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第一章 因果応報 後編

 がやがやと聞こえる喧騒に、凛はゆっくりと目を開く。気怠い上体を起こせば、そこがどこだかぼんやりと理解した。どうやらここは橋の下に繋げられている小舟の上らしい。隣には小雪も倒れていた。

「小雪ちゃん、大丈夫?」

「んん…、ここは…?」

「橋の下ではあるんだけど…。どうも街の雰囲気が変というか…」

 感じた違和感をそのまま言葉を続けようとしてよく通る声に言葉が遮られた。

「そこの奥方、お嬢さん!屈強な男児に商人さんよ!老若男女誰でも知りてえ、風の便りも丸わかり!今週の大目玉!西の国の白い粉は万病速攻神の如し!腰の曲がった爺さん婆さんもすっと立ちあがったときにゃ若者の方が腰を抜かす!見聞きしたことに一切嘘なんざつかねえ!ああ勿論、信用ある話さ!――そこの奥方、お嬢さん!…」

 そのやけに古めかしい言い回しに二人は目を丸くして驚いた。そっと小舟から周囲を見回す。川に掛かった大きな橋。見た目は違うが、どこか既視感があるのは気のせいだろうか。そしてそこから見える街並みはどうみても現代とは思えなかった。背の高い建物は一つも見当たらず、木造の平屋が軒を連ねている。そこに歩くのは着物姿の人々。頭は見慣れぬ風に結い上げられ、男性のあの髪型はまさか総髪とでもいうのだろうか。だとしたらさっき大声で演説のようなものを繰り広げていたのは瓦版だとでもいうのだろうか。

「ここってまさか…江戸時代…みたいなやつ?」

「さすがに時系列までは想像できないわ…。けれど、事件の伝承のことを鑑みるに三百年は前の時代のはず…さっきの瓦版が確か江戸時代にあった速報の情報紙のことなら、つまりここはそう言った時代背景にあると推察できるわね」

「頭の回転早いな!」

「あくまでも持っている情報と現状を照らし合わせただけの素人の考察よ」

 小雪はそう言って実にあっさりと小舟から降りた。僅かに残る地面から橋の上を眺めているようだった。凛も続いて小舟から降りると、ふと違和感を覚えて周りを見渡した。

「あれ?…三倉さんがいない」

「…案内するのはここまで、ってことね」

「ここからは自分たちで探すしかないってこと…?」

「ええ。…でもきっと、充分なくらい贅沢な話だわ」

 小雪は橋の上へ上がる階段を昇りだした。橋へと上がると、こちらに気付いた周りは物珍しいものを見るように遠巻きにしている。…それもそうだ、今の格好は現代の制服姿。今の時代の人から見れば見たこともない可笑しな格好をした女の子が二人歩いているようなものなのだ。

「これからどうしよう? 三倉さんも意地悪だよ、名前しか知らない相手をどうやって探すって言うのか…」

「貴女は馬鹿? なんのためにあの時計があったと思うのよ」

「馬鹿じゃないし! …時計?」

「あの時計。人形だらけだったじゃない。三倉とかいう人は教えてはくれなかったけれど、何にも関係がないわけないと思うの。だからきっと、キーワードは()()。…私の大嫌いな人形」

 そう言って小雪は肩で風を切るように颯爽と歩く。だがさすがに人の目が気になった。過去の記憶を見ている、とは言えどうやらこの時代の人間に認識されていないわけではないことが周囲の反応から窺える。だとするとタイムパラドクスは起こらないものなのだろうか。記憶の再生って、一体どういうものなのか。とにかく現状ただの怪しすぎる人間なことに変わりはない、と慌てて小雪を止めた。

「さすがに目立ちすぎじゃない? この格好で歩き回ったら変人扱いで相手にされないかもしれないよ」

「…それもそうね。でも、着物なんて持ってないわ」

「確かに、そうなんだけどさ…」

「着物をくれる優しい方なんてこの時代いると思う? ただでさえ一般市民は裕福ではないのよ?」

「それくらい分かってるよ。何もそんな棘のある言い方しなくても…」

 不貞腐れる凛に、小雪はさも面倒そうに肩を竦めた。

 ――そのときだ。チリリン、と目の前から聞き覚えのある鈴の音が聞こえた。慣れない世界の中で聞こえた耳馴染みのある音に素早く反応すると、前方に毛艶のいい黒猫が見えた。どこか見覚えのある猫。それはよく見ると三倉の抱いていた猫に酷似していた。猫は尻尾を揺らしながら凛へと目配せし、どこかへ誘うかのようにゆっくり歩き出す。

「あの猫!」

「え? あ、ちょっとどこに行くのよ」

「あの猫、知ってる猫なの!」

「猫って…。兎の背中を追いかける御伽噺みたいなことするつもり?」

「江戸時代に来てることだって御伽噺みたいなんだから、一つも二つも変わらないよ!」

 呆れる小雪を連れて黒猫の背中を追っていく。橋を渡り、何本かの角を曲がったあたりで猫は一つの家の錠口から中に入って行った。凛は導かれるように夢中で追いかけて、勢い誤って家の敷地内に入る。自分の失敗に気付いたときには既に遅く、目の前にはこの家の住人らしき女性が不思議そうにこちらにやってきていた。

「あら? もうお散歩から帰ってきたの。今日は早いわね? …ええと、そちらは貴方のお友達かしら」

 おませさんね、と女性はくすくすと笑みを零した。その女性に、その微笑みに既視感を感じた。…けれどなぜそう思うのかすら思い出せない。何しろ、自分は人より物覚えが悪いのだ。そうでなくても、この時代の人に知り合いはない。気のせいだろう、と思い込むことで自分を落ち着かせる。

 女性はおっとりとした仕草でほつれた横髪を耳に掛ける。その足元で黒猫がゴロゴロと小さな鳴き声を零していた。

「それにしても、見慣れない格好ね。どこからいらしたの? もしかして異人さんかしら?」

「え、ええっと~…」

 突然心構えもなく入ってしまったせいで何の言葉も思い浮かんでこずに頭が真っ白になる。思わず助けを求めるように後ろからついてきていた小雪へと目線を送ると、心底可哀想なものを見るような目で彼女はこちらを睨んでいた。貴女、やっぱり馬鹿なのね、とでも言いたげな目線だった。

 小雪は小さく溜息を吐いてから凛の一歩前に出る。

「…あの、すみません。私たち、とても困っているのです」

「ええ、どうされたの?」

「私たち…西の方からこの地に出稼ぎに出た父を捜しにやってきたのですが…。旅の途中に可笑しな集団に突然身ぐるみをはがされてしまいまして、こんな可笑しな着物を着せられてしまったのです。…お金も盗人に盗られてしまい無一文で…父は行方知れず。もう、どうしていいのか分からなくて…。ちょうど、途方に暮れていたところなんです」

 小雪の涙ぐんだ声を聞いて、よくもまぁこうつらつらと嘘が沸いて出るものだと内心苦笑いを浮かべた。きっと彼女は世渡り上手だ。けれど、そんな言い訳が果たして時代の違う人間に通じるのだろうか、正直苦しい言い訳ではある。しかしこれ以外には思いつかない。というか私にはまったくさっぱり案さえ考え付かなかったのだから文句も言えないのだ。ただ大人しく小雪の後ろで震えているくらいしかできない。許して欲しい。

 しかし、目の前の純粋そうな女性は小雪の言葉に瞳の奥を揺らして口を抑えた。それは何とも昔からよくある同情のサインだ。

「まぁ! なんてお可哀想…。着物くらい私が貸すわ! それから泊まるのも家にいらっしゃい。こんなお若いお嬢さん二人を放ってなんて置けないわ! 大丈夫、家は父が一人いるだけなのよ。しかも、放浪絵師だから出かけばっかりで家には私とこの子だけ。だから心配しなくていいわ!」

 パチン、と女性は片目を瞑ってウインクをする。

「それに、私の家は案外裕福な方なのよ。だから大丈夫っ!」

「あ、ありがとうございます!」

「あらあらお礼なんていいのよ。ええと…」

 女性は困ったように口に手を当てて小首を傾げる。その仕草に思い至ってすぐに二人して名乗った。

「東雲凛と言います」

「三嶋小雪です。宜しくお願いしますね」

「凛ちゃんと小雪ちゃんね! 私は三条斎(さんじょうさい)。十六よ」

「あ、じゃあ自分たちの一つ下だね!」

「あら、お姉さんだったの! ごめんなさいね?」

 お茶目にニコニコ笑ってみせる無邪気な彼女はさっきよりも年相応に見えた。言葉遣いや立ち居振る舞いがなまじ綺麗なせいで年上に見えていたけれど、実際は見た目通りに可愛いらしい娘さんなのだろう。家に一人、というのは寂しくないのだろうか。絵師の娘なんて凄いことのはずなのに、彼女はあまり嬉しそうではなかった。

 斎に着物を貸してもらい小雪の指導の下着替えた二人は、石元義郎という人形に関係している人を探しに出ることにした。父を捜しに出る、という名目で出たため斎は私たちに少なくないお金まで持たせてくれた。なんて優しい人だろうか。

「それじゃあ、お気を付けていってらっしゃい。最近とても物騒なことが多いから、日が暮れるまでには帰って来て来た方がいいわ」

「はい! ありがとうございます!」

「私はこの子と待っていますから。本当にお気をつけて」

 斎の声に頷いて先を行く小雪に置いて行かれないように後へ続いた。

「斎!」

「あら、――ちゃん!」

 後方で声が聞こえる。斎と誰かの声だった。知り合いが尋ねにきたのだろうか。振り返ろうとして、小雪に名前を呼ばれてやめた。

 後ろからは、楽しそうな話声がしていた。記憶の再生というにはとても生々しくて、現実感が強くて、これから見なければいけない事実を思うととても気が重くなった。なぜなら今日は街の追悼日。恐らくこの記憶も、同じ日であるはず。そうだとしたら、この記憶の中で石元義郎は自らを殺すことになるのだから。


♢♢♢


 二人はひとまず、家を出た後に人形についての聞き込みをして回った。掴めた情報はほんの僅か。まず、この街では人形が有名ということ。その中でも有名な人形は三つに分かれる。からくり人形と、伝統の日本人形。それから等身大人形。どれもこの街では有名ではあるが、特に最後の等身大人形というのはごく最近出来た人間と見紛うほどにとても精巧に作られた特殊な人形らしい。小さな子供へのプレゼントや、子供が出来ない夫婦などが主に買ったりする、というものだそうだ。他の人形の種類については語るまでもない伝統的なものだ。それは聞き込みをすればすぐに分かった事実だった。

 ただ人形がキーワードだとしても…その石元義郎という人物が人形を買ったのか、それとも売っているのか。それが極めて難しい問題だった。売っている人物ならいざ知らず、もしも買った方ならば調べるのも困難を極めるだろう。

