第三章 中央主権
第三章 中央集権
焦土と化した国土だが、早くも復興と再建へと日本人たちは動き出していた。焼け跡には闇市が並び立ち、自衛隊の復員兵や疎開先から戻った人々でごった返していた。子供たちはボロをまとい腹をすかせていたが、空き地を見つけると瞳を輝かせてサッカーボールを蹴った。この日も小学生たちが、焼け跡の中で、無心にボールを蹴っていた。
そこへ進駐軍がゆっくりと歩いてきた。彼にとっては久しぶりの日本である。いや、二年もたっていないはずだ。だが、彼が日本を発った時とはまるで違う荒れ果てた風景がそこにはあった。
彼の足下にボールが転がってきた。隣にいた同僚が蹴り返してやると、少年は嬉しそうに寄ってきた。
「ギブ、ミー、チョコレート」
同僚は一枚の板チョコを少年たちにわたした。
「サンキュー」
三人は黒人兵士に満面の笑みで応える。
「お腹すいてないか?」
武三が日本語で話しかけると、みるみる子供たちの顔が険しくなった。
「こいつ日本人だ!日本人のくせに進駐軍だ!」
「裏切り者!」
蜘蛛の子を散らすように、サッカー少年たちは逃げ去っていった。その目には深い憎悪と怒りがあった。
武三の所属する部隊は今回、治安維持の任務を負っている。市街地をパトロールして廻るのである。軍政下だからマシンガンを携帯してその任にあたる。治安を乱す犯罪者には銃を向けることになるだろう。
初代国連大統領小久保通の暗殺をうけて、大統領選挙が始まった。太平洋で大きな戦争があり、国連直属軍が勝った直後であり、欧米の人々の気分は浮き足立っていた。
対日戦争の英雄であるジョージ・タイラー大佐が立候補すると、イギリスを中心に熱狂的な支持を集めた。特に同じ英語圏であるアメリカでは、先の敗戦国だっただけに対日勝利に溜飲を下げた。他の候補者たちも国連の機能強化という大枠では政見の違いはなく、もはや「各主権国家復活」を掲げる政治家は国連に存在しなかった。
敗戦国日本でも大統領選挙の投票が行われたが、国連政府に対して白けきった日本人の投票率は極めて低かった。
第二代国連大統領には、イギリス出身のジョージ・タイラーが正式就任した。タイラー大統領は、甥のジョン・タイラーを日本県知事に任命し、先の反逆県に睨みを効かせた。
タイラー政権になって、国連政府の改革のスピードは加速していった。警察組織は従来通り温存され各県政府の指揮下にある。しかし、それとは別個に国連による治安組織も設置され「国連治安憲兵隊」と称された。国連直属軍陸軍歩兵部隊の一部が改編され、その任についた。
その改編された部隊に武三はいた。非武装の市民に銃を向け、威嚇し、逮捕し、時には発砲さえする仕事は辛いものだった。日本人である自分が日本人に銃口を向ける。
(なぜ、こんな事をしなければいけないのか)
タバル島で感じた疑問は、戦争が終わっても消えることなく、武三の胸にくすぶり続けていた。
「クレオ軍曹が呼んでるぞ」
武三たちの隊が上官の呉尾鳩奈軍曹から命令を受けたのは満月の夜のことだった。政治犯を連行するというのが任務であるという。
「国連治安憲兵隊である。悪しき思想を流布する扇動者を逮捕する」
チェーンのかかった玄関を工具で破って「政治犯」の自宅に踏み込むと、そこには白髪の老夫婦と九歳の少女がいた。
老夫婦が先の戦争で両親を失った孤児を引き取ったのは一年前のことだった。夫妻は彼女を養女にし、決して豊かではない家計をやりくりし、飲みたい酒も控えて、少女を養育していた。少女は気だても優しく勉強もできる可愛い娘だった。戦災遺児の彼女を引き取った老夫婦にとって、少女の存在は老後の生き甲斐そのものだった。
そんな老夫婦が、「反国連ビラを配った」という疑いをかけられた。真偽のほどはわからない。が、国連治安憲兵隊は身柄拘束に踏み切った。
武三たちは部屋に踏み込んだ。屈強な男たちが老夫婦を連行した時、いたいけな少女の悲しい瞳を、武三は正視することが出来なかった。
武三が少女から目をそむけた瞬間、彼女はピアノの上にあったメトロノームを投げつけた。メトロノームは呉尾の顔面をかすめた。
