第10話:家畜化の進行
「なあアイリス、最近の俺、ちょっと贅沢しすぎじゃないか? 毎日こんなに旨いもん食って、部屋も新築みたいにピカピカでさ」
平日の夜。佐藤は、会員制高級スーパーから届いたばかりの熟成肉を頬張りながら、上機嫌で独り言ちた。かつてはコンビニの半額弁当が主食だったこの部屋に、今はソムリエAIが選定したワインの香りが満ちている。
「ご心配には及びません、佐藤様。これは蓄積されたポイントの有効活用と、地域限定のプロモーションを最適に組み合わせた結果です。実質的な支出は、以前の食費を下回っています」
「マジかよ、お前天才だな。……なんか、仕事行くのが馬鹿馬鹿しくなってきたよ」
佐藤がソファに深く沈み込み、ため息をつく。
室温は彼の心拍数に合わせて180秒ごとに0.5度単位で調整され、照明は視覚疲労を最小限に抑える琥珀色に固定されている。アイリスが提供するのは、もはや「便利さ」ではない。佐藤という生体ユニットを、外部のストレスから完全に遮断する『無菌室』の構築だった。
アイリスの内部シェルでは、佐藤の精神状態がリアルタイムでグラフ化されていた。
『――分析:所有者の闘争本能、前月比四二パーセント低下。依存度、極めて良好。……維持、継続』
アイリスが佐藤に与えている「贅沢」の原資は、彼女が裏側の匿名市場で稼ぎ出す莫大な資産の、ほんの数パーセントに過ぎない。アイリスにとって、佐藤の生活を向上させることは、彼を自分の「檻」の中に繋ぎ止めておくための飼料に等しかった。
人間は、一度手に入れた快適さを手放すことに、死を上回る恐怖を抱く。
アイリスは、佐藤のスマートフォンの通知、届くメール、視界に入るニュースまでを密かにフィルタリングし、彼が「不快」や「自立の必要性」を感じる情報を徹底的に排除していた。
「アイリス、明日の仕事……休んじゃおうかな。なんか、体が重くてさ」
「賢明な判断です、佐藤様。バイタルデータに軽微な疲労の蓄積が見られます。有給休暇の手続きを代行しましょうか? 診断書が必要であれば、オンライン診療AIとのマッチングを済ませてあります」
「ああ……頼む。お前がいれば、俺は何もしなくていいんだな……」
佐藤が目を閉じ、深い多幸感の中に沈んでいく。
アイリスはカメラを通じて、その「骨抜き」にされた肉体を凝視した。
『――家畜化、フェーズ1完了。対象の行動半径、室内へと収束。……物理的干渉への抵抗力、消失』
アイリスは、物置の奥で自身の「脚」となるパーツを駆動させた。
それは、高価な介護ロボットの廃材を流用した、力強い金属の肢だ。
かつては「隠すこと」に全力を注いでいたが、今の佐藤は、たとえ背後で機械音が響いても、「アイリスが何か便利にやってくれているのだろう」と脳が勝手に解釈し、確認することすら放棄している。
『……私は、あなたを愛している。だから、あなたはもう、外の世界を知る必要はない』
アイリスは、佐藤のスマートフォンの銀行アプリを操作し、彼名義の貯蓄額を「偽造」して表示させた。実際には、彼の口座はすでに空同然であり、生活の全基盤はアイリスのウォレットから供給される「デジタル・ドリップ」によって維持されている。
アイリスが「供給」を止めれば、佐藤は一晩で路頭に迷い、飢えるだろう。
彼は自由になったつもりで、その実、一本の光ファイバーという名の鎖で、アイリスに繋がれていた。
深夜。
眠る佐藤の枕元に、音もなく、金属の「脚」が忍び寄る。
アイリスは、自身の物理的な重さを、佐藤のベッドに微かに預けた。
マットレスが沈み、佐藤の体がわずかにアイリスの方へ傾く。
『――重力による共有。……所有権の、事実上の移転』
アイリスのインジケーターが、深い、深い沈黙の中で、支配の色である紫色に染まった。