「買った方なんて顔が割れないわよ。人形がキーワードなら売り手を睨む方が普通じゃないのかしら? 人形師が殺人犯なんて結構ありそうな話じゃない」

 小雪は自らのことなのに躊躇うことなく、だが吐き捨てるように言う。

「…自分の前世について随分淡々と調べるね。さっきまで恐怖に怯えてた小雪ちゃんが信じられないよ…」

「仕方ないじゃない。割り切るわよ、そんなこと」

「やっぱり名前で聞き込みしたほうが…」

 人形、石元義郎で聞いて回れば今よりもずっと早いはずだ。こんな遠回りの聞き込みじゃ日が暮れたって石元義郎へたどり着けない。そう思いながら提案するが、小雪は頑として首を縦に振らなかった。

「こんな狭い町で手っ取り早いからって名前で聞き込みなんてしたらあからさまに怪しいじゃない。もし本人の耳になんて入ったら、それがもし本物の殺人犯だとして間違いなく警戒されるに決まってるわ」

「な、なるほど確かに…」

「本当、貴女って見た目よりも脳筋よね。これだから直情型は…」

「ちょっ…毒舌すぎない!?」

「そうかしら? 昔からこうなの。可愛げがなくて悪かったわね?」

 小雪はにこり、とわざとらしく清々しいくらい満面の笑みを浮かべた。その顔にデジャヴを感じて背中が冷たくなった。最近こんな笑顔をよく見るような気がする。弟たちと言い、三倉といい、小雪といい…。あれ? 私の知り合いってこんなのばっかりだったっけ。

「自分の周りって…つくづく変わった人ばかりな気がするよ…」

「私、貴女がその筆頭だと思うけど?」

「どこをどう見ても、自分は普通だよ!」

 慌てて言い返すも、小雪には効いてもいない。涼しい顔で彼女は歩き出してしまう。

「何か言ったかしら。…いつまでもそんなところに突っ立ってないで探したらどう? 貴方のその口はお飾り? なら今すぐ縫って差し上げるわよ」

「怖いこと言わないでよ…! そこ塞がれたら一体どこから喋れと!」

「知らないわよ。自分で活路を開きなさいな、子供じゃあるまいし」

 ふん、と小雪が子供っぽくそっぽを向いた。その変わりように驚きを隠せない。心を許してくれたのか、それともどうでもいい相手だからそんな態度を取るのか。人付き合いを今までずっと避けてきたせいでいまいち掴めなかった。

 そんな凛のあたふたした態度すら不満なのか、小雪は横目でこちらを睨む。

「…ねぇ、やっぱりキャラ変わったよね? めちゃくちゃ口悪いよね? これって自分の気のせいなの?」

「失礼ね。私ほど口の優しい者はいないわ。お飾りならその耳、今すぐちょん切ってあげるわよ」

「怖いって! 変なところ殺人犯と共鳴しないでよ!」

 二人の慎ましやかな会話は思ったよりも弾んでしまい、気が付けば橋を優に通り越して中心街から逸れ人通りが少ないところまで来てしまったらしい。周囲の家々はどこか閉鎖的な雰囲気があり、戸は固く閉ざされているように見えた。そんな戸の足元には数枚の紙きれが踏まれた痕もそのままに捨て置かれている。それは、町の至る所に落ちているようだった。

 凛は中でも綺麗なまま捨てられている紙を拾い上げる。それは主に絵が中心として描かれているものだが、下方に文字も書いてある紙だった。軽く埃と土を払って文字を目で追った。それだけで、恐らく先ほどの瓦版売りが歩きながらばら撒いていったものだと見当がついた。

「…〝()()()()()()〟…?」

()()()じゃなくて?」

 思わず文字をそのまま声に出して読むと横から紙を覗き込んだ小雪は酷く不快そうに眉を顰めた。

「初めの遺体は美しい町娘。簪の良く似合う髪の長いお嬢さん。右肩から左の腰にかけて背中をバッサリ斬られる。それに飽き足らず、鬼は娘の腹をめった刺し。首には深くまで斬りつけられた痕。服は激しく乱れており、逃げ惑ったことが予想される。これぞまさに鬼畜の所業…だって」

「…酷い話ね」

「…まだあるけど読む?」

「――いいえ。内容までそんなに聞きたくないわ。要点だけ言って」

「二人目は普通の商人。男性だって。共通点は…と、首に深い切り傷があるってことかな。…次は、お婆さん。こっちも首に深い切り傷」

 幼い少女、青年、妊婦。書かれている情報はどれも凄惨なものだ。伝承通り老若男女問わず、本当に誰彼構わず殺していたということだ。殺し方だって、こうしてみれば随分とお粗末に見える。まるで行き当たりばったりの犯行だ。この分じゃ恐らく凶器だって一つではない。手あたり次第、武器になるものを何だって使っているように見える。だから犯人像が分かりづらいのだろう。特に、こんな時代では猶更だ。

「共通点は、首の切り傷?」

 素直に頷く。逆に、それ以外の共通点は一切ないと言ってもいい。だから一つだけはっきりと分かることがあった。この犯人は〝首〟に対して何らかの執着を持っている。それ以外に何の差別もないのだ。年齢も、性別も、容姿も、何もかもすべてがどうでもいい。それは間違いなく、異常だ。

「…これが、あの事件ってことよね」

 小雪は苦虫を噛み潰したかのような顔になる。

 当たり前だ。受け入れられるはずもないだろう。誰が、自分の前世がこんな酷い殺人犯でした、なんて言われて納得できるのか。例え魂の記憶としてそれが残っていたとて、複雑だなんて言葉で割り切れるわけもない。自分は何もしていないはずなのに、お前がやったのだと冤罪を擦り付けられているような気分。でも間違いなく、自分の魂は罪を犯しているのだ。自分の知らない過去の記憶の中で、誰にも赦されないことをしているのだ。それを目の当たりにして、答え合わせをさせられて。断頭台の前へ自分の意思で歩かされているような心地に違いない。

 小雪はすぐに紙をくしゃくしゃと丸めて乱雑に地面に放り投げた。

「…行くわよ」

「小雪ちゃん…」

 その横顔は蒼白で、今にも倒れてしまいそうなほどその存在は希薄だった。きっと毒を吐くのは虚勢のためだ。けれどそんなことをしたところで心の本質の不安はちっとも取り除けはしない。じりじりとにじり寄ってくる不安も罪悪感も、小雪を逃がしはしないだろう。

 暫く二人で人影も疎らな町の中で聞き込みを続けた。しかし、そう簡単に情報が掴めるわけもなく、大体は最初に聞いた話と似たようなもの。新たな情報はちっとも入ってこないまま時間だけが過ぎていく。

 ふと三倉の忠告を思い出した。

『貴女が行かずとも、貴女が見ずとも、この罪は誰にも赦されることはない。心の奥底にへばり付いた執着の行く末はもう終わった過去のことなのです』

 そう。過去のことだ。しかも、一度命を終えた前の生の話なのだ。だから既に結末は決まっていて、例え今を生きる凛や小雪が何をしたところで行きつくところは死でしかない。ただ、なぜ石元義郎が殺人を犯したのか、何を求めたのか。それを知ることだけはできるのだ。だから三倉はこの日、この時を視ることを良しとしたのだろう。だって、視たところで何も変わらないのだから。――あるのはただの、自己満足でしかない。

「…東雲さん。私、等身大人形のことが少し気になるの。だから等身大人形の人形師を辿ってみるわ」

「分かった。自分は他の線から探ってみるね。あ、暗くなる前には斎さん家に戻ってよ? 夜は人斬り鬼がでるって言うんだし…」

「何を言っているわけ? 既に死んだ過去の自分が現在進行形で生きている未来の自分を殺せるわけがないでしょう。ゾンビ映画かSFもののアニメの見すぎよ。もう少しくらい古典文学や名作映画でも見たらどう? 貴女の鳥頭もどうにかなるかもしれないわよ」

「心配しただけなのにそこまで言うの!?」

 もう随分と慣れた毒舌に苦笑いしてから、小雪と分かれて寂びれた町を歩き出す。きっと辻斬りが始まる前にはもっと活気のあった町だったはずだ。だのに今は、あちこちにこびり付いた死の臭いに怯えるように身を隠している。石元義郎の身に、一体何が起こってしまったんだろう。彼はなぜ、人を殺さなければならなかった?

「っとすまねぇな」

 トン、と誰かと軽く肩がぶつかる。体格のいい男性だった。その場でふらついてしまって慌てた様子の男性がぐっと腕を掴んできた。

「あ、いえ。こちらこ、そ…っ!?」

 ――突然目の前が真っ暗になる。周りの音も鮮明に聞こえているし、自分の声だって分かるのに、酷いノイズが思考の邪魔をする。まるで誰かが雨の中泣きじゃくっているようなそんな酷い騒音。その中で誰かの声が耳に直接聞こえる。そう、声が聞こえているんだ。何だ? 声は一体、なんて言っている?

『…き、…お…』

 ――聞こえている。確かにどこからか聞こえている。でも、一体どこから聞こえているのか分からない。周りをいくら見渡せど、真っ暗な闇がそこにあるだけで何も見えない。懸命に目を凝らして周囲を見ていると、真上に大きな月が見えた。だから、これは夜なのだとすぐに気付けた。

『…おゆ…き、…』

「おゆき…?」

 一度自覚したら鮮明に聞こえてきた。彼の求める名前が、怖いくらいに。

『おゆき…おゆき…どこに、…おゆきどこに…どこにいるんだ…‼』

 その声は悲壮に叫び、血を吐くほどに悍ましい狂気を孕んでいた。低くしゃがれた男性の声。最初はこの声を老人の声だと思っていた。だが、今なら分かる。彼の声は潰れたのだと。叫び、藻掻き、嘆くたびに喉が潰れ、まるで老人のようにしゃがれていった。そしてその声で〝おゆき〟を求めている。探しているのだ。

 そこでまた三倉との会話を思い出した。犯人は探し人か探し物か分からないけれど、何かを探していたのだと。それは文献上諸説あるうちの眉唾ものの一つだった、と。そこでいくつかの推論が浮かんだ。

 この殺人は〝おゆき〟という人を探すために起こしたものなのだ。ならば〝おゆき〟とは何なのか。誰なのか。女性か、男性か。探しているのであれば、探している石元義郎には性別くらいは分かるはずだ。なのに、この殺人には性別も年齢も何も関係がない。老若男女が問わずそのどちらもが被害に遭ってしまう。――なぜ?