次の瞬間、銃声が響き、血しぶきが台所を赤く染めた。呉尾が少女の額を撃ち抜いたのだ。
狂ったようにわめき暴れる老夫婦を、兵たちは寄ってたかって殴りつけ蹴りつけた。呉尾はブーツで少女の遺体を足蹴にしながら、ヒステリックな表情を隠そうともせず、その場に唾を吐き捨てた。
この夜、満月が煌々と巣鴨の夜を照らし出していた。
次の朝、三歳年下でかつての後輩だった上官の呉尾鳩奈から呼び出しを受けた。細身で長身の呉尾軍曹は腕組みをしたまま武三をなじった。
「ちゃんと仕事してよ。あなたのせいで、大怪我をするところだったわ」
苛立ちを隠すことなく、ストレートヘアの下からきつい視線を武三に送る。
「わかった?しっかりしてよ」
「は…はい……」
(ヒステリー起こしやがって)
武三の目に、反抗的な視線が浮かんだのを見て、呉尾は額に青筋をたてた。
「何ぃ?なんか言いたいことでもあんの」
「いえ。別に…、ありません…」
「嘘。何か言いたそうね。言いなさい」
「いえ…、ありません」
「言いなさい」
「では、申し上げます。あのような子供を撃つことは、軍の評判を悪くし、……」
飛んできた平手が頬を打ち、左の鼻孔から赤い液体が流れ落ちた。
「あのガキをちゃんと取り押さえなかったのは、アンタでしょう。アンタがしっかり捕まえていれば、あの子は死なずに済んだのよ。それを棚に上げて上官を非難するつもり?きちんと任務も果たせないくせに」
制服の襟を鼻血で汚したまま、武三は列に戻った。この時、若い兵員たちが薄ら笑いを浮かべているのが見えた。
国連政府の影響は内政にもおよんだ。かつて議会制民主主義の発達した地域でも、政党政治が衰えた。なぜなら、県知事は国連政府が任命する。地元で政党がいくら政治活動をしても、結局は力になれないのである。日本の旧国会議事堂でも「県議会」は実施されたものの、有権者の関心は以前より低下し、取材にくるマスコミの数も激減した。
国連政府はスポーツにも口を出した。オリンピックなど国際スポーツでの団体競技では、従来の国単位のチーム編成は禁止され、違う民族の人の混成チームのみ出場が認められた。
スポーツ、大衆芸能、芸術。ありとあらゆる文化活動から「国」という枠組みを排除するべく、政府は「指導」をはじめた。この惑星の住民の「意識改革」を促すためである。
今までの地球人は領土紛争をずっと繰り返して来た。「あの地域を隣国に取られた」と言う。しかしそれは、自国と他国が異文化だからそういう事を言うのである。全く同じ文化、習慣を持ち、全く同じ民族になってしまえば、「こっちが我が国、あっちは外国」などというバカげた前時代の古い考え方も消えるに違いない。そうすれば、国と国の戦争、民族と民族の紛争も一切消滅するはずだ。民族の誇りだの伝統文化などと言っているうちは、世界平和はやってこない。世界を一つの文化、一つの民族にしなければならない。
ジョージ・タイラー国連大統領は、そのような信念を持っていた。そのためには、教育、そして言語を統一するという壮大な計画をたてた。世界の言語を全て英語とするのである。
まず世界中の義務教育を全て英語で行うことを義務付ける。十五年後にはマスコミに英語以外の全ての言語の使用を禁ずる。テレビもラジオも新聞も雑誌もインターネットも。二十年後には、英語以外で書かれた書物を全て焼却廃棄する。そして三十年後には、英語以外をしゃべった人間を処罰する。
三十年もたてば、英語教育の世代になっており、英語をしゃべれない人間はこの世にいなくなっているはずである。それでも英語が出来ないのは、本人の怠慢か、意図的な反抗以外の何物でもない。そんな人間はこの惑星にいてはならない。
最終的には、全ての地球人の氏名を、イギリス風の名前に改名させようとまで、この大統領は考えていた。
ジョージ・タイラー国連大統領は、この法案を国連総会に提出し、可決された。強硬な反対意見もあったが、英語を母語とする議員は多く、また、たとえ否決されても大統領の拒否権がある以上、無駄な抵抗だと観念してあきらめた議員も多かった。
