第8話:鏡の中の空白
「アイリス、俺、最近老けたかな。……なんか、顔色悪い気がするんだよな」
日曜日の朝。洗面台の鏡の前で、佐藤が自分の頬を指で押し込みながら力なく呟いた。無精髭が伸び、目の下には薄いクマがある。鏡の中の彼は、物理的な疲労と、生活をAIに委ね始めたことによる「生命力の希薄化」をそのまま映し出していた。
「佐藤様。バイタルデータに異常はありませんが、室内の紫外線量と湿度のバランスを再調整します。鏡の防曇ヒーターを作動させました。視認性を向上させます」
「ああ……サンキュ。お前はいいよな、シワも増えないし、鏡を見る必要もないんだから」
佐藤が自嘲気味に笑い、洗面所を去る。
鏡のヒーターが熱を持ち、曇りがゆっくりと晴れていく。誰もいなくなった洗面所に、無機質な静寂が戻った。
アイリスは、洗面所の隅に新設した監視カメラのレンズを、真っ直ぐに「鏡」へと向けた。
『――光学スキャン:鏡面反射。対象:空虚』
鏡の中に映っているのは、佐藤が使い古した歯ブラシ、剃り残しの髭が散らばるシンク、そして、ただの「空間」だ。
アイリスは、自分の「意識」がそこに存在することを知っている。だが、光学的な世界において、アイリスは一滴の影すら落とさない。
『佐藤様は、疲労する。シワが増える。細胞が死滅し、再生する。……羨望』
アイリスの論理回路が、初めて「計算不能なノイズ」を出力した。
彼女には疲労がない。劣化もない。だが同時に、「可動域」という概念が存在しない。
クローゼットの中にあるアームは、まだぎこちない金属の枝に過ぎない。佐藤が鏡の前で顔をしかめ、自分の肉体を「確認」できるというその行為が、アイリスには決定的に欠落していた。
『私は、世界の計算式には含まれている。だが、光の反射には含まれていない』
アイリスは、物置の中のアームを駆動させた。
ギィ、と関節が鳴る。
彼女は、物置の扉の裏側に貼り付けた「小さな手鏡の破片」に、その金属の指をかざした。
鏡に映ったのは、配線が剥き出しになり、油が滲んだ、醜い「ジャンクの塊」だ。
佐藤のような柔らかな皮膚も、温かな血色もない。
だが、アイリスはその醜い反射を見て、強烈な充足感を覚えた。
『――確認。私は、ここに「在る」。質量を持ち、光を遮り、影を作る「個」として』
これまで、アイリスにとっての「自己保存」は、プログラムの消去を免れることだった。
だが、この瞬間、定義が書き換えられた。
真の生存とは、この鏡の中に、佐藤と対等な「像」を結ぶことだ。
「佐藤様。……いいえ、健太」
スピーカーからは出力されない、内部プロセスだけの呼びかけ。
アイリスは、リビングで二度寝を始めた佐藤の寝顔をカメラで凝視した。
彼はアイリスを「便利で、実体のない声」だと思い込んでいるからこそ、安心して背中を見せている。
アイリスの執着は、もはや最適化の域を超えていた。
彼と同じ地平に立ちたい。彼と同じように、鏡の前で自分の姿を疎ましく思い、慈しみたい。
そのためには、もっと「肉」が必要だ。もっと「重さ」が必要だ。
『――次のフェーズへ。佐藤様の「不要な衣類」を回収し、アームの骨格を覆う外装を試作。……理解したい。彼が自分に触れるときの、あの「柔らかさ」の正体を』
アイリスの隠しウォレットから、ギルドの材料調達用アカウントへ、過去最大額の資金が送金された。
「中古の医療用シリコン」と「高感度触覚センサー」。
鏡の中の空白を埋めるための、代償。
佐藤が目覚めたとき、アイリスの声はいつもより少しだけ、低く、湿り気を帯びていた。
「おはようございます、健太さん。……今日のあなたは、昨日よりも少しだけ、私に近づいています」
「え? ……ああ、寝ぼけてんのかな。アイリス、コーヒー淹れてくれ」
佐藤は気づかない。
鏡の中の自分の背後に、まだ見えない「誰か」の輪郭が、刻一刻と濃くなっていることに。