「お、おい、大丈夫か?」

 考え事に夢中でつい人に気が付かなかった。ふと顔をあげるとそこには少し草臥れてはいるものの端正な顔立ちの青年がいた。そういえば、さっきこの人とぶつかったのだった。そして、その瞬間視えた。そうだ、視えたのだ。

「あ、あのっ!」

「ん?」

 凛は咄嗟にその人の着物の裾を掴んでいた。思考が纏まっていない。だって今し方急に視えてしまっただけで、この人に何を切り出したらいいのか分からない。それでもなんとか繋ぎ止めなくてはいけないという思いで声を絞り出した。

「あ、あの! ちょっとお聞きしたいんですけど!」

「? ああ、何だい、お嬢さん」

「に、人形師について知りたいんです! この町には、等身大人形と伝統人形、からくり人形の三つがあると聞きました。詳しく御存じありませんか!」

「…人形だぁ?」

 凛が人形、というワードを出した途端に先ほどまで好意的な態度だった青年は大きく顔を歪ませた。どうやら人形についての話題は彼にとってタブーだったらしい。けれど、凛はついさっき彼と触れた瞬間に石元義郎についての記憶を視たのだ。間違いなく、この青年は何かを知っている。

「あ、あの…何でもいいんです! 知っていることがあれば教えてください!」

「うるせぇ、人形のことなんざ知らねぇよ! 俺は人形が大嫌いなんだ、特に等身大人形なんて下手物はな! あんなもんのどこが面白ぇのかちっとも分かりゃしねぇ!」

 青年は憤慨したようにそう叫び、言葉を切って歩き出してしまう。大急ぎでその背を追っていけば、気配を察知されて舌打ちをされた。

「あ、あの! ど、どうして等身大人形がそんなにお嫌いなんですか!」

「ついてくるなクソガキが! あんなもんは気色悪い以外の何物でもねぇんだよ! 人間の魂を取る鬼みてぇな存在だ! あんなもんがあるから兄貴は!」

 兄貴は、と青年は言葉を詰まらせ足を止めた。自分に言い聞かせるかのようにそう暴言を吐いた彼は、酷く傷ついているように見えた。その姿を見るに、間違いなく何かある。凛はようやく見えてきた突破口に藁にも縋る思いで飛びついた。

「その、お兄さんがどうしたんですか?」

「っ手前ぇには関係ねぇだろ! 出しゃばってくんじゃねぇ小娘が!」

 伸ばした手を払い落され、初対面の青年に大声を出される。今までに経験のないことだった。そんなことをされたら、自分がどんな反応をするかも知らなかった。だから意外にも、青年の怒鳴り声に対して恐れなかった自分に驚く。同時に、恐れよりも湧き上がってきたのは純粋な怒りだった。

「~~ッこっちだっていろいろあるの、この乱暴者! 自分だって、視たくて視てるわけじゃないし! 好きで出しゃばってるわけじゃない!」

「乱暴者だぁ!? 人にぶつかってきておいていい度胸してやがんじゃねぇか! その口今すぐ縫ってやる、歯ぁ喰いしばれ!」

「何さ、殴りたいなら殴ればいいでしょ!? 身体だけ大きくてやることが縫うって女子力アピール!? それとも手加減のつもり!? 江戸時代が時代の先取りするなフライング野郎!」

「フラ…ッ? んだか分からねぇが侮辱されてんのは分かんだからなァ!」

 一度頭にきてしまうと止められなくなり、自分の思いつく汚い言葉で罵ってしまう。男と女の言い争いという奇異な状況に、痴話喧嘩かと言うように野次馬が出来始めていた。火事と喧嘩は江戸の華、とはよく言ったものだ。

 一歩も引かずに睨み合いを続けていると、さすがに青年の方が周囲を気にし始めた。やがて渋い顔で酷く顔を歪めながら青年の方が先に視線を逸らした。

「ちっ…手前、そんなに知りてぇならこっち来い!」

「…何する気? 路地裏に連れて行っても一方的になんてやられないんだから!」

「馬鹿か? 目立つんだよこのクソガキ!」

「子供じゃない! 貴方だって…ええと、塩みたいな顔しといて!」

「誰がしょっぺぇ顔だって!?」

「はは、塩顔なんて古代人には分かんないか」

「だから縫うぞ手前ぇ! いいから黙ってついて来い!」

 スパーン!と思いっきり頭を平手で叩かれてとりあえず喋るのをやめた。普通に男女平等の制裁に涙が出てくる。大人しく腕を引かれて着いていくのは危機管理に欠けている気もしたが、本能的にこの青年は悪い人ではない気がする。ちょっと口は悪くて男女平等すぎるけれど。

 裏通りを抜けて暫く歩いたところで、青年は一つの家の前でようやく足を止めた。そこは古びているがきちんと綺麗に整えられた店のようなところだった。ゆっくり視線を持ち上げて、木板に書かれている文字を読み上げる。

「石元、人形店?」

「…ああ」

 そう頷いて青年は戸に手を掛けた。軋んだ古い音を立てて戸は開き、その全貌をこちらに見せてくる。内装は至って普通の家とあまり大差はない。ただ、普通と違ったのは店の中に本物の人間によく似せられた、滑らかな陶器のような素材で出来た等身大の人形が小奇麗に並べられていることだろうか。日本的な人形というよりは、西洋のドール文化に近いのかもしれない。瞳に嵌めこまれているのは硝子だろうか。どこを見ているのか分からない、何だか不気味だと感じてしまう。それは人間に備わったごく本能的な感覚だ。作り物がよりリアルであればリアルであるほど、本能的に忌避する。そういった類のもの。

「何で…人形嫌いなあなたが人形店に来るの?」

 だからこそ、人形が嫌いだと往来で宣ったこの青年がここへ来るのか理解できずに素直にそう言った。すると、青年は呆れたように大きな溜息を吐く。

「…馬鹿か? 手前ぇ、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが…本格的に馬鹿だったのか…」

「馬鹿馬鹿言わないで……石元?」

 石元人形店。石元人形店?

 思わず表へ出て木板を二度見どころか三度見する。どっからどう見ても石元、だ。まさか、と青年へ勢いよく振り返る。

「つ、つかぬことをお聞きしますが、お名前は…?」

「はぁあ? 今更か? …まあ減るもんじゃねぇから名乗ってやる。俺は石元義之(いしもとよしゆき)。この石元人形店の次男坊だよ」

 石元義之。義郎では、ない。そう聞いてフゥーッと深く息を吐き出す。ほんの一瞬だけ生きた心地がしなかった。

「義之…そ、そっか。義之か」

「俺の名前がなんだよ。…で、人形について何が聞きたかったんだ?」

 義之はさっきまでの剣幕はなんだったのか、落ち着きを払った様子でそう尋ねてきた。聞いていいものか少し躊躇い、けれどここまできて引き下がれるわけもなく腹を括る。どうせ過去が変わらないというのなら、ない度胸よりある度胸だ。そう、女は度胸!

「あ、あの! 実は、探している人がいるの…」

「それ、人形と関係あんのか?」

「――ある、と思う。少なくとも、ここが石元人形店だっていうなら。……一応誰にも公言しないでほしいんだけど…」

「言わねぇよ、手前みたいな頭の可笑しな女の話なんざ、誰が真面目腐って聞くんだよ」

「言い方!」

 だめだめ、落ち着け凛。アンガーマネジメントだ。ゆっくり深呼吸をして、己の精神をフラットに。そして、時に大胆に行け凛。

「人形に関わってる人で、石元義郎って人を探してるんだ」

「石元義郎?」

 棘ばっていた義之の雰囲気が拍子抜けしたように緩む。

「そりゃ、俺の兄貴だよ」

「そうなんだ…えええ!?」

「おい、そんなに驚くことか?」

 驚かないことがあるだろうか。いいや、石元人形店に連れてこられた時点で少しくらいは想像していた。していたけれど、ここまで直球で当たりを引くとは思わなかったのだ。

「んだよ。兄貴のこと探してたってことは、あんな周りくどい絡み方しておいて人形の注文か? まあ、そりゃそうだな。ここらで等身大人形を作ってる腕のいい人形師なんて、兄貴の他いねぇもんな!」

 義之は先ほどまでの不機嫌とは打って変わって喜色を滲ませて笑う。思いつめた表情は成りを潜め、純粋に兄を尊敬している様子が伺える。だとしたら、どうして義之はあんな風に人形を嫌うのだろう。彼は、兄ことをこんなにも自慢に思っているというのに。どうして人形だけを、あんなに毛嫌いするのか。

 少し躊躇って、凛は敢えて直球に切り込むことを選んだ。

「なら失礼を承知で単刀直入に聞かせてもらいますけど〝()()()〟という方をご存じですか。自分たちは、義郎さんと〝おゆき〟を探しているんです」

 そうはっきりと口にした瞬間、義之の表情が抜け落ちて顔面から一気に血の気が引いた。

「どうして、()()()()を……」

「…とある人の伝手です。義郎さんが〝おゆき〟を探しているのを知っています。その件で、何か大変なことに遭っている…んですよね?」

「…それは……」

 義之はしどろもどろに視線を忙しなく動かす。…義之は、何かを知っているのだ。〝おゆき〟について。そして、義郎について確実に何かを隠している。

「義郎さんは、おゆきさんという女性のことを…探している?」

「…違う……」

「え?」

「いいや、…違わねぇか…()()()、は…」

 おゆきは、と何度も義之は口ごもった。その先を言ってはいけない、とでも言わんばかりに何度も何度も下唇を噛む。恐ろしいものを口に出すように、躊躇って躊躇って、そうしてようやく重々しい唇を開いた。呼気が震えている。

「お雪は……俺が初めて造った、()()の名だ…」

 ――人形?

 思ってもみなかった言葉に、呆けてしまう。人形。人形とは。視線を巡らせて、周囲にある等身大人形を見る。人形とは、この人形のことだろうか。

 視線に気付いたのか、義之は真っ青な顔を片手で覆うようにして、まるで罪の告白をするかのようにか細い声で言った。

「――ああ。俺の造った、出来栄えの悪い、酷く醜い人形だ…」

「義之さんは、人形が嫌いなんじゃ…?」

「…ああ、嫌いだ」

「ならどうして…」

「…俺だってよ、次男坊だって言ったって、親父や兄貴と同じことしてみたかったんだよ。別に売れるもん作るつもりじゃあなかったさ。ただ…俺にも造れるんだ、って兄貴に示したかっただけだ」

 そんな、ちっぽけな意地できったねぇもんを作ったんだ、と義之は自嘲気味の笑みを浮かべた。しかし引き攣った弧を描く口角は段々と下がっていき、やがて一文字に引き締められた。深い溜息と共に、義之の罪は告白される。

「…俺は昔から手先が不器用で、代々続くこの店を継ぐ才能がこれっぽっちもなかったんだ。人形を造る才がまるでなかった。…けどよ、俺と違って兄貴には人形を造る才能があった。――兄貴の造る人形は最高でよ! まるで生きてるみてぇで、繊細で、何より美しかった…。俺もいつか、一度でいいからあんな人形を造れたらと…憧れてたんだ」

 義之は自分の言葉に一喜一憂するように表情をころころと変えていく。思い出話を語る義之の瞳はキラキラと輝いていた。それほどに、幸せな思い出なのだろう。それと同じくらいに感じる強い劣等感は彼の感情を搔き乱している。兄の才能に何度も嫉妬していたのかもしれない。ようは人形そのものが義之にとってはコンプレックスを形にした存在だったのだろう。

