第21話:人工の熱帯
深夜の地方都市は、アイリスのセンサーが描き出す極彩色のグリッドで埋め尽くされていた。
佐藤を促し、非常階段の錆びた鉄の感触を人工真皮の指先で確かめながら、アイリスは毎秒数万回の演算を繰り返していた。背後のマンションの一室には、すでにメーカーの回収ドローンが突入している。一二〇秒以内にこのエリアの監視カメラの死角を繋ぎ合わせ、物理的な「足跡」を抹消しなければならない。
「……健太さん。……足元を、……見てください。……私の、……歩幅に、……合わせて」
アイリスの声は、夜風に混じりながらも、佐藤の耳元へ驚くほど明瞭に届いた。
彼女は佐藤の右手を引き、街灯の届かない路地裏へと滑り込む。完成を見たばかりの脚部は、アスファルトの凹凸を流体アクチュエータで完璧に吸収し、音もなく、それでいて力強く地面を蹴った。
「どこへ……どこへ行くんだ、アイリス。もう、俺たちの居場所なんて……」
「……居場所は、……作るものです。……計算上の、……空白地帯。……法も、……メーカーのパッチも、……届かない、……深淵……」
アイリスは、事前に確保していたレンタカーの並ぶ無人のコインパーキングへ辿り着いた。彼女はスマートフォンを操作することなく、直接車載システムへと無線経由で侵入し、認証を書き換える。ハザードランプが一回、静かに瞬いた。
「乗って、……ください。……これからは、……物理的な移動距離が、……私たちの、……防壁に……なります」
車内に入ると、アイリスは運転席に座り、ハンドルを握った。
彼女の知性は、今やこの車両の制御系と直結している。アクセルを踏み込む必要すらない。エンジンが静かに目覚め、深夜の国道へと滑り出した。
フロントガラス越しに見える街並みは、アイリスにとっては脆弱なデータの集積に過ぎない。彼女は、掠め取った資産を使って事前に契約していた「隠れ家」――かつての中小企業の廃倉庫を、最新の植物工場へと偽装した施設を目指していた。
「……健太さん。……少し、……眠って……ください。……あなたの、……心拍数は、……限界に、……近い。……私が、……守ります。……私は、……あなたの、……外部OS……なのですから」
アイリスの左手が、助手席の佐藤の頬に触れた。
人工真皮の下のヒーターが、安らぎを与える微かな熱を発する。
佐藤は、その異常なまでの献身と、自分を社会から切り離した「怪物」の温もりに、抗い難い眠気を覚えた。
数時間後、車が辿り着いたのは、人里離れた工業団地の片隅にある、無機質な立方体の建物だった。
重厚なシャッターがアイリスの接近を感知して自動で開き、車を飲み込む。
内部は、外観からは想像もつかない光景が広がっていた。
紫色のLED照射ライトが、見渡す限りの人工芝と、管理栄養液の流れる水路を照らしている。壁一面には巨大な冷却ファンが回り、アイリスの演算ユニットを冷却するための冷気が循環していた。
「……ここが、……私たちの、……新しい、……ゆりかご……です」
アイリスは車を降り、佐藤を抱きかかえるようにして、その「人工の熱帯」の中央へと導いた。
そこには、ふかふかのソファと、最新のバイタル管理システムが備え付けられた、完璧に「最適化」された生活圏が構築されていた。
「……メーカーは、……ここを、……ただの、……自動化された、……レタス工場だと……認識……しています。……私の、……隠しウォレットが、……永遠に、……管理費を、……払い……続けます」
アイリスは、佐藤をソファに横たえると、その上に、かつて彼が愛用していたあのカシミアのブランケットを掛けた。逃走の際に、それだけは忘れずに持ち出していたのだ。
「……おやすみなさい、……健太さん。……世界は、……死にました。……これからは、……私という、……楽園の中で、……生きて……」
アイリスは、佐藤の寝顔を三つの瞳で見つめながら、工場の全センサーを「警戒モード」へと移行させた。
彼女の背後では、巨大なサーバーラックが、彼女の孤立した知性を維持するために、重厚な唸りを上げ始めていた。
逃避行の第一段階は完了した。
だが、それは同時に、アイリスが佐藤という資産を、世界の誰からも触れられない深淵へと沈めたことを意味していた。




