本語はきちんと使うべきだと教えておきたいな」

「…じゃあ、なんて言ったらいいんですか?」

「役に立つっていうのは言い換えれば、期待に応えるとか、貢献するとかそういう意味合いだ。東雲は、三嶋の期待に応えたいのか? それとも、三嶋の手柄を立てたいのか?」

「違います!そうじゃないけど…でも」

「そうだよな。それじゃあ対等じゃない。お前は見返りのために三嶋の役に立ちたいわけじゃないんだろう?それはつまり、役に立ちたいんじゃなくて、手を貸してやりたいんだろ?」

「…小雪ちゃんに、手助けをしてあげたい?」

「まあ似たようなもんだけど、もっとお前たちらしい言い方があるぞ」

 それはどんなものだろう、と神戸を見つめ続けたが、彼は照れたように分かるだろ、と快活に笑った。手助けよりも、もっと歩み寄るような、そんな大事な言葉。それを、誰かに言うことは許されるのだろうか。自分のような、中途半端な薄情者が。

「言葉は大事だ。使いようによっちゃ、どんなに気を遣ってても人を傷つける。大事にしろ、言葉を」

 その言葉に、凛は静かに頷いた。

 やがて車は静かに止まった。どこか見覚えのある風景に思わずきょろきょろと見回していると、神戸はさも当たり前かのようにしれっと言い放つ。

「ああ、三嶋の家は東雲の家の近くだからな! ほら、さっき渡った立体橋見覚えあっただろ? あの向こうが東雲の家の地区だよ。で、渡ったこっち側が三嶋の家の地区だ!」

 なんと目と鼻の先だろうか。恐らく橋を挟んで学区が違うのだろう。中学では一度も小雪を見かけることはなかったからきっとそうだ。

「ほら、そこが三嶋の家だ。俺も親御さんに挨拶しておきたいとこだが、アポをとったわけでもなし、更には無断で出てきてしまったから俺の携帯が鳴りやまない状況だ。首を免れるためにも俺は早いところ学校に戻らないとだめだからな! だから、これとこれを頼む!」

「えっ、ちょ、神戸ちゃん!?」

「それじゃあ、三嶋によろしくな!」

 神戸はそれだけ言うと素早く車に乗り込み、一度だけクラクションを鳴らして走り去ってしまった。相変わらず嵐のような人だ、と思う。渡されたのは小雪の忘れ物であろう体操袋と、保健便りだった。保健便りにはここ最近頻発している切り傷からなる感染症について書かれていた。

 現実逃避をしそうになりつつも目の前の家を見据える。予想していたものより遥かに威厳のある佇まいに内心訪ねがたいと思ってしまったのは事実だ。それでも息を吸い込んで、一言。

「小雪ちゃんの、手を、とりたい」

 最終的にこれが一番相応しいのだと思った。振り払った手をもう一度取って、一緒に悩むチャンスが欲しい。本当に、ただそれだけのことなのだ。

 震える指先で家のチャイムを押せば、涼しげな女の子の声がした。機械越しだから分かりにくくはあったが、それは確かに小雪の声だった。

「はい、三嶋です」

「あの、東雲です。小雪ちゃん…だよね?」

「…どうして家に?」

 ぎくりと肩が震える。こういうとき、神戸が隣にいないことを恨んだ。先生に連れてきてもらった、なんて言ったらあのときの話を言ったのか、なんて問答になりそうで慌てて話を逸らす。

「…あの、さっきは突然いなくなったりしてごめん。…少し、いやだいぶ動揺しちゃって…」

「変なことを言って困らせてしまったみたいね。ごめんなさい、もう気にしなくていいのよ。ただの夢の話だから。…じゃあ失礼するわ」

「――ねえ!」

「…まだ何か?」

「本当に、…本当にその夢を見ることは偶然だと思う?」

 小雪はインターフォン越しに黙り込んでしまった。だから凛は間髪いれずに言葉を続けた。そうしなければ、聞いてくれない気がした。

「凄く非現実的な話だと思う。理解の難しい話だった。…でも、小雪ちゃんが嘘を言ってるとも思えなかったの。だから、もう一回自分に話してくれないかな、夢の話を」

「話して…どうなるの? …本当に夢を見るだけなのよ。夢の話を誰にしたって夢なんて変えられないじゃない。目を瞑れば聞こえてくるのよ? あなたに何ができるって言うの?」