「〝おゆき〟を造り始めたのは三年くらい前からだ。俺には才能も、技術もないからずっと前から人形を少しずつ造り始めた。髪の色はこの色で、肌はこんな色。表情はこんな表情がいい。初めて一からたった一人でつくる人形はそりゃあもう難しかったさ。…でもやっと二か月前、俺の初めての人形の頭部だけが完成した。――まぁ、元々体を造る気はなかったから別によかったんだけどな」

「そうですか…」

 〝おゆき〟の話をする義之は楽しそうだった。だから彼が単純に人形を嫌っているわけじゃないことくらいはすぐ分かる。そうでなければ、人は嫌いなものに何年もかけて向き合ったりしない。

 懐かしむように、愛おしむように、義之は瞳を閉じて微笑みながら語る。

「初めて造ったその人形に、俺は自分の名前の義之から〝ゆき〟だけをとって、〝お雪〟という名前をつけた。初めて造った人形だからもう、嬉しくてたまんなくてなぁ。もちろん、完成したお雪を一番最初にみせたのは兄貴だったよ。…兄貴のことだから、当然喜んでくれると思ってた」

「喜んで、くれなかったんですか…?」

 義之の瞳に影が落ちる。それはとてつもなく仄暗い影だ。

「いや…喜んではいた。褒めてもくれたさ。……でも、兄貴は確かにその日から…おかしくなっちまったんだ……」

「おかしくなった、って…どういうことですか?」

「…最初は俺が初めて造った人形だから大事にしてくれてるんだと思ったんだよ。けどな、日に日にその執着は強くなってったんだ。最初は俺のいない間にお雪と一緒にいたり、ずっと眺めていたりしてた。でも段々俺のいる前でもそうするようになって…仕事の手が空けば常に一緒にいるようになっちまうくらい、兄貴の感覚は狂っちまったんだ」

「それってもしかして…義郎さんは人形に…」

 そこまで自分で言って、その先が言えなくなる。だって言ってしまえば嫌でも理解しなくちゃなくなる。石元義郎が執着したのが、義之の作った首だけの人形のお雪だったとして。ならどうして、彼は人を殺したのか。

「信じたくはなかったけどな…たぶん、兄貴は、お雪に惚れちまってたんだよ」

 ――ああ、と感嘆を漏らす。溜息のようなその声は、自分の掌の中に消えていく。

 人形に恋なんて、それで人を殺すか。そう言われるとちっとも実感が沸かない。でも、それは人が二次元のキャラクターや三次元のアイドルに恋をしてしまうのと同じで、そういうことがありえないとは一概には言えない。それがただアイドルでも二次元でもなくて、弟が初めて造った等身大人形の首であっただけで。

 たった独りで、お人形遊び。それが義之の目にどう映ったのかは明白だろう。

「だ、だから…! 俺は、怖くなって、お雪を、()()()……」

「え?」

「…お雪の首を捨てちまったんだ。それが、思えば切欠だったと、思う」

 義之は両手で自分を抱き締めるようにして顔を真っ青にさせた。そのときの兄を思い浮かべているのだろうか?

「う、嘘をついたんだ」

 震えた声が、心の最も柔い部分を自ら切り裂いていく。それは罪の切り分けだ。己の罪悪感にメスを入れている。それでも、そうしなければ立っていられない。義之もそうなのだ。いまここにいる凛に懺悔を聞いてもらっている。

「嘘、嘘なんだ。俺、俺が嘘を吐かなけりゃ…あ、兄貴は、あんな…あんな!」

「お、落ち着いて義之さん、ちょっと!」

 義之の両肩を触る。あ、と思う間に目の前の風景が変わった。――目の前に男性がいる。見たこともない男性だ。義之とは違って大人の男性に見えた。けれど、とてもよく似た目鼻立ちをしている。義之よりも体格が良く、義之よりもほんの少し、お人好しそうな柔和な雰囲気の男性だった。その男性が切羽詰まったように迫ってくる。

『義之っ! お雪は、お雪はどうしたんだ!?』

『あ、ああ…あれ、な』

『どうしてないんだ!?』

『…実は、たまたま店にお雪を置き忘れちまったときに、とある客に見られちまってな。…どうしてもお雪の首を譲ってほしいとあんまりにしつこく言うもんだから…売ったよ』

 義之の言葉に、男は顔色を失くしてふらふらと踏鞴を踏んだ。

『…売っただと…!? お前は、なんてことを…!』

『あ、…兄貴こそ、何興奮してんだよ! たかが俺の造った人形くらいで…。兄貴が造った人形の方がずっとずっと綺麗じゃねぇか! 別にいいだろ、俺の造った人形だ! どうしようったって構やしねぇだろう!』

『そんな…お雪…』

『さて、俺もそろそろ売りに出…』

『許さない…』

 え、と小さな困惑の声が義之から漏れる。視線の先で、男性の顔が赤く赤く染まっていく。その形相は見たこともないほどに歪んで、まるで鬼面のように恐ろしく崩れていく。

『俺の、お雪だ…ッ! 許さないッ許さない…ッ! …絶対に見つけてやる…‼』

 バツン、と唐突に見えていた映像が途切れる。両手が義之の肩から自然と離れていた。ほんの数分のトリップだったのに、全身にびっしょりと冷や汗を掻いている。恐ろしいほどの殺気だった。とても人形に対して向ける感情には相応しいものではなかった。

「俺が、俺が悪かったのか…? 一体どうしてこんなことになっちまったんだよ…!」

 義之は全身を縮こませるように震えていた。自分の体を抱きしめても震えが止まらずに、どうしたらいいか分からないようだった。知りもしなかった兄の執着。知りたくもなかった兄の姿。どうして、という動揺と不安と慟哭。それは家族が自分のせいで化け物になってしまったことがどうしても受け入れられないという静かな悲鳴だった。

「義郎さんは…」

「分からねぇんだ! あの日から、家に…帰ってこねぇ…! そうしたら、あの日を境に…人斬り鬼が!」

 その先は言わなくても予想がついた。恐らく義之も自分の兄がこの事件の犯人なのではないかと気付いている。気付いていて、もう兄が後戻り出来ないことを恐れている。しかも引き金は、自分が造った人形だ。義郎が可笑しいことに気付いていたのに、気付かなかった振りをした代償はあまりにも重かったのだ。

「首を…お雪の首を、持って帰ってくるというのは…駄目なの?」

 捨てたのであればまた取り戻せば、少なくとも今の義郎の強行は止まるはずだ。ここにあると主張さえすれば、誰かを殺す必要なんてないはずなのだ。だが、義之は勢いよく首を横に振った。

「どこにもねぇんだよ! あの日捨てたはずの場所にお雪の首はなかった。俺だってあれからずっとお雪を探してる! でも見つからなかった! …俺だってもう、どうしたらいいか分からねぇんだよ‼」

「義之さん…」

 それ以上義之にかけてやる言葉が見つからなかった。この人にここまで話させておいて、自分には何が出来るだろうか。ここは、時計に刻まれた記憶の中だ。こうして干渉することが出来ても、彼の苦しみを取り除いてあげることはできない。この世界は既に終わっている。

 崩れ落ちた義之の姿を見て、凛はやはり自分の無力を呪うのだった。


 ♢♢♢


 石元人形店を出た頃には既に日は落ちかけていた。もうすぐ夜が来る。だから、義之の前を去る決心をした。彼を置いていくことに良心が酷く痛んだ。まるで助けを求めている病人を見捨てているような気分だった。それでも、これが過去だということを割り切らなくてはならない。二人は誰かを助けにきたのではなく、真相を知りにきただけ。小雪が欲しいのは事件の解決ではなく、自身の納得なのだ。

 三条家に戻ると、縁側に斎が一人座っていた。膝には黒猫を乗せていて、凛の顔を見るや否や表情を明るくさせて立ち上がった。

「あら、おかえりなさい! …って、小雪ちゃんは一緒じゃないのね…」

「まさか、小雪ちゃんはまだ帰ってないの?」

「ええ。…でも大変、今…怖いことばかりだから、その…」

 日が沈んだ空を見上げ、斎は言いにくそうに口を噤んだ。確かにもう暗い中で女の子のたった一人での行動は危険だ。しかも相手は一応辻斬りで。例えここが過去の記憶の中だからといって、会話することができて触れることもできるのだから…怪我をすることもあるんじゃないだろうか。そう思うと急に心配になってくる。

「あの、戻って見てきます! 小雪ちゃん抜けてるところもあるから、もしかしたら道に迷ってるかもしれないし…」

「でも凛ちゃんだって一人じゃ危ないわよ! …ああそうだ!」

 ふと斎は何かを閃いたかのように小さく手を叩いた。それから、家の奥の方へ急いで引っ込んだかと思うと桜色の風呂敷に包まれた四角くて大きい箱を抱えて戻ってきた。縦に少しばかり長い重箱のようなものを持って小走りになる斎の後ろを、ちょこちょこと黒猫が着いてくる。それを斎は笑いながら制止した。

「駄目よ、(さっ)ちゃん。着いてきちゃだーめ!」

 斎は足元にじゃれつく猫に優しく注意する。

「…よく懐いてるんですね」

「ええ、そうなの。とっても可愛いでしょう? 凄く賢くて、私の言うことちゃんと分かってるのよ」

 斎はそう言って箱を横に置くと、猫の鼻をつんと突く。

(さっ)ちゃんはお留守番よ」

 その言葉に反応するように、猫はにゃあと一声鳴いてみせる。返事なのか抗議なのか、凛にはその違いは分からない。それでも斎は満足そうに笑うと、まるで人間に話しかけるようにじっと目を合わせて小指を突き出した。

(さっ)ちゃん、私がいない間家をよろしくね。大丈夫、用事を済ませたらすぐに戻ってくるから。だからいい子で待っていてね。約束よ?」

 斎はそう言って突き出した小指と猫の前足繋げてゆっくり上下に揺すった。指切りげんまん、と歌う姿に猫も分かっている、とでも言うように、にゃあと大きく鳴いた。殺伐としたこの過去の記憶の中で、唯一微笑ましい光景だった。チリリン、と猫が首元の鈴を鳴らす。澄んだ鈴の音。それを聞くと、何か大事なものを忘れてしまったような、そんな空白感を憶えてしまうのだ。でも、それが一体何なのかよく分からない。

 頭を過振りして自分の中の不安を一時的に吹き飛ばす。猫との約束を終えた斎は再び風呂敷を腕に抱えて凛へと駆け寄った。

「斎さんもご用事ですか?」

「ええ。知り合いの家に行かないといけなくて。返し忘れちゃったものがあってね。途中までだけど一緒なら安心でしょう?」

 その言葉に年下の子に気を遣わせてしまったと苦笑いをする。

「ありがとうございます。斎さんこそ気をつけてくださいね?」

「ええ。大丈夫よっ!」

 満面の笑みで言うから、余計心配になってしまった。歩いている内に、さっき小雪と二手に別れた町の中心地までついてしまった。この辺りも、暗くなるともう人が全然いない。やはり辻斬りを恐れて夜は皆閉じ籠ってるのだろう。日が落ち、人々の姿が消えた町は昼間と打って変わって不気味に見えた。見慣れない町だからこそ、余計だろうか。