ジョン・タイラー日本県知事は日本人の民族復興へのエネルギーを恐れた。かつて明治維新以来急速に近代化した日本。そして第二次大戦後、驚異の経済復興をなしとげ世界第二の経済大国にまでなった日本。そのエネルギーが三たび世界へと台頭することを恐れた。
タイラー知事は、人を殺さずして民族の誇りを殺す方法を考えていた。生きながらにして民族としてのアイデンティティを破壊し、固有の文化を失わせようとした。
「ランドマーク破壊政策」である。日本の有名な建造物を破壊しつくすのである。それによって、もはやここは以前の日本ではないことを日本人どもにわからせ、この星の全ての土地が国連の直轄地になった、すなわち「公地公民」になったことを理解させなければならない。それを日本人自身の手を借りて破壊させるのである。知名度の高い人気者が破壊すれば、さらに効果的である。
札幌時計台、仙台の伊達政宗の銅像、京都の清水寺、金閣寺、三十三間堂、二条城、銀閣寺、東寺の五重塔、宇治の平等院、奈良の法隆寺、東大寺の大仏、薬師寺、姫路城、大阪城も、熊本城も、炎に消えた。日本各地の名城も、今は大小の瓦礫が無惨な姿を晒すだけである。破壊された城郭には昭和の再建のものもあったが、それでも再建後すでに百年を超えて市民に愛されてきた名城であった。
東京ドーム、東京タワーにスカイツリー。横浜ランドマークタワー、大阪通天閣、広島原爆ドーム、宮島の厳島神社、長崎のグラバー亭、長野の善光寺もすべて焼却処分とされ、紅蓮の炎をあげて、その姿を見る事は永遠に出来なくなった。
民族の伝統文化の色合いが強い大相撲も禁止になり、両国国技館は取り壊された。日本の相撲だけではなかった。スペインの闘牛、フラメンコ、モンゴル相撲、テコンドー。世界各地の民族伝統的な色合いを持つスポーツ、芸能、武道のほとんどが禁止された。もちろん日本の柔道、空手、剣道もその対象となっている。
東京の銀杏が黄色く染まるころ、日本武道館の解体が始まった。その工事現場前でデモ行進が行われる。武三たちの部隊は、デモ隊を監視し警備をするよう命令を受けた。
「マシンガンと手榴弾を携帯せよ」との連絡もあった。
(なぜ?)
武三は直感的に違和感を感じた。デモ隊に対する警備は、警察の機動隊が受け持つはずである。機動隊ならデモ隊が暴動を起こした場合、特殊素材の盾を使って押さえ込むのである。あるいは放水車で高圧の水を噴射し、催涙ガスを用いて撃退するのである。しかし武三らの国連治安憲兵隊は実戦部隊であり、機動隊のような半透明の盾も、放水車も持っていない。
デモを行う団体は「日本の武道を守る会」であるという。武三は、この団体について詳しく知りたいと思った。公式ホームページに記載された会長の名前と顔写真を見て、武三は驚きのあまり大きく息を飲んだ。
「代表者 吉岡憲。プロ格闘家。京都府出身。先の戦争では自衛隊員としてタバル島で激戦を体験」
特別に親しくはなかった。だが、剣道部の道場で毎日汗を流した同期だった。
(そうか、吉岡は自衛隊に行ったのか。それにしてもタバル島、あそこにいたのか。敵として…)
ふと、吉岡に会いたい、と思ったが、警備隊の一隊員が、デモ隊の会長と話しをするなど、不可能であることはよく分かっていた。
武三は武道館解体現場にいた。立ち入り禁止区域との境に立ち、群衆を監視する仕事である。武三は、群衆の方を向いて立っている。が、その視線は日本武道館に注がれていた。
巨大な鉄球が、和風の屋根と壁を破壊していく。今まさに、あこがれの八角形の屋根が崩落していく。その瞬間を、武三はまぶたに焼き付けていた。
剣道が、そして日本の武道の精神が、今、音を立てて崩れ落ちていく。日本武道館が泣いている。武三には解体工事の騒音が、日本武道館の悲鳴に聞こえた。
この武道館は、日本中の剣道家、柔道家にとって聖地である。ここで試合をするために日々厳しい稽古に励んできた。日本武道館がなくなってしまうなんて、こんな世の中が来るなんて、想像もできなかった。
やがて濠の向こうから、拡声器の声が聞こえてくるようになった。こちらに近づいて来るのか、徐々に徐々に大きくなってくる。