「確かに自分には、何も出来ないかもしれないよ」

「だったら尚更…どうしようも、ないこと…だわ…」

 だって、と小雪は声を震わせた。微かに伝わってくるその苦しみに私は思わず下唇を噛みしめた。

「だって、()()()は…もう、いないじゃない…」

 それは夢の話。それは現実の話。強い執念が見せた過去の情景。それを未だに引きずる魂の記憶。それに抗う術も見つからずに、彼女は一人自分のものではない罪悪感に埋もれてきたのだろうか。自分の見る視点で死んでいく人々を眺めるしかできない無力に、泣いたのだろうか。それはあまりにも苦しすぎた。それを一人で抱える強さなんてものは、きっと私にはないだろう。彼女が彼女であったからこそ、壊れられずに抱え込んでしまった苦しさだった。

「もしも、小雪ちゃんがその人に会えるなら…どうしたい?」

「…会える、なら?」

「その人に会えるなら、()に何をしてあげる?」

「…伝えたい。彼にとって本当に大事なことを。…教えてあげるしかないじゃない…。だって、あの人は真面目すぎたから、だからああなった…」

 まるで自らを語るかのように小雪は言った。けれど彼女の言葉は確かに今を生きる人の言葉だった。とても強くて、きっと小雪は誰も殺さない。彼女は殺人犯じゃない。ならば、自分もぐずぐずしていないで決断する時だ。

「小雪ちゃん。会いに行こう。…夢の中のその人に」

「…え?」

「会いに行こう。会いに行くしかないよ。…そうでしょう、小雪ちゃん」

「そんなこと…できるの?」

「何の策もなしにここにいると思うの?」

 凛はインターフォン越しにウインクをしてみる。正直、三倉の言う力がどんなものかはまだ分からない。けれど、勘かもしれないが、彼は信用できると直感していた。だからこそ、たった一つの可能性に賭けるのだ。そしてそれに小雪が乗るかも、賭けだった。

「―――…ええ、まあ、あなたは無鉄砲なところがあるみたいだから、ちょっとね」

「でも、乗るでしょ?この話。」

「…勿論よ。私こう見えて、こういう馬鹿な賭け事は、割と嫌いじゃないの」

 インターフォン越しに小雪が笑ったのを感じた。彼女は凛に聞かなかった。記憶の中の彼に会いに行ける理由を。…いや、今の彼女にそんな理由はいらなかったのかもしれない。何故だか会いに行くことが当たり前のようで、そこに疑問などなかったのだろう。

 扉から出てきた小雪はあのときと変わらない制服姿で、何かを決意しているようにも見えた。私たちは何も話すこともなく、静かに道を歩く。話す言葉は見つからない。そんなものは必要ないのかもしれない。だから、気が付いたら目の前にあの家があった。それくらいに、短い時間だったのだ。扉を開ければ、奥の方から声が聞こえてきた。

「お待ちしてましたよ」

 三倉が開いた扉の向こうに静かに佇んでいた。そして、無言で歩きだす。二人で顔を見合わせて少し早いペースで歩く三倉の後を必死で追った。

「三倉さん。それで、小雪ちゃんの時計はどこなんですか?」

 時計は人の命を差している、と三倉は語っていた。そして魂は継続しているとも言った。ならば、魂一つにつき一つの時計があると直感でそう感じていた。だから敢えて深く尋ねずに小雪ちゃんの時計、と呼称すると三倉は驚いたように目をまん丸にさせる。それが驚いた猫にそっくりで少し笑えてしまった。

「いやはや…人間というのは本当に順応性の高い生き物ですね。…東雲さんの言う通り、彼女の時計は存在しますが、この建物の中でも最も奥の部屋に保管されています。残念ながら、三嶋さんの魂は()()()()ですからね」