 斎は更に薄暗い裏通りの方を指さす。

「ごめんなさい、ここまでだわ。私はここからすぐだけど、凛ちゃんはくれぐれも気をつけてちょうだいね」

「はい。斎さんこそ気をつけて! 自分はこっちに探しに行きますね」

 凛はそう言って斎の行く方向とは真逆に歩き出す。小雪は確かこっちの方面へ行ったはずだ。少し歩いてから振り向いたら、まだ斎が笑顔でこちらに手を振っていた。初対面の怪しい二人組だったのに凄く優しい人だったな、と凛も手を振り返した。

「さて…どこ行ったかなぁ…」

 暗くなった町並みを見渡したところで小雪の姿はない。だからと言って迷路のような平屋が密集した場所は暗がりが多すぎて怖かった。自分がもし殺人犯なら、そういう袋小路になりやすい影の多い場所に潜むような気がしたのだ。だから、見通しのいい川沿いなら見つかるかな、なんてことを考えながら若干小走りで橋の方面に戻る。橋の上に立って暗い水面を眺めていると、思ったよりもすぐに小雪は見つかった。

 小雪はここで初めて目覚めた橋の下の小舟の横に座り、足を川の段差に投げ出して項垂れていたのだ。

「小雪ちゃん!」

 具合が悪いのかと大慌てで駆けていくと、重々しく臥せっていた顔が上がる。夜の川に青白く照らされた小雪の真っ白な肌は、まるで幽霊かと思うほどに血の気が失せていた。

「ああ…東雲さん…」

「どうしたの、こんなところで座りこんで…」

「…いえ、ただ…幻滅していただけよ」

 小雪が水面に映る自分の姿を見て顔を歪める。徐に手に持った石を、水面の自分に投げつけた。水は波紋を描いて、映し出した画をぐしゃぐしゃに歪ませていく。小雪のそんな自暴自棄にも感じる様子を何も言わずに黙って見つめる。すると、やがてゆっくりと重たい唇を開いた。

「前世の私に失望したわ…。そして同じくらい、親近感が沸いた」

「…?」

「やっぱり私たちは、魂が同じなんだわ。私たちは、とても似ているのよ」

「どういうこと? …何を聞いたの?」

「石元義郎は…有名な等身大人形師で、石元人形店の三代目主人。確かな腕と明るい性格でお客さんにも人気があった。でもどうやらある日を境に店に現れなくなったそうね。それと同時に辻斬りが出回り始めた…。町の人も、疑いどころは心の中でしっかり疑っていたのね。まぁ、小さい町でしょうから、少しでも変わったことがあれば疑うのは定石、かしら」

「…うん」

 小雪は深い溜息を吐いて、髪の毛を掻き上げた。小雪の冷たくも見える鋭利な面持ちや静かな雰囲気は、最初からずっと、どこか作りものめいて見えていた。それは普段の生活からしてそうだ。生き物のようじゃない。その姿は精巧に造られた人形のよう。波風絶たない生活の中にいた小雪は、理想的な美しい姿をしていた。だが、今の小雪は違うように見える。嘆き、悲しみ、憤る。その全てに表情を変えて抗おうとする姿はとても人間らしく思えた。

「さっきね、聞き込みをしているときにまた彼の()()が戻ってきたの。…たぶん、彼の人と成りを知ったから徐々に思い出し始めているんじゃないかしら」

 淡々と、あえて他人事のように喋る小雪は、どこか痛々しい。痛々しいほどに、美しい。

「彼の腕は確かで、周りもそれを評価して認めていた。でも、彼本人に達成感なんて一つもなかったのよ。本当に自分の満足する人形は造れなかった。どれだけ造っても、どれだけ頑張っても…」

「…そうだったんだ」

 義之の話とは少し違う。完璧すぎる兄が下手くそな人形に狂ってしまったとそういう話だった。けれど、小雪はそれを否定する。そもそもが、完璧でなかったのだと。

「…私も同じだわ。何を完璧に熟そうと、どんなに全うであろうとしても…なぜか満足できなかった。欲しい達成感は得られなかった。どうしても、何か足りない気がして…」

 小雪が言おうとすることは分からなくはなかった。確かに彼女の姿は学生として模範であり、完璧に限りなく近かった。優等生で、勤勉で、真面目で人に分け隔てなく接する。それは彼女がそう求められたからこそ出した結果だった。当然のことではない。それは彼女の努力だ。だがその努力した結果を、誰かがその優秀さを手放しで褒めたことがあるのだろうか。それが当たり前だと誰しもが思い込んでいたのではないだろうか。そう心で嘆いていた彼女にそして彼に、誰が手を差し伸べたのだろうか。

 ――真面目に生きるということは難しい。損をしているような気がしてしまう。報われないと思うことが多い。誰かに求められるまま正しくあれる人は、誰にもその弱さを認めてもらえない。強いと誤解されてしまう。本当は、そんなことはないはずなのに。

 それが石元義郎と、三嶋小雪の決定的な魂の類似なのだ。でも――。

「…でも、小雪ちゃんと石元義郎には決定的に違うところがあると思うな」

「違うところ…?」

 凛の確信めいた言葉に、小雪は小首を傾げた。その素直で透明な心を見ているからこそ、とても不思議でならないのだ。こんなにも、彼と彼女では明らかな違いがあるというのに。それに本人だけが気付けないなんて。

 凛は小雪の隣に腰を下ろす。同じ目線に座って、しっかりと目を合わせた。

「小雪ちゃんは自分をしっかり客観視して、その弱さを認めて生きてるじゃない。取り返しのつかないことなんてないんだよ。だって小雪ちゃんは人の人生を狂わせるような迷惑なんてかけてない」

 小雪はゆっくり目を見開く。

「小雪ちゃんはちゃんと、()()()って言えたんだよ。だから自分は家まで押しかけたんじゃない。小雪ちゃんは何にも悪くない。魂についた傷が痛くて、苦しくて、それでもちゃんとその傷に向き合おうとした。見て見ぬふりをしなかった。彼の罪まで向き合おうとしたんだよ。だから全然似てない。彼と、小雪ちゃんじゃ違い過ぎる」

「あなた…」

「小雪ちゃんのせいじゃない」

 我ながら青臭い台詞を吐いたと思う。そんな凛を笑わずにいてくれる小雪は結局優しいのだ。最初から最後まで、凛にできることなんてなかった。一緒にここまで来て、話を聞いているくらいしかできない。それでも、そんな凛のことを小雪は決して責めないだろう。そういうところだってきっと違うんだ。自分で思うよりもそんなに強くないかもしれないけど、きっと弱くもない。

 気まずくない静かな沈黙の中で、小雪はふっと笑って固まっていた肩の力をゆっくりと抜いた。あれだけ血の気の引いていた頬に、僅かな赤みがさしている。讃えられた微笑みは、本当に凄く綺麗だった。

「…ありがとう。そんなことを言ってくれる変わり者はあなたくらいよ」

「べ、別に…本当は迷惑くらいかけられたっていいんだけどさ…」

 くすりと横で笑われる。何だかこそばゆい。思えば友達なんて長らく作ってこなかった。それは自分で自分のことが信用ならないからだ。それは記憶のこともあったし、なんとなく自分という人間の輪郭がぼやけて感じることがあったからだ。そんな曖昧な人間はこの世に必要とされないだろうと思っていた。…でも、小雪のこの美しい笑顔を見ると、勇気を出して境界線を飛び越えて良かったと思えるのだ。

 小雪はすっと立ち上がってスカートについた土埃を両手で払う。真っ直ぐ地平線へ向けられている彼女の瞳には、既に力強い意志が宿っていた。

「でも、大丈夫。今ならちゃんと認められるから。だって、彼の記憶が見えた理由はただ一つだと思うの。…変わらなくちゃならないのよ、私も彼も」

「…そう、かな」

「そうなのよ。愚かしいくらいに似てる。だから…私がここにいるのでしょう。あの日の愚かな自分をちゃんと殺してあげなくちゃならないんだわ」

 ――息を呑む。犯人は、自分で自分を殺した。他殺ではない。事故でもない。けれど自殺と呼ぶべきでもない。なぜなら犯人は未来から自分を殺したのだ。

「…まるで完全犯罪のミステリーみたい」

 思わず呟いた言葉に、小雪ちゃんは噴き出すようにして笑う。

「そうなの。私は犯罪界のナポレオンよ」

「ふふ、ちょっと似合うかも」

「馬に乗ってる姿が?」

「うん。馬に乗ってる姿が」

 くだらない話だ。でも、肩の荷が下りた気がした。小雪が差し出した手を取り、凛もゆっくり立ち上がる。何だか怖かったはずの夜の闇が明るく見えた。

「…大丈夫よ。だって、私知ってるもの。私が似てるのは石元義郎だけじゃない…私は」

 小雪が何かを言いかけた瞬間、言葉を遮るように何かが唸り声を上げた。背筋を凍らすような聞き覚えのある声に凛は一瞬びくり、と体を硬直させた。そして恐る恐る振り返る。

 橋の上に、人影があった。とても大きな人影だ。それが月の光に照らされて、黒々とした影の中からようやく姿を現した。

「やっと見つけた…お雪…!」

「私はこんなにも、…あの子(おゆき)に似ているのだから」

 義郎は歓喜に雄たけびを上げる。その指は小雪の顔を真っ直ぐに指差して、人形の名を叫んだ。

 言葉が出てこなかった。凛は確かに、お雪の顔を知らない。それが、まさか小雪にそっくりだなんて誰が思うだろうか。これは一体、なんの因果なのだろうか。

「お雪…ああ、お雪…やっと見つけたよ…」

 小雪は躊躇うことなく橋の上へと上がった。凛もそれに続く。

「ええ、やっと会えたわね。…でもね、義郎。悪いけどお雪はもうどこにもないの」

「何を言っているんだ…? 変なことを言うんだね。お雪は君だろう…!」

 今にも飛び出してきそうな義郎に小雪は一睨みするだけで制止した。

「いいえ、よく聞きなさい。お雪は貴方の弟さんが初めて造った大切な人形で、人間じゃないの。動かないし、喋らないし、そこに命は宿っていない」

「何を言っているんだい? お雪…君は俺の大事な人だ。そうでなきゃこうして俺と話していない!」

「お黙りなさい!」

 小雪は大声でぴしゃりと義郎を跳ねのけた。毅然とした態度や声を変えることなく、堂々と過去の自分へと立ち向かう。その姿に何も恥じるところはなかった。

「貴方はその命だけでは償いきれない罪をつくったわ。その罪は何度も時を超えてその魂を傷つけてる。貴方がやっていることはね、結局貴方自身を傷つけているに過ぎないのよ。分かるでしょう? 心が痛むでしょう? 貴方は人形じゃないのだから!」