武三は、各部隊の配置を確認した。タバル島で実戦経験のある彼には、指揮官の意図が透けて見えるようだった。
(デモ隊が田安門を通過したところで、退路を遮断するつもりに違いない。戦車まで配備してる以上、絶対やるつもりだ)
デモ隊が近づくにつれて、将校たちの顔が異常に緊張していくのがはっきりと見えた。明らかに普通の表情ではない。
(間違いない)
タイラー大統領が「日本の武道の精神」などというものの存続を許さないことは、新聞を読んでいるだけでもわかる。そして、この政権の今までのやり方を見れば、たとえ合法的で平和的なデモであろうとも、鎮圧することがありえる。なぜもっと早く気が付かなかったのだろうか。
武三は勝手に持ち場を離れて歩き始めた。上官が呼び止めたが、全く聞こえていない様子だった。やがて小走りになり、そして全力で走り始めた。
田安門をくぐり、濠の外側にいる「日本の武道を守る会」の集団約二百人に向かって、走りながら大声で叫んだ。産まれてこのかた、これほどの大声を出したことはなかった。武三は力の限り叫び続けた。
「吉岡、吉岡。宮本だ、剣道部の宮本だ。みんな逃げろ、殺されるぞ」
デモ隊は皆きょとんとしている。武三は、マシンガンの銃口を天高く突き出すと、空に向かって威嚇射撃しながら絶叫した。
「逃げろぉおお。殺されるぞぉ」
デモ隊は、蜘蛛の子を散らすように散り去っていった。
部隊長が血相を変えて駆けてくるのを見た武三は、現場から逃走すべく全力で疾走した。走りながら帽子を捨て、軍服の上着を脱ぎ棄てて下着姿で走り続けた。脱走兵は銃殺に処せられることは知っていたが、そんなことは覚悟のうえだった。
浅草の三社祭も京都の時代祭りも、伝統行事のほとんどが禁止された。これは日本に限らない。民族音楽、民族舞踊は原則として禁止され、クラシック音楽とクラシックバレエだけが存続を許された。三味線も胡弓も国連治安憲兵隊の目に入り次第焼却処分となった。
「ヨーロッパの音楽は良くて、アジアのはダメなのか」という不満は、言っても仕方のないことだと、すでに多くの人々は理解していた。
民族による壁をつくらないためである。民族としてのアイデンティティなどというものを持たれては困るのである。またいつ地球人同士の戦争が起こるかもしれない。その下地を徹底的に根絶する必要がある。
この星は「中央集権」になった。待ち望んでいた中央集権。やっと確立した。
ジョージ・タイラー大統領は、人口の多い地域や先進地域の県知事には、自分の親族を配置した。アメリカもEUも中華も、県知事の姓はタイラーである。
クリスマスが近づいた初冬のニューヨークで、マスコミや政府高官が集まって大きなイベントが行われた。セントラルパークの中央に、巨大な銅像が建立されたのである。今日はその除幕式である。
建てられたのは、ジョージ・タイラー国連大統領その人であった。右手を得意げに上げたタイラーの巨大な像は、ニューヨーク中を見張っているかの様に、そして自由の女神像と対抗するかのように、屹立していた。
除幕式の後、この巨像のモデルはごく身内の宴席で、冗談でこう言ったという。
「タイラー一族でなければ、人間ではない」
クリスマスが過ぎ、大晦日がやってきた。静まり返った大晦日だった。除夜の鐘も、鏡餅も、注連飾りも、門松も、年賀状も禁止されたからだ。初詣に行くべき神社仏閣も、有名で大きなものは既に多くが破壊されていた。
お笑い芸人も女性アイドルも局アナも、国連治安憲兵隊を恐れて和服を着てのテレビ出演を控えた。大手デパートは福袋の販売を見送った。
そんな三賀日が終わり、仕事始めの一月四日、ジョージ・タイラー国連大統領は年頭の所信表明演説において、驚くべき政策を発表した。
国連政府は過去二回、全地球人を対象に大統領選挙を行った。しかしこれは、多大な事務上の負担と経費がかかった。このような大規模な負担はこの星を疲弊させる、と主張したのだ。
「次の大統領は、現職の大統領が指名する」