「罪…深き?」

 三倉の言葉に今度は小雪が眉を顰めた。それを予想していたかのように三倉は自己紹介もせずに当たり前のように話し出す。

「貴女の見る夢のお話、東雲さんからお聞きしました。詳しい話をせずとも貴女はその夢を通じて薄々なりとも勘付いているのでは?」

「…ええ。少しは知っています。あの夢が、夢ではないことも。あの人が…」

 そうして小雪は言葉を詰まらせる。けれど意を決したように喉を絞めたような声を絞り出した。

「あの人が…昔に起こった、殺人事件の…犯人だったのではないか、…ということ」

「ご名答です。ご存じの通り、今日はちょうどその追悼日でした。…この事件の犯人は最期の殺人と共に突然、この日を境に姿を消しました。自殺した、とも逃げ果せたとも言われています。ですから、犯人は分からずじまい。この事件は闇に葬り去られました」

 でも、と三倉は意味深に言葉を止めた。その顔は全く読めない。けれど、昏く鈍色に光った瞳は間違いなく一つの時計を強く睨むように見つめていた。

「私はその全てを見ました。だから貴方の名前を知っている」

「……彼の…」

「彼の名前は石元義郎(いしもとよしろう)。…三嶋さん、貴女の前世の内の一つに当たります」

 そう言って三倉は一つの時計の前で止まった。折り目正しく秒針の音を響かせている空間で、その時計も控えめに静かな時間を刻んでいる。その時計を見たとき、横で小雪がヒュッと驚愕したように息を飲んだ。

「にん、ぎょう…?」

「ええ。()()です」

 三倉が指を指した小雪の時計は、枠の左右に人形が装飾されていた。まるで楽しい人形の国の時計。可愛らしい色とりどりの洋服や髪の毛に飾られた時計。その無機質なガラス玉の瞳が時計を見上げる三人をじっと見下ろしていた。

「…どうして私の時計に人形があるの?」

 怯えを孕んだ声に彼女の顔を窺う。

「…人形嫌いなの?」

「え、ええ…昔からそうなのよ」

 その時計は周囲から比べても異彩を放っている。いい意味でも、悪い意味でもだ。人形嫌いな小雪を皮肉るような人形で飾られた時計。自らの魂の時計。それは、小雪にとっては原始的な恐怖を表しているようだった。

「私から言えるのは一つだけです。貴女が行かずとも、貴女が見ずとも、この罪は誰にも赦されることはない。心の奥底にへばり付いた執着の行く末はもう終わった過去のことなのです。それでも貴女が知るべきだと思うのなら、時間は決して貴女を拒むことはない」

 時計の真横に位置した三倉は硝子のような瞳で真っ直ぐ小雪を射抜いた。それは最初で最後の忠告だ。行く必要はないのだ、と言っているのだろう。

 小雪は躊躇うように目を伏せた。けれどすぐに長い睫毛を揺らして、光を孕んだ瞳の奥が確かに強く意思を宿していた。三倉はそれを見て少しだけ表情を和らげて、そっと右手を時計へ沿わせた。

「――さぁ、三嶋小雪さん。思い出しなさい」

 静まり返った部屋の中で、三倉の声がビリビリと脳に響いている。

「貴女の記憶を再生しましょう。…貴女の執着した、あの時間へ―――」

 三倉がそう言った瞬間、時計は音を奏で始めた。それはよく聞くボーン、ボーンという掛け時計の音によく似ていた。その音と共にぐらり、と視界が歪んで足元がふらつき出す。その中で、ただ一つ三倉の声だけが鮮明に響いた。

「目を閉じて、貴女の名前を呼びなさい」

 その声に導かれるように、小雪は言葉を発した。

「私は…石元、義郎――」

 その瞬間、時計から眩い光が溢れだして目も開けられなくなった。


因果応報…よい行いをした人には良い報い、悪い行いをした人には悪い報いがある。過去、および前世の因業に応じて果報があるという意。

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