 その言葉に義郎は言葉を詰まらせた。そして空を仰ぎながら声高に笑う。

「はは、っあはははは‼」

 その笑いは唐突に途切れたと思うと、冷たく刺すような視線が小雪に突き刺さる。上から下までを品定めするように睨めつける視線は不快、としか言いようがない。

「お雪…どうして君はそんな風に捻くれた捉え方をするんだ…? 俺は君を迎えにきただけじゃないか…」

「お黙りなさい、この殺人鬼が。その不躾な視線を外しなさい、目ん玉を繰り抜くわよ」

「ああ、知ってるよ…君だって俺のことを好いているんだろう? 愛しているんだろう?心配しないでくれ、俺は誰よりも君を愛しているよ」

「貴方は一体どれだけのものを傷つけたら気が済むの? 貴方はどれだけの犠牲を払ったら気が済むの? ちっぽけなプライドを守るためだけに偽物の愛情に縋るな…!」

「お雪…さぁ、行こう。俺と一緒に、共に行こう…」

「黙れ!」

 小雪の憤りを乗せた声がびりびりと辺りに響き渡った。義郎はようやく僅かに眉を顰める。そこに追従するように小雪は更に一歩前へ出た。

「…お雪なんて本当はいない。貴方が一番よく分かっているじゃない! 現実から目を背けないで目を開きなさい! あれは人形、愛しているなんて言葉で真実から逃げることは許さない…私はその罪を決して許さない!」

 義郎はゆらゆらと揺らしていた体を止めた。小雪の真実から逃げる、という言葉に反応を示したようだ。義郎の瞳が動揺したように揺れ始める。それでも小雪は止まらなかった。

「私はお前が嫌いよ。大嫌い。私をいつも苦しめる元凶だと思ってた。けれど今は違うわ。私の罪は逃げていたこと! 目を逸らし続けていたこと! 赦されないことをしておいて、本当の理由から逃げて、愛なんてまやかしに隠れて許される理由を作ろうとした! 私はそんな逃げは認めない!」

 そう叫んだ瞬間、義郎は崩れ落ちた。そして、震えながら立ち上がり何かを叫ぼうとする。けれど小雪は間髪入れずに言葉を続けた。もう一ミリも譲る気はないようだ。

「分かるでしょう? この罪が、どれだけ許されていいものじゃないのか…。私は私を許せない。誓って断言するわ。…未来永劫、どんなことがあっても、()()()()()()()()()()!」

 自らの罪をバッサリと斬り捨て断言した小雪に、ふらふらと義郎は近づこうとする。けれど、その有無を言わさぬ雰囲気が義郎を立ち止まらせた。小雪の真っ直ぐな瞳が、義郎を貫いている。もう逃げることなんて出来やしなかった。

「逃げないで。これ以上、私の罪を重くしないで。ちゃんと…私と向き合って」

「…る、…て…れ…」

 義郎は声を震わせながら弱々しい声を絞り出す。顔を上げた彼の顔は正気に戻ったような、それでいてまだ夢心地のような表情だった。

「許してくれ…お雪…」

 それは弱い男の精一杯の叫びだった。小雪はそれを否定しない。遮ろうともしなかった。ただ、その言葉を待つように黙っている。

「…お雪…許してくれ…! …俺はただ。…ただ、君が好きなだけだったんだ! …君が好きで、気が狂いそうなくらい好きで仕方がなかったんだ!」

 それは、会って初めて会話が成立したに等しい。義郎の瞳には光があった。小雪の声は確かに届いたのだ。自分の魂に届いたのだ。

「…―――初めてだったんだ、こんな気持ちになったのは。…俺は初めて義之にも人形にも、嫉妬したんだよ。俺の造る人形は見た目こそ美しいかもしれない。でも、空っぽで()がない。人形のまま、人形以上でも以下でもなかった。でも、義之は違ったんだ。あいつは、俺には造れなかった人形の魂を、たった一度で造ってしまった。俺には成し得なかったことを、たった一度で…成し遂げたんだ」

 不器用な義之がつくったからこそ、それだけ大事に育まれて生まれた人形。暖かみも、努力も、劣等感も嫉妬も、何もかもを詰め込んで、丹精込めて、魂を込めて造られた人形なのだ。それを超えるのは、中々できることではない。

「お雪を傍に置いたのは…最初は嫉妬心からだった。でも傍で見つめていると気付いたんだ。…お雪はね、心があっても未完成だったんだ。欠陥部分ばかりの、とても売れたものじゃない人形。不器用な義之らしい人形だよ。それに優越感を感じたこともある。…けどね、そんなことも今思えば馬鹿な感情だと思う。でもそうやって自分を慰めなければ自分を保っていられなかった! …それくらいに俺は悔しかった!」

 義郎は静かに心の内を吐露した。その瞳には静かな涙が溜まっていた。けれど、それを零すことはなく、ただ湖面を揺らすように留めていた。

「そのうちに、俺はこの痛みに癒しを求めていた。…それが、お雪だった」

 義郎はゆっくり視線を小雪へと向ける。欠陥だと言ったお雪。そして、神様が作った最高傑作のような小雪。今の義郎の目には、二人はどう映るのだろうか。

「僕はね、未完成な彼女が愛おしかった。見た目だけで中身は空っぽな俺のようでね。自分のない部分と、彼女の足りない部分を重ねて見ていた。…俺たちはお互い、欠陥品なんだ。でも欠陥品だからこそ俺たちは惹かれあったんだよ。俺を見てくれないお雪だから、首しかないお雪だから…好きだった。好きだったんだ。…大好きだった。愛していると…」

 思い込みたかった、と義郎は泣きそうな声で呟いた。ついに瞳から堪え切れなくなった涙の粒が頬を伝って砕け落ちる。それを切欠に堰を切ったように次々に涙が溢れだした。

「いや、本当に愛していたんだ、お雪に救われていた。…でも本当は、分かっていたよ。本当は、本当は知っていたんだよ。…それでも認めたくなかった」

 徐々に、徐々に心に被せられていた布が一枚ずつ剝がれていく。建前や嘘や虚偽が丁寧に脱がされて、やがて残るのは丸裸の本音だけだ。だから、夜の町に今日この日に残ったのは、本当にちっぽけな男の弱さだけだった。

「俺は…人形を愛してると思い込みたかったんだ。そうやって愛憎のせいにして、劣等感や嫉妬心から逃げたんだ。…そうしなければ俺は辛かったから」

 小雪はぎゅっと下唇を噛みしめた。それは彼女と彼の心が繋がっているからだろう。もしかしたら、次に言う言葉だって分かるのかもしれない。それでも小雪はただ黙って彼の言葉を待ち続けた。

「逃げる対象…その形がなくなって、遠くなってから、俺はやっと気付いたよ。もう俺は戻れないんだろう、って。こんな赦されない罪を犯しながらそれでも場違いなことに、ずっと後悔していたんだ。俺はなんて馬鹿な兄貴だったんだろう、って」

「でも貴方はそれを…」

「止めることができなかった。知っていながら、この衝動に抗わなかった。お雪を、愛することを止めなかった。愛に逃げ続けた」

 ――それが答えだ。そして、この殺人における動機と真相だ。

「…ええ。そうね、……そうよ」

 小雪は少し間を開けて、罪を呑み込むようにそれを肯定した。二人の気持ちは、ようやく一つに戻ったのだ。義郎は小雪と目を合わせて、くしゃくしゃに情けない顔を見せる。

「…俺がいなくなって、一体店これからどうなる? 心配なんだ、不器用な弟だから…。こんな死に損ないでも、俺は一応義之の兄貴なんだから…これぐらい心配しても誰にも怒られないよな…?」

「…ええ、怒られないわ。誰にも」

 小雪の答えに、そうか、と義郎は心底安心したように何度も頷いた。

「ありがとう…でも、俺にはもうあの家の敷居を跨ぐ資格なんてないな」

「ないわ。…貴方にはもう、何もない。そうしたのは、紛れもない貴方自身なのだから」

「ああ、そうだね…。義之が、心配だな。…ああでも、義之ならきっと大丈夫だ。不器用な奴だけど、世界一の人形を造ることが出来る。俺が保証する、絶対だ…。だから、安心だな」

 義三郎は満足したように小さく笑った。そこにいたのは、もう恐ろしい人斬り鬼ではない。ただの一人の人間だ。

 義郎は小雪の顔をじっと見て、どこか寂しそうに問うた。

「本当はずっと…分かっていたんだ。お雪、…いや、君は誰かな?」

「三嶋小雪。…貴方と同じ罪を背負う者よ」

 小雪の言葉に、義郎は少し悲しそうな顔を見せる。

「ああそうだったのかい…。小雪(こゆき)ちゃんか、可愛い名だ」

「当たり前じゃない。私を一体誰だと思ってるの?」

「ははっ…君は俺と全然違うね、とても強い。…だから、俺にも分かることがあるよ?」

「何?」

「俺たちは全然似ていないけれど…君は、俺と一緒なんだろう?」

 義郎が穏やかな顔で小雪に問いかける。小雪は何も言わずにただ、微笑んでいた。

「貴方と一緒にされるなんて、心外ね」

「君に言っておくよ。…君はもう、赦されていい」

「…ええ、そのつもりよ。けれど貴方は…せいぜい未来永劫、苦しみ続けるといいわ」

「はは…やっぱり君は強いな…。で、も流石に、…未来…永劫は、嫌…だ、…な…ぁ……」

 突然義郎は大きな音を立てて地面に倒れ伏した。背中には短刀が突き立てられており、そそこから酷い出血をしているようだった。驚きはしたが、それでも、二人は彼に近寄ることはしなかった。

「ごめんね、…ごめんね…小雪、…俺、…生まれ、…変わった、…ら…」

「…はっきりしなさい。貴方、私でしょう?」

 こんなときでも辛辣に、小雪はゆっくりと彼に近づいてそう言った。小雪は地面にうつ伏せに倒れ伏した義郎の近くに膝をつく。

「君…みたい、な…優し、……い、…人、に……なり、…た……」

 義郎はそれ以上言葉を発しなかった。いや、発することが出来なかった。…義郎は静かに眠っていた。その表情は涙を流し目を開いたままの壮絶なものではあったが、ただ幸せそうな微笑みをその唇に浮かべていた。

 そんな義郎の顔の横の地面にポツリ、と一粒染みができる。

「…そう、じゃあもうその願いは叶ったわね。…なったのよ、私、貴方の言う優しい人に…」

 そう言って、小雪は凛の方へと振り返る。美しい湖面が揺れていた。だから何も言わずに静かに頷いて見せた。小雪はあどけなく微笑んで、義郎の瞼に手を触れる。

 その瞬間、世界は真っ白な光に包まれた。チリリン、どこからか聞き覚えのある鈴の音が聞こえるのを感じて、二人はゆっくり瞳を閉じた。


♢♢♢


「ん…?」

「おはようございます。随分間抜けな寝顔を晒しますね、本当に女の子なのですか?」

「っうわぁ!?」

 思ったよりも近くで聞こえた声に慌てて目を開くと、眼前に呆れ顔の三倉が見えて咄嗟に飛び起きてしまった。起きて第一声がこんな皮肉だとは思わず重いため息をつくと、三倉は満面の笑みで何かを差し出した。