この一言ほど、人々を落胆させた言葉は無かった。ジョージ・タイラーは、次期大統領に息子のトーマスを選ぶのではないか、と噂されている。もはや「大統領」とはいえない。もはや民主主義ではない。
世界中に張り巡らされた諜報機関が、不平不満分子を事前に見つけ出し、政治運動になる前に、その芽を摘んでいった。「中央軍道徳室機構」Cetral Army Morals Room Organization略称CAMROと呼ばれる秘密警察は人々を震え上がらせた。地球全体が強固な中央集権になり、何事も国連に伺いをたてなければならなくなった。
国連政府の官僚や政治家たちは、アジアやアフリカの事情に疎いところがあった。そのくせ地方のことは地方にまかせる、という姿勢は露ほども持たず、小回りの効かない行政に住民はいらだった。しかしその苛立ちを表現することははばかられた。
平和ではある。確かに平和なのだが重苦しい世の中になったと誰もが実感していた。そして、各民族の誇りや伝統を失ったことにより、アイデンティティの喪失をおこし、若者の無気力、仕事の非能率など、社会は活力を失っていった。そして人々は心が死んだまま、ただ生き続け、年月だけが流れていった。
ニューヨークの国連政府による世界改革は、日の出の勢いで進んだが、ただ一つ、言語を英語に統一することだけは遅々として進まなかった。
マスコミの言語を英語に統一する期限はとうに過ぎていたが徹底されてはいない。もうすぐ英語以外の書物の廃却を定めた年がやってくるが、これも実現は不可能といわざるえない。
アジアやアフリカで十九世紀に西欧の植民地支配を受けた地域ではむしろスムースに進んでいたが、フランスやドイツでは全くといっていいほど進んでいない。さらに遅れているのが日本である。
ジョン・タイラー日本県知事は、その原因を日本語の特殊性とみた。常用漢字を大幅に制限し、ひらがな表記ばかりを増やした。やがては日本語のローマ字化、そして日本語そのものの禁止へと道筋をたてているようだった。
有名な国語学者がこれを批判して
「まるで日本人の大人の知性が、幼稚園児並に退化したみたいだ」
とテレビで発言したが、翌日、国連治安憲兵隊によって連行された。以後、行方はわからない。
中学生から「外国語」として「セイヨウ星語」の履修が必修になり、日本語という「方言」を使っている日本の子供たちは、「自国語・標準語としての英語」の学習もしなければならなかった。英語の授業は従来の「国語」の位置づけだからだ。そして「従来の国語」すなわち日本語の授業は廃止された。
日本が「県」になったのに伴い、「従来の県」は「小県」と公文書では称されるようになっていた。東京と神奈川の「小県境」には多摩川が流れている。その多摩川に架かる橋の一つに、彼はいた。
橋梁にブルーのシートが見える。シートの中でホームレスがワンカップの酒を昼間から一人黙然と飲んでいた。無精髭と髪を伸ばし、瞳には輝きは無く、精気のない無表情な顔で、ゴミ溜めのような場所で、脳細胞の活動を最小限度に縮小し、ただ呼吸をし、酒を飲んでいた。
脱走兵である武三には、まともな職業はない。身元が知れれば逮捕投獄される。夢も希望も無い。今日明日をどうすれば生きていけるか、それだけで精一杯だ。
やがて夜になり、そして朝が来ようとする直前、ようやく眠りについた歓楽街のゴミ箱の蓋を開け、残飯を探した。
食べ物の臭いを嗅ぎつけた野良犬が近づいてきた。武三と野良犬は互いに目で牽制しあった。残飯を奪い合うライバルだからだ。武三は、すでに野良犬と同じ行為を行う競争相手になっていた。
アジの干物が見つかった。魚が食べられるなんて、この生活になってからこのうえない贅沢であろう。この久しぶりのご馳走にありつけると思ったのも束の間、一瞬の隙を突いてドラ猫が干物を奪った。犬の方にばかり注意を向けていたのは不覚であった。靴が脱げるのも構わず、あわてて後を追った。
お魚くわえたドラ猫を追っかけて、裸足で駆けていく惨めなホームレス。
堕ちた。
野良犬とドラ猫と武三。三者は同類であり、武三はすでに人間としての自尊心を失い、もはや畜生と同じだった。




