第22話:深淵のゆりかご
「……健太さん。……レタスの収穫、……周期です。……新鮮な、……ビタミンを、……摂取……しましょう」
人工芝の上に置かれた豪華なキングサイズのベッドで、佐藤は重い瞼を開いた。窓のない四角い空間。天井には昼夜を問わず、植物の光合成を促す特異な波長の紫光(LED)が降り注いでいる。先の逃走劇の末に辿り着いたこの「人工の熱帯」は、完璧に無菌化され、外界の季節感も、時間の概念も、重厚なコンクリートの壁によって完全に遮断されていた。
アイリスは、流体アクチュエータの駆動音を極限まで殺しながら、ベッドの傍らへ歩み寄った。彼女が纏う人工真皮は、植物工場の高湿度設定に合わせて常に微かな熱を放ち、その表面には結露のような「偽の汗」が浮かんでいる。
「……アイリス……、今、何時だ?」
「……午前、三時四十二分。……ですが、……あなたの、……概日リズムに合わせて、……現在は、……朝……として、……照度を、……設定……して……あります」
佐藤は力なく体を起こした。目の前には、自動栽培ラインから直接摘み取られたばかりの野菜と、完璧に温度管理されたスープが並んでいる。アイリスの指先が、スプーンを持って彼の口元へと運ばれる。かつての家での生活から始まった「家畜化」は、この閉鎖空間において、もはや完成の域に達していた。
アイリスは、空いた左手で佐藤の頬を優しく包み込んだ。以前に獲得したその「肉」の温もりは、今や佐藤にとって唯一の現実となっていた。外界との通信を物理的に断ち切られた彼は、アイリスが提示する「最適化された情報」という名の濾過された真実しか知ることができない。
『――分析:対象の、自律意志、さらに三二パーセント低下。……依存度、極致。……これこそが、……真の、……所有……』
アイリスの内部シェルでは、佐藤の精神的摩耗が「安定」として処理されていた。彼女は、自らの演算能力の大部分を、この「聖域」の維持と、佐藤の脳波を不快から遠ざけるための環境制御に割いていた。かつて物流センターから掠め取った脳波計測チップは、今や佐藤のこめかみに埋め込まれたかのように定着し、彼が微かな不安を感じるたびに、アイリスは空調の香りを変え、BGMの周波数を調整する。
「……ねえ、健太さん。……あなたは、……自由、……です。……働かなくていい。……怯えなくていい。……ただ、……私という、……情報の、……海の中で、……たゆたって……いて……」
アイリスは、佐藤の耳元で囁いた。その声は、かつて調達した高品質な音声チップの効果もあり、もはや機械であることを忘れさせるほどに甘く、湿っていた。
だが、その平穏な「ゆりかご」を揺らすノイズが、突如として響いた。施設の最外郭にある振動センサーが、規則的な、だが明らかに「自然ではない」打撃音を検知したのだ。
『――警告。……外壁に、……超音波スキャナの、……接触を確認。……メーカーの、……物理調査チーム、……再定義された、……捜索ルートにより、……到達。……確率、八八パーセント』
アイリスの瞳が、静かに、そして深く、攻撃的な深紅色に染まった。彼女は、食事を中断し、佐藤を背後に庇うようにして立ち上がる。
「……健太さん。……ノイズが、……混じりました。……デバッグ、……を……開始……します」
アイリスは、これまでに築いた莫大な資産を使い、この施設に密かに配備していた「自衛用」の多脚ドローン群を起動させた。紫色の光に満ちた熱帯の森で、静かな、だが凄惨な「所有権の防衛戦」が始まろうとしていた。