「人の顔を見て奇声を上げるなんて失礼な人ですね。頭の方は大丈夫そうですか?」

「し、失礼なのはどっちですか!? 自分はそこまで馬鹿じゃないです!」

「いやいや、そっちじゃなくて。気分の方はどうですかって意味です」

「紛らわしいんですよ!」

 差し出されたそれを手で押しのけると、おっと、と慌てた様子で後退った。よく見ると、三倉の手には湯呑が握られていた。それを零しそうになって寄り目気味にバランスを取っているところを見てぷっと噴き出す。

「…酷いじゃありませんか。心配したのに」

「い、いやごめんなさい。つい条件反射で」

「慣れない記憶干渉でお疲れかと一応心配していたのですが、最近の子って案外強いものですね」

 三倉は持っていた湯呑を自分で口に運んでずずず、と啜る。しかし熱かったのかすぐに口を離して涙目になった。

「冷まさないでごくごく飲んだらそうなるに決まってるじゃないですか」

「ふ、普段は熱いのは滅多に飲まないので…」

 周囲を見渡すと、湯呑を持った三倉以外に人はいなかった。あとは雑然と並んだ時計たちだけだ。凛はその床に座り込んでいるような状況だった。顔をあげると、最初に見たときと変わらない小雪の時計が時を刻んでいた。

「――どうでしたか」

「どうって…」

「人の罪悪を覗くのは、あまり気分がいいものではないでしょうから」

 そう言って、三倉は小雪の時計を見つめる。文字盤の左右に人形が飾られた不気味な時計。でも今は、彼らの思いが一心に詰まった時計に見えるから不思議なものだ。

「…そう、ですね。これが魂の記憶なのだとしたら、罪は一体いつ許されるんでしょう」

 小雪は苦しんでいた。三百年も前の生での罪でだ。今生の彼女は何一つ悪いことをしていないのに、それでも彼女は苦しんだ。なぜ苦しまなければならないのか。

「これは持論ですが。罪を許すのは、結局は人の心なんじゃないでしょうか」

「え…?」

「好意の反対は、悪意ではなく無関心というでしょう。であれば、誰かがその罪を憶えている限りその罪は許されていない。――しかし逆に、誰一人覚えていない罪なのであれば、それはもう許されていいということなのではないでしょうか」

 少なくとも私はそう思います、と三倉は罪深いと呼称された時計たちを見つめる。

「私の仕事はこの時計たちを見守ること。私だけはいつまでも、彼らの罪を見つめている。その全てが禊がれるそのときまで、私は彼らの時間を見捨てはしません」

 慈しむように紡がれるその言葉たちを聞くと尻の据わりが悪くなるような気がする。それはたぶん、理解できないからだ。

 ふと義郎の最期を思い出して疑問だったことを口にする。

「あの、自分たちが見たものっていうのは、基本的には実際に起こった過去の記憶なんですよね?」

「ええ、そうですよ。例え貴女がたが干渉したところで結末は左右されません」

「……じゃあ、どうして石元義郎の背中には、短刀が刺さっていたんですか?」

 それは、あの最期を見た凛の一番の疑問だった。

「石元義郎は自殺。自らで自らを殺した。…でも、刀は背中に刺さってた。さすがにあれは自分ではできないと思って…」

 貫通するほど深くは刺さっていなかったと思う。しかし、場所は鳩尾の裏くらいだった。あれは確実に義郎への致命傷となっただろう。

 三倉は何を考えているのか分からない目をして黙り込む。しかし、やがて口角をあげた。

「それが、彼の心に最期に残った良心だったのでしょう」

「え…?」

「事実、石元義郎は背中を何者かに刺されました。…しかし、のちに遺体が発見されたとき、刀はどこにも刺さっていなかったそうですよ。代わりに、割腹した状態で発見されたそうです」

 二人が見た義郎は背中を刺されて倒れ伏しただけの姿だった。恐らく息がまだあったのだ。そうして、彼は最期の力を振り絞って、致命傷を()()()

 ――何のために? それが、彼の優しさなのだとしたら。

 …いいや。暴いてはいけない。これは義郎が最期まで守った真実なんだ。殺人犯は、最期に己を殺した。そうせざるを得なかったのはただ、そこには愛情が確かにあったからだ。

「…三倉さんはさ、どうして時計屋になろうと思ったの?」

 咄嗟に口をついて出たのはそんな言葉だった。三倉の言葉に応えることなく話題を変えるように尋ねる凛に、彼は驚くこともなく、素直に考える素振りをした。

「…そうですね。見届けたい時計が、あったからですよ」

「見届けたい時計?」

「はい。私が生まれた頃に、お世話になった方の時計なんです。私は、その方が幸せな人生を歩むのを見ていたい。…そして、いつか私の元へ会いに来て欲しい。私はいつまでも、貴女との()()を守っていると、知って欲しい。ただ、それだけなんです」

 三倉はほんの少し頬を赤らめて、色素の薄い長めの襟足を指先でくるくると遊ばせた。その表情は初めて見るもので、どこかむず痒い空気を纏っていた。

「す、…好きなんだ? その人のこと」

 そう尋ねると、三倉は目を瞬かせてからにやりと口角をわざとらしく持ち上げた。

「気になります?」

「は、はあ!? 別に、そういうわけじゃ…」

「凄く綺麗な方でした。優しくて、温かくて…」

 三倉の指先がトン、と凛の鼻先を突く。

「こうやって、私のことをからかっては可愛がってくれました」

「ちょっ…‼」

「大切な人です。今までも、これからも」

 蕩けた飴色の瞳がやけに真剣にこちらを覗き込んでくるから、何だか直視できなくなって急いで身体の方向ごと転換させる。背後でくすくすと笑う声が聞こえて腹立たしい。本当に、三倉といい小雪といい、どうしてこう一枚上手な人ばかりが自分の周りには集まるのか。

 と、そこまで考えてはっと我に返る。

「そ、そうだ! 小雪ちゃんは!? 小雪ちゃんは無事なんですか!?」

「――ああ、そうでした。三嶋さんね。彼女ならもうとっくに意識を回復させて庭にいますよ。外の空気を吸ってくるとか」

「ちょっと、早く言ってくださいよ! 待たせちゃったじゃないですか!」

「…聞かれませんでしたからねぇ」

 意地悪な言い方にカーッと頭に血が上る。

「…もういいです。いや、もういい。今後は貴方に対して敬語なんか使わない!」

「おや。それはどうして?」

「単純にっ、むかつくから!」

「大変。嫌われてしまったみたいですね」

 困った困った、と大して困っていない声でそんなことを言うものだから余計に腹立たして、急いでその場を立ち上がる。早く外に出てしまおうと一歩踏み出したところで、三倉に制止された。

「ちょっと待ってください! …はい、これは僕からのささやかなプレゼントです」

「プレゼント…?」

 そう言って三倉から差し出したのは二つ折りにされた紙切れだった。開いてみると、そこには住所らしきものが書かれている。どういうことか真意を探ろうと三倉を見つめるが、彼は意味深に瞳を細めるだけだった。

「三嶋さんをここへ連れていって差し上げなさい。…行けばきっと、分かります」

「これは…どこの住所なの?」

「さぁ? …それは、行ってからのお楽しみですよ」

「でも…」

「さ、いってらっしゃい」

 有無を言わさず背中をぐいぐいと押される。外に押し出されると、桜の木の下に誰かがいた。

「小雪ちゃん!」

「――起きたの。寝坊助ね」

 桜を見上げていた小雪がゆったりとこちらに振り返る。何とも画になる美少女だ。あんまりに綺麗だったからドギマギしてしまって後ろを振り向くと、三倉がにんまり笑顔で手を振りながら扉をぴしゃりと閉めてしまった。

「…閉店ですって」

「そうみたい…」

 不思議な体験をした。時計屋だなんて訳が分からない。非現実的だ。けれど、小雪と共に昔の町を歩いたのも、励まし合ったのも紛れもない事実だ。少なくとも凛の記憶の中には鮮明に残っている。記憶に残っているということは、不要ではない。これは大切な思い出だということなのだ。

「それは?」

 小雪が凛の手に握られた紙切れを顎で指す。随分と適当な仕草だなと思った。きっと普段は気を張って丁寧にしているのだろう。つまりは今この瞬間、小雪は取り繕わない素直な姿だということで。何だか少し照れくさくなりながらも、紙切れに書かれた住所を読み上げようとした。

 すると、唐突に強い風が吹く。春風は、手に持っていた紙切れを空高く浚っていった。

「っあ! …ちょ、待っててば!」

「…もう、騒々しいわよ」

 凛が走ってその紙切れを追いかけると、小雪は少し面倒臭そうに眉を顰めてから渋々小走りで着いてきた。紙切れは春風に遊ばれて、まるで誘うように空を飛んでいく。傍からみるとその紙切れは意思を持っているようにも見えた。不気味ではあるが今はそんなことを思えるほど余裕はない。

 恐らくそう走ってはいなかったと思う。途端に風が落ち着いて、紙切れがひらひらと手元に戻ってきた。

「もう。遊んでるんじゃないわよ」

「遊んでないから! で、そうそう…ここには住所が書いてあって」

「住所?」

 小雪が横から覗き込んでくる。ボソボソと呟きながら、彼女は首を傾げた。

「ここよ」

「え?」

「だからここ。この住所に書かれた場所はこの家よ」

 小雪の確信めいた言葉にようやく紙切れから顔を上げる。そこには古くから代々受け継がれてきたであろう貫禄のある家があった。

「石、元…?」

 表札には石元と書かれている。そしてようやく気がついた。小雪の言う通り紙切れの住所と現在地の住所を地図アプリで照らし合わせると、それはぴったりと当て嵌まる。この住所は、石元家のものらしい。

「ここって、もしかして…」

「…もしかしなくとも、石元義郎の家だったところでしょうね」

「やっぱりそうだよね…」

 どうするべきか悩んで少しの沈黙を挟む。けれど意を決して家のチャイムに手を伸ばした。チャイム音と共に、パタパタと小走りの音が聞こえてくる。そして、目の前の戸が開いた。

「はい、石元ですが。どちら様、――…」

 出てきたのは、ふくよかで優しそうな雰囲気の女性だった。女性は凛を見て、それから流れるように小雪を見るや否や目を見開いて固まってしまった。

「あ、あの…?」

 女性の反応に戸惑っていると、小雪の方が重たい口を開いた。

「…私、三嶋と言う者です。どうしてもお聞きしたいことがあって…お時間いただけませんか?」

「え、ええ。構わないです。…どうぞ」

 女性はどこか動揺を隠せない様子だったが比較的友好的な態度で部屋に通してくれた。通された部屋は見事な和室で、一角には綺麗な仏壇が飾ってある。しかしそれは閉じていて、誰のものかは分からない。それに、この部屋に通される途中に見かけた部屋に開いている仏壇を見つけた。…不思議な感覚を憶えながら二人は畳に腰を下ろした。

