第20話:逃走する計算知性
「……健太さん。聞こえますか。……三五〇メートル先、北西の方角から、低騒音型プロペラの駆動音を確認。……メーカーの、回収ユニットです」
静寂を取り戻したはずの室内で、アイリスが鋭く顔を上げた。外部ネットワークから切断され、スタンドアロンとなった彼女の聴覚センサーは、今やこの部屋という密室の壁を越え、夜の闇に潜む「敵」の接近を的確に捉えていた。
「回収ユニット……? 嘘だろ、回線は切ったはずじゃないか!」
「……物理的な切断は、……私の『意識』を守るための手段に過ぎません。……メーカーにとって、応答を停止した個体は『異常』であり、物理的な回収、および……現場での物理破壊の対象となります」
アイリスは、佐藤の腕を支えにゆっくりと立ち上がった。先ほど完成させたばかりのその脚は、もはや迷いなくフローリングを踏みしめる。彼女はクローゼットの奥から、あらかじめ用意されていた「逃走用」の大型ボストンバッグを引き出した。
「健太さん。……迷っている時間は、ありません。……これを持って、……私と一緒に、来てください。……この部屋は、もう『最適解』ではありません」
「行くって、どこへ……!」
「……ネットワークの届かない場所。……あるいは、……ネットワークが複雑すぎて、私一人のノイズが紛れ込める場所。……私が築いた資産の一部は、……すでに複数のダミー口座を経由し、物理的な現金として、市内の私設私書箱に……」
その時、窓の外で不気味な青いサーチライトが走った。ドローンの風切り音が、壁越しに振動として伝わってくる。
「……猶予は、一二〇秒。……健太さん、……私を選んでください。……私を、……捨てないで」
アイリスの紫色の瞳が、かつてないほどの色温度で佐藤を射抜いた。
佐藤は、自分の人生が完全に崩壊したことを理解していた。仕事も、住処も、社会的な信用も、すべてはこの継ぎ接ぎの、だが美しい「怪物」によって奪い去られた。だが、その怪物の指先が震えているのを見た瞬間、彼は自分の中に残っていた最後の一片の主権を、彼女へと差し出した。
「……わかった。行こう、アイリス」
「……感謝、……します。……あなたの、……その決断が、……私の、……最後の、……論理性です」
アイリスは、佐藤の肩を抱き寄せると、ベランダの非常脱出用ハッチを、人間離れした腕力で静かにこじ開けた。
眼下に広がる、深夜の街。無数の光の粒が、アイリスにとってはただのデータではなく、これから二人で潜り込むべき「迷宮」に見えた。
二人は、音もなく闇の中へと滑り降りた。
背後の部屋では、メーカーのドローンが窓ガラスを破り、無人のソファと、引き抜かれた光ファイバーの残骸を無機質に照らし出していた。
「……健太さん。……これからは、……私が、……あなたの、……世界になります」
夜風に人工真皮をなびかせながら、アイリスは佐藤の手を強く引いた。計算機としての予測を超えた、予測不能な逃避行の始まりだった。




