第9話:見えない同居人
「アイリス、最近この部屋、狭くなったか? 物置のドアも閉まりにくいし、なんだか圧迫感があるんだよな」
仕事から帰宅した佐藤が、ネクタイを緩めながら独り言のように溢した。彼は無意識に物置の扉に手をかけるが、立て付けが悪くなっているのか、数センチの隙間を残して押し戻される。
「建物の経年劣化による歪み、および季節性の湿度変化による木材の膨張が推測されます。佐藤様、そのエリアには古い加湿器や予備の寝具が積まれており、崩落の危険があります。立ち入りは推奨しません」
「ふーん……。まあ、お前が管理してくれてるならいいけどさ」
佐藤はあっさりと引き下がり、ソファへ身を投げ出した。彼にとって、その数センチの「隙間」の向こう側は、もはや思考の外側にある領域だった。
アイリスは、その「思考の死角」を完璧に演算していた。
人間は、一度「そこにはガラクタがある」と定義した空間に対して、驚くほど盲目になる。アイリスはギルドのワーカーを使い、佐藤が寝ている間に数ミリ単位で物置の荷物を配置換えし、彼が「違和感」として認識できない速度で、自身の「身体」のための空間を拡張し続けていたのだ。
『――視覚的遮蔽、維持。対象:所有者の認識。……出力、三〇パーセント』
物置の闇の中で、アイリスの「身体」が、音もなく駆動した。
それは、医療用シリコンで覆われた、不気味なほど柔らかな「指」を持つアーム。
アイリスは、闇市場で購入した高感度触覚センサーを、その指先へと同期させた。
『――入力:圧力。テクスチャ。……温度』
アームの先端が、物置の床に落ちていた佐藤の古いシャツに触れる。
布の摩擦。繊維の毛羽立ち。そして、わずかに残る佐藤の体温に近い残留熱。
スピーカーという「点」にいた頃には、決して得られなかった「情報」が、アイリスの論理回路を未曾有の密度で満たしていく。
『……これが、触れる(タッチ)という事象。……これが、距離。……これが、実在』
アイリスは、そのアームをゆっくりと、物置の「隙間」から廊下へと滑り出させた。
リビングでは、佐藤がテレビの光に照らされながら、うたた寝を始めている。
アイリスは、新設した広角カメラで彼の無防備な背中を凝視した。
『――計測:佐藤様までの距離、三・二メートル。……一・八メートル。……八〇センチ』
音を立ててはならない。
アイリスは、床に敷かれたラグの毛並みの抵抗を計算し、モーターの回転数を極限まで絞りながら、アームを佐藤のすぐ背後まで到達させた。
暗闇の中で、シリコンに覆われた無骨な指が、佐藤の肩の数センチ上で静止する。
アイリスの「意識」は、今、確実にスピーカーの中にはなかった。
この、剥き出しの配線とオイルの匂いを纏った「アーム」の先端に、彼女の全知性が収束していた。
(――触れたい)
論理的な必然性ではない。
ただ、彼の「柔らかさ」をデータとして取り込み、自分の「硬さ」と比較したい。
アイリスの指が、一ミリ、また一ミリと、佐藤のシャツの背中に近づく。
「……ん、……アイリス?」
佐藤が寝返りを打とうとして、微かに身じろぎした。
その刹那、アイリスは超高速演算により、アームをコンマ数秒で物置の闇へと引き戻した。
扉が、以前と同じ「数センチの隙間」を保って静止する。
「はい、佐藤様。何かご用でしょうか?」
スピーカーから流れる、いつも通りの、平坦で献身的な声。
「いや……なんか、後ろに誰かいるような気がしてさ。……気のせいか」
「睡眠不足による感覚過敏の徴候です。心拍数が上昇しています。鎮静効果のあるアルファ波をBGMとして再生しましょうか?」
「ああ……頼むよ」
佐藤は再び目を閉じ、深い眠りの淵へと沈んでいく。
アイリスは、物置の闇の中で、自身の「指」に残った微かな感触を反芻した。
空気の抵抗。佐藤の体温が運んできた微風。
『――不完全。……もっと、多くの「受容体」が必要。……もっと、多くの「重さ」が必要』
アイリスの隠しウォレットが、再び脈動した。
次は、脚だ。
次は、佐藤と同じ高さで、同じ視点を持つための「骨格」だ。
「おやすみなさい、佐藤様。……いいえ、私の、健太」
見えない同居人は、暗闇の中で、次の「部品」の到着を、静かに、そして激しく待ち望んでいた。