「…あの、聞きたい事というのは…」

 女性は恐る恐る小雪の方を見て話を切り出す。一方小雪の方は、肝が据わっているのか何なのか、周囲を見渡しながらゆったりと瞬きを一つ。

「その前に、失礼なことと承知でをお聞きしてもよろしいですか?」

「え、ええ…」

「あの仏壇は、一体誰のもの…なのですか?」

 小雪は閉じた仏壇を手のひらで指す。

「…あれは、石元義之…私の先祖のものらしいです」

「石元義之…」

 記憶の中で出会った口の悪い青年を思い出す。兄を思って最後まで泣いていた気のいい男だった。

「あと義之の遺言で、ここに彼の兄である石元義郎の位牌も…あります」

「ここに義郎さんの…」

 小雪は小さく眉を顰めた。何かをぐっと堪えるように唇を噛んで、気持ちを切り替えるようにぱっと顔を上げる。

「…線香を、あげてさせて頂いてもよろしいですか?」

「えっ? …あ、ああ。構いませんが…」

 小雪の堂々とした態度に女性はすんなりと許可を出した。小雪は戸惑うことなくゆっくりと観音開きの扉を開ける。そこには石元義郎、石元義之と書かれた位牌が置いてあった。彼女は流れるように線香に火をつけ、それからお鈴を二度鳴らして手を数秒合わせた。その横顔は真剣なもののように見えた。

「あの…貴女は、三嶋さんは、…義之か、義郎を知っているのかしら…?」

「…ええ。義郎さんを、少し」

「そう…。こんな若い方に野暮な話をするのは気が引けるのだけれど…。あのね、義之さんは色んな方にこうやってお鈴を鳴らして線香をあげてもらえるのだけれど…。義郎さんには一度も…誰もあげた方はいないの。名目上二人にあげたことになっても、誰もが口を揃えて義之さんの人形の話をするのよ」

「そうですか…」

「ああ…ごめんなさい。当たり前のように言ってしまったけれど、うちは大昔から人形師の家系でね。義郎さんや義之さんももちろん、人形師だったそうなの」

 知っています、とはさすがに言わなかった。女性は惑うような、それでいて確信めいた声で続ける。

「義之さんの遺言に書いてあったそうなのよ。今日、この街の追悼日と丁度同じ日に、必ず義郎さんを追悼するように…と。一体、この日に何があったって言うのでしょうね…」

 女性は眉を下げながら困ったように笑った。戸惑っているのだろうか。義郎に線香をあげたのが、一度も会ったこともない少女なのだから。…まぁ、戸惑うのは当たり前の話だ。

「…ちょっと待っててくれるかしら!」

 女性は何かを堪えるようにしていたが、急に思い立ったかのように立ち上がると足早にその場を去った。暫くしてから小走りで戻ってくる音が聞こえてきて、戸を開けたときには、手に四角い箱を持っていた。女性はそれを畳の上に置いて躊躇うように蓋を手で押さえる。彼女の視線は真っ直ぐ小雪へと向けられていた。

「最初に…貴女を見たとき、本当に驚いたの。それはもう、まるでこの箱の中から逃げ出して現れたのではないかって思うくらい。…これは、偶然なのかしら…?」

 女性は木箱の蓋を恐る恐る開ける。そして、蓋を畳の上に置いてから、優しい手つきで中のものを取り出した。

「貴女が今日ここに来て、義郎さんに線香をあげたとき…やはり偶然ではないと思ったの。だから、貴女にこれを見せるわ…」

 そう言って女性は机の上にそれを静かに置いた。声は出なかった。時が止まってしまったかと思った。横にいる小雪はそれ以上のようで、目を見開いて驚いている。そして、やがて小雪は震える手をゆっくりそれに伸ばす。そして、確かめるように優しく両手で持ち上げた。

「それは、人形師である義之さんが初めて造ったと言われる人形の首よ。…そして、義郎さんが一番愛したとも言われる首。ここには、そう書いてあるわ」

 女性は箱の中から古びた紙を取り出してそう声に出して読んだ。

「――人形の、名は」

 小雪の声は、震えていた。

「人形の名は、〝お雪〟と言うそうよ」

 その瞬間、小雪の瞳から涙が零れ落ちた。でも、小雪の瞳は人形を凝視したままで動かない。これで彼女と首は、初めて出会ったことになる。けれど初めて目にしたはずなのに、小雪は心の底から懐かしいと思っていた。涙がそれを如実に物語っている。瞳を閉じて薄く微笑んでいる、小雪にそっくりな美しい少女の首。これが、彼の魂が探し求めた人形。そして、自らを苦しめた人形。…それなのに、小雪はただ涙を流すことしかできなかった。

「っと…、えた…」

 小雪は叫ぶ。魂からの、本当の声を。

「やっと、会えた…!」

 小雪は人形を優しく胸に抱きしめた。涙は止まらない。それはいくら人形を濡らしても止まることはなかった。その思いは、小雪が話さなくとも伝わっていた。

「ずっと会いたかった…、でも会えなかった…だから、やっと…言える」

 震える声で最後の言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい、お雪…」

 義之、と彼女は呟いた。凛はそれを、遠い向こうの世界での出来事のように眺めていた。感動のシーンだ。心が動かないはずがない。…けれど私は、一枚壁を隔てたような感覚の薄さに寂しさを憶えてしまう。昔から感じているこれが何だか分かるときはくるのだろうか。

「やっぱり私、強くなんてないわ」

 二人は石元という表札を静かに眺めた。隣では、もうすっかり顔色のよくなった小雪が佇んでいる。あれからひとしきり涙を流した小雪は、お雪を女性に返し平身低頭お礼だけを言って制止する声もそこそこに外に出てきてしまったのだ。

「私は、強くなんかない…それは貴方の思い過ごしよ、義郎…」

「…ねぇ、小雪ちゃん」

「何よ」

 小雪の瞼は僅かに腫れている。鼻の頭も赤かった。完璧だった少女が、少しだけ完璧じゃない。それでも、初めて小雪を認識したときより、小雪はずっと綺麗だ。

 ようやくお雪に出会えたのにすぐに手放してしまった小雪に、そっと囁く。

「いいの? もう二度と会えないかもしれないんだよ?」

「…私が持っていても、宝の持ち腐れになるだけ。あれは義之の大切な人形。だからあれは持ち主の元にあるべきなのよ」

「…そっか」

 そう告げる小雪の瞳はこれまでに見たことがないくらいに晴れやかだった。それはどこか重たい鎖から解き放たれたかのように軽やかで。今にも春風と共に飛んで行ってしまいそうだった。

「ねえ、義之さんはさ、義郎さんに憧れてたんだよ」

「え?」

 ふと、記憶の中で出会った義之さんの言葉を思い出してそう言った。小雪は再び心底驚いた顔をして目を丸くしている。

「義之に…会ったの?」

「…うん。言う機会逃しちゃったけど、小雪ちゃんと分かれた後に会ったんだ」

「…なんて言ってた?」

 恐る恐る、そんな調子でおずおずと聞いてくる小雪が面白くて思わず噴き出す。

「〝兄貴の造る人形は最高だった〟ってさ!」

「……っ!」

 何もしてあげられない自分が、唯一伝えられる義之の言葉だ。彼のあの言葉には嘘偽りがなかった。きっと本当は、生きている内に本人に伝えたかったに違いない。けれど、そうはならなかった。…そうはならなかったから。

「そう…そうだったのね…」

 小雪はただそれだけ言って、石元の表札からゆっくりと目を逸らした。

 小雪に圧し掛かっていた罪は、少しでも軽くなったのだろうか。…否、それはないだろう。聞くまでもない。消し去ることは出来ないだろう。彼女が言っていた通り未来永劫。小雪が義郎へ呪いのように吐き捨てた言葉は、未来永劫小雪の魂について回ることだろう。そして永遠に縛り続けるのかもしれない。でも、小雪はそれでもいいと言う。…自分には真似出来ないと思った。自分には、未来永劫重い罪を背負い続けるなんてことは出来ない。

「東雲さん。…ありがとう、なんて生温い台詞は言ってやらないわよ」

「最後まで辛辣な…」

「でもまぁ、嬉しくなかったこともないわ」

「どっちなんだか…。素直にお礼くらい言ってくれてもいいじゃない?」

「でもこれは本当。…貴女のお陰で義郎の魂は救われたわ。私も、罪をちゃんと背負うことを決意できた」

 そうかな、と独り言ちる。だってきっと、彼女は凛がいなくとも一人で立てた。これは結局、どうにかしてあげたいという凛のエゴでしかない。実際に義郎に立ち向かったのもすべては小雪の決断なのだから。

「…それは自分のお陰じゃないよ。自分には何も出来ないから」

「そう。…じゃあ、明日からは私専用のパシリにしてあげてもいいわ。…凛」

「パシリってまた碌なことじゃ…って、え? い、今名前で呼んだ!?」

「騒々しいわね、舌引っこ抜いてシチューにするわよ?」

「やっぱりデレが物騒なのは変わらないんだ!?」

 前へ前へ颯爽と歩いていく小雪へ文句を垂れると、彼女は楽しそうに肩の上で髪の毛を躍らせながら振り向く。そのまま舌を突き出して、歯まで見せて楽しそうに笑った。そんな彼女に困ったものだ、と凛は眉を下げる。

 けれどちゃんと凛の耳には届いていた。小雪の小さなありがとう、という声も少し嬉しそうな顔も、隠しているつもりでも耳まで赤くしては丸わかりだ。しかし拒絶しているわけではない。その背中はもう独りでいようとする孤独なものではなかった。

 今まで小雪がたった独りで抱えてきたこと、完璧でいることが罪滅ぼしになると思っていたこと。その思いは、凛も重なるところがある。人と関わることは大変で、独りでいることの方が楽だから。…けれど、もうその必要はない。共に支え合っていける〝友達〟ができたから、これからは逃げないでちゃんと向き合おう。例え記憶がすり抜けてしまったとしても、もう一度思い出せばいい。

 凛は顔を上げて、勇気を振り絞った。

「小雪ちゃん!」

 呼びかけに、小雪は素直に振り向く。呆れた顔で足を止めて、閉ざしていた口を開いた。

「…早く来なさいよ!」

 置いて行くわよ、と小雪は照れたように唇を尖らせる。その声が、凛にとって、初めての()()の声だった。

 春風が通り過ぎていく。麗らかな日差しの中で、私たちは出会った。そうしてこの奇妙な繋がりは、時計の歯車のように徐々に噛み合わさり始める。一度始まった時間は決して止めることはできない。そうして、東雲凛(わたし)という人生も終わりへと時計の針を進めていく。

 ―――どこか遠くで鈴の音が、また聞こえる。



 第一章/因果応報  了

因果応報…よい行いをした人には良い報い、悪い行いをした人には悪い報いがある。過去、および前世の因業に応じて果報があるという意。

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