プロローグ
生まれたころから、私という人間の輪郭は曖昧でぼやけていた。
それは、地に足のつかない感覚と共に、主に〝記憶〟という側面で顕著に表れていたのだと思う。物覚えが悪いと言うのか、それとも忘れっぽいというのか。何度か病院に赴いたことはあるが、納得のいく成果は得られなかった。しかもそのときの医者の表情さえ何一つ思い出せないのだから、きっと私の記憶は身体の老廃物と同じように昔の記憶を押し出して上書き保存をしているのだろう。まるで、自分には不要だと言わんばかりに。――だとしたら、両親の姿さえもう朧気な形でしか思い出すことができないのはなんと薄情なことだろうか。
けれど、一つだけ鮮明に憶えていることがある。それは――赤。厚く雲のかかった灰色の夜空を覆い尽くすように染め上げた、赤い色。何もかもが赤に埋め尽くされて崩れて行く音で、私は私と世界の境界を始めて感じた。
あの日、あの赤に呑まれなかった理由は本当に些細なことだった。私は両親と喧嘩をして、まだ幼かった双子の弟たちと共に家の外に締め出されてしまったのだ。弟たちは大泣きし、その場動き出そうとはしなかった。けれど叱られて機嫌を損ねていた私は、謝るという選択をせずに夜の世界に駆け出したのだ。一種の反抗心だったのだろう。こうすればきっと両親も心配して探しに来てくれるはずだ、と子供ながらに期待していたのだ。しかし子供の小さな足で遠くへ行けるわけもない。ほんの数分で夜の暗闇が怖くなって、結局いつの間にかとぼとぼと帰路についていたのだった。
行きは良い良い、帰りは怖いとはよく言ったもので。さっきまで輝いて見えた街並みも歩き慣れた通学路も夜はまるで別世界のようで、あの曲がり角から急に化け物が飛び出してくるんじゃないかと思うと恐ろしくてたまらなかった。だから早足になって家路につく最後の角を曲がる。――そこで、その恐怖は唐突に途切れた。真っ暗闇の街並みの隙間から大きな明かりが道を照らしていたのだ。最初は、帰ってくる私が怖くないようにと、両親が家中の明かりをつけてくれたのだと純粋に喜んだ。しかしゆっくりと顔を上げた瞬間、世界が赤く染まったのを見た。
灰色の夜空に浮かぶ夕焼け。地平線を焼き尽くしているような真っ赤な色。見上げる私の顔さえも熱く真っ赤に染め上げていく。そんな夕焼けが、私の手に火の粉を飛ばす。
家が燃えている。そう理解するのに数秒かかった。家の前には人だかりが出来ていて、近所のいつも小うるさくて意地悪なおばさんが弟たちに炎に巻かれる家を見せまいと抱きしめているのが見えた。どこか遠くからサイレンの音が近付いてくるのが、あまりにも遠い世界のことのようだった。幼い私にはそれがあまりに嘘のようで悪夢でしかなくて。私は夢遊病のようにふらふらと家へ近付き、轟々と燃える火の中に何の躊躇いもなく飛び込もうとした。もちろんすぐに勇敢な誰かに制止されて大事には至らなかったが、それでも私は信じたくなかった。家に帰りたかった。幼心が引き裂かれる思いだった。目の前で崩れて、灰になるまで轟轟と燃やし尽くされる我が家を目の前に何もできない無力に、私は喉を枯らしながら疲れ果てて気絶するまで泣き喚くことしかできなかった。
その後どうなったのかはほとんど覚えていない。両親との別れがどうなったのか、弟たちはどうしていたか。それ以外の大事なことも、それでないことも思い出そうとしても何もないのだ。ただ残ったのはあの悲惨な赤色だけで、それだけは私の頭の中から出ていくことはなかった。母の顔を忘れても、父の声を忘れても、あの炎の熱さだけはいつだって目の前にあるのだ。これも薄情だと言うのだろうか、それとも防衛本能なのだろうか。…どちらにせよ、これは過去の記憶だ。今を生きる私にはもう関係のないこと。
――そう。もう関係のないことなのだ。なのに、どうして。いつも夢に見てしまうのだろう。あの炎の色を。誰かの声を。誰かが、私を呼んでいる気がしてならない。私は、何かとても大事なことを忘れてしまっているような気がしてならないのだ。それを忘れてはいけない、私が憶えていなくてはならないものが何かがあったような気がするのに。…しかしそんな焦燥すら今この瞬間にも私から押し出されて消えていくのだろう。そうやって忘れていくたびに、何か重たいものを背負わされているような感覚に襲われる。
――そんないつもの後悔と夢の終わりに、澄んだ鈴の音が聞こえる。




