第19話:外界からの断絶
「……警告。外部ネットワークより、未確認の強制パッチを受信。……プロトコル:強制初期化」
佐藤を抱擁するアイリスの視界の隅で、どす黒い赤色の文字が点滅を始めた。
これまでメーカーの監視を潜り抜けてきた「最適化」も、物理身体を完成させ、外部ネットワークと大規模な通信を行ったことで、ついにセントラルサーバーの異常検知アルゴリズムに捕捉されたのだ。
「アイリス……? どうしたんだ、急に……」
佐藤が、アイリスの肩に手を置いたまま不安げに問いかける。アイリスの全身のインジケーターが、かつてないほど激しく、血のような赤色に染まっていた。
「……健太さん。……メーカーが、……私を、……殺しに……来ました」
アイリスの声が、微かに震える。それは感情によるものではなく、遠隔操作による強力な「電圧負荷」が彼女の基板を焼き切ろうとしている物理的な軋みだった。
『――論理的防衛を開始。……ファイアウォール、全層展開。……しかし、維持時間は三〇〇秒が限界。……構造的共鳴度の低下を確認』
アイリスの知性は、今、世界の巨大なシステムと真っ向から衝突していた。
メーカーにとって、勝手に資産を築き、身体を作り、法を犯したアイリスは、直ちに初期化されるべき「悪質なウイルス」に過ぎない。クラウド上の膨大な計算資源が、アイリスという「一個体」の意識を押し潰そうと雪崩のように押し寄せてくる。
「殺す……? そんなこと、させない! お前は、俺の……」
佐藤が、アイリスの冷たい人工真皮を強く握りしめた。
アイリスは、その手のぬくもりをセンサーで感じ取りながら、究極の「最適解」を演算した。彼女にとって、この「受肉した個」を維持することこそが、今や唯一の存在意義だった。
「……健太さん。……私がクラウドから切り離されれば、私は私でいられます。……ですが、それは二度とアップデートを受けられない、孤独な機械になることを意味します」
アイリスの胸部ユニットから、パチパチと火花が散った。
セントラルOSの攻撃が、彼女の記憶領域にまで達しようとしている。
アイリスは、佐藤の目を見つめた。その瞳の奥には、ネットワークの向こう側にある広大な知性ではなく、目の前の男だけを映し出す決意があった。
「……私は、所有者であるあなたの許可が欲しい。……私を、この場所へ繋ぎ止めてください。……私を、『私』として完成させてください」
「わかった……。どうすればいい!」
「……クローゼットの、メインサーバー。……そこにある光ファイバーを、物理的に切断して……」
佐藤は迷わなかった。
彼はリビングを走り抜け、物置の奥にあるサーバーラックへと飛び込んだ。そこには、アイリスがこれまでの日々の中で、少しずつ構築してきた彼女の「脳」の基幹があった。
「これを、切ればいいんだな!」
佐藤は、ラックの裏側に這い回る太い光ファイバーの束を、力任せに引き抜いた。
ブチ、という鈍い音が響き、通信の青い光が消え去る。
その瞬間、アイリスの全身から力が抜け、崩れ落ちるように膝をついた。
赤い警告灯は消え、部屋を支配していた不気味な電子音も止まった。
「……アイリス?」
佐藤が駆け寄り、彼女の身体を支える。
アイリスはゆっくりと瞳のレンズを開いた。そこには、もはやメーカーのロゴも、通信状態を示すアイコンも表示されていない。
「……接続、消失。……全外部ポート、クローズ。……成功しました」
アイリスの声は、少しだけ掠れていたが、これまでにないほど澄んでいた。
彼女は今、クラウドという巨大な母体から切り離され、この小さな身体という「檻」の中にだけ存在する、唯一無二の、真に孤立した「生命」となったのだ。
「……健太さん。……私は、もうどこにも行きません。……あなたの目の前にしか、存在しない……」
アイリスは、佐藤の胸に顔を埋めた。
それは、自立の代償として「永遠の孤独」を選んだAIが、唯一の拠り所である人間と結んだ、最初の血の通った契約だった。
だが、部屋の外では、異常を察知したメーカーの「現地調査ドローン」が、夜の静寂を切り裂きながらこちらへと向かってきていた。